【フローニンゲンからの便り】18080-18084:2026年1月22日(木)
- yoheikatowwp
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タイトル一覧
18080 | ポジション移動時の無音処理 |
18081 | 今朝方の夢 |
18082 | 今朝方の夢の振り返り |
18083 | ジュリオ・サグレラスの“Guitar Lessons Books 4–6 & Advanced Technique”との付き合い方 |
18084 | 博士論文における良遍の作品の取り扱い方 |
18080. ポジション移動時の無音処理
クラシックギターにおけるポジション移動時の無音処理とは、左手が指板上で位置を変える瞬間に、本来意図されていないいかなる音も発生させないための高度な技術である。これは単なる雑音防止のテクニックではなく、音楽の時間構造そのものを守るための重要な要素であり、とりわけバッハの作品のように沈黙や和声の変化が音楽的意味を担うレパートリーにおいて決定的な役割を果たす。ポジション移動の際に生じやすい問題には、いくつかの典型がある。ひとつは、指を押弦したまま滑らせることで生じる擦過音である。これは左手が「移動」という行為を優先し、弦との接触状態を意識できていないときに起こる。もうひとつは、指を離す瞬間に弦が不随意に振動してしまう解放音であり、これは押弦圧と接触の解除が同時に行われることで生じる。また、本来は切れるべき音が、移動によって次の音とつながってしまう意図しないレガートも問題となる。これらはいずれも、旋律的な曲では目立ちにくい場合があるが、和声の静止や声部の独立が重要な音楽では、時間の輪郭を曖昧にしてしまう致命的な要因となる。無音処理の核心は、「どう押さえるか」ではなく「どう離すか」にあると言えるだろう。多くの奏者は音を出す瞬間のタッチには敏感である一方、音を終わらせる動作を無意識に扱っている。しかし実際には、音を終わらせる行為こそが、次の音や沈黙の質を決定する。理想的な無音処理では、まず押弦圧だけを先に抜き、弦との接触は最後まで残す。これにより、弦は振動を開始する条件を失い、完全な沈黙が生まれる。その後、指は弦から自然に離れ、次のポジションへと移動する。この段階的な離し方が身につくと、移動中に音が生じることはなくなる。さらに重要なのは、ポジション移動を「音と音の間の雑務」としてではなく、前の音を終止させる音楽的行為として捉える視点である。高度な演奏では、「前の音を終わらせる」「移動する」「次の音を準備する」という三つの行為は分断されず、ひとつの連続した流れとして統合されている。移動そのものが、前の和声や声部の役割を完結させる終止形になっているのである。この感覚は、速いテンポや大きな音量では決して養われない。極めて遅いテンポ、極小の音量で、一音一音の終わりを観察するように練習することで初めて身体に染み込む。沈黙を「何も起きていない時間」として放置するのではなく、「意図的に作られた時間」として扱えるようになったとき、ポジション移動時の無音処理は単なる技術を超え、音楽表現そのものとなるだろう。要するに、ポジション移動時の無音処理とは、音を消す技術ではなく、沈黙を設計する技術である。音と音の間にある何もなさを支配できるようになったとき、クラシックギターの演奏は表層的な音の連なりを超え、時間そのものを彫刻する行為へと変わるはずだ。フローニンゲン:2026/1/22(木)06:09
18081. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、オックスフォード大学のヤン・ウェスターホフ教授から非常に有難い行為を受けていた。ウェスターホフ教授は夜中にもかかわず、自分の論文のレビューをしてくださっており、それが明け方まで続いた。そこからさらに、私のためにクラシックギターの楽譜を編曲してくださり、朝方に論文と編曲済みの楽譜を渡してくださったのである。ウェスターホフ教授は徹夜でそれらの作業をしてくださったのだが、疲れを全く見せておらず、むしろ笑顔を浮かべて私にそれらを手渡してくださった。見返りを求めることもなく、ウェスターホフ教授は家を出ていき、夜明けを迎えた朝の世界に散歩に出かけた。近くにいた父がふと、ウェスターホフ教授にコーヒーでも出してあげたらどうだと言われ、確かにそれくらいのお礼はしなければいけないと思ったので、コーヒミルを使って自らの手で豆を挽いてコーヒーを作ることにした。それにしてもウェスターホフ教授の振る舞いは尊敬に値し、一流の教授というのはこうしたことが何の見返りも無しに平然と行えてしまうものなのだろうと思った。
次の夢の場面は、見慣れない列車の中から始まった。そこでは高校時代のあるクラスメートの友人が近くにいて、彼の家はなんとここから8時間ほどかかるらしく、祖母の家もまた7時間もかかるとのことだった。それはもはや通学の域を超えており、旅行に等しいと思った。しかし彼は、その距離を何ら大変なものではない当然のものとして受け止めており、その姿がとても印象的だった。気が付けば私は、見慣れないデパートの一階にいた。そこのアパレルショップで、ラメが入った煌びやかな服とズボンを色々と眺めていた。全てがラメ入りではなかったが、自分の目を引いたのはそれらの製品だった。何か一着ズボンでも購入しようかと思っていると、少し離れたところに機能性の高そうなベッドが置いてあったので、そちらに行ってみることにした。そのベッドはマットレスの部分が自動で温度を検知し、暖かくなったり、冷たくなったりする機能を持っていた。特に冬の今、マットレスが自然と温まるのは必要な機能かもしれないと思ったが、寝ている時には自然と体温が上がり、今のベッドでも寒くて困ることは特にないので購入をする必要はないと思った。すると、隣のベッドに二人の大学生がやって来て、二人はベッドに腰掛けることもせず、ベッドの前に立ちながら就活の話をし始めた。彼らが挙げた企業の中で、いくつか自分も知っているものがあったので、彼らに何か助言をしようかと考えたが、余計なおせっかいかもしれないと思った。すると静かに夢の場面が変わっていった。フローニンゲン:2026/1/22(木)06:23
18082. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自分の内面において成熟しつつある「学び・創造・与えること」の統合的な理想像が、象徴的な物語として立ち上がったものだと考えられる。夜を徹して論文を読み、さらにクラシックギターの楽譜まで編曲して手渡すヤン・ウェスターホフ教授の姿は、現実の他者というよりも、自分が心の奥で希求している「真の師のあり方」、あるいは将来自分自身が到達したい在り方の投影である可能性が高い。見返りを求めず、疲労を誇示することもなく、淡々としかし喜びをもって与え、夜明けの世界へと歩み去るその姿は、知と技を私物化せず、世界に静かに返していく理想的知性の象徴であろう。父の「コーヒーでも出したらどうだ」という一言は、恩恵を受け取るだけでなく、それに対して自分なりの応答を返そうとする倫理的衝動を表していると考えられる。既製品ではなく、自ら豆を挽くという行為は、感謝を自分の手で形にしようとする姿勢、すなわち受動的な弟子性から、能動的な担い手へと移行しつつある心の動きを示唆しているように思われる。列車の場面における長距離通学を当然のものとして受け止める友人の存在は、時間や距離、労力を「負担」としてではなく「前提」として引き受ける生の態度を象徴している可能性がある。それは、自分がすでに日常として生きている長期的修練や遠回りの人生設計を、外在化された他者の姿として確認している場面とも読める。デパートで目を引くラメ入りの服は、華やかさや可視的な成功、あるいは社会的評価の象徴である一方、それを「眺める」にとどまり即断で購入しない態度には、そうした外的輝きとの距離感が表れているように思われる。続く高機能ベッドの場面では、快適さや効率性という現代的価値が提示されるが、それを不要と判断する自分は、外的な補助よりも、すでに内側に備わった調整力や自然なリズムを信頼している段階にあることを示唆しているのかもしれない。就活を語る大学生たちに対して助言を控える場面は、経験や知識を持ちながらも、それを無差別に差し出さない慎み、すなわち「与えること」の成熟した形を暗示していると考えられる。必要とされる場と時を見極める沈黙もまた、一つの知恵なのであろう。この夢全体が示している人生的意味は、学問・芸術・倫理が分断されることなく、一つの生の流れとして統合されつつある現在地の確認であるように思われる。与えられる者から与える者へ、追いかける者から歩き続ける者へと静かに移行しながらも、華やかさや快適さに安住せず、内的必然に従って進むこと。その道は長く、しかしすでに「当然のもの」として引き受けられ始めている、そうした確かな感触をこの夢は告げているように思われる。フローニンゲン:2026/1/22(木)08:06
18083. ジュリオ・サグレラスの“Guitar Lessons Books 4–6 & Advanced Technique”との付き合い方
数日前に、ジュリオ・サグレラスの“Guitar Lessons Books 4–6 & Advanced Technique”を購入した。これは、見た目の難易度や派手さとは裏腹に、演奏者の基礎構造そのものを作り替えるための教材である。これらは曲を弾けるようにする教本というよりも、「音がどう生まれ、どう消えるか」を身体で理解させるための長期的トレーニング体系だと言える。Book 4は、中級への移行点に位置し、セーハやポジション移動が増え、右手の均質性が露骨に問われ始める巻である。ここでの本当の難しさは、音符を追えるかどうかではなく、各音の粒立ちやタイミングが揃っていない事実が自分自身に突きつけられる点にある。Book 5では分散和音や音階的動きの密度が高まり、左手の独立性と右手の音量コントロールが同時に要求される。弾けているのに音楽として立ち上がらない、という感覚を初めて強く経験することが増えるだろう。Book 6に至ると、声部の意識が不可欠となり、どの音を残し、どの音を切るかという判断なしには成立しない。ここはバッハなど多声的レパートリーへ進むための実質的な最終関門である。一方、Advanced Techniqueは、地味で音楽的魅力に乏しく見えるかもしれないが、実際には最も厳しい内容を含んでいる。指の独立、力みの排除、動作の最小化といった要素が徹底的に要求され、自己流の癖がすべて露呈する。ここでは上達感よりも違和感が先に立つが、その違和感こそが身体再教育の兆候である。これらの書籍を活用する上で最も重要なのは、「通しで消化しようとしない」ことである。各曲は完成させる対象ではなく、音と動作を微調整するための素材として扱うべきだ。Book 4と5 では、極端に遅いテンポと小さな音量で、雑音や音量差を徹底的に排除する。Book 6はバッハなど実曲と並行し、声部意識の準備として用いる。Advanced Techniqueはウォームアップやクールダウンとして短時間取り入れ、疲労を感じたら即座に中断する勇気も必要だろう。総じて、Sagreras 4–6と Advanced Techniqueは、短期的な達成感を与えない代わりに、演奏の骨格を静かに、しかし確実に変えていく教材である。丁寧に使えば、レパートリーの音楽的密度が自然に上がり、結果として上級曲への移行が無理なく進むことが期待される。その意味でこれらは、上級者になるための教材ではなく、気づかぬうちに演奏者を上級者の地平へと押し出すための書なのである。そうした位置付けでこの教則本と長く付き合っていきたい。フローニンゲン:2026/1/22(木)09:31
18084. 博士論文における良遍の作品の取り扱い方
自分は欧米の大学院で、良遍の『法相二巻鈔』に対する英語での註釈研究で博士論文を執筆したいと考えている。その他のアイデアとしては、良遍の短い作品、例えば『不思議』『奥理鈔』『中道事』などの合計8つぐらいの文献に対して註釈する形で一つの博士論文にまとめることも考えている。『法相二巻鈔』という分量的にもしっかりとしたものを深掘りしていくのが博士論文として望ましいのか、それとも誰も翻訳していない良遍のいくつかの作品を註釈する形で博士論文にまとめていくのがいいのかを考えていた。この問いは、博士論文としての深度と射程をどのように設計するかという、非常に正統でかつ戦略的な悩みかもしれない。結論から言えば、どちらも博士論文として成立するが、評価軸・リスク・将来展開が大きく異なる。まず、『法相二巻鈔』を中心に据える案である。この文献は、良遍の思想的成熟が最も濃密に表れているテクストであり、分量・構造・論点のいずれにおいても、単独で博士論文を構成しうる十分な重量を持つ。欧米の審査者にとって最大の利点は、「一つの主要テクストを徹底的に掘り下げている」という分かりやすさである。注釈研究・思想史的位置づけ・唯識解釈の独自性を一つの軸に束ねやすく、「深い専門性」を明確に提示できる。特に、法相宗内部の教理解釈、玄奘・基の受容、鎌倉期における日本的再構成といった論点を精密に扱える点は、王道的で評価が安定しやすい博士論文と言える。一方で、この案のリスクは、すでにある程度知られているテクストを扱う以上、「何が新規性なのか」を強く意識的に構築する必要がある点である。単なる逐語的注釈にとどまれば、「優秀だが保守的」という評価に落ち着く可能性も否定できない。したがって、この場合は、比較思想(インド・中国唯識とのズレ)、概念史的再定位、あるいは未利用写本や註釈伝統の掘り起こしなど、明確な理論的貢献点を初期段階から設計することが不可欠である。次に、『不思議』『奥理鈔』『中道事』など複数の短編を束ねる案である。このアプローチの最大の魅力は、「誰も英語で扱っていない良遍の思想的全体像を初めて可視化する」という強い独創性にある。欧米の大学院では、未踏の資料を体系的に提示した研究は高く評価されやすく、特に日本仏教研究の文脈では希少性が際立つ。複数テクストを横断的に読むことで、良遍の思考の揺らぎ、実践的関心、教理の応用的側面を立体的に描き出せる点も魅力である。しかし、この案には別種の難しさがある。複数文献を扱う場合、論文全体の統一軸が曖昧になると、「論点が散漫」という評価を受けやすい。また、各テクストの分量が小さいがゆえに、一つ一つの分析深度が浅く見えるリスクもある。したがって、この構成を成功させるには、「良遍における中道理解」「法相教理の実践的転回」など、明確な中心テーマを設定し、それに照らして各文献を位置づける理論的枠組みが必須となる。以上を踏まえると、博士論文として最も堅牢なのは、『法相二巻鈔』を中核に据えつつ、他の短編作品を補助的に用いる折衷案である。すなわち、主論文では『法相二巻鈔』を徹底的に注釈・分析し、その射程や限界を示した上で、短編テクストを「思想の展開・応用・変奏」として位置づける。この構成であれば、深度と独創性の双方を確保でき、将来的には短編群を独立した論文や翻訳プロジェクトとして発展させる余地も残る。最終的に問われるのは、「この博士論文によって、欧米の仏教研究者は良遍をどう理解するようになるのか」という一点である。その像を最も説得力をもって提示できる構成を選ぶことが、テーマ選択の最終基準となるであろう。フローニンゲン:2026/1/22(木)10:20
Today’s Letter
The purification of my cognitive defilements and afflictions is progressing slowly but steadily. I will not abandon this path, for I seek to realize ultimate truth and serve the world in a more authentic way. Groningen, 1/22/2026

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