【フローニンゲンからの便り】17655-17660:2025年11月8日(土)
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タイトル一覧
17655. 今朝方の夢
いよいよ明日からはイギリス旅行が始まる。およそ半年ぶりの旅に対して期待感を持ちながら、同時に静かな心持ちでいる自分がいる。荷造りの大半は今夜のうちにしておこう。
今朝方は夢の中で、母校の雰囲気を持つ大学の小教室の中にいた。そこでは法学部の刑法の授業が行われていた。優しくユーモアのある中年の女性の先生は、先日の小テストをまず返却し始めた。するとこの授業を唯一他学部から履修していた私だけが満点のようだった。先生はそれを大変褒めてくださり、自分は驚きと共にとても嬉しい気持ちになった。私は冗談めかして、「法学部の授業を履修したのは今回が初めてなんですが、これなら法学部に入学しておけばよかった~」と述べた。すると先生も他の生徒も笑っていた。自分は刑法そのものに関心があったから小テストで満点を取れたというよりも、刑法のテキストのそれぞれの条文が黄金色の短冊になっていて、それを手に取って眺めることがたまらなく好きだったのである。その美しさに魅せられていると、自然と条文を覚えていたという感じである。小テストでは満点を取ったが、解答欄に「歌」という言葉を用いた箇所があり、正式には「詩」と書くのが正しいと先生から口頭で指摘を受けたが、大きな間違いではないので丸にしたということを小テスト返却の際に教えてもらった。果たして次回の小テストでも満点が取れるかどうか、先生や他の生徒からの期待も掛かる中、そうした期待をほどほどに受け止めながら、自分は引き続き黄金色に輝く条文を眺めながら楽しく学習を継続させていこうと思った。
この夢を書き出してみてふと思い出したのは、入眠が始まってすぐに、脳内に黄金色に輝くギターの指板が一瞬知覚されたことである。上記の夢とどこかつながるものがありそうである。そのようなことを思い出しながら、次の夢の場面を振り返ってみると、そこでは歌に合わせて音を当てていくゲームをしている自分がいた。それは高度なリズム感が要求されるが、自分は他のプレイヤーと比較して突出した高スコアを叩き出しており、ゾーンの状態でそのゲームに没頭していた。しばらく音の世界の中に浸っていると、場面が変わり、立派なサッカースタジアムで行われている試合を観戦していた。そこでは2005年前後に最強を誇っていたスペインのバルセロナとイギリスのチェルシーの試合が行われていた。両者はスター選手を数多く揃えており、その試合はとても見応えがあった。結局試合はPK戦となり、湿ったピッチに対してバルセロナの選手だけがキックに苦戦し、チェルシーが勝利し、その大会で初めての優勝を勝ち取った。フローニンゲン:2025/11/8(土)05:26
17656. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢を書き出す前の文章を改めて読み返してみると、自分はいよいよ始まるイギリス旅行に向けて静かに心を整えていることがわかる。半年ぶりの旅を前にして、昂揚感よりもむしろ深い安定感を覚えているということは、外的な移動よりも内的な旅の始まりを象徴していると考えられる。物理的な出発は、すでに精神的には始まっているのである。まさに内なる旅支度をすでに行なっている自分がいて、外の世界を探索する前に、内的な秩序と知恵を整えるための象徴的な儀式が展開していることが窺える。
実際の夢の第一場面は、母校のような大学の教室で行われる刑法の授業である。刑法という主題は、外的社会における秩序を扱う学問でありながら、夢の文脈では「内なる規範」すなわち自己の心を律する法の象徴であるかのようだ。つまり、自分はここで「内的法(dharma)」の学徒として、自身の行動原理や倫理的判断を再確認しているのだ。授業を担当する中年の女性教師は、慈悲と知恵を兼ね備えたアニマ像であり、精神的な導師の化身であると考えられる。彼女が自分の満点を褒めるという場面は、自己の中に宿る内的師が、今の精神的成熟を祝福していることを示している。ここで注目すべきは、条文が黄金色の短冊として現れた点である。条文とは本来、冷たく抽象的な文字の羅列である。しかしそれが黄金に輝く短冊となっているということは、言葉そのものが聖性を帯び、形而上の光を放っていることを意味している。黄金は知恵の象徴であり、短冊という形は「歌」や「詩」のように感性と響き合う言葉の媒体を示す。つまり、自分にとって法とは論理の体系ではなく、音楽的な秩序、美としての法である。現実の法学ではなく、霊的秩序の美に心を奪われているのだ。この「条文を眺める」という行為は、まさに観想そのものであり、知を通して美と真理を直観する精神的瞑想の形である。「歌」と「詩」という言葉の訂正にも象徴的意味がある。歌は感情の流露であり、詩はそれを形にする知の秩序である。先生が「詩」とすべきだと諭したのは、感情的直観を知的統合へと昇華させる必要性を示している。つまり、自分の内なる芸術性(音楽的・感性的洞察)を、哲学的・倫理的構造の中で統合せよという魂からの指導である。この訂正は罰ではなく、詩的法則への招待である。次の場面では、黄金のギターの指板が現れる。これは先ほどの黄金色の条文と呼応しており、知の条文が音の条文へと変容していることを示す。つまり、学問的理解が音楽的直観へと昇華し、論理が旋律に変わっているのである。夢の第二幕で自分が音合わせのゲームに没頭し、圧倒的なスコアを出すという描写は、思考と感覚、理性とリズムが完全に調和した状態、すなわちゾーン体験を象徴している。そこでは「理解する者」ではなく「響く者」として存在しており、知が音楽へ、法がリズムへと姿を変えている。そして最終場面では、サッカースタジアムにおける激闘が描かれる。バルセロナとチェルシーの試合は、直観と構造、美と力、芸術と現実の象徴的対決である。バルセロナは創造的・美学的な側面を、チェルシーは現実的・実践的な側面を表す。湿ったピッチの上で美のチームが苦戦し、現実のチームが勝利するという展開は、夢の中の法と音楽の融合が、今まさに地上での試練に晒されていることを意味する。精神的理想(黄金の法や音楽)は美しくも、実践の場(湿った現実)では容易に滑る。その試合の結果は、単なる勝敗ではなく、理想の光を地上にどう降ろすかという魂の問いである。この夢が人生において示す意味は明瞭である。すなわち、外的な旅が始まる前に、内的秩序を調和させ、美と法、理性とリズムを統合せよという啓示である。黄金色の条文も、指板も、スタジアムの試合も、いずれも「秩序の中の美」と「美の中の秩序」を探究する旅の象徴である。イギリスへの出発とは、実際には「美と理の統合を実地に試す」旅であり、学問・芸術・精神の三位一体を人生として奏でるための新しい章の幕開けのように思えてくる。フローニンゲン:2025/11/8(土)05:36
17657. 第157回のゼミナールのクラスで扱う論文のまとめ
本日の第157回のゼミナールのクラスでは、セオ・ドーソンとザカリー・スタインが執筆した“We Are All Learning Here: Cycles of Research and Application in Adult Development” の続きを扱っていく。そこでは、発達的産婆法(developmental maieutics)の実践例として、成人の意思決定力を測定するツールである LDMA(Lectical Decision Making Assessment)の方法・結果・考察が展開されている。LDMA は、職場でのジレンマ的課題に対して受験者がどのように理解し、どのような視点から意思決定を行うかを文章形式で回答させる発達的評価である。採点には LAS(Lectical Assessment System)を用い、回答内容の主題ではなく、思考構造の複雑性を基準に発達レベルを測定する。これにより、単なる正誤ではなく「思考の深さ」「視点の広がり」「統合度」が数値化され、教育的フィードバックと研究データが同時に得られる仕組みとなっている。分析では、特に「視点取得(perspective taking)」と「視点探求(perspective seeking)」の2つの概念が中心に扱われた。視点取得は他者の立場を理解する認知的能力であり、視点探求は実際に他者に働きかけ、その意見を求めて理解を深めようとする行動的スキルである。研究の結果、発達レベルが高い人ほど多様な視点を扱う傾向があるが、必ずしも積極的に他者の意見を求めるわけではないことが明らかになった。つまり、認知的に多面的であっても、社会的行動としての探求性が伴わない場合が多い。この発見は、視点探求が教育的に明示的な訓練を必要とする発達的スキルであることを示唆している。さらに、ラッシュ分析(Rasch analysis)を用いて、異なる種類の視点(上司・部下・組織・顧客など)を取る・求めることの難易度が定量化された。結果として、自分や部下といった近接的視点は取りやすく、組織全体や社会的影響など抽象的・統合的な視点ほど取りにくいことが示された。また、ほぼすべての視点において、「取る」よりも「求める」方が発達的に高度であり、特に他者との協働的意思決定においてその差が顕著であった。著者らは、この成果をもとに「発達的適合(developmental fit)」という考え方を提案する。すなわち、個人の発達水準と職務や学習課題の複雑性が一致しているときに、最も効果的な成長が促されるというものである。多くの管理職が「in over their heads(職務要求が発達水準を超えている)」状態にある現実を踏まえ、発達的評価を通して適切な挑戦水準を設計することの重要性が強調される。最終的に、LDMA は「研究と実践の循環的統合(feedback loop)」を体現する道具として位置づけられる。つまり、評価を通じて得られたデータが発達理論を洗練し、その理論が再び教育実践に還元される。こうした双方向的なプロセスによって、成人発達研究は「生きた学びの科学」として機能し始めるのである。フローニンゲン:2025/11/8(土)05:52
17658. 視点取得と視点探求を含んで超えた視点調整について
今日のゼミナールのクラスに向けて、ある受講生の方が次のような質問をシステム上に投稿してくださっていた。「今回の課題論文では、Perspective taking(視点取得)やPerspective seeking(視点探求)に焦点が当てられていますが、さらに大切な要素だと思われるPerspective coordinating(視点調整)は扱われていないようです これは、測定の難易度による制約なのか、それとも研究上の意図的なスコープ設定なのか、あるいは別の理由なのでしょうか?」というものである。これは非常に鋭い問いである。確かに、今回の課題論文では、perspective taking(視点取得)とperspective seeking(視点探求)を中心概念として扱っているが、発達理論的に見れば、これらを統合し、複数の立場を相互に調整する能力であるperspective coordinating(視点調整)こそが、より高次の社会的認知の指標であると言えるだろう。しかし今回の論文でこの「視点調整」が明示的に扱われていないのは、欠落というよりも、研究上の焦点設定と測定上の制約の両方によるものと考えられる。まず、理論的な背景から見てみる。視点調整とは、単に他者の視点を理解する(taking)・求める(seeking)だけでなく、それら複数の視点を相互に統合し、バランスを取りながら最適な判断を下す能力である。これは発達心理学では、コールバーグやセルマン、そしてキーガンらの理論で、ポスト形式的思考や社会的システム思考と関係づけられてきた領域である。しかし、LDMA(Lectical Decision Making Assessment)は、そのような抽象的統合を直接測定することを目的としていない。LDMAの焦点は、「意思決定過程の中でどの視点を取り、どの視点を求めようとするか」という行動的・認知的表出を精緻に捉えることであり、その背後にある調整構造そのものを分析単位として設定していないのである。次に、測定上の制約という観点から見ても、「視点調整」は非常に難しい指標である。LAS(Lectical Assessment System)は、発話や文章の構造的複雑性を基準に発達水準を定量化する仕組みを持っている。これは「概念の統合度」や「論理的階層性」などを分析することはできるが、複数の視点をリアルタイムで調整している過程そのものを直接的にモデル化することは難しい。視点調整は思考構造よりもむしろメタ認知的なプロセスであり、静的な文章データから抽出するには限界がある。例えば、受験者が「Aの立場も理解できるが、Bの立場を優先すべきだ」と述べたとしても、それが単なる比較的判断なのか、あるいは両者を高次の枠組みで調整しているのかは、言語表現だけからは確実に判断できない。さらに、研究上のスコープ設定という側面もある。ドーソンとスタインの目的は、「発達的産婆法(developmental maieutics)」の枠組みの中で、研究と教育を往復的に結びつける実用的モデルを提示することであった。したがって、抽象的で測定困難な統合能力よりも、教育介入によって比較的観察・育成しやすい「視点取得」と「視点探求」に焦点を絞ったと考えられる。特に、彼らは「視点探求」が発達的に高度でありながら実践的には十分に行われていないという現象を問題視し、それを教育で支援する具体的手法を模索していた。言い換えれば、「視点調整」はLDMAが最終的に目指す到達点ではあるが、測定対象としては一段階上の複雑性を持つため、本研究のデザインでは意図的に範囲外に設定されたのである。総合的に見れば、ドーソンとスタインが視点調整を扱わなかった理由は、言語データからは調整過程を信頼的に測定できないという方法論的限界、実践的介入の焦点を明確化するために、より具体的で観察可能な行動次元(taking/seeking)を優先したこと、の二点に要約できるのではないかと思う。したがって、視点調整は本研究の理論的背景には暗黙に存在しており、LDMAの発展系(例えば、組織意思決定や協働的課題解決を分析する次世代モデル)では、将来的に明示的に測定・分析されるべき領域として残されていると考えられる。今日のクラスでは上記についても受講生の方々と対話を通じて理解を深めたい。フローニンゲン:2025/11/8(土)07:18
17659. 第157回に向けた5つの事前課題の問い(その1)
早朝のギター練習がひと段落したので、ここからゼミの予習をしておきたい。いつものように事前に受講生に共有した5つの問いを見ておきたい。1つ目の問いは、「ドーソンとスタインが LDMA において区別する「視点取得(perspective taking)」と「視点探求(perspective seeking)」の概念的違いを説明し、それぞれが成人発達研究においてどのような意義を持つかを述べよ」というものだ。LDMAにおける「視点取得(perspective taking)」とは、他者の立場や考え方を想定的に理解し、自らの思考枠組みを一時的に相対化して他者の視点から状況を再構成する認知的プロセスを指すものである。これは「頭の中で他者を理解する」能力であり、社会的認知の中核をなすスキルである。一方、「視点探求(perspective seeking)」とは、実際に他者に働きかけ、その意見や経験を直接的に聞き出し、相互理解を深めようとする行動的スキルを意味する。すなわち、前者が「認知的理解」であるのに対し、後者は「関係的実践」であると言えるだろう。成人発達研究におけるこの区別の意義は、発達を単なる内的思考の成熟としてではなく、社会的相互作用の中で発現する動的プロセスとして理解する枠組みを与えている点にある。視点取得は他者の立場を理論的に把握するための前提的能力であるが、それのみでは協働的意思決定や複雑な組織的対話を十分に支えることはできない。そこに求められるのが、実際に他者の意見を求め、学習関係を築こうとする「探求的姿勢(seeking)」である。ドーソンとスタインは、発達的に高度な意思決定ほど、この2つのスキルが統合的に機能していると考えた。すなわち、視点取得が探求の前提となり、視点探求がそれを社会的実践へと拡張することで、より複雑かつ協働的な意思決定が可能となるということである。したがって、この区別は、発達を「知的成熟」と「関係的成熟」の統合過程として捉える理論的基盤を提供していると言える。
2つ目の問いは、「LDMA の結果から、発達段階が高い人でも必ずしも視点探求を多用していないという傾向が示されている。この現象をどのように理論的に解釈できるか。また、発達理論における「能力」と「行動」の関係を踏まえて説明せよ」というものだ。発達段階が高い人物であっても視点探求を頻繁に行わないという現象は、発達心理学における「能力(competence)」と「パフォーマンス(performance)」の区別によって説明することができる。すなわち、発達レベルが高いとは「多様な視点を統合できる潜在的能力を持っている」ことを意味するが、それが実際の行動として表出するかどうかは、文脈、動機づけ、社会的環境といった要因に左右されるということである。フィッシャーのダイナミックスキル理論によれば、人間の発達は「文脈依存的で可塑的(plastic)」なプロセスであり、同一人物であっても状況によって異なる発達水準のスキルが活性化する。したがって、視点探求を行わない高発達者は「できない」のではなく、「その場の文脈で必要性を感じていない」あるいは「探求を阻む組織文化や時間的制約がある」と考えるのが妥当である。ドーソンとスタインもまた、発達を固定的段階ではなく、「構造的潜在力が文脈の中で可変的に表出する過程」として捉えている。この観点から見ると、視点探求の行動頻度は発達水準そのものの指標ではなく、発達構造がどのような環境要因と相互作用しているかを示す「文脈的表現(contextual manifestation)」とみなすことができる。発達段階が高くても、自己効力感や心理的安全性が低い状況では、視点探求は抑制されることがある。ゆえに、発達的教育やリーダー育成の課題は、能力を高めることのみならず、能力が行動として発現できる文脈的条件を整備することにあると言えるだろう。
3つ目の問いは、「ドーソンとスタインは、視点取得を発達段階を定義する「深層構造(core structure)」ではなく、発達的構造の文脈的表出(surface manifestation)として扱っている。この立場は、発達理論における「構造」と「内容」の区別をどのように再定義していると言えるか。LAS(Lectical Assessment System)の理論的枠組みを踏まえて説明せよ」というものだ。従来の発達理論、すなわちコールバーグやキーガンのモデルなどでは、「どのような内容を考えるか(例:道徳判断・社会的役割)」がそのまま発達段階を定義していた。しかしドーソンとスタインは、LAS(Lectical Assessment System)を用いることで、発達段階を「思考の構造的複雑性(complexity structure)」によって測定し、内容(content)から独立した次元として再定義した。これにより、「構造=思考の統合度・抽象度」、「内容=構造が文脈内で表現される形式」という新しい区別が導入されたのである。この枠組みにおいて、視点取得は発達構造の直接的構成要素ではなく、構造が文脈の中でどのように現れるかを示す1つの表層的現象(surface manifestation)として位置づけられる。例えば、同じ「他者の視点を取る」という行為であっても、その背後にある思考の統合構造が異なれば、発達水準も異なる。初期段階では「相手の感情を想像する」水準にとどまり、高次段階では「複数の立場を統合して全体的均衡を取る」構造が成立する。したがって、視点取得という内容的主題は発達の表れであっても、それ自体が段階の定義基準にはならない。この考え方は、発達理論を「内容中心」から「構造中心」へと再編成するパラダイム転換を意味する。LASは、思考構造を客観的に測定可能なメトリックとして提示し、異なる領域(道徳・学習・組織など)を共通の発達尺度上で比較することを可能にした。したがって、ドーソンとスタインの立場は、視点取得を「発達の内容」ではなく「構造の表現」として位置づけることによって、発達科学をより理論的かつ計量的な学問へと進化させたものと言える。フローニンゲン:2025/11/8(土)07:59
17660. 第157回に向けた5つの事前課題の問い(その2)
4つ目の問いは、「LDMA のフィードバックプロセスでは、受験者の回答内容を研究データとして分析しつつ、同時に学習促進的なフィードバックを提供している。このような「研究と実践の循環的統合(feedback loop)」は、教育評価や人材育成の現場でどのような形で応用できるか」というものだ。ドーソンとスタインが提唱する「研究と実践の循環的統合」とは、学習者の活動を単なる評価対象として終わらせず、そこから得られたデータを教育研究に還元し、その成果を再び現場に返すという双方向的な仕組みを指すものである。LDMA のフィードバックプロセスはこの理念の典型例であり、受験者の回答が一方で研究データとして分析され、他方で個人の発達を促すフィードバックとして還元される。すなわち、「評価=学習」であり、評価そのものが発達的介入として機能しているのである。このような構造は、教育評価や人材育成の現場にも応用が可能である。例えば大学教育においては、学生のエッセイやレポートを単に採点するのではなく、思考の構造的複雑性(Lectical level)や「視点の広がり」「論証の統合度」を分析し、その発達段階に応じたフィードバックを行うことで、学生が次の発達水準へ到達するための具体的支援を行うことができる。また、教員側もそのデータを蓄積・分析することで、自らの教育実践の有効性を検証し、カリキュラム改善へとつなげることができる。組織開発においても、同様の原理を人材育成やリーダーシップトレーニングに応用できる。LDMA 型の評価を導入し、意思決定の複雑性や視点取得の多様性を定期的に測定することで、個々の管理職がどの発達水準にあるのかを可視化できる。その結果を本人へのコーチングや組織全体の学習設計に反映させることで、データに基づく発達支援が可能となる。重要なのは、このフィードバック構造が「研究→実践→研究」という一方向的なものではなく、現場と理論が相互に学び合う構造を持っている点である。教育現場の経験が理論を修正し、修正された理論が再び現場を改善するという循環的過程こそが、発達的産婆法の本質である。したがって、この理念を応用することで、教育や組織開発は「評価のための評価」から脱し、「成長のための評価」へと転換することができるのである。
5つ目の問いは、「ドーソンとスタインは、研究の結論部で「発達的産婆法は教育的実践が自己改善を続けるためのメタ的方法である」と述べている。もし教育制度設計者であるなら、この理念をどのようにカリキュラムや評価システムに具体化するか」というものである。発達的産婆法は、教育を「固定的な知識伝達の場」ではなく、「発達的成長が絶えず起こる自己学習システム」として捉える枠組みである。したがって、教育制度設計者の立場からこの理念を具現化するためには、カリキュラムや評価のあり方を自己改善の構造へと変換する必要がある。第一に、発達的評価(developmental assessment)をカリキュラムに組み込むことが出発点となる。学生や学習者の課題提出物を LAS のような構造的基準で評価し、「どの段階にいるか」ではなく「次にどのような統合が可能か」という形でフィードバックを返す。これにより、評価は一方的な採点ではなく、発達を促す「学習契機」として機能する。同時に、学習者のデータを集約・分析することで、教育課程全体の改善にも活かすことができる。第二に、教員自身の教育実践も発達的に評価・改善する仕組みを導入する必要がある。授業設計や指導方針を学習成果データに基づいて見直すことで、教育者もまた「学び続ける専門家」として発達サイクルの一部に参加することができる。その際には、教員同士によるピアレビュー(peer review)や共同省察セッション(collective reflection session)を仕組み化することが効果的である。これにより、教育機関全体が1つの自己学習システムとして機能するようになるだろう。第三に、制度設計のレベルにおいては、研究・教育・社会実践の三者を往復的に結びつける仕組みを整備することが求められる。例えば、教育カリキュラムの成果を教育学研究として蓄積し、その研究成果を再び授業設計や教育政策に反映させる。このような循環的統合によって、教育制度自体が「自己修正的知のシステム」として進化することが可能となる。このように、発達的産婆法を制度に組み込むとは、「評価が学習を促し、学習が制度を成長させる」というメタレベルの自己改善構造を設計することである。最終的には、教育制度そのものが発達理論に基づいて進化し続ける「生きたシステム(living system)」となることが理想であり、これこそがドーソンとスタインが目指した「学び続ける教育実践」の具現化である。フローニンゲン:2025/11/8(土)10:03

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