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【フローニンゲンからの便り】17618-17624:2025年11月1日(土)

  • 2025年11月3日
  • 読了時間: 20分


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タイトル一覧

17618

日々のギターの練習量と時間割

17619

今朝方の夢

17620

今朝方の夢の振り返り

17621

ゼミナールの第156回のクラスで取り上げる論文の概要

17622

第156回のクラスの事前課題(その1)

17623

第156回のクラスの事前課題(その2)

17624

第156回のクラスの課題文献に対する受講生からの問い

17618. 日々のギターの練習量と時間割  

           

サマータイムを迎えて以降、朝4時に目が覚める。厳密には午前4時数分前で、今日もまたその時間に起床した。故コービー・ブライアント氏と全く同じような生活リズムを送っている自分がいる。朝の時間は創造的な活動におけるゴールデンタイムと呼ばれており、そのおかげでギターの十分な朝練をすることができる。もちろん午前中はギターの練習をしているだけではなく、仏教研究にも時間を充てているが、それでもギターの練習にはかなりの時間を充てることができているのは嬉しい限りである。今後も朝の時間を大切にし、午前中の段階ですでに十分な探究実践活動を行うことを継続していく。そうすれば、午後からの時間はボーナスタイムのようなもので、そこからも引き続き学術研究とギターの練習に打ち込んでもいいし、他の活動に時間を充ててもいい。そうしたボーナスタイムのおかげでギターの練習にはさらに時間を注ぐことができる。とにかく継続が重要なので、無理をせず、今はギターの毎日触れる時間を多くて8時間程度にとどめ、コンスタントに5時間以上の練習をするぐらいにとどめている。本来の自分の気質からすると、8時間の勉強や練習は物足りなく、10時間や12時間ぐらいを投入したいところだが、自分にはギターの演奏以外にも学術研究という重要な柱があり、また長時間の練習を集中力が切れた状態で行っても意味がないことから、5時間から8時間程度の練習時間にとどめるように工夫している。5時間から8時間の使い方にも工夫をしており、45分から90分のセットを少しの休憩時間としての間隔を空ける形で繰り返している。5時間や8時間一気に練習を続けることは不可能であるし、それができたとしても集中力がどこかで欠ける。なのでそうした時間割をしている。体感的には45分というのは小学校の授業時間で、それくらいの時間はほぼずっと没頭集中した状態である。フローに入るのにも少しの時間が必要で、45分ぐらいはちょうどのいいのかもしれないが、今は少し物足りなさを感じているのも事実で、逆に90分は少し長いような気もしている。ちょうどいい塩梅の時間割をこれからも模索したい。毎日かなりの時間をギター練習に充てていることもあり、ブランダン・エイカー氏のオンライン講座もVol1とVol2の双方を昨日終えた。両者は最短でも合わせて9ヶ月か、人によっては1年以上じっくり時間をかけて取り組む講座だが、自分は20日ほどで一周した。あくまでも全ての動画コンテンツを実際に自分でも演奏しながら視聴した程度なので、両方の講座で取り上げられている楽曲にこれから磨きをかけていきたいと思う。最後に、来週末からいよいよ大学院訪問を目的としたイギリス旅行が始まる。今回の旅行にはギターは持っていかないので、その時の練習の工夫を考えている。その期間は指を休める良い機会だが、脳は休めずにイメージトレーニングと音楽理論の学習を続ける予定だ。指は休めても脳と意識は働かせ、演奏技術をしばし発酵させる期間としたい。フローニンゲン:2025/11/1(土)04:43


17619. 今朝方の夢


今朝方は夢の中で、実際に通っていた中学校教室にいて数学の授業を受けていた。数学の若い女性の先生が笑顔を浮かべながら授業を展開しており、教室の雰囲気はとても和やかだった。そんな中、オバマ元大統領がクラスにふらりと立ち寄り、教室は盛り上がったが、どうやらそれは誰かが化けているようで、外見は本物と瓜二つだったが、どうやら中身は違うようだった。オバマ元大統領に化けた人物が去ると、再び授業の続きが始まった。自分は教室でじっとしているのが嫌になり、体を動かしに行こうと思った。なので先生にトイレに行くと嘘をついて教室を出たところ、先生が3人の女子生徒に自分を監視するように命じたらしく、彼女たちがついてきたので、仕方なく本当にトイレに行くことにした。特に用を足したかったわけではないが、一応トイレに入り、トイレから出たところ、そこに1人の女子生徒が立っていたので、そこまで監視するのかと思わず笑ってしまった。本当は教室だけではなく、学校を抜け出して好きなことに没頭したかったが、それもできなさそうだったので、仕方なく教室に戻ることにした。すると教室では、面白そうな問題にみんなが取り組んでいた。先生が出題したのは三角関数の問題で、黒板にはsinの波形(正弦波)が描かれていた。こうした幾何学的な問題は自分の関心を惹き、自分も取り組んでみようと思った。するとすぐさま先生が解説を始め、正弦波の最後の周期が地球の中心にぶつかる絵を描き、それはとても面白く思った。この問題は、最後は地球の中心に還ってくる作りになっていることを知ってひどく感動した。すると突然教室の天井が吹き飛んだ。生徒たちは驚き、混乱し始めたので、冷静だった自分がみんなを落ち着かせる役割を果たした。天井が吹き飛び、強風が教室内に吹き込むと、空に浮かんでいた雲がむくむくと何か得体の知れない生き物のように姿を変えた。ただしそれはこちらに危害を加えてくることはなかった。天井が吹き飛んで初めて気付いたが、どうやら私たちは東京のような都市の中心部にいるらしかった。教室の壁もなくなり、外界と繋がってみると、多くの一般人が街中を歩いており、私たちはそこに放り出される形となった。奇妙なことに、街には大樹とパイプの構築物が天高く存在していた。横断歩道の向こうから、私たちを捕まえに来た生徒たちの姿が見え、それは鬼ごっこの一環かと思ったが、捕まると何が起こるかわからない怖さもあり、真剣に逃げることにした。その時に自分と数人の友人は、近くにあったその大樹とパイプでできた構築物によじ登って天に向かっていくことにした。みんなせっせと体を木やパイプに寄り添う形で登っていたが、自分には空を飛ぶ能力があり、追手に捕まりそうになった万が一の時にその能力を発揮すればいいと考え、心には十分な余裕があった。フローニンゲン:2025/11/1(土)05:00


17620. 今朝方の夢の振り返り

       

今朝方の夢の舞台は中学校であり、そこは過去の学び舎であると同時に、無意識下で再び知性と感性を統合しようとする心理的空間であると感じられる。数学の授業という設定は、論理性と秩序に自分が向き合っている状況を示している。笑顔を浮かべる若い女性教師は、厳格ではない柔らかな知性、つまり知的探究を楽しむ姿勢を象徴しているようである。和やかな雰囲気の中に現れたオバマ元大統領は、権威と象徴性の投影であるが、それが偽物であった点が興味深い。周囲が熱狂する中、自分はその「中身の違和感」に気付いていた。これは外見的権威に盲従せず、本質を見抜こうとする直観の成長を表しているであろう。トイレに行くための小さな嘘と、生徒たちによる監視は、自由への欲求と、それを縛る内的規範や他者からの期待の葛藤である。教室を抜け出し外界に没頭したい欲望がありながらも、それが許されないと感じ、結局戻る決断をした点は、自律と責任の間で揺れる成熟のプロセスを示している。戻った先で正弦波に魅了され、地球の中心に周期が還るという象徴的図像に感動したことは、学びの対象が単なる知識ではなく、宇宙的秩序や存在の循環性へと繋がりつつある証である。自分は今、思考の抽象性と宇宙観の統合を進めている段階にあるように思える。突然天井が吹き飛び、外界と教室がつながる場面は、内面世界と外界の境界が崩れる象徴である。自分が冷静さを保ち、周囲を導いたのは、精神的な安定性とリーダーシップの芽生えを示している。空に浮かぶ雲が得体の知れない生物に変化したことは、未知の可能性と創造性が目覚めつつある様子であるが、それが危害を加えなかったという点に、自分の無意識が味方であるという安心感が見える。街に降り立ち、巨大な樹木とパイプの構造物に登る選択は、古代性(樹)と現代性(パイプ)の統合という象徴を帯びている。逃走劇が鬼ごっこの要素を含みつつも緊張を伴っていたのは、遊びと本気の境界を超える時期に来ていることを示す。周囲が努力して登る中、空を飛ぶ能力を持っているという確信は、内的な潜在能力に対する自覚である。まだ実際に飛んでいないが、それは「必要ならば発揮できる」という確固たる内的信頼を意味している。本夢の核心的な象徴は、正弦波が地球の中心へ還る場面と、天井が吹き飛び世界が開いた瞬間にある。周期性と循環、内外の境界の崩壊、そして上昇と飛翔の可能性が重なる。この夢は、学びを単なる知識獲得から普遍的理解へと転換させ、外界との関係の中で主体性を確立していく変容の過程を示していると解釈できる。人生における意味として、本夢は内的成長が臨界点に達しつつあり、自由と責任、内面と社会、遊びと使命の統合へと進む段階に来ていることを告げている。既に飛ぶ力は備わっており、次に必要なのは「飛ぶと決める」覚悟である。今は、境界を越えて新しい世界へ進む準備が整いつつある時期なのだろう。フローニンゲン:2025/11/1(土)05:16


17621. ゼミナールの第156回のクラスで取り上げる論文の概要


早朝のギター練習をまずは80分ほど行ったので、休憩がてら今日のゼミナールの第156回のクラスに向けた予習をしておきたい。今日から、「We Are All Learning Here: Cycles of Research and Application in Adult Development」という論文を扱っていく。今日の該当箇所では、発達研究と教育実践を統合する新たな方法論として提唱された「発達的産婆法(developmental maieutics)」の理論的枠組みを提示している。この手法の核心は、発達理論・測定・実践を循環的に結びつけ、研究者と学習者の双方が「共に学ぶ(we are all learning)」関係を築く点にある。著者らは、心理学史において実用的知識(usable knowledge)の追求が一貫した流れであったことを指摘し、デューイやフィッシャーらの実践的発達心理学の系譜を継承しつつ、それを新たな計測技術と結びつけている。発達的産婆法は3つの構成要素から成る。第一に「モデル」として、カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論を基盤に据え、人間発達を文脈依存的かつ階層的に統合されるスキル構築過程として捉える。学習と発達を分離せず、両者を同一プロセスの異なる側面と見なす点が特徴である。第二に「メトリック」として、ドーソンが開発したレクティカル評価システム(Lectical Assessment System: LAS)を用いる。LAS は発話や文章の内容(何を言うか)ではなく、思考の深層構造(どのように考えるか)を基準に複雑性を評価する尺度であり、異なる領域でも共通の発達的次元を比較できる。これにより従来の段階理論に見られた「内容で段階を定義し、同じ内容で段階を測る」という循環論的問題が解消される。第三に「方法」として、研究者と教育実践者の協働による反復的サイクルを採用する。教育現場での課題設定、評価ツールの作成、学習系列(learning sequence)の構築と修正を繰り返しながら、発達理論を現実の学習支援に還元し、そこで得られたデータを再び理論精緻化に用いる。著者らはこの手法を具体化したものとして「レクティカル意思決定評価(Lectical Decision Making Assessment: LDMA)」を紹介する。LDMA は管理職の意思決定に関する三側面――視点取得、論証、意思決定プロセス――を測定する発達的評価であり、教育的フィードバックと研究データ収集を同時に実現するツールである。さらに、成人発達研究における応用例として、職務の複雑性と個人の発達水準との不一致、すなわち「多くの成人が自らの発達能力を超える課題に直面している(in over their heads)」という問題を取り上げ、視点取得や視点探索の能力が意思決定の質に深く関わることを示唆している。最後に、著者らは「視点取得(perspective taking)」と「視点探索(perspective seeking)」を区別し、後者が協働的意思決定を促進するにもかかわらず、発達水準が高い個人でさえ十分に実践していないことを指摘する。これらの能力は教育的に意図的に育成されるべきものであり、発達的産婆法の枠組みはそのための理論的・測定的基盤を提供する。すなわち本論の主張は、発達研究を教育実践の中で活かし、学習者と研究者が共に成長する循環的システムこそが「成人発達学の新しい科学」であるという点にある。フローニンゲン:2025/11/1(土)06:41


17622. 第156回のクラスの事前課題(その1) 

       

今日のクラスに向けて事前に準備した5つの問いを見ていきたい。まずは理論的な3つの問いである。最初の問いは、「ドーソンとスタインが提唱する「発達的産婆法(developmental maieutics)」とはどのような方法論であり、心理学史における「実用的知識(usable knowledge)」の探求という流れの中で、どのような位置づけにあると考えられますか」というものだ。発達的産婆法(developmental maieutics)は、発達研究と教育実践を相互に結びつけるための包括的な方法論である。その名称に含まれる「maieutic(産婆的)」という言葉が示すように、この手法はソクラテス的な問答法になぞらえられ、研究者と学習者(あるいは受験者)との間に継続的な対話を生み出し、両者がともに学ぶ関係を作り出すことを目的としている。すなわち、教育的評価を通して研究データを収集し、その研究成果を再び教育実践に還元するという「知の循環構造(cycle of research and application)」を持つ点が特徴である。この方法論は、心理学史における「実用的知識(usable knowledge)」の系譜に位置づけられる。ジェームズやデューイら初期心理学者が目指したのは、人間の心的発達に関する理論を教育や社会実践に活かす「生きた科学」としての心理学であった。ドーソンとスタインは、この伝統を現代に継承しつつ、発達理論とテスト科学を結合させ、理論と実践の往復的プロセスを制度的に設計した点に独自性がある。したがって、発達的産婆法とは、心理学を再び「人が学び成長する現場に根ざした科学」へと位置づけ直すための実践的メタフレームであると言える。問いの2つ目は、「フィッシャーの「ダイナミックスキル理論」は、ピアジェの発達理論をどのように修正・発展させており、この理論的枠組みが「発達的産婆法」のモデル構成にどのように応用されていますか」というものだ。フィッシャーのダイナミックスキル理論は、ピアジェの段階理論を批判的に継承し、人間の発達をより動的かつ文脈的な過程として再定義したものである。ピアジェは発達を普遍的・段階的に進行する過程とみなし、学習や環境の影響を副次的なものと考えたとされている(実際のところは、ピアジェは生物学者としてのキャリアを持っていたゆえに、当初から人間発達に関して環境との相互作用を見据えていたとする主張もある)。しかしフィッシャーは、発達を固定的な段階ではなく、「個人が文脈に応じてスキルを構築・統合していく過程」と捉えた。彼の理論は、(1) 文脈依存性(context-dependence)、(2) 領域特異性(domain-specificity)、(3) 階層的スキル統合(hierarchical integration)という3つの原理に基づき、発達を「学習の中に内在する構築的ダイナミズム」として説明する。この理論は、ドーソンとスタインの発達的産婆法においてモデル的基盤となっている。発達的産婆法では、発達と学習を分離せず、両者を1つの連続体として扱う。また、発達を評価する際も、個人の行動や思考が「どのような文脈で、どのように統合されているか」を見る。つまり、学習と発達を双方向的に捉えるダイナミックスキル理論の視点が、「教育現場で実際に起こる発達」を観察し、そのデータを理論的知見として再帰的に用いるという発達的産婆法の方法論そのものを支えている。3つ目の問いは、「ドーソンが提唱する「レクティカル評価システム(Lectical Assessment System: LAS)」は、従来の段階理論(コールバーグ、ペリー、キーガンなど)に見られる循環論的な問題をどのように克服していると考えられますか。また、「構造と内容の区別」という視点が、発達研究全体にどのような理論的転換をもたらす可能性があると考えますか」というものだ。従来の発達段階理論は、道徳判断や社会的視点取得など特定領域の「内容的特徴」をもって段階を定義していた。そのため、段階を測定する際にも同じ内容を用いるという循環論的問題、すなわち「何を測るか」と「どう測るか」が一致してしまう自己参照構造(評価の基準と評価の対象が同じものになってしまい、「自分で決めた物差しで自分の理論を証明しようとしている状態」のこと)を抱えていた。ドーソンのレクティカル評価システム(LAS)は、この問題を「構造と内容の分離」という原理によって克服している。LAS は、発話や文章の具体的なテーマや道徳的立場ではなく、その思考の深層的構造――すなわち概念の統合度、抽象度、階層性――を基準にして発達段階を判定する。これにより、異なる領域でも共通の「発達的複雑性」を比較可能にし、評価を理論的に一貫したメトリックとして確立した。この構造的アプローチは、発達研究に大きな理論的転換をもたらす。第一に、発達を「内容」ではなく「思考の形式と統合の力」として把握できるため、領域横断的な比較が可能になる。第二に、個々の領域の発達研究を統合する新しい基盤を提供し、心理学をより計量的で累積的な科学へと方向づける。第三に、教育実践では、発達水準を的確に診断し、それに適した学習課題を設計することが可能となる。したがって、LAS は単なるスコアリング技法ではなく、発達科学を「構造的複雑性の科学」へと再編成する理論的パラダイムの転換点を形成していると言える。フローニンゲン:2025/11/1(土)06:51


17623. 第156回のクラスの事前課題(その2)

        

4つ目の問いからは実践的な内容になる。4つ目の問いは、「「レクティカル意思決定評価(Lectical Decision Making Assessment: LDMA)」では、「視点取得(perspective taking)」と「視点探索(perspective seeking)」が中核概念として扱われています。教育現場や組織トレーニングの場で、これら2つのスキルを効果的に育成するためには、どのような学習デザインが考えられるでしょうか」というものだ。LDMAにおける「視点取得(perspective taking)」とは、他者の立場や思考を想定的に理解する認知的能力を指す。一方、「視点探索(perspective seeking)」は、実際に他者の意見や立場を積極的に尋ね、相互理解を深めようとする行動的スキルである。ドーソンとスタインは、前者が「理論的共感力」であり、後者が「実践的対話力」であると見なしている。この2つは相互に関連しながらも発達過程が異なり、特に視点探索は教育的介入なしには自然に育ちにくいと指摘されている。教育や組織トレーニングの設計においては、まずこれらを段階的に育成する学習環境を構築する必要がある。第一段階では、ケーススタディやロールプレイを用い、学習者が異なる立場の人物の思考や感情を分析・再構成する活動を通じて「視点取得」を鍛える。この段階ではLDMA型の問い(例:「この立場の人はなぜそう考えるのか?」)を活用し、認知的な柔軟性と多面的思考を促すことが効果的である。次に第二段階として、実際に他者の意見を求めたり、異なる立場の人と対話したりする「視点探索」を促す活動を導入する。例えば、組織では部門間協働プロジェクトやフィードバック・インタビューを設け、学習者が自分とは異なる文脈や価値観を持つ人々と協働する場を設計する。教育現場であれば、対話型教育やピア・レビューなど、他者の意見を求める行為を明示的な学習目標として位置づけるとよいだろう。また、これらの経験を単なる体験に終わらせないために、メタ認知的リフレクション(内省的振り返り)を組み込むことが重要である。学習者が「自分はどのような視点を取り、どの視点を探そうとしたのか」を言語化するプロセスを通じて、視点取得と探求が統合されていく。このようなデザインを通して、学習者は単に多様な立場を理解するだけでなく、それを実際の対人関係や意思決定に活かす力を身につける。最終的に、視点取得は思考の深さを、視点探索は社会的成熟を支える基盤として機能するようになる。5つ目の問いは、「著者らは、管理職が「自分の発達水準を超えた職務要求に直面している(in over their heads)」状態にあると指摘しています。もしあなたが組織開発の専門家であるならば、この知見をもとに「発達水準と職務の複雑性の不一致」を診断し、教育的に是正するための体系をどのように設計しますか」というものだ。「in over their heads」という現象は、個人の認知的・発達的能力が、現在の職務の複雑性や責任範囲に比して不足している状態を意味する。これはキーガン(Kegan, 1994)が指摘した「発達的負荷過多(developmental overload)」に近く、現代の職場では多くの管理職がこの状態に陥っているとされる。ドーソンとスタインの研究では、LDMAとLASを用いて、個々の意思決定能力や視点取得の複雑性を測定した結果、上位管理職であっても役職の要求水準に達していないことが示された。この知見を踏まえ、組織開発の専門家として行うべき第一のステップは、発達的診断と職務分析の統合である。LDMAやLASを用いて個人の「思考の複雑性レベル(Lectical level)」を測定し、同時に組織内の各職務を「意思決定・視点統合・責任範囲」などの観点から階層化して、職務の発達的要求水準を明示する。これにより、「どのポジションにどの発達段階が求められるか」というマッピングが可能になる。第二のステップは、発達的適合(developmental fit)を実現する学習体系の設計である。職務と発達レベルの間にギャップが見られる場合、ただちに昇進・降格ではなく、個人が成長できる「最近接発達領域(zone of proximal development)」を設定し、その範囲で挑戦的だが達成可能な学習機会を提供する。例えば、上司やメンターが行動省察セッションを行い、意思決定過程の中でどの視点を欠いていたかをLDMAのフィードバックレポートをもとに検討する方法がある。第三のステップは、視点探索を促す組織文化の醸成である。個人の発達を支えるためには、構造的支援(教育制度)だけでなく、心理的安全性のある対話文化が不可欠である。意思決定の場で多様な意見を求める仕組み(クロスレビュー、異職種ミーティング、学習サークルなど)を制度化することで、発達の社会的基盤が整う。このような体系では、発達を「個人の内的成長」ではなく「制度と文化を含む相互構成的プロセス」として扱うことができる。最終的に目指すのは、組織が個人の発達段階に適応し続ける“学習する組織(learning organization)”となることである。ドーソンとスタインの理念に沿えば、管理職の育成とは、単にスキルを教えることではなく、人と制度がともに発達していく場を設計することに他ならない。フローニンゲン:2025/11/1(土)10:03


17624. 第156回のクラスの課題文献に対する受講生からの問い

         

今日のクラスに向けて予習をしてくださったある受講生から、「著者らは、視点取得は深層構造ではなく、表層構造として見ているのだろうか。著者らはどういう位置から、どういうものとして視点取得を眺めているのか」という問いをいただいた。非常に本質的な指摘である。ドーソンとスタインがこの箇所で述べている「視点取得(perspective taking)」の捉え方は、まさにフィッシャーのダイナミックスキル理論における「文脈依存的変動性(context-dependent variability)」の発想に根ざしている。彼らの主張の核心は、視点取得を「発達段階そのものを定義する深層的構造(core structure)」としてではなく、発達的潜在能力が文脈の中でどのように現象化するかを示す可変的プロセスとして捉える点にある。従来の発達理論──例えばコールバーグやキーガンのモデル──では、「より高次の視点取得」がそのまま「より高次の発達段階」を意味していた。段階の本質が「どれだけ多くの視点を統合できるか」という数量的・階層的基準で規定されていたのである。しかしドーソンとスタインは、LAS(Lectical Assessment System)という構造的測定法を用いることによって、思考の深層構造と、その構造がどのような内容・文脈において表れるかを明確に区別しようとした。すなわち、発達レベルとは「どのように考えるか」の構造的複雑性を指し、視点取得は「その構造が現れる1つの表現様式」にすぎないと位置づけているのである。受講生の指摘のとおり、1人の個人においても、文脈によって視点取得の深さや広さは変動する。しかし、その変動には「発達的上限(developmental ceiling)」や「使用頻度の中心(developmental center of gravity)」が存在する。ドーソンとスタインもそれを否定してはいない。むしろ彼らは、LASによってその上限を推定することができると考えている。ただし、その上限は「視点取得の型」から直接導かれるものではなく、思考の統合度や抽象度といった構造的特性から推定されるものである。したがって、視点取得は段階の指標として“間接的に”有効であるが、段階を定義する“直接的構造”ではないというのが彼らの立場である。言い換えれば、視点取得は発達の「深層構造(core structure)」ではなく、「表層構造(surface structure)」の側に位置づけられる。ただし、ここでいう「表層」とは浅薄という意味ではなく、深層構造(発達的統合力)が文脈と相互作用しながら表に現れる動的パターンという意味である。フィッシャー流に言えば、スキルの構成とその使用環境との相互生成的関係の中で現れる可塑的現象なのである。したがって、ドーソンとスタインの視点では、視点取得は発達の「窓口」であり「鏡」でもある。それは発達構造そのものではないが、構造の成熟度を反映する代表的現れであり、同時に文脈に応じて可塑的に変化する。ゆえに、LASを通じて視点取得を測定することは、個人の「思考構造の複雑性」を間接的に捉えることを意味する。彼らが視点取得を段階定義の軸に据えないのは、まさにその変動性と文脈依存性を尊重し、「どのような構造がそれを可能にしているか」を問いたいからなのである。要するに、ドーソンとスタインにとって視点取得とは、発達構造の「核心的内容」ではなく、発達的構造が環境との相互作用の中でどのように現れるかを観察するための発達的インジケーターである。フローニンゲン:2025/11/1(土)11:04


Today’s Letter

I make the most of the early mornings as my golden time by waking up early. This allows me to devote plenty of hours to guitar practice and academic study. I am confident that I will continue to deepen both pursuits as I maintain this virtuous cycle in my life. Groningen, 11/1/2025

 
 
 

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