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【フローニンゲンからの便り】17592-17597:2025年10月27日(月)


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タイトル一覧

17592

コードの同時着地に向けて

17593

身体を聴くスローモーション練習

17594

今朝方の夢

17595

クラシックギターにおける右手の運指について

17596

クラシックギターの偉大なる作曲家たち

17597

クラシックギターの即興演奏に向けたプロセス

17592. コードの同時着地に向けて

                           

昨日からサマータイムが終わり、昨日と同様に今日もまた午前4時に目覚めた。午後9時には就寝していることもあり、4時に起床したとしても十分な睡眠時間を確保している。目覚ましを使うことは一切なく、体が欲しているだけの睡眠を取るようにしており、ここからもしばらくは午前4時に目覚めるようであれば、その流れに従おうと思う。これくらい早い時間に目覚めると朝の時間を特に有効かつ充実した形で使うことができる。ギターの練習と仏教研究に対して三昧の状態になることができることを嬉しく思う。


クラシックギターにおいて、コードを同時に着地させることは、今はまだ難しいが、安定した響きとリズムの一貫性を生むために極めて重要である。単音練習に慣れた段階から、複数の指を同時に押さえる動作へと移行する過程は、いわば「運動の統合段階」であり、ギター演奏の中核的スキルと言える。この能力を養うには、単なる力の練習ではなく、身体感覚の統合と意識的制御の訓練が不可欠である。まず理解すべきは、同時着地とは単に複数の指を一瞬で下ろすことではなく、指の準備・動線・タイミング・筋緊張の制御が一体化している状態を指すという点である。多くの初心者が陥る誤りは、各指を独立して動かそうとし、結果的に時間差のある着地になることである。指をバラバラに動かすのではなく、「手全体を1つのユニット」として使う意識が鍵となる。この同時着地のための第一のステップは、「空中フォームの保持」である。実際に弦に触れる前に、空中で押さえる形を正確に作り、そのまま手首から腕全体を下ろすようにして弦に触れる。このとき重要なのは、指だけを動かすのではなく、手全体を微小な単位として動かす感覚を得ることだ。弦に触れる瞬間、全指がほぼ同時に弦に接触し、軽い圧で押さえられるように意識する。この空中フォーム練習を繰り返すことで、脳と筋肉が「形を先に記憶し、その形のまま着地する」動きを学習する。次に有効なのが、準備着地練習だろう。これは一度コードを完全に押さえた状態から、すべての指を1~2センチほど浮かせ、再び同時に着地させる練習である。最初はテンポを落とし、視覚的に全指が同じタイミングで弦に触れるかを確認する。慣れてきたら、テンポを少しずつ上げ、聴覚的にも「ジャッ」という一斉着弦の音が揃うかを確認する。この練習は、指の記憶位置(muscle memory)を強化し、同時動作の協調性を高める。さらに、「分割→統合」練習も効果的である。例えばEメジャーコードを押さえる場合、まず薬指と中指を同時に落とす練習を行い、その後に人差し指を加える。このように部分的な同時着地を積み重ねることで、最終的に全指が自然に揃う。この方法は特にバレーコードのような複雑なフォームに有効で、指の動作を段階的に統合していくプロセスを可視化できる。同時着地を妨げる大きな要因は、不要な力みである。指先に過剰な力が入ると、動きの速度とタイミングが乱れる。したがって、弦を押さえるよりも弦に触れる意識を持ち、軽いタッチで着地する感覚を養う必要がある。指を上げる際も、完全に脱力してはいけない。わずかに弦の位置を意識したまま離すことで、次の着地をスムーズにする準備ができる。もう1つのポイントは、視覚への依存を減らすことである。常に左手を見ながら押さえていると、動作が視覚主導になり、聴覚的・身体的な同時性が崩れる。目を閉じてフォームを作る練習を行うと、指と指の空間認識が高まり、触覚を通じた位置感覚が発達する。最終的には「弦とフレットの感覚だけでコードを形成できる状態」——いわば無意識的熟達——を目指す。同時着地の訓練の最終段階では、リズムと結合させた練習が効果的である。メトロノームを使い、「1拍で全指を同時着地」「2拍でリリース」を繰り返す。この反復により、動作が音楽的時間構造の中に統合される。結局のところ、同時着地とは単なる技術ではなく、身体と意識の時間的調和を意味する。個々の指の制御ではなく、音の瞬間に手全体を「1つの生きた形」として導くこと。これが達成されたとき、コードは単なる和音ではなく、呼吸するような「一体の響き」として立ち上がるだろう。フローニンゲン:2025/10/27(月)04:49


17593. 身体を聴くスローモーション練習

                      

最近のギター練習においては特にゆっくりとした動きでの練習を心がけている。クラシックギターにおいてコードを押さえる際、スローモーションの練習は極めて有効だろう。多くの奏者が見落としがちなのは、ゆっくり弾くことの目的がテンポを落とすことではなく、時間を引き伸ばすことで、身体感覚・動線・意識の流れを可視化することにあるという点なのではないかと思う。スローモーション練習は、単なる速度の調整ではなく、動作の質を高める観察法なのである。コードフォームをスローモーションで押さえる際、最初に意識すべきは手全体の準備である。弦に触れる前に、手の形、肘の角度、手首の傾き、指の方向を丁寧に確認する。特に手首が過度に曲がっていないか、肘が身体に寄りすぎていないかを確かめることが重要である。これらの位置関係は、指が自然に弦の上に落ちるかどうかを左右する。スローモーションで押さえることにより、自分の身体がどのように動き、どの筋肉に力が入り、どこが余計に緊張しているかを細かく観察できるようになる。次に注目すべきは、指が弦に触れる順序と圧力の変化である。スローモーションでは、指が弦に近づく瞬間から実際に押さえるまでの移行の時間が見える。このとき、弦に触れる瞬間に力を入れようとすると、動作がぎこちなくなり、他の指の動きも妨げる。理想は、空中で形を作り、弦に触れる瞬間にはすでに準備が整っている状態である。押さえるというよりも、手全体が自然に弦に沈み込むような感覚を意識するとよいだろう。この感覚をスローモーションで丁寧に確認することで、力の入りすぎや不要な動きを排除できる。スローモーションの練習では、音を出す前の静寂も大切な要素である。多くの奏者は、弦に触れた瞬間すぐに音を鳴らそうとするが、あえて押さえた状態で1~2秒静止し、指の位置・角度・圧力を感じ取ると、フォームが格段に安定するだろう。この静止の間に、指先がフレットに対して垂直に立っているか、隣弦に触れていないかを確認する習慣をつけるとよい。この無音の確認時間は、筋肉の正しい記憶を形成し、後の速い動きでも安定したフォームを保つ助けとなる。さらに重要なのは、動線を滑らかにする意識である。スローモーションの中では、各指がどのような軌跡で弦に向かっているかを観察できる。理想的な動線は、直線的ではなく、わずかに円弧を描くように自然で流動的なものである。これにより、筋肉の緊張が分散され、柔らかく速い動作へとつながる。指が上下に跳ねるように動いていないか、過剰に持ち上げすぎていないかを確認しながら、最短距離で滑らかに弦へと導くことを目指す。また、スローモーションでは呼吸との連動を意識することも大切である。多くの奏者は難しいフォームを押さえるときに無意識に呼吸を止めてしまうが、これは動きの硬直を招く。吸気とともに指を浮かせ、呼気とともに着地するように練習すると、動き全体が滑らかになり、力の流れが一定になる。呼吸が動作をリズム化し、身体全体の調和を取り戻す役割を果たす。スローモーションで練習する際のもう1つの意識ポイントは、「耳でフォームを聴く」ことである。ゆっくりコードを押さえ、各弦を1つずつ鳴らす。濁りやビビりがあれば、その指のフォームに微妙なずれがある証拠である。音の質がフォームを教えてくれるという姿勢で、音と身体の関係を一音ずつ検証していく。この過程は単なる技術ではなく、「聴く身体」を育てる訓練にもなる。結局のところ、スローモーション練習の核心は、時間を遅くすることで「無意識を意識化する」ことにある。速いテンポでは見過ごされる細部を、遅い動作の中で丁寧に観察し、正しい感覚を身体に刻む。そうして得た感覚は、テンポを上げても崩れない「安定した身体知」として残る。スローモーションとは、外的スピードを落とすことによって、内的感覚を研ぎ澄ます練習なのである。コードの同時着地を美しく決めるためには、この「時間を遅らせて自分の身体を聴く」習慣こそが最も確実な道である。そのような考えで今日の練習に臨みたい。フローニンゲン:2025/10/27(月)04:56


17594. 今朝方の夢 

                         

今朝方は夢の中で、ゼミナールに所属しておられるある知人の方と学術研究に関する話題で盛り上がっていた。その方は大変探究熱心で、自分と同じような姿勢で学術研究を楽しんでいることが伝わってきて、自然と話に花が咲いた。しばらくその時間を味わっていると、場面は自然と次のものに移った。


次の場面は、小中学校時代に住んでいた社宅が舞台になっていた。家に戻ろうとすると、突然天から激しい雨が降ってきたので、自分の家がある棟の一番端の1階の郵便受けのあるスペースに駆け込んだ。雨足が弱まるまでしばらくそこで雨を凌ごうと思っていたが、上の階から2人の主婦の女性が話しながら降りてくるのが聞こえ、2人に挨拶をするのが少し面倒に思われたので、自分の家がある階段に向かって走り出した。雨足は以前として強く雨には濡れる形になったが、思っていたほどに体は濡れずに済んだ。家に帰る前に郵便受けを確認しておこうと思い、郵便受けを開けると、そこにマカデミアナッツバーが3つあったので驚いた。どうやら母がそれを注文したらしく、3つのうち1つはオーガニックの品質的にも良さそうなものだった。もう2つは添加物や糖が過剰に入っていそうな気がした。いずれにせよ、それらを持って自宅に戻ると、ダイニングでは昼食の準備が完了していた。まだ時刻は昼だが、父はお酒を飲んでいるようで、顔を赤くして酔っ払っていた。しかしよくよく父を見ると、どうやら顔が違っていて、別人のように思えてきた。しかしその男性は父のような雰囲気を発し、父のように振る舞っていたので、相手に合わせるようにした。酔っ払うと感情的にも不安定になりがちなので、できるだけその男性の気分を損ねないように、相手の話の内容に合わせるように気を使って話をした。そのような場面があった。フローニンゲン:2025/10/27(月)05:08


17595. クラシックギターにおける右手の運指について

      

クラシックギターにおける右手の運指記号「PIMA(親指=P、人差し指=I、中指=M、薬指=A)」は、演奏技術を体系的に整理するための非常に有効な記譜法である。しかし、これはあくまでも「運指の目安」であって、「絶対的な規則」ではないという点を見落としてはならない。ギター演奏において最も重要なのは、音楽的な流れと身体の自然な運動との調和であり、PIMAの規則を機械的に適用することは、しばしばその自然な流れを阻害することに気づいた。例えば、アルペジオ練習において「P–I–M–A」と順番に弾くことは基礎練習として非常に有益である。この反復によって、指の独立性や均等なタッチ、音色のコントロールが身につく。しかし実際の楽曲演奏では、常に「I–M–A」を順に使う必要はない。旋律線が高音弦に偏る場合や、特定の音を強調したい場合など、音楽的意図によって「M–I–M」や「A–M–I」などの不規則な組み合わせがむしろ効果的になることもある。つまり、PIMAは構造を支えるフレームワークであって、表現を縛る枠ではない。また、指の長さや形状、筋肉の柔軟性、弦のテンション、さらには爪の形によっても、最適な運指は人それぞれに異なる。あるギタリストにとって快適なI–M交互は、別のギタリストにとってはぎこちない動きになる場合もある。したがって、PIMAは「普遍的モデル」というよりも、「個別最適化の出発点」として理解すべきである。さらに興味深いのは、PIMAの運指法を固定的に扱うよりも、音の流れやフレーズの方向性に応じて「指が音を導くように」設計する方が、音楽的自然さが増す点である。右手の運動は、単なる機械的反復ではなく、身体全体のリズムと共鳴する「運動的音楽性」の一部として機能している。よって、指の順番を守るよりも、音のつながりを滑らかに保ち、無駄な緊張を避ける方がはるかに重要である。現代の名ギタリストの中には、I–M–Aの規則に縛られず、時に親指をメロディに使用したり、同じ指で連続して音を弾く「rest stroke legato」を取り入れる者も多いようだ。これは伝統的なPIMA運指法の枠を越え、より柔軟で有機的な演奏を目指すアプローチである。音楽とは、最終的に「自然に聴こえるか」「心地よく流れるか」で判断されるべきものであり、そこに到達する手段は1つではない。したがって、PIMAはクラシックギターの学習初期においては秩序と均衡を養う「文法」のような役割を果たすが、上達するにつれて、奏者はその文法を超え、「音楽的自由」に到達する必要がある。言語でいえば、文法書に従って正確に話す段階から、即興的に語る段階への移行である。重要なのは、PIMAを完全に捨てることではなく、意識的にそれを使いこなし、無意識的に超えていくことである。結論として、PIMAのIMA運指は「必ず守るべき規則」ではなく、「音楽的自由を支えるための基礎構造」であると言える。型を身につけることが自由を制限するのではなく、むしろ自由を支える足場になる。型に縛られることなく、しかし型を軽んじることもなく、音楽的意図に応じて自在に指を動かすこと——そこに、クラシックギターの真の芸術性と成熟が宿るのだと思う。フローニンゲン:2025/10/27(月)09:02


17596. クラシックギターの偉大なる作曲家たち

                   

サマータイムが明けてからはめっきり気温も低くなってきて、ジムではほとんど汗をかかなくなった。それでも今日のトレーニングもまた充実していた。最近はもっぱらギターの演奏を主たる活動にしており、筋力トレーニングで腕や指を怪我しては元も子もないので、その辺りを考慮したトレーニングをするようにしている。


クラシックギターの歴史は、単なる楽器の発展史ではなく、「人間の内的表現を1つの楽器でどこまで広げられるか」という芸術的挑戦の軌跡なのだとふと思った。その中心には、ギターを「一人オーケストラ」として扱った作曲家たちが存在する。中でも、フェルナンド・ソル(Fernando Sor, 1778–1839)、フランシスコ・タレガ(Francisco Tárrega, 1852–1909)、そしてアグスティン・バリオス(Agustín Barrios Mangoré, 1885–1944)、エイトル・ヴィラ=ロボス(Heitor Villa-Lobos, 1887–1959)らは、その歴史的系譜の中核を成している。彼らはギターという限られた音域・音量の中に、対位法的思考と詩的精神を融合させ、「1つの楽器による多声的宇宙」を創出した芸術家たちである。ちょうど今受講しているクラシックギターのオンライン講座では、彼らの曲がよく扱われる。まず、クラシックギターの古典的基礎を築いたのがフェルナンド・ソルである。スペイン・バルセロナ出身のソルは、当時まだ民俗的楽器と見なされていたギターを、ヨーロッパ音楽の正統な舞台に押し上げた。彼の作品は対位法的で構造的、そしてバッハ的精神に満ちている。代表作『エチュード集(Op.6, Op.29, Op.31など)』は、単なる練習曲の枠を超え、音楽的内容と技術的意図が高い次元で統合されている。特に有名な「Op.35-22(通称“ソルの練習曲第22番”)」は、ベースとメロディが独立して動く美しいポリフォニーであり、クラシックギターの「多声性」を象徴する作品と言える。彼はまた、オーケストラやバレエ音楽も手掛けており、ギター曲にも交響的な発想を持ち込んだ。その結果、ギターが単なる伴奏楽器ではなく、独立した芸術表現の器となる基礎を築いたのである。次に登場するのが、近代クラシックギターの父と称されるフランシスコ・タレガである。タレガはソルの理性的構造を引き継ぎつつ、そこにロマン派的感情と詩的抒情を注ぎ込んだ。彼の作品は人間的で、どこか祈りにも似た静謐さを持つ。代表作『アルハンブラの想い出(Recuerdos de la Alhambra)』は、トレモロ奏法を用いた名曲で、右手の指が高速に交互運動しながら、1つの旋律を連続的に紡ぎ出す。その音の流れは、アラブ文化の残香を漂わせつつ、スペイン的情熱と孤独を同時に表現している。タレガはまた、ショパンやメンデルスゾーンなどのピアノ曲をギター用に編曲し、ギターの表現力をピアノやオーケストラと並ぶ芸術領域へ押し上げた。彼の教えは後の巨匠アンドレス・セゴビアに受け継がれ、20世紀クラシックギターの黄金時代を導く礎となった。そのセゴビア(Andrés Segovia, 1893–1987)は、作曲家ではないが、クラシックギター界においては革命的演奏家・編曲者として絶対的存在である。彼はギターのために書かれたオリジナル作品を広めるだけでなく、バッハやアルベニス、グラナドスなどのピアノ曲をギター用に再構成し、クラシックギターを世界的な舞台に押し上げた。セゴビアの活動がなければ、ソルやタレガの音楽が今日ほど体系的に評価されることはなかっただろう。一方、南米に目を向ければ、アグスティン・バリオス・マンゴレが現れる。彼はパラグアイ出身で、タレガの抒情性にラテンアメリカの神秘と情熱を融合させた作曲家・演奏家である。代表作『大聖堂(La Catedral)』は三部構成で、宗教的沈思と技巧的高揚を兼ね備えた名曲だ。彼の音楽にはカトリック的祈りと南米的リズム感が共存し、ギターを通して精神性と肉体性を一体化させている。そして20世紀に入り、ギターを交響楽的領域にまで拡張したのがブラジルの作曲家エイトル・ヴィラ=ロボスである。彼の《12のギター練習曲(Douze Études)》は、クラシックギターの技術と音響の限界を押し広げた傑作である。ヴィラ=ロボスはギターを「オーケストラの縮図」と捉え、低音の重厚さから高音の透明なアルペッジョまで、全音域を大胆に使い切った。その音楽は自然や人間の生命力を象徴するかのように有機的であり、クラシックギターを民族的・交響的表現の域へと引き上げた。このように、ソルが理性と構造で基盤を築き、タレガが感情と詩でそれを彩り、バリオスが霊性と情熱で拡張し、ヴィラ=ロボスが音響的宇宙へと広げた。この系譜の上に、現代のクラシックギター音楽は存在する。彼らが共通して追求したのは、「六本の弦でいかにして人間の多声的内面を奏でるか」という問いであり、その答えは今もなお、ギターの一音一音の中に息づいている。そう思うと彼らには感謝しかない。彼ら巨匠への感謝の念を持ちながら日々の練習に打ち込みたい。フローニンゲン:2025/10/27(月)16:33


17597. クラシックギターの即興演奏に向けたプロセス 

 

クラシックギターで即興演奏ができるようになるためには、単に既存の楽曲を正確に再現するだけでは不十分である。クラシックの伝統的教育体系では、譜面に忠実であることが最優先され、演奏者の創造的自由はむしろ抑制される傾向がある。しかし、歴史的に見れば、バッハもソルもタレガも、作曲家であると同時に即興の名手であった。譜面とは彼らの「即興の痕跡」にすぎず、本来クラシックギターの音楽性の核心には即興性が潜んでいる。したがって、自分が真に創造的な表現者になるためには、譜面の模倣から一歩踏み出し、「構造を理解しながら即興的に再構築する力」を養う必要があるのではないかと思う。まず、即興の練習を始める最適なタイミングは、基礎的な右手・左手の運指技術が安定し、1~2分程度の小品を暗譜で弾けるようになった段階を想定している。早すぎる段階で自由に弾こうとすると、技術不足によって音楽的形が崩れ、結果的に混乱を招く。しかし、譜面通りの演奏に慣れすぎると、逆に即興への感覚が鈍る。したがって、クラシック曲をある程度再現できるようになった時点が、創造的練習に移行する好機である。その時点で重要なのは、「既存の曲を分解し、素材化する」発想だ。例えば、ソルのエチュードやタレガのアルペッジョ練習曲を単なる課題曲としてではなく、即興の素材として扱う。アルペッジョのパターンを固定化せず、コード進行だけを残してリズムや音の順序を変化させてみる。あるいは旋律のモチーフを抜き出して、自分なりの展開を試みる。このようにして原曲を変形する遊びを取り入れることで、作曲的・即興的思考が芽生える。これはいわば、作曲家の思考過程を追体験する訓練であり、即興の第一歩である。次の段階では、和声感覚の訓練が不可欠になる。クラシックギターの即興は、ジャズのようにスケールに頼るものではなく、「和声進行の理解」と「声部感覚」に基づいて展開される。バッハの無伴奏曲やソルのエチュードを分析し、どの和音がどの機能を果たしているかを理解することが、即興の自由度を支える。例えば「トニック(I)→サブドミナント(IV)→ドミナント(V)」という基本的流れを意識しながら、自分なりの内声や装飾音を加えて弾く練習をする。すると、譜面に書かれていない“余白”の中で、自分の音楽的判断が生まれてくる。さらに、スローモーション即興を行うことも有効だろう。メトロノームを40BPMほどに設定し、1拍ごとに音を選びながら、旋律を即興的に作っていく。この速度なら、音を考える余裕が生まれ、手癖ではなく意識的に音を選択できる。例えば「あるコード上でメロディを3音だけ即興する」「次の拍で和声音から非和声音に移行する」といった小さな即興ルールを設ける。これを繰り返すことで、音を“作る”感覚が身体に根づくはずだ。また、即興の感性を磨くためには、耳の訓練と内的聴覚(audiation)の育成が欠かせない。クラシック曲を練習する際に、ただ指で再生するのではなく、次の音がどのように響くかを頭の中で先に聴くように意識する。これは即興時にも重要で、思考より先に響きの予感を掴む能力を育てる。音を“弾く”前に“聴く”習慣を持つことで、即興が偶然ではなく意図的な表現になる。最終的に、即興とは技術ではなく「自分の中にある音楽の文法を自在に話す力」である。既存のクラシック曲を徹底的に練習することで語彙を蓄え、分析によって文法を理解し、スローモーションの即興によって文を紡ぐ力を育てる。譜面の外側で遊ぶ勇気を持つこと——それこそが、クラシックギターを単なる再現の楽器から、創造の楽器へと変える第一歩なのである。フローニンゲン:2025/10/27(月)18:16


Today’s Letter

It has been 20 days since I began playing the guitar. As I have practiced diligently and with pleasure every day, I can see progress each day, which is remarkable for me. Although my developmental trajectory may not be entirely steady, I believe I will be able to embrace and enjoy it. Groningen, 10/27/2025

 
 
 

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