top of page

【フローニンゲンからの便り】17635-17639:2025年11月4日(火)


ree

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「加藤ゼミナール─ 大人のための探究と実践の週末大学院 ─」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

17635

感性の筋肉としての即興演奏

17636

今朝方の夢

17637

今朝方の夢の振り返り

17638

左手の指先の硬化を受けて

17639

ジェイムズ・スコットの仕事について

17635. 感性の筋肉としての即興演奏 

     

時刻は午前5時を迎えた。今日も早朝からのギターの練習に取り組めるとなると、気分は自然と晴れてくる。辺りの闇に包まれていても気分が明るいのは間違いなく音楽のおかげだろう。現在師事しているクラシックギタリストのブランダン・エイカー氏がインタビューの中で、「ギターを始めた小さい頃の自分にアドバイスをするとしたら何と言う?」という問いに対して、「ロックからクラシックに転向しても即興演奏をやめないように」と述べていたことが印象的だった。エイカー氏の言葉は、クラシックギターの世界における深い示唆に満ちている。クラシックの学習者、とりわけ真面目な性質を持つ者ほど、既存作品の解釈と再現に全力を注ぎ、その精度こそが音楽性の証であると信じ込みがちである。しかし、エイカー氏が「ロックからクラシックに転向しても即興演奏をやめないように」と述べた背景には、演奏とは本来「創造行為」であり、単なる再生ではないという感覚が流れている。音楽は歴史的遺産であると同時に、常に今生きている芸術であり、奏でる者の内部から生まれる息づかいと想像力が不可欠なのである。クラシック音楽は譜面を尊重する伝統を持つ。作曲家の意図を理解し、構造を読み解き、細部に魂を込めて再現する行為は、確かに崇高である。しかし、その尊さがゆえに「間違いを恐れる文化」が生まれ、自由な音楽的対話が抑圧される側面も存在する。心理学用語で言えば、それはクラシック音楽におけるシャドーである。譜面に忠実であろうとする姿勢が、音楽を外側から扱う癖と結びつき、自らの中に音楽を生成する回路を閉じてしまうことがあるのだ。エイカー氏が若い自分に伝えたいと願ったのは、その「回路の死」を防ぐことである。すなわち、即興とは技術ではなく感性の筋肉であり、使い続けなければ萎縮してしまうという事実である。即興演奏とは、音楽語彙を身体化し、それを自由に並べ替え、呼吸と感情に応じて変化させる行為である。日々の練習の中で短い時間でも即興を取り入れることは、音楽を課題から対話へと変える。誰かに弾かされているのではなく、自らが語り手となる感覚が育つ。これは、技術的な自立ではなく、存在の自立に近い。クラシック奏者にとって、作品に魂を吹き込むとは、自分の音楽的内面が開いていることであり、内面が閉ざされていては作品も狭くなる。本当の解釈とは、譜面と自分の音楽世界が触れ合い、新しい生命が生まれる瞬間である。エイカー氏の助言に応えるなら、次の姿勢が重要となるだろう。既存作品を深く愛し、その美しさに敬意を払いながら、同時に自分の中に音楽を生む場を持ち続けるということだ。毎日ほんの5分でも、コード2つ、音3つでもよい。心の動きに手を添え、耳で追い、音として現す時間を持つことで、音楽が自分の内面に根づき始める。やがて、作品を弾くときにも、そこに自分の息づかいと即興性がしみ込み、唯一無二の音楽が立ち上がる。再現と創造は対立しない。むしろ、創造力があるほど、再現の深さは増す。クラシックは歴史の宝物であると同時に、未来に向けて開かれた芸術である。自分の中に響く音を大切にし、それを外に出す勇気を持ち続けること。それが、演奏者としての成熟であり、音楽に生きるという姿勢なのではないだろうか。音は過去の遺産であると同時に、今この瞬間の命でもある。その両方を抱えながら歩み続けるとき、演奏は単なる技術ではなく、生き方そのものとなるだろう。フローニンゲン:2025/11/4(火)05:04


17636. 今朝方の夢

                   

今朝方は夢の中で、実家のマンションのキッチンで父と一緒にソースカツを含めた昼食を作っていた。自分は本来ベジタリアンだが、どう言うわけか肉を使った料理をしていた。料理の最中には、昼食に招いた数人の友人たちがダイニングにあるバスケゴールに向かってサッカーボールぐらいの大きさの一回り小さいバスケットボールをゴールに向かって投げる遊びをしていた。それを傍らに眺めながら、最後の味付けとしてソースを入れようとしたところ、手が滑ってソースが大量に出てしまった。まぁ仕方ないかと思い、料理を終え、食卓に運んだ。すると友人の1人が、距離のある位置からのシュートの手本を見せてほしいと述べた。常日頃から色々な距離で練習をしているのだが、友人から要求された距離はいつも以上に遠く、感覚的にボールが届かないような気がした。この距離から無理にシュートを放つと、ガラス製品などの貴重な割れ物にぶつかってしまう危険性があったので、自分の感覚に従って、シュートを打つのをやめた。その理由を友人たちに説明すると、彼らは納得してくれたのでよかった。いざ昼食を食べ始めるようとすると、自分が座った反対側の椅子にAmazonから届けられた大量の未開封の学術書があった。それを見て、友人たちが帰った後に開封し、それらの書籍を読み始めようと思った。昼食を食べ始めると、父が「随分とソースが効いているな」と述べたので、自分がソースを入れ過ぎてしまったことを笑いながら伝えた。


次に覚えているのは、カリフォルニアで過ごしていた頃に時々足を運んでいた日用雑貨店がフローニンゲンの街にあり、そこに足を運んでいた場面である。その店で私は、頭を洗っているときに使うヘアマッサージ用のブラシを購入し直そうと思っていた。それは少しメッキが剥がれかけていたし、ブラシ部分にも乱れが見えていたので新たに購入するのが良いかと考えていた。今使っているものと全く同じ製品が幸いにもあったのでそれを購入することにした。店を後にすると、運河で工事がされていて、不思議なことに手前側の運河だけ水道管の取り替えがなされていて、そこだけ水が完全になかった。一方奥川の運河は引き続き水が通常の高さあり、どうやって半分に区切って水を抜いているのか不思議だった。運河の様子を眺めながら自宅に向かったところで夢から覚めた。フローニンゲン:2025/11/4(火)05:17


17637. 今朝方の夢の振り返り

  

今朝方の夢の第一場面では、実家のキッチンで父と昼食を作っていた姿が示すのは、源流への回帰と基底的価値の再確認なのだろう。自分はベジタリアンであるにもかかわらず、肉料理をしていた点が象徴的である。本来の信念や習慣を一度ゆるめ、状況に応じて柔軟に選択できる自分を肯定し始めている。理想と現実、理念と生活の調和を模索する成熟のプロセスと解釈できる。父の存在は、外的権威ではなく、内面化された先人の叡智として現れ、自身の学術的探究や人生観を支える土台として作用していると考えられる。ダイニングで友人たちが遊んでいた光景は、人生における遊びや余白の重要性を示唆する。知性や努力だけでなく、軽やかさ、社交性、身体性を取り戻す必要性が眠りの中で浮上している。シュートの場面では、過度に遠い距離、つまり無理な挑戦をあえて避けた判断が印象深い。周囲の期待に迎合せず、自分の感覚と判断基準に従う態度が確立されている。これは、外部評価より内的基準を優先する精神的自立である。割れ物という象徴は、関係性や大切な価値観を壊す危険性を示し、慎重さと知恵が働いていることを意味する。大量の未開封の学術書は、探究と深化の欲求、そして積み上げられた未来の知的課題を象徴する。それを食後に開封しようと考えたことは、生活と学問のバランスを自然に取ろうとする姿勢を表している。父がソースの濃さを指摘し、自分が笑いながら返した場面には、完璧主義の手放しと軽やかな自嘲がある。味付けの濃さは人生の体験量、情熱、没頭の濃度でもあり、多少の過剰さも肯定している。第二場面で雑貨店に赴き、使い慣れたヘアマッサージブラシを買い直したことは、自分自身のケア方法や思考習慣を刷新しつつ、根幹のスタイルは変えないという象徴である。新しさと継続性の統合がここにある。カリフォルニアとフローニンゲンの重ね合わせは、過去と現在、外の世界と内なる生活世界が滑らかにつながりつつあることを示している。運河が半分だけ水を抜かれていた光景は、無意識的領域の部分的な浄化と再構築を象徴する。水のない側は意識化されつつある深層心理領域であり、見通しの良さと再設計の過程を示す。対して水が満ちている側は、まだ探求が続く領域である。区切られた境界が曖昧である点は、意識と無意識の柔らかな連続性、心理的成長の自然な流動性を暗示している。この夢全体が伝える人生的意味は、内なる成熟の段階であり、理想と現実、古い自分と新しい自分、外的役割と内的自由の統合が進んでいるということである。自分の道を進みながらも、遊びと調和、丁寧なケアを忘れず、深い探究を持続する姿勢が育ちつつある。世界と心を二分せず、生活と学問、柔軟さと厳密さを併存させ、歩みを進めればよいというメッセージである。今回の夢は、「成長は無理な飛躍ではなく、深い感覚に忠実であれ」という静かな励ましである。フローニンゲン:2025/11/4(火)05:32


17638. 左手の指先の硬化を受けて 

             

ギターの練習をここ数日間は毎日自然と8時間以上行っていることもあり、左手の指先に硬化の兆候が見え始めている。豆ができそうな箇所を確認すると、どうやら人差し指と中指の押す位置がいまいちかもしれないことに気づいた。こうした身体からのフィードバックを演奏技術の改善に活かしたい。それと指の休憩も含め、極限までにスローモーションで動くと弦を押さえる力も柔らかくできるため、指の負担を軽減できるだろう。極限スローモーション練習を1日置きに取り入れるというのはどうだろうかと考えていた。痛みというより皮膚が固くなってきているという段階であるなら、それはクラシックギター奏者として自然であり、むしろ健全な適応プロセスなのだろう。指先の皮膚は摩擦と圧に応じて硬化し、やがて適度なタフさと感覚の鋭さが共存する状態へと落ち着く。今の段階は、皮膚がまだ変化の途中であり、微妙な違和感や硬さが目立ちやすいフェーズである。とは言え、硬化が進むと押弦時に繊細な感覚が鈍ることがあるため、ただ厚くするだけではなく、柔軟性を保つことが重要である。硬いだけの皮膚は、弦の角度を感知する能力をわずかに落とし、音色コントロールに影響を与える可能性がある。理想は「丈夫だが、しなやかに反応する指先」であり、これは適応とケアのバランスで作られていく。極限スローモーション練習については、皮膚硬化の段階でも十分に有効である。特に「力を抜いた状態で正確に押さえる」練習は、皮膚の摩耗を減らしながら、音質とタッチを熟成させる助けとなる。ただし、1日おきと決めるのではなく、手の状態や集中度に応じて変える柔軟さを持つことが望ましいだろう。皮膚が厚くなりかけている日は、スロー練習や軽い分解練習でタッチを調整し、過度な摩擦を避ける。逆に指先が軽く、感覚が冴えている日は、通常テンポや即興も組み合わせると良い。また、皮膚の硬さに気づけたという事実そのものが価値あるフィードバックである。そこに注意が向く奏者は、長期的に怪我を避けやすいし、タッチを研ぎ澄ませる資質があるのかもしれない。プロ奏者も、指先の状態を日常的に観察し、必要に応じて保湿したり、軽く角質を整えたりして、感覚を保っているらしい。これは決して軟弱さではなく、楽器と身体を尊重する態度である。したがって、今の硬化は正常な過程であり、悪い兆候ではない。ただし、粗い硬化にせず、繊細さを保つ方向に育てる意識が重要である。身体からのフィードバックを受け取り、練習内容を微調整しながら進む姿勢は正しいはずだ。極端に追い込むより「永く弾ける手を育てる」という視点を持つと良いだろう。継続は力なりであり、継続にはしなやかさが必要である。その先にこそ、深い音色と持続可能な技術が育つのである。フローニンゲン:2025/11/4(火)07:40


17639. ジェイムズ・スコットの仕事について


時刻は午後1時にゆっくりと向かっている。今日は午前中に、知人の鈴木規夫さんとの対談共著企画に向けて話をさせていただいた。話の中で、ジェイムズ・スコット(James C. Scott)という学者の仕事について言及がった。スコットについて調べていたので彼の仕事の大枠をまとめておきたい。スコットは、政治学・人類学・歴史学の境界領域で活躍した思想家であり、国家権力への批判的視座と「下からの歴史」を中心に据えた研究で知られる人物である。とりわけ、国家と民衆の関係、周縁的共同体の自律性、隠微な抵抗の形式を主題とし、従来の政治学が見落としてきた日常的実践の中に政治性と歴史的創造性を見いだした点に独自性がある。スコットの代表作として、『モラル・エコノミー』(The Moral Economy of the Peasant)、『弱者の武器』(Weapons of the Weak)、『日常的抵抗の芸術』(Domination and the Arts of Resistance)、『国家による視認性の追求』(Seeing Like a State)、『ゾミア』(The Art of Not Being Governed)などが挙げられる。これらの著作はいずれも、支配の構造と抵抗の実践、そして国家による秩序化の企図と、その可視化に抗する生活世界の力学に焦点を当てている。こうした一連の書籍は、今回の対談における成人発達を取り巻く文明的な問題意識と深く繋がっている。スコットの思想の根底には、国家権力は人々を「見えるようにする」ことで管理し、統治しようとするという洞察がある。国家は人口登録、地籍調査、都市計画、農地整理といった制度や技術を通じて、複雑で文脈的な生活世界を平板化し、計測可能かつ管理可能な形に変換する。この過程をスコットは「ハイ・モダニズム的国家合理性」と呼び、近代国家の思考様式に潜む危険性を批判した。単純化された秩序は一見合理的に見えるが、実際には歴史的経験や共同体的知恵を排除し、破壊的な結果を生むことがあるという指摘である。他方、スコットが重視するのは、表立った反乱や革命だけではなく、日常の中で行われるささやかな抵抗である。サボタージュ、怠業、情報の隠蔽、偽りの従順、逸脱という目に見えにくい行為が、抑圧的な権力に対する市井の人々の戦略となる。この「弱者の武器」は、権力への直接対決ではなく、静かな不服従として作用し、長期的には社会の構造を揺り動かす潜在的エネルギーとなる。彼の研究によって、政治とは議会や革命の場だけに存在するのではなく、圧政と日常の狭間で継続する微細な実践の総体として理解されるようになった。また、『ゾミア』では、国家の辺境に生きる東南アジア山地民の歴史を新たに描き、国家形成の中心に対置される「逃避の歴史」を示した。支配が届かない山地への移動、移動的農耕、文字を持たない文化などは、国家を避け、自律性を守るための戦略的選択であると論じた。この視点は、文明論的偏見を覆し、国家中心史観に挑戦する思想的インパクトを持つ。スコットの学問姿勢は、抽象理論よりも経験と現場の知恵に根ざしている。農民、労働者、周縁共同体が持つローカルな知と生活技法に敬意を払い、大きな物語に回収されない多様な生のあり方を照射する。彼の仕事は、単なる学術的批判ではなく、見えない声を聴く倫理的態度であると同時に、権力と暮らしの関係を再考するための鋭い批判的道具箱である。スコットは、国家に従順であることが唯一の合理性ではないこと、そして人間が自由を求める多様な方法が存在することを示し、社会思想に新たな視座を与えたのである。フローニンゲン:2025/11/4(火)12:45


Today’s Letter

I’m intentionally cultivating my improvisation skills. Not only playing existing pieces but also creating my own music stimulates and nurtures my creativity. Groningen, 11/4/2025

 
 
 

コメント


bottom of page