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【フローニンゲンからの便り】18072-18079:2026年1月21日(水)



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タイトル一覧

18072

Jozsef Eotvosの“Goldberg Variations, BWV 988”

18073

今朝方の夢

18074

今朝方の夢の振り返り

18075

発達の諸領域──心・身体・自己超越性/自己深層性の統合的理解(その1)

18076

発達の諸領域──心・身体・自己超越性/自己深層性の統合的理解(その2)

18077

発達の諸領域──心・身体・自己超越性/自己深層性の統合的理解(その3)

18078

ハードステージモデルとソフトステージモデル

18079

カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論の位置付け

18072. Jozsef Eotvosの“Goldberg Variations, BWV 988” 

                             

“Goldberg Variations, BWV 988”のAria da CapoをJozsef Eotvosがクラシックギター用に編曲したこの作品は、昨年のイギリス旅行の際に、ロンドンのSchott Musicで出会ったものである。この作品は、技巧的な派手さとは無縁であるにもかかわらず、演奏者に極めて高度な成熟を要求する楽曲である。そのため、クラシックギターを始めて間もない段階で取り組むべき曲ではなく、おおよそ演奏歴3~5年目に手を出すのが最も適切かもしれない。この曲が難しい第一の理由は、技術的困難が「目立たない形」で存在している点にある。高速スケールや大きな跳躍はほとんど現れないが、右手には多声的な独立コントロールが求められ、特に弱音においても音の芯を保つ精密なタッチが不可欠である。左手においても、押弦の強さを最小限に抑えながら持続音を管理し、ポジション移動の際に余計な雑音を一切出さない制御力が必要となる。これらは「指が動く」段階では到達できず、基礎練習を長期間積み重ね、身体化された技術として初めて可能になるものである。第二に、音楽的要求の質が極めて高い。このアリアは旋律を歌い上げる曲ではなく、またテンポの揺らぎや表情的ルバートで魅せる作品でもない。むしろ、一定の時間の流れの中で、和声の移ろいと声部の関係性を静かに提示し続けることが求められる。そのためには、バッハ特有のポリフォニーを頭で理解するだけでなく、身体感覚として把握している必要がある。舞曲や二声・三声作品を十分に経験していない段階では、この「時間を止めるように進める」音楽性を成立させることは困難である。第三に、精神的成熟の問題がある。この曲では、演奏者の個性や感情を前面に出そうとする衝動が、かえって音楽を壊す方向に働きやすい。音を足さず、語らず、ただ置くという姿勢が要求されるため、自我を一歩引かせる内的な静けさが不可欠となる。多くの奏者にとって、この境地に達するのは、演奏歴を重ねる中で一度か二度、大きな質的転換を経験した後であり、それが結果として3~5年目という時期に重なることが多い。以上の理由から、このアリアは上達を誇示するためのレパートリーではなく、演奏者の在り方そのものを問い直す作品であると言える。早すぎれば技術と感性を歪め、遅すぎれば説明的な演奏に陥る危険がある。適切な時期に出会ったとき、この曲はクラシックギターという楽器の時間感覚と音の意味を根底から作り替える力を持つのである。そうした思いを持ちながら、時期がやって来たらこの作品とじっくり向き合っていきたい。フローニンゲン:2026/1/21(水)05:58


18073. 今朝方の夢 

                       

今朝方は夢の中で、ダンジョンの探索をしている人物の視点に立っていた。自分が探索をしているのではなく、別の人がそれを行なっていて、自分はその人物の視点として存在していたのである。その人物には固有の意識があり、自分はその意識とは別にその人の身体に乗り移る形で固有の意識を持っていた。探索の過程で色々な場所や部屋に訪れたのだが、その中でもギョッとしたのは、ある部屋の中で、日本刀を持った武士のような男性が、女性の体をバラバラに刻み、頭と肩だけの状態にしていたことだ。さらに驚いたのは、その女性はまだ生きており、十分に喋れる状態だった。その女性は確かにうめき声を上げていたが、まだ生命活動が維持されていることは驚きだった。どうやらその女性は人間の姿をしてはいるが、魔族か何か別の種族のようで、男性はその種族に対する恨みから彼女を成敗しようとしているようだった。最後にもう一度刀を入れると息の根を止めれるようで、男性は女性に話しかけてそれを実行するかを最終的に決めようとしていた。その部屋を出ると、100人ぐらいのアニメのキャラクターたちがラスボスに挑もうと結集しており、自分はそれを見守っていた。二人一組となり、ここからラスボスがいる地点まで別れて向かうことにしたようで、いずれのキャラクターもずば抜けた能力を持っていたことから、二人一組で十分にラスボスまでの種々の敵を倒していけるかと思ったが、最後にいるラスボスは尋常ではない強さを持っていたため、100人が無事にラスボスのところに到着でき、全員の力を結集すれば勝てるかもしれないと思った。


もう一つ覚えているのは、ある著名なAI研究者の先生の授業を有名な男性アナウンサーともう一人の見知らぬ男性と一緒に三人で受講していたことである。先生は最後に私たちに重要な問いを投げかけ、ホワイトボードにそれを書いた。私は声を出して回答するものだと思っていたので、自分の回答の前半の部分をシェアしたところ、先生はその回答の出出しを評価しながらも、まずは黙って自分で最後まで回答を考えてみることを勧めた。すると教室に小中学校時代のある友人が入ってきて、私に数学の問題を尋ねてきた。見るとそれは因数分解の問題で、実際に解き始めてみると一瞬で解法が閃き、即座に解答した。彼に解法を教えたところ、彼はAIの授業を批判することを述べた。幸いにも先生と二人の受講生は消えており、私たちもまた教室の外の靴箱近くにいた。彼の批判はあまり的を射ておらず、自分がその授業の重要性をどのように考えているかを述べると、彼は大変納得していた。同時にもう一人別の友人がやってきて、私のカバンの中にあったクラシックギターの楽譜を取り出して、興味深くそれを眺めていたので、今受講しているクラシックギターのクラスについても彼らに勧めた。フローニンゲン:2026/1/21(水)06:18


18074. 今朝方の夢の振り返り

                            

今朝方の夢は、自己同一性の多層化と、知性・暴力・協働という相反する力を同時に統御しようとする現在の内的状況を象徴しているように思われる。まず、ダンジョン探索において、自分が直接行為する主体ではなく、他者の身体に宿る視点として存在していた点は、自我が単一の中心ではなく、複数の視点を横断的に経験する段階にあることを示しているようである。そこでは「行為する意識」と「観照する意識」が分離されつつ共存しており、自分は出来事の当事者でありながら、同時に一歩引いた位置から全体を把握している。この構造は、現実においても、実践や研究、創作に深く関与しながら、それらを俯瞰し評価しようとする姿勢と響き合っているように思われる。日本刀を持つ武士と、なお生き続ける女性の場面は、極めて強烈な象徴性を帯びている。身体を切り刻まれてもなお言葉を発し、生命を保っている存在は、抑圧され、分断され、否定されながらも消え去らない何か、すなわち理性では切り捨てたいが、完全には排除できない情動や他者性を表している可能性がある。武士の恨みは、正義や理念の名のもとに他者を裁こうとする衝動であり、その最終的な一刀を入れるかどうか迷う姿は、自分の内にある断罪と理解のあいだの葛藤を映しているようである。相手が人間ではなく別種族であるという設定は、自分の価値体系から「異質なもの」をどう扱うかという問題意識を象徴しているとも考えられる。その後に現れる百人のキャラクターとラスボスの場面は、個の力と集合知の関係を示しているように思われる。各自が卓越した能力を持ちながらも、最終的な難関には全員の力を結集しなければならないという構図は、孤高の知性では超えられない課題の存在を示唆している。自分が戦わず見守る位置にいたことは、前線に立つよりも、全体構造を理解し、条件が整うのを待つ役割を自覚し始めていることの表れかもしれない。後半のAI研究者の授業は、思考の成熟過程を象徴しているようである。即答を求めず、沈黙の中で最後まで考えるよう促される場面は、表層的な理解や早急な発話から、内省的で統合的な思考への移行を示していると考えられる。因数分解を瞬時に解く場面は、基礎的能力がすでに身体化されていることの確認であり、AI授業を批判する友人を説得できたことは、自分が新しい知の意義を自分の言葉で説明できる段階に来ていることを象徴しているように思われる。クラシックギターの楽譜を友人が手に取る場面もまた、知性だけでなく身体的・芸術的実践を他者と分かち合おうとする姿勢を示している。この夢全体が示す人生的意味は、分断された視点や相反する力を切り捨てるのではなく、それらを抱えたまま統合へと向かう過程に自分がいる、という示唆であるように思われる。暴力と慈悲、個と集団、即答と沈黙、理論と実践を往復しながら、最終的な「ラスボス」に挑むための条件を静かに整えている段階にあることを、この夢は語っているのかもしれない。フローニンゲン:2026/1/21(水)07:34


18075. 発達の諸領域──心・身体・自己超越性/自己深層性の統合的理解(その1) 

 

今週もまた知人の鈴木規夫さんとの共著に向けた対談がある。今日の対談は、書籍の第6章に該当し、テーマは「発達の諸領域──心・身体・自己超越性/自己深層性の統合的理解」というものである。第6章の中心課題は、成人発達理論を「認知や意味生成の段階モデル」に閉じ込めず、人間という存在を、心・身体・深層心理・自己超越性/自己深層性という複数の領域の交差として統合的に理解することである。ここで言う統合とは、何でもかんでも一つの尺度に押し込むことではない。むしろ逆であり、領域ごとに異なる発達のダイナミクスとメカニズムを認めたうえで、それらが互いにどう影響し、どのような順序や相互作用で成熟が進むのかを描き出すことである。成人発達理論が現代社会で誤用されるとき、それはしばしば「段階=人格の格付け」として使われ、心の深層やトラウマ、あるいは霊性の経験が、発達の物語から排除される。第6章は、この欠落を補うための章であり、発達理論の人間観を再び立体化するための章である。その入口として提示されるのが、発達の三分類――機能モデル、ソフトステージモデル、ハードステージモデル――である。機能モデルとは、発達を「うまく機能しているかどうか」という観点で捉えるモデルである。例えば、情動調整ができる、ストレス対処ができる、関係性を維持できる、といった機能の良好さが焦点となる。機能モデルの利点は、現場で使いやすい点にある。支援や介入の対象が明確であり、改善も観察しやすい。しかし限界は、機能が改善しても意味生成の枠組みが変わるとは限らないことである。機能モデルは「適応」を扱うが、「世界観の刷新」を直接扱うわけではない。また機能が高いことが、倫理的成熟や自己理解の深まりを保証しない点にも注意が必要である。ソフトステージモデルとは、発達を段階として語りつつも、その段階を硬直した普遍順序として扱わず、文脈依存性や揺らぎ、領域差を前提にするモデルである。成人発達理論の健全な読み方は多くの場合ソフトステージであり、「段階は傾向であり、状況によって上下する」「領域ごとに重心が違う」「支援条件で高次の思考が出る」という理解を含む。利点は、人間の現実に即している点である。段階を“烙印”ではなく“対話の言語”として使える。しかし限界は、柔らかくしすぎると、段階概念が曖昧になり、測定や比較の根拠が弱まる点にある。ソフトステージは現実に優しいが、学術的厳密性を維持するには丁寧な概念操作が必要である。ハードステージモデルとは、発達段階を普遍的で階層的な構造として捉え、順序性と不可逆性を比較的強く想定するモデルである。ピアジェの古典的段階論の読み方や、発達を一つの軸で上昇させるタイプの理解はここに近い。利点は、理論が明快で、教育設計や測定設計を組み立てやすい点にある。だが限界は、人間の揺れや退行、領域差、文化差を十分に扱えず、現実の複雑性を切り捨てやすいことである。さらにハードステージは、倫理的に「上位=優越」という序列化を招きやすい。発達理論がエリート主義に接続されるとき、その背後にはハードステージ的発想が潜んでいることが多い。この三分類を踏まえると、「全ての領域は階層的・構造的に発達するのか」という問いが立ち上がる。結論から言えば、全ての領域が同じ仕方で階層化されるわけではない。認知的複雑性や意味生成の構造は、一定の階層性を持って発達しやすい。だが、例えばトラウマ反応、身体の慢性的緊張、愛着のパターン、羞恥や恐怖の発火回路のようなものは、階層的に積み上がるというより、反復・再条件づけ・安全経験の蓄積によって徐々に変化する。そこでは、発達というより治癒や統合、再編成という語の方が適切な場合もある。つまり人間の成熟には、階層的発達とは異なるダイナミクスが複数存在し、それらが互いに交差するところに実像があるのである。第6章は、この交差を描く章であり、段階モデルを否定する章ではない。むしろ段階モデルの強みを活かしつつ、それが扱えない領域――深層心理、身体、自己超越性/自己深層性――を理論の外に追いやらず、別のメカニズムとして統合することを目指す。ここまでの議論が整ったところで、次に焦点となるのが、アイデンティティの発達と意味生成である。アイデンティティとは自己物語であり、価値観であり、役割であり、関係性の束である。成人発達理論は、アイデンティティを単なる性格傾向としてではなく、意味生成の構造として捉えることで、個人が自分の人生をどう編み直すのかを理解しようとする。この点を次回で具体的に展開する。フローニンゲン:2026/1/21(水)08:08


18076. 発達の諸領域──心・身体・自己超越性/自己深層性の統合的理解(その2)

                     

アイデンティティの発達とは、自己を語る枠組みの発達であり、同時に世界を意味づける枠組みの発達である。人は単に「自分はこういう性格だ」と思っているのではなく、「自分は何者で、何を大切にし、どのように生きるべきか」という物語を生きている。成人発達理論が扱うのは、この物語の“内容”というより、その物語を編む“構造”である。例えば、他者からの評価を軸に自分を定義している状態では、社会的承認が揺らぐと自己も崩れやすい。だが、複数の価値の緊張を引き受けながら、自分で意味を編集できるようになると、自己は外部の評価に全面的に依存しなくなる。つまりアイデンティティ発達は、外的規範に従属する自己から、内的に意味を生成し直せる自己へ、そしてさらに自己そのものを相対化できる自己へと、関係様式を変えていくプロセスである。しかし、ここで注意すべきは、アイデンティティの“構造”が高度であることと、深層心理が癒えていることは別問題だという点である。高い抽象思考を持ち、矛盾を統合できる人が、内面では強い羞恥や恐怖に縛られていることがある。逆に、自己物語の抽象性は高くなくても、深い安心感や関係性の温かさを体現している人もいる。ここに「深層心理と発達」の問題がある。深層心理とは、意識的自己が把握しきれない情動の層、反応の層、影の層である。影とは、単に「悪い側面」ではない。自分が受け入れられなかった感情、表現できなかった欲求、否認してきた弱さ、あるいは逆に抑圧された力や創造性も影に含まれる。深層心理的な治癒とは、影を消すことではなく、影を意識の統合に取り戻すことである。この統合は、段階モデルのように“上へ進む”というより、分断された自己の部分が関係性の中で再び結び直されるという性格を持つ。では、深層心理的な治癒や成長は、発達理論的意味での成長・発達とどう関連するのか。結論から言えば、両者は相互に支え合うが、同一ではない。深層心理が癒えると、情動の過剰反応が減り、注意資源が解放され、結果として高次の意味生成が安定して現れやすくなる。これは、いわば発達の足場が整うことに近い。他方で、意味生成の枠組みが更新されると、影との関わり方も変わる。例えば、以前は恥としてしか感じられなかった感情を、「自分の境界を教えてくれるシグナル」として意味づけ直せるようになれば、影は敵ではなく情報になる。つまり、発達は治癒を促し、治癒は発達を支える。しかし、治癒が進んだからといって必ずしも高次段階に進むわけではなく、高次段階に到達したからといって影が統合されるわけでもない。この非同一性を理解することが、統合的モデルの要となる。この点は、成人発達理論が現場で誤用されるときの典型的な落とし穴でもある。すなわち、抽象的にうまく語れる人が「成熟している」と誤認され、実際には未処理の影や未解決の愛着パターンが人間関係を破壊しているという事態である。逆に、深い治癒プロセスにいる人が、言語化が拙いという理由で「低い段階」と見なされる危険もある。統合的理解とは、こうした誤認を避け、複数領域の状態を別々の指標として捉え、その交差点で支援を設計することにある。次に問われるのは、身体的発達と心的発達の交差である。身体領域は、発達理論の周辺に追いやられがちだが、実際には身体こそが情動調整、注意、関係性の基盤である。身体の緊張が慢性化していると、他者の言葉が届かず、認知が狭まり、世界が脅威として立ち上がる。逆に身体が安全を感じられると、視野が広がり、複雑性を扱う余裕が生まれる。この交差点を次回で具体的に描き、さらに自己超越性/自己深層性の領域へとつなげる。フローニンゲン:2026/1/21(水)08:42


18077. 発達の諸領域──心・身体・自己超越性/自己深層性の統合的理解(その3)

  

身体的発達と心的発達の交差を理解する鍵は、身体を単なる器官の集合としてではなく、経験の土台として捉えることである。情動は身体で起こり、注意は身体状態に依存し、他者との関係性は呼吸や声の緊張や姿勢を通じて調整される。ゆえに身体領域の変化は、発達理論的意味での意味生成にも直接影響する。例えば、慢性的な交感神経優位状態にある人は、世界を危険として読み取りやすく、思考は防衛的に単純化する。身体が落ち着くと、複雑な情報を統合し、他者視点を保持する余裕が生まれる。身体的な治癒や成長は、発達の上位段階を直接生むのではないが、高次の意味生成が安定して現れるための条件を整えるのである。ここで重要なのは、身体的介入が万能だと誤解しないことと、身体の整いが発達の足場として機能するという相互依存性を正確に理解することである。この身体領域の統合は、深層心理の統合とも強く結びつく。影やトラウマが深い場合、それはしばしば身体化され、呼吸の浅さ、筋緊張、視線の硬さ、声の詰まりとして現れる。深層心理的治癒は、語り直しだけでは完結せず、身体の安全感の回復を通じて進むことが多い。つまり、影の統合は、意味生成の更新と身体の再調律が同時進行する領域横断的プロセスなのである。発達理論がここを捉え損ねると、言語の発達だけが進み、身体に残る恐怖が反応を支配し続けるという分断が生じる。統合的理解が必要なのは、まさにこの分断を埋めるためである。次に扱うべきが、「自己超越性/自己深層性」が発達理論とどう関係するかである。自己超越性とは、自己中心的枠組みを超えて世界とつながる感覚であり、自己深層性とは、自己の表層的物語の下にある静かな意識の基盤に触れる感覚である。これらはしばしば霊性という語で語られるが、本章ではそれを宗教的主張としてではなく、経験領域として扱う。重要なのは、自己超越的経験があっても発達段階が必ずしも高いとは限らないという点である。強い一体感や恍惚体験が、倫理的成熟や関係性の成熟を保証しないことは、歴史的にも臨床的にも繰り返し示されてきた。自己超越性は、発達の証明ではなく、発達とは別軸の経験領域である。ゆえに統合的モデルでは、発達段階(意味生成の構造)と、自己超越性(意識経験の深度)を混同せず、二つを交差する座標として理解する必要がある。では、自己超越的/自己深層的な治癒や成長は、発達理論的な成長・発達とどう関連するのか。ここでも結論は同じであり、相互に支え合うが同一ではない。自己深層性への接触は、反応性を弱め、自己物語への過度な同一化を緩めることがある。すると、主体—客体関係が変化し、自己を客体化できる余地が広がり、結果として高次の意味生成が安定して現れやすくなる。逆に、意味生成の枠組みが成熟し、自己中心性が相対化されると、自己超越的経験を誇大化せず、日常生活に統合する力が増す。ここに成熟のポイントがある。自己超越体験を特別な出来事として収集するのではなく、関係性や倫理や実践に落とし込み、静かな在り方へと統合することが、統合的成長である。この統合を具体的に支える方法として、インテグラル・ライフ・プラクティスのような統合的実践が意味を持つ。統合的実践の要点は、単一領域への偏りを防ぐ点にある。発達段階の理解だけでは、影の統合や身体の安全感の回復が置き去りになり得る。瞑想だけでは、発達的意味生成の更新が伴わず、日常の判断が変わらないことがある。身体実践だけでは、価値葛藤の統合や倫理的成熟が進まないことがある。統合的実践は、心(意味生成)、身体(調律)、深層心理(統合)、自己超越性/自己深層性(反応性の低減)を並行して扱い、領域間の相互作用を利用しながら成熟を促す試みである。以上より、第6章が提示する統合的理解の核心は明確である。発達は一つの軸の上昇ではなく、複数領域の異なるダイナミクスが交差し、互いを支え合いながら成熟が進むプロセスである。機能モデル、ソフトステージ、ハードステージはそれぞれ有効だが限界もあり、特に階層的に発達しない領域――深層心理や身体、自己超越性の経験――を理論の外に追いやらないことが重要である。発達段階は人格の格付けではなく、意味生成の構造を理解するための地図であり、その地図は身体と影と霊性を含む広い地形の中で初めて実践的意味を持つのである。フローニンゲン:2026/1/21(水)08:52


18078. ハードステージモデルとソフトステージモデル 

               

発達理論における「ステージ(段階)」という概念は、一見すると同じ言葉を用いていても、その想定の硬さによって理論の性格を大きく変える。とりわけ重要なのが、ハードステージモデルとソフトステージモデルの区別である。この二つは、発達をどう理解し、何のために用いるのかという思想的立場の違いを反映している。まずハードステージモデルとは、発達段階を普遍的・階層的・順序固定的な構造として捉えるモデルである。その代表例として挙げられるのが、ジャン・ピアジェの発達段階論である。ピアジェは、感覚運動期、前操作期、具体的操作期、形式的操作期という段階を提示し、それぞれが質的に異なる思考構造を持つと考えた。この枠組みでは、段階は明確に区別され、基本的に順序を飛ばすことなく進行するものと想定される。こうした理解は、発達を理論的に整理し、教育カリキュラムや研究比較を行う上で大きな力を持った。成人発達理論においても、ハードステージ的に読まれやすい代表例として、ロバート・キーガンの理論が挙げられる。キーガンの主体―客体理論は本来きわめて洗練された構造論であるが、「この人は第何段階である」という固定的理解で用いられると、人格の格付けや序列化に転びやすい。ハードステージモデルの強みは、理論の明快さと測定のしやすさにある一方で、文脈による揺らぎや領域差を捨象しやすいという限界を抱える。これに対してソフトステージモデルは、段階という概念を保持しつつも、それを動的な傾向として理解するモデルである。代表例として挙げられるのが、スザンヌ・クック=グロイターの自我発達理論の成熟した読み方である。彼女自身は段階構造の厳密さを保ちながらも、個人が常に一つの段階だけで機能しているわけではないこと、測定結果はその人の「重心」を示すにすぎないことを繰り返し強調している。ソフトステージモデルでは、発達段階とは「居住地」ではなく「使用頻度の高い意味生成の様式」である。人は状況によって、より単純な意味づけにも、より複雑な意味づけにもアクセスする。仕事では高度に構造化された思考ができても、親密な関係では未整理な情動反応が前景化することは珍しくない。こうした現実を前提に、ソフトステージモデルは段階を人間理解と支援のための地図的概念として用いる。このモデルの強みは、人間の複雑さを損なわずに発達を語れる点にある。発達理論が対話や育成、自己理解に貢献するのは、段階を固定的ラベルとしてではなく、変化可能性を示す仮説として扱うときである。ただし、柔らかくしすぎれば理論的輪郭が失われるという緊張も存在する。ソフトステージとは、恣意性を許すことではなく、厳密さを保ったまま柔軟に読む姿勢を指すのである。総じて言えば、ハードステージモデルは発達を「分類し説明する」ことに強く、ソフトステージモデルは発達を「理解し支援する」ことに強い。成人発達理論を現代社会で倫理的かつ実践的に用いるためには、段階そのものよりも、どのモデルの前提で段階を語っているのかを自覚することが不可欠である。また、厳密にはキーガンのモデルもまたソフトステージモデルのように段階定義に色々な要素が混入しているという点でソフトステージモデルに分類するのが適切かと思う。フローニンゲン:2026/1/21(水)08:56


18079. カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論の位置付け

   

カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論を、ソフトステージモデルかハードステージモデルのいずれかに分類しようとする理解は、必ずしも適切ではない。むしろ、ダイナミックスキル理論は、この二分法そのものを相対化する第三の理論的位置を占めていると捉える方が、理論の核心に即している。まず、ダイナミックスキル理論がハードステージモデルではないことは明らかである。ハードステージモデルは、発達段階を普遍的で階層的、かつ比較的固定的な構造として想定し、個人はその段階を順序に従って移行していくと考える。しかしフィッシャーは、人間の能力や理解は、文脈・課題・支援条件によって大きく変動することを一貫して強調してきた。同一人物であっても、最適条件下で発揮される水準と、日常的に安定して用いられる水準との間には大きな乖離が生じ得る。発達とは、ある段階に「到達する」ことではなく、スキルが構成され、再構成され、やがて一定の安定性を持つに至るプロセスであるというのが、ダイナミックスキル理論の基本的立場である。この点で、段階を実体的構造として扱うハードステージモデルとは決定的に異なる。では、ダイナミックスキル理論はソフトステージモデルなのかと言えば、ジョナサン・リームズの論文の整理に従う限り、そこにも距離がある。ソフトステージモデルは、段階という概念を保持しつつ、それを文脈依存的で確率的な傾向として柔らかく解釈する立場である。確かに、重心という考え方や、非同期性・揺らぎを前提とする点において、ダイナミックスキル理論はソフトステージ的理解と親和的に見える。しかし決定的な違いは、フィッシャーが「ステージ」そのものを発達の基本単位としては捉えていない点にある。ダイナミックスキル理論において、発達の最小単位は段階ではなくスキルである。スキルとは、個人と課題、環境、支援条件との相互作用の中で、その都度構成される行為や理解のまとまりである。いわゆる発達段階とは、こうした多様なスキルが一定期間、似た複雑性水準で組織化されている状態を、後から記述的にまとめた概念にすぎない。したがってステージは、発達を説明する原因ではなく、観察された安定パターンを指し示す結果的なラベルである。この理解は、「段階をどう柔らかく読むか」を問題にするソフトステージモデルとも異なり、段階中心の発達観そのものを脱構築している。以上を踏まえると、リームズの論文における理解としては、ダイナミックスキル理論を、ソフトステージとハードステージの中間に位置づけるのではなく、両者を包摂しつつ相対化する非ステージ中心・プロセス指向の発達理論として位置づけるのが最も妥当である。発達とは固定的構造の移行ではなく、変動と安定化を繰り返す構成プロセスであり、段階はその動態を理解するための一つの視点にすぎない。この点において、ダイナミックスキル理論は、本論文が目指すポスト構造主義的転換──人間を構造物ではなくエコシステムとして捉える視座──と深く整合しているのである。フローニンゲン:2026/1/21(水)09:19


Today’s Letter

My life is serene, which is what I value most. Serenity comes not from external factors, but from within. The more I learn and practice to refine my mind, the more serene my life becomes. Groningen, 1/21/2026

 
 
 

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