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【フローニンゲンからの便り】17605-17609:2025年10月29日(水)



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タイトル一覧

17605

音楽理論の役割と楽しみ

17606

今朝方の夢

17607

今朝方の夢の振り返り

17608

唯識の観点から見る『チ。-地球の運動について-』の魅力

17609

あるゼミの受講生の方の問題意識に対する『チ。-地球の運動について-』の応答

17605. 音楽理論の役割と楽しみ 

       

ここ最近は就寝前の楽しみとして音楽理論の書籍を読むことがある。ギターに関する音楽理論は、基本的にはクラシックギター、ジャズギター、ロックギターなど、ジャンルを問わず共通している。スケール、コード、和声進行、リズム理論など、音楽の構造を説明するための基礎概念はどのジャンルでも同じであり、理論そのものは音楽という言語の文法に相当する。したがって、クラシックギターのために書かれた理論書を学んでも、そこに書かれている原理はエレキギターやジャズギターにも十分応用可能である。ただし重要なのは、理論そのものではなく、その使い方や文脈がジャンルによって異なる点である。クラシックギターでは、理論は主に作曲家の意図を理解し、演奏解釈に反映させるための道具として使われる。例えば、バッハやタレガの作品を分析する際には、トニック、ドミナント、サブドミナントといった機能和声の関係を理解し、声部の流れをどう美しく導くかを考える。クラシック音楽では、和声進行は感情表現の基礎であり、理論はその構造を読み解くための地図として機能する。一方で、ジャズギターでは理論の目的が大きく異なる。ジャズにおける理論は、固定された構造を理解するためではなく、即興的に新しい音の関係を作り出すために用いられる。演奏者はその場でコードに対して複数のスケールやテンションを選び、音を瞬時に再構成する。つまり、ジャズでは理論は分析のための知識ではなく、即興のための言語であり、自由な会話のように使われる。例えば、クラシックでの和声進行Ⅱ–Ⅴ–Ⅰは、ジャズではテンションやモードを加えて変化させる対象になる。Cmaj7に対して、イオニアン、リディアン、ペンタトニックなど複数のスケールを選ぶ自由があり、演奏者は瞬時に音の重なりを再設計する。したがって、ジャズギターが特殊に見えるのは、理論が違うからではなく、理論を動的に使う自由度が高いからである。また、ロックやポップスにおいても理論は共有されており、ただし感覚的・直感的な進行(I–V–vi–IVなど)が重視される傾向にある。これらのジャンルの奏者は必ずしも理論を明示的に考えながら演奏しているわけではないが、潜在的には同じ和声的ルールのもとで音を選択している。つまり、理論は普遍的な枠組みであり、表現の形式が異なるだけなのである。この観点から見ると、クラシックギターで理論を学ぶことは、ジャズや他のジャンルへの入り口でもある。クラシックで声部進行や和声の構造を理解することは、ジャズでのモーダル理論やリハーモナイゼーションを理解する基盤を作る。むしろ、バッハの対位法や転調の柔軟さには、すでにモーダル・ジャズの要素が含まれていると言ってよいだろう。したがって、クラシックの理論を静的なものとしてではなく、音の流れを生み出す法則として学ぶことができれば、その知識はジャンルを超えて生きる。結局のところ、音楽理論はすべてのギターに共通する音の言語であり、ジャンルの違いとはその言語の使い方の違いにすぎない。クラシックギターはその文法を精密に読み解く学問的スタイルであり、ジャズギターはその文法を即興的に話す創造的スタイルである。両者は対立するものではなく、むしろ相補的な関係にある。理論を理解することは自由を奪うのではなく、表現の幅を無限に広げる手段となるのである。そう考えると、音楽理論を学ぶことがより一層楽しくなってくるはずだ。フローニンゲン:2025/10/29(水)05:36


17606. 今朝方の夢 

                                 

今朝方は夢の中で修学旅行に出掛けている場面があった。しかしそこには大学時代のサークルの先輩がちらほらいて、学校の修学旅行とは少し雰囲気が違っていた。むしろ合宿と呼ぶのにふさわしいような雰囲気があった。宿泊している旅館の大広間でみんなで集まって話をしていると、そこに大学時代の知り合いだけではなく、ゼミの受講生の方も数名ほどやって来て、今度出版することになった書籍のレビュー報告をし始めた。先輩もゼミの受講生も丁寧に原稿を読んでくれたようで、随分と多くのフィードバックコメントをいただいた。それらは一旦メールで受け取ることにしたのだが、メールが100件を超すほどの量となり、1人で全てを読むことは大変だったので、それらを編集者の方に共有することにし、最終的な修正の判断を任せることにした。いただいたコメントの中にはマーケティングに関する名案があり、それはぜひ採用してみたいと思った。購入特典としていくつか面白い試みがあり、それらは試してみるに値すると思ったのである。ふと気がつくと合宿所ではなく、賃貸している学生マンションに向かって夜な夜な歩いている自分がいた。すると、知り合いのホームレスの人がやって来て自分に話しかけてきた。その方は今ホームレス専用の借り家に住んでおり、自転車に乗ってこの辺までやって来たようだった。せっかくなのでうちで少し話でもしようかと思ったが、長くなりそうだったので少し考えた。するとその方は今晩泊めて欲しいと申し出た。自分にはやりたいことがたくさんあり、人に気を遣って時間を過ごすのが嫌だったので、丁寧に断った。しかしその時にまた今度ゆっくり話をしようと伝えた。するとその人は理解を示し、今度来るときは牛乳と納豆を使った特別な料理を振る舞ってくれると述べた。その組み合わせからどのような料理が生まれるのかは未知だったが、その人の説明を聞く限りはとても美味しそうだった。次回ゆっくり話すことになると、その方は自転車に乗って自らの家の方に立ち去った。何やら自転車で7時間ほどかかる距離とのことで、とても遠いところからやって来たのだなと思ったし、本来であれば一泊休息してもらうことも親切心の表れかと思った。しかし、自分の有限の時間をどう使うかについてはしっかりと考えなければならず、目先の小さな親切心も確かに重要だが、自分には全ての衆生に貢献する大きな親切心としての取り組みがあり、そちらを優先しなければならないと改めて思った形で先ほどの行為を正当化した。フローニンゲン:2025/10/29(水)05:50


17607. 今朝方の夢の振り返り


今日もまずギターの1時間半ほどの朝練を終えた。早朝のギター練習は気分を爽快なものにしてくれる。今日はスラーの技法を学び、バッハの「Minuet in G」の練習を楽しんだ。これは今の自分にとってはまだまだ難しい曲で、少しずつ上達していく喜びに浸りたいと思う。


今朝方の夢は、内面における奉仕と自己の使命の葛藤を象徴しているかのようだ。修学旅行という舞台は、人生の学びと移行期を意味しており、しかもそこに大学時代の先輩やゼミの受講生が混在している点から、過去の経験・現在の仕事・未来の方向性が同時に交錯する意識の場が表現されている。夢の空間は単なる懐古ではなく、知の共同体が再構成される一種の魂の合宿である。そこでは他者からの評価や助言という形で、自己の創造的活動が外部の声に照らされている。100件を超えるメールという膨大なフィードバックは、外界から押し寄せる期待と他者の意識の反映であり、それをすべて一人で処理せず編集者に委ねた行為は、他者に委託する智の表れである。すなわち、自己の統御を超えた大きな流れに判断を委ねる姿勢がそこに見える。また、フィードバックの中にあったマーケティングの名案や購入特典という要素は、精神的創造が現実世界で具体的成果として顕現する段階を示している。これは、内的探求の成果が社会的形態を取って現れる顕現のフェーズに自分が立っていることの暗示だろう。合宿所から夜の道を歩き学生マンションへ向かう場面は、集団的な知の場から個的内省の場への帰還を意味している。夜道という象徴は、無意識の深層への下降であり、光の届かぬ領域に自分の意志をもって踏み込む過程である。その途上で出会うホームレスの知人は、外的な居場所を失った自己の一側面――すなわち、社会的安定を超えた放浪する魂の投影だろう。その人物がホームレス専用の借家に住み、自転車で7時間かけて来たという描写は、極めて象徴的である。家を持たぬ者が借家を得ていることは、未だ完全に帰属できぬ存在が暫定的に世界と関係を結んでいる姿であり、それは外界との新しい関わり方を模索する自己の片影である。その人物を泊めるか否か迷う場面は、他者への慈悲と自己の使命への集中との間で揺れる内的対話を示している。断りつつも「今度ゆっくり話そう」と伝えた点に、自他の境界を適切に保ちながら関係を継続させようとする成熟した自己の態度が現れている。このやりとりの核心は、時間という有限資源の使い方に対する深い洞察である。即時的な善行を控えたことを「全ての衆生に貢献する大きな親切心」として正当化した点には、個別的慈悲から普遍的慈悲への転換、つまり菩薩的な観点への意識のシフトが見て取れる。牛乳と納豆を使った特別な料理という奇妙な提案は、相反するもの(純白の流動性と発酵した粘着性)の統合を象徴している。それは、清浄と腐敗、秩序と混沌、理性と感情といった対立原理を融合させる錬金術的モチーフである。この料理が「未知だが美味しそう」であったという感覚は、未知なる統合が恐怖ではなく期待を伴って迎えられていることを示す。すなわち、無意識的素材(納豆的な発酵する闇)を意識の光(牛乳的な純粋性)と混ぜ合わせる創造的過程が、すでに心の奥で進行している。自転車で7時間という距離は、努力と時間の象徴である。物理的に遠くからやって来たという表現は、過去の自己の断片が長い歳月をかけて再び意識の場に戻ってきたことを意味する。だがそれは一夜の宿を必要とするほどの疲弊した自己でもあり、今の自分が抱く使命感に照らしてなお、その影に手を差し伸べるべきかどうかを問う試みでもある。この夢が人生に示す意味は明瞭である。すなわち、全体への奉仕と個への慈悲をどう統合するかという課題に、自分は立っている。目の前の個別的な親切を断るという選択は、一見冷淡に見えても、より高次の慈悲、すなわち「時間を通じてすべての生命に資する道」に身を置く決意の表れである。夢はこう告げている――人は誰しも、夜の道を歩く時、自分の内なるホームレス(帰る場所を求める魂)と出会う。その声を無視せず、しかし流されもせず、再会を約すことで大いなる道の上に留まることこそ、成熟した慈悲の形だと言えるだろう。フローニンゲン:2025/10/29(水)07:49


17608. 唯識の観点から見る『チ。-地球の運動について-』の魅力 

 

しばらく前にゼミの受講生の推薦を受けて、『チ。-地球の運動について-』のアニメを視聴した。この作品は、単なる地動説の物語ではなく、「認識とは何か」「真理とはどこにあるのか」という哲学的問いを根底に据えた作品である。この構造を唯識思想の観点から読むと、作品が提示する「世界の見え方」と「心の在り方」が、まさに『成唯識論』に説かれる八識の働き、すなわち阿頼耶識を基層とする認識生成のプロセスと深く響き合っていることが分かる。本作の舞台は中世ヨーロッパを想起させる架空の地であり、教会による絶対的支配が人々の認識を形づくる社会である。地球が太陽の周りを回っているという「地動説」は、当時の常識から見れば異端であり、語る者は火刑に処される。それでもなお「真理」を求めて思考を止めない人々の姿が描かれる。唯識の立場から見るなら、この「真理を求める行為」こそが、煩悩と無明に覆われた識の転換、すなわち「転依(てんね)」の萌芽である。唯識では、私たちが見る世界は心の投影、すなわち「識の変現」であると説く。外界は独立して存在するのではなく、阿頼耶識に蓄えられた種子(薫習)が縁に触れて現れる現象にすぎない。『チ。』においても、人々が見ている「世界」は教会が定義した象徴的秩序、つまり「法処の識」によって形成された幻想の体系である。主人公たちは、その「共有された虚構」を疑うことによって、自己の内面に潜む識の構造を揺り動かしていく。すなわち、世界を変えるとは、まず「見る者の心」を変えることに他ならない。作品中で描かれる「知への渇望」は、唯識における「見道(けんどう)」、すなわち真如を直観するための第一歩に似ている。彼らが危険を顧みず、世界の構造を再構築しようとする行為は、「無明」に支配された識が、自らの構造を突破しようとする運動である。この意味で『チ。』は「心が自らを悟ろうとする物語」として読むことができる。特に印象的なのは、知の探求が単なる理論的作業ではなく、信仰・倫理・恐怖といった情動的層を含む点である。唯識が説くように、識は単に知覚の器ではなく、感情・意志・執着をも包含する多層的な流れである。また、作中では「誰が真理を語る資格を持つのか」という問題が繰り返し問われる。これはまさに唯識の中心命題「誰が見るのか(誰が識るのか)」と重なる。阿頼耶識の深層では主体と客体の区別はなく、見る者と見られる世界は同時に生起する。登場人物たちが「世界の中心とは何か」を探る過程は、究極的には「自己の中心とは何か」という問いに帰着していく。外界の宇宙論的秩序を探ることが、内的な存在論的探求と連動しているのである。唯識的観点から見ると、『チ。』が伝える最大の魅力は、「真理とは外界に発見されるものではなく、心が成熟する過程の中に現れる」という洞察にある。地動説が象徴するのは、単なる科学的発見ではなく、認識の転回――すなわち「地球が動く」という事実ではなく、「見る心が動く」という覚醒である。この物語の意義は、知を信仰や権威の枠に閉じ込めるのではなく、心の自由な探求として回復させることにある。唯識の言葉を借りれば、それは「無明の識」から「清浄識」への転換であり、煩悩を智慧へと変容させる菩薩道の縮図である。『チ。』が読者に促すのは、外界の真理を探ることによって、最終的に「心とは何か」を問う旅へと進むことであり、その旅の果てに見えるのは、すべての存在が互いに依存し合い、共に回転する「縁起する宇宙」としての地球である。フローニンゲン:2025/10/29(水)12:59


17609. あるゼミの受講生の方の問題意識に対する『チ。-地球の運動について-』の応答                              

とあるゼミの受講生の方の投稿コメントに内在する問題意識は、さに『チ。―地球の運動について―』という作品の根底に流れる問いそのものであるとふと思った。すなわち「どのようにして人は、フィクションに満ちた世界の中で、なおも真理を追い求め、生きることができるのか」という問題である。本作は地動説をめぐる科学的・宗教的対立を描いているが、その本質は「認識の限界」と「それを突き破ろうとする意志」のドラマである。宗教も科学も、それぞれが1つの「世界解釈装置」にすぎない。どちらも人間の心が生み出した構成概念であり、唯識の言葉を借りれば「遍計所執性」、つまり概念が自立した実体であるかのように錯覚された状態である。『チ。』の登場人物たちは、まさにこの遍計所執の網の中で苦しむ。彼らは「神が定めた天動説」を真理と信じ込まされた共同幻想の中で生きており、その幻想を破ろうとする者は異端者として焼かれる。しかし、物語が描くのは単に「偽りの体系」から「より真実な体系」への乗り換えではない。むしろ、あらゆる体系の限界を知りながら、それでもなお「知を求めること」をやめない人間の姿である。その意味で『チ。』が教えてくれるのは、虚構を知りながら生きる覚悟である。地動説という「次の大いなる何か」に到達した者も、それがまた別の虚構であることをうすうす理解している。しかし彼らは虚しさに屈しない。なぜなら、「虚構であることを知りながら、それを超えてなお探求すること」こそ、人間の精神の運動だからである。たとえそれが次のマトリクスであろうと、心は再びその中で問いを発し、世界を描き直す。その絶えざる運動こそが、作品の題名に込められた「地球の運動」と響き合っている。動いているのは地球だけではなく、人間の意識そのものである。この構造は唯識思想の「三性説」に照らすと一層明確になる。まず、世界は遍計所執性――つまり錯覚された実体視――によって構成される。そこから分析的認識によって事物を区別しようとするのが依他起性であり、そして最終的に「空」としての円成実性に至る。しかし円成実性もまた、静止した真理ではなく、無限に動的な「縁起」の働きに過ぎない。『チ。』が描く世界は、まさにこの三重構造の内で息づいている。真理の発見とは、固定的な到達ではなく、「認識の自己否定を繰り返すプロセス」なのだ。受講生の方が抱いた「虚しさ」――フィクションを突き破っても、また次のフィクションに包まれる感覚――こそ、まさにこの円成実性への入口である。そこには、到達点も救済もない。ただ「無限の連鎖そのもの」を肯定することが求められる。『チ。』の登場人物たちは、その連鎖の中で何度も倒れ、焼かれ、遺志を託しながらも、知の火を絶やさない。彼らにとって「意味の終わり」は存在しない。たとえ全てが虚構であっても、「その虚構を見抜きながら、なおも信じて動く」――この矛盾の中にこそ、人間的な尊厳が宿る。したがって、『チ。』が示す構えとは、「無限の連鎖を受け入れる勇気」である。永劫回帰の円環を否定せず、そこに身を委ねながらも、同時にその円環を照らす光であることを志す態度。ニーチェ的に言えば、それは「運命愛」であり、唯識的に言えば「転識得智」、すなわち識の流転をそのまま智慧に変える境地である。「地球は回っている」という言葉は、宇宙の構造を語ると同時に、「心は止まらずに回り続けている」という真理を語っている。たとえそれがフィクションであっても、その運動を止めない限り、虚しさは絶望ではなく、静かな覚醒の余韻となる。『チ。』が私たちに教えるのは、「終わりなき物語を、終わりなき心で生きる」ということであり、その姿勢こそが、無限性を前にした人間の唯一の誠実な応答である。フローニンゲン:2025/10/29(水)14:27


Today’s Letter

Mercy and wisdom are my fundamental principles, which I wish to continue cultivating. My priority is simple: to fully develop and embody them for the benefit of all sentient beings. Groningen, 10/29/2025

 
 
 

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