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【フローニンゲンからの便り】17574-17580:2025年10月24日(金)


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タイトル一覧

17574

クラシックギターにストラップを装着することについて

17575

今朝方の夢

17576

今朝方の夢の振り返り

17577

即興演奏に向けたコード学習

17578

即興演奏のためのコード集やスケール集の活用方法

17579

現代の音楽理論とその発展の余地

17580

現代音楽の難解さの理由

17574. クラシックギターにストラップを装着することについて 

                         

時刻は午前5時半を迎えた。今朝方もまた昨日と同様に雨が降りしきる音が聞こえてくる。この雨は午前9時には止む予報が出ているので、今日もまた朝のジョギングとウォーキングを楽しめそうである。


昨日、ギターを立って演奏するためのストラップについて書き留めていた。クラシックギターにストラップを装着するという発想は、伝統的な奏法の観点から見ると一見異端にも思えるかもしれない。しかし、歴史を振り返ってみると、ブランダン・アッカー氏が述べていたように、かつても立って演奏する奏者は存在しており、別におかしなことではないことがわかる。また、学習理論や身体知の観点から考えると、それはきわめて合理的であり、むしろ「演奏の自由度を拡張するための創造的実験」であると言える。一般にクラシックギターは、左脚にギターのくびれを乗せ、右脚をやや低くした姿勢で支える。この伝統的なフォームは安定性と音響的バランスに優れているが、長時間の練習やステージ演奏においては、腰や背中への負担が大きく、また姿勢が固定化しやすいという欠点を持つ。ここに「ギター・ストラップ(正式名称:ショルダー・ストラップ)」を導入することは、身体の重心の取り方を変え、演奏者に新たな身体感覚と柔軟性をもたらす可能性を開く。まず、最大の効能は「身体への負担軽減」である。クラシックギターはフルアコースティック構造であり、ボディが比較的大きく、演奏姿勢によっては左肩や腰に負担が集中する。ストラップを装着し、肩で楽器の重量を分散させることで、上半身の緊張を著しく減らすことができる。これは特に長時間の練習やリサイタルにおいて効果的であり、演奏者の集中力を維持しやすくする。姿勢保持のための筋肉負担が軽減されることで、右手のタッチや左手のポジション移動にも余裕が生まれ、結果的に音色の安定性や演奏の持続性が向上する。第二の効能は、「姿勢の多様性」である。従来のクラシック奏法は「座って弾く」ことを前提としており、身体が椅子に固定される。これにより、音響的な一貫性は保たれるが、演奏者は身体を動かして表現する自由をある程度犠牲にしている。ストラップを用いれば、立って演奏することも可能になり、身体全体を使った表現が広がる。立奏により、身体重心が両足に分散され、演奏中に微細な体重移動やリズムに合わせた揺れが自然に起こる。これは音楽表現に身体的ダイナミズムを与えるだけでなく、リズム感やフレージングに「生命の呼吸」を取り戻す作用を持つ。クラシックギターの演奏でも、バッハやロドリーゴなどのダイナミックな曲では、立奏によって音楽の流れをより身体的に感じ取ることができるだろう。第三の効能は、「演奏心理の転換」である。クラシックギターは座奏において視線がやや下向きになりやすく、精神的にも内向的な集中に傾く傾向がある。ストラップを装着して立奏することで、視線が水平になり、音楽が外へと放たれる感覚が強まる。これは「演奏が聴衆に向かう」という意識を高め、音を届ける姿勢を心理的にサポートする。特に近年のクラシックギター界では、ホール演奏だけでなく、ライブ形式や映像配信の機会も増えており、立って演奏することでカメラや観客とのアイコンタクトが自然になる。ストラップは単なる補助具ではなく、演奏者の「表現態度」を変える装置でもある。第四に、「学習効率の向上」という側面も見逃せない。クラシックギターの初学者にとって、座奏のフォームを安定させることは意外に難しい。特に身体の大きさに対してギターが大きい場合、無理な姿勢で弾くことになりやすく、肩や腰に負担がかかる。ストラップを使えば、ギターの位置を身体に合わせて調整でき、フォームが安定しやすい。結果として、右手のタッチや左手の押弦に集中できるようになり、練習の質が高まる。また、立奏と座奏を切り替えて練習することで、身体感覚の柔軟性が育ち、「どの姿勢でも自分の音を出せる」という演奏的自立が促される。さらに、ストラップの導入は「演奏の未来性」にも関わる。クラシックギターの世界は長く伝統に支えられてきたが、近年ではジャンル横断的な演奏スタイルが増え、クラシックギタリストがジャズや現代音楽、電子音響と融合する場面も増えている。そのような新しい演奏文脈では、座奏の制約を超えて、ステージ上で自由に動けることが表現上の重要な要素になる。ストラップの使用は、伝統と革新を橋渡しする象徴的な試みとも言える。もちろん、クラシックギターはエレキやアコギと異なり、ボディにストラップピン(strap pin)が標準装備されていないことが多い。そのため、サウンドホール付近にストラップを結びつける「ヘッドストック・アダプター」や、「ギター・サポート(guitar support)」と併用する方法が現実的である。これにより、従来のフォームを保ちつつ、ストラップの利点を取り入れることができる。総じて言えば、クラシックギターにストラップをつけることは、演奏姿勢を再定義し、身体と音楽の関係をより動的にする実践である。ストラップによって身体の緊張が解かれ、音がより自由に流れ出す。伝統的な「座って奏でる静的な芸術」から、「立って響かせる動的な芸術」への移行は、クラシックギタリストに新たな表現の扉を開く。つまり、ストラップは単なる補助具ではなく、音楽と身体の関係を再構築する「創造的な身体哲学の道具」なのである。フローニンゲン:2025/10/24(金)05:53


17575. 今朝方の夢

     

今朝方は夢の中で、ある人気アニメの2人の主役的なキャラクターが迷宮に迷い込んでそこから脱出を試みている場面を目撃していた。その迷宮は、ある伝説的な剣士が生み出した幻想世界で、2人のキャラクターはその剣士と迷宮内で戦うことになっていた。その剣士は分裂の術を使うことができ、2人がバラバラに迷宮を探索しているところに別々に現れた。最終的には2人は多大なる苦戦をしながらもその剣士を打ち負かした。戦闘後、迷宮から2人が現実世界に戻ってくると、剣士は2人の仲間になることを志願した。新たな仲間を加え、そこからまた壮大なる冒険が始まった。


この夢の後に見ていたのは、見慣れないフットサルコートにいた場面である。そこで小中高時代のある友人(YU)がコーチの指示に従って練習メニューを行い、自分がそれを理論解説し、動画に収めることを行なっていた。自分も練習に加わろうと思っていたところでコーチがそのように声をかけてきたのである。私は理論解説をすることは好きなので喜んでその仕事を引き受けた。コーチから指示を受けている間に友人が1つ練習メニューをこなし、自分はその様子を見ていなかった。しかし、ビデオカメラをすぐさま回され、即興で話をすることを要求された。最初はどこにカメラがあるのかわからなかったのでカメラを見つけ、そこに焦点を合わせた。そこからまずは、今彼が行なった動きを見ていなかったので、「練習を意識的に行い、それを繰り返すことで無意識化させていくことの重要性」について話をした。コーチはそれを頷きながら聞いており、この調子で話をしていこうと思った。そこから彼にもう一度動きを見せてもらうことにした。それを受けて改めて解説をしようとしたら、2人ほど別のメンバーがコートに入ってきて、ふざけながら撮影の妨害をしてきた。自分はこの撮影を真面目に行いたかったので彼らに対して声を上げてコートから出ていってもらうことにした。これでまた落ち着いて真面目な動画を撮影できると思ってホッとした。フローニンゲン:2025/10/24(金)06:04


17576. 今朝方の夢の振り返り

                   

今朝方の夢は二層構造を持っており、前半の「剣士と迷宮の物語」と後半の「フットサルコートでの理論解説」という対照的な場面が、自分自身の内的発達の2つの局面——「無意識的創造と意識的統合」——を象徴していると考えられる。前半の幻想的な迷宮の場面は、自分の深層心理に潜む創造的混沌の象徴である。迷宮とは、未分化な可能性が複雑に絡み合う心的世界であり、その中で2人の主役的キャラクターは、自分の内面における2つの異なる機能、すなわち「直観的な自己」と「理性的な自己」を表している。この2つは普段は協働しているようでいて、しばしば異なる方向に進もうとする。それゆえ、彼らが迷宮の中で別々に探索する姿は、自分の内的矛盾や分裂的な思考過程を象徴している。一方で、剣士は「象徴的父性」あるいは「超自我的存在」としての試練の表れであるかのようだ。この剣士が分裂の術を使うという点は、自分自身が多面的な課題に直面していること、すなわち現実的課題・倫理的課題・創造的課題が互いに絡み合って自分を試していることを示唆している。2人が多大な苦戦を経て剣士を打ち負かすという展開は、分裂していた内面の諸側面が統合へと向かう過程を示す。特に注目すべきは、剣士が敗北後に「仲間になる」点である。これは、これまで敵対的に感じていた内的権威や自己批判の声を、今や創造的な力として取り込めるようになったことを意味する。すなわち、抑圧していた「厳格な自己規律」が、成熟した自己統制へと昇華された瞬間である。こうして新たな仲間を得た2人が新しい冒険に出発するという結末は、統合を経た自己がさらに広い未知の世界へと成長していくプロセスを象徴している。後半のフットサルコートの場面は、その幻想的統合を日常的現実へと転写する過程を描いている。ここでの自分は「理論解説者」として登場し、直前の神話的戦いとは異なり、言語的・論理的領域での創造を行っている。スポーツコートは、身体と知性が交錯する象徴的な舞台であり、自分は「理論」と「実践」の架け橋としての役割を担っている。友人YUの存在は、過去の自己——かつての純粋な行為主体——を映す鏡であり、自分はその行為を観察・解釈・言語化することによって、自己の成長を客観的に理解しようとしている。カメラを見つけて焦点を合わせるという描写は、自己意識の方向付けの象徴である。すなわち、どこに自分の注意を向けるか、どの視点で世界を見るかという「意識の焦点化」がここで表現されている。「練習を意識的に行い、それを繰り返して無意識化させていく」という自分の即興的な解説内容は、実は夢全体を貫く中心テーマそのものである。すなわち、意識化と無意識化の往還——意識の光で照らしたものを再び無意識に沈め、習熟として身体化する——という発達的プロセスの自覚である。撮影を妨害する2人のふざけた人物は、自己内の散漫な衝動や外的誘惑を象徴している。それらを排除し、再び真剣な態度で撮影を続けようとする場面は、自己統制の再確認であり、内的秩序を守ろうとする強い意志の表明である。この態度は、前半の剣士を仲間にした統合の成果として現実化しているとも言える。したがって、この夢全体は、「内的統合の完了」と「それを現実世界で運用する段階への移行」を示している。迷宮の戦いは内面での変容を、フットサルの撮影はその変容を社会的文脈で表現しようとする姿勢を象徴している。自分は今、創造的混沌を超えて、理論と実践、意識と無意識、厳格さと柔軟さを統合しつつある。その先にあるのは、剣士が仲間となったように、かつて「敵」と思っていた自己の側面さえも受け入れ、すべてを糧にして新たな冒険——すなわち人生の次の創造的段階——へと進むことである。フローニンゲン:2025/10/24(金)06:20


17577. 即興演奏に向けたコード学習

  

クラシック音楽のような旋律的・和声的に豊かな音楽をギターで即興演奏する際、コードの知識は単なる「和音の集積」ではなく、「音楽的文脈の理解装置」として機能する。例えば、Cメジャーというコードを単に「ド・ミ・ソ」と覚えるのではなく、「トニック(安定)」として他のコードとの関係性の中で把握することで、和声進行の流れや緊張と解放の構造を身体的に感じ取れるようになる。この「文脈的コード理解」こそが、クラシカルな即興において旋律を導く羅針盤となる。クラシック的な即興では、ジャズやポップスのように決まったコード進行に従ってフレーズを作るというよりも、和声進行の“感覚”を内面化し、それに応答する旋律を瞬時に紡ぐ能力が求められる。そのため、コードは「押さえ方の知識」ではなく「和声機能の感覚」として学ぶ必要がある。具体的には、Ⅰ(トニック)、Ⅳ(サブドミナント)、Ⅴ(ドミナント)の3つの基本機能を、単に名前で覚えるのではなく、それぞれが持つ「響きの方向性」や「感情の動き」を耳と身体で理解することが大切だ。トニックには安らぎ、ドミナントには推進力、サブドミナントには柔らかな緊張感がある。こうした音響的・感情的機能の理解を積み重ねることで、即興時に「今、どんな和声的空気の中にいるのか」を直感的に判断できるようになる。そのための学習法として有効なのが、コードを「進行」として覚える練習である。例えば、C–F–G–Cという単純な進行を弾くとき、単にコードチェンジを繰り返すのではなく、各コードが前後とどのような関係を持ち、どんな心理的効果を生むかを耳で確かめる。このとき、「なぜここでFに行くと柔らかくなるのか」「なぜGに行くと緊張が生まれるのか」と問いながら弾くことが重要である。耳で和声の重心を感じ取る練習を続けると、即興の際に指先が自ずとその流れを再現するようになるだろう。さらに、旋律と和声を同時に感じる訓練が不可欠である。バッハやソルの作品に見られるように、クラシック音楽は単一旋律の裏に明確な和声構造を持っている。したがって、コード練習を単なる伴奏練習としてではなく、「旋律を支える骨格」として扱うとよい。具体的には、アルペジオ練習の際にコードトーン(Cならド・ミ・ソ)の上にスケール音を加えて旋律を即興的に展開する。これにより、指板上で「コード内の安定音」と「経過音」の関係を感覚的に理解できるようになる。もう一つの工夫は、コードを「機能」ではなく「場面」として覚えることだ。例えば、Amは「悲しみ」や「内省」、D7は「期待」や「移行」のように、感情や情景と結びつけて記憶する。これは単なる感覚的手法ではなく、クラシック音楽が本来持つ情感的構造を捉えるための実践的アプローチである。モーツァルトやショパンが和声で感情を描いたように、ギターの即興でも各コードの響きを「語彙」として使い分けることができるようになる。また、転回形と声部進行を意識したコード学習も、クラシック的即興には欠かせない。コードを原型(ルートポジション)だけでなく、第1・第2転回形で練習し、ベースラインや内声がどのように滑らかに動くかを観察する。この「声部感覚」を育てることで、即興中に自然と美しい内声進行を作り出すことができるようになる。クラシック音楽の即興とは、単に和音を積み重ねるのではなく、声部が対話する構造的即興なのである。総じて言えば、コード学習の目的は、無数の形を暗記することではなく、音楽の流れを感じ取り、そこに自らの感情を乗せて表現する「文脈感覚」を育てることにある。コードは地図ではなく、風景の見え方を変える“視点”である。コードを音楽的文脈の中で理解し、耳と身体でその意味を掴んでいけば、クラシック音楽のような即興演奏においても、和声が自ずと語りはじめ、旋律がそれに導かれるようになるだろう。フローニンゲン:2025/10/24(金)06:30 


17578. 即興演奏のためのコード集やスケール集の活用方法

              

先日届けられたギター用のコード集やスケール集をパラパラとめくっていた。そこでふと、それらはある意味英語学習における単語帳や熟語帳のようなものと言えるのではないかと思った。それらを音楽的文脈の中で習得していくのが一番だと思うが、コード集やスケール集をどのように活用すれば即興演奏の技術が高められるかについて考えていた。確かに、ギターのコード集やスケール集は、英語学習における単語帳や熟語帳にきわめて近い存在である。コードやスケールは音楽という言語の語彙にあたるものであり、それ自体を暗記するだけでは「語彙力」止まりで、即興演奏における「表現力」には直結しない。英単語をいくら覚えても、会話や作文で使えなければ意味がないのと同様に、コードやスケールも実際の文脈――すなわち曲の進行、感情の流れ、あるいは他の演奏者との対話――の中で機能させて初めて「音楽的言語運用能力」へと変化するのである。では、どのようにすればコード集やスケール集を即興力向上に結びつけられるのか。その鍵は、「記号の暗記」から「意味の体験」への転換にある。単なる指板上の形としてコードやスケールを記憶するのではなく、それぞれが生み出す響き、緊張と解放の関係、特定の感情の質感を身体で覚えることが重要である。例えばCメジャースケールを弾く際には、「明るさ」「開放感」「始まり」の情動を感じ取り、同じ指の動きをAナチュラルマイナーで行うときに「郷愁」「内省」「哀しみ」といった情感を比較してみる。このようにスケール練習を「感情的体験」として位置づけることで、即興演奏時にそれぞれのスケールを音楽的意図に応じて選択できるようになるだろう。コードに関しても同じである。コード集を眺めるとき、ただフォームを覚えるのではなく、各コードの「機能」を耳で理解することが肝要だ。例えば、トニック(安定)、サブドミナント(展開)、ドミナント(緊張)という3つの基本機能を感じ分ける練習をする。C、F、Gという3つのコードを順に鳴らすだけでも、「安定→離陸→帰着」という小さな物語がそこにある。その流れを身体感覚として刻み込むことで、即興演奏の中で自然に「次の響きを予感する耳」が育っていく。スケール集を使うときは、単に上下に弾くだけでなく「限定された音域での自由な遊び」を取り入れると良いだろう。例えば1オクターブだけで即興的にメロディを作り、その中でリズムを変化させたり、音の間隔を意識的に飛ばしたりする。この練習は、言語でいえば「短文を使って即席の会話を作る」訓練に近い。音の制約があるほど創造性が刺激され、スケールの中に潜む多様なニュアンスを探り出す耳が養われる。また、コード集とスケール集を分離して使うのではなく、「両者を結びつける」ことが即興演奏力の鍵である。各コードに対してどのスケールが使えるかを対応づけ、同じコード進行の上でスケールを切り替える練習を行う。これは文法的な理解にあたる。例えばCmaj7の上ではアイオニアン、Am7の上ではエオリアン、D7の上ではミクソリディアンを用いるといった関係を耳で理解する。こうした練習を重ねると、コード進行を見た瞬間に「使えるスケールの地図」が頭に浮かぶようになる。さらに高度な段階では、実際の楽曲を教材とすることが最も効果的である。お気に入りの曲のコード進行を分析し、その進行上で自分のスケール練習を試してみる。これにより、理論が実際の音楽文脈と結びつき、「スケール=生きた語彙」として身体に定着する。英語学習者が映画や会話の中でフレーズを学ぶのと同様に、即興演奏者は実際の曲の中でスケールやコードの用法を体得していくのである。結局のところ、コード集やスケール集は「辞書」であり、それ自体が音楽ではない。しかし、そこに生命を吹き込むのは、自分の耳・指・感情を通して体験する音楽的文脈である。言語学習における「単語を覚えて、文を作り、会話で使う」という流れと同じく、ギターでも「スケールを覚えて、フレーズを作り、即興で語る」という流れを繰り返すことで初めて、自分だけの音楽的言語が育っていくのだろう。それを意識して今日からまずはコード集のメイジャーコードから感情と結びつけて練習することを朝の日課としたい。フローニンゲン:2025/10/24(金)06:41


17579. 現代の音楽理論とその発展の余地


今日もまた旺盛にギターの練習に励んでいる。朝は雨が降っていたが、気づけば青空が広がっている。現代の音楽理論は、確かに長い歴史の蓄積を経て高度に体系化されている。しかし、それは完成された閉じた体系というよりも、常に拡張と再解釈の過程にある「開かれた知のネットワーク」である。音楽理論とは本来、作曲家や演奏家が音を秩序立てて理解し、創造を導くための「思考の道具」であり、時代と文化の変化に応じてその道具の形は絶えず更新されてきた。したがって、完成というよりも「変容し続ける体系」として捉える方が実態に近い。古典的和声理論や対位法、調性理論は確かに19世紀末には1つの完成形に達していた。しかしその後、ドビュッシーやシェーンベルクの登場によって調性そのものの枠組みが問い直された。これにより、従来の主音中心的な体系(トニック・ドミナント関係)から脱却し、音同士の水平的関係や響きの色彩的機能に焦点を当てる新しい理論的アプローチが現れた。こうした動きは、物理学で言えばニュートン力学が相対性理論によって相対化されたのと似ている。つまり、既存理論の否定ではなく、その上位に新しい次元の理論が重ねられたのである。20世紀以降、音楽理論は数学・心理学・情報科学・音響学との融合によって新たな展開を見せている。例えば集合論的音楽分析(Set Theory)は、無調音楽の構造を数学的に捉える試みであり、シェーンベルク以降の12音技法の理解に欠かせない。また、スペクトル音楽(Spectral Music)では、音の倍音構造や物理的共鳴現象が作曲の理論基盤として扱われ、和声の概念そのものが音響的連続体として再定義された。これらは「音楽を聴覚心理や自然科学の現象として理論化する」方向への拡張であり、従来の音楽理論が持たなかった科学的基盤を持つ。さらに、21世紀に入ってからは認知科学的音楽理論が注目されている。ここでは音楽を「人間の知覚・予測・記憶のプロセス」として捉え、なぜ特定の和声進行やリズムが快く感じられるのかを、脳科学的観点から説明しようとする。カール・フリストンの予測符号化理論(Predictive Coding)や、音楽を「時間的期待の構造」として理解する研究などは、音楽理論の新たな基礎を形成しつつある。つまり音楽理論は、もはや音符の組み合わせを記述するだけでなく、聴く主体の内的モデルを含めて再構築されつつあるのである。また、人工知能(AI)による作曲理論の生成も、理論的発展の余地を大きく広げている。AIは人間が無意識に用いてきた作曲パターンを統計的に抽出し、新たなハーモニーやリズム体系を提案し始めている。これは従来の理論体系が「人間の意識的理解」を前提としていたのに対し、AIは「無数の音楽実例の潜在的構造」を分析できる点で異なる。したがって、今後の音楽理論は、人間と機械の共同的創造を支えるメタ理論的な枠組みへと進化していく可能性が高い。さらに文化的多様性の観点からも、理論的発展の余地は広い。西洋の調性理論が中心的であった時代は過ぎ、インドのラーガ理論、アラブ音楽のマカーム、中国の律呂体系、あるいは日本の雅楽や琉球音階など、各地域の音楽理論が再評価されつつある。これらを統合的に扱う「比較音楽理論」や「グローバル音楽認知理論」は、今後の重要な研究領域となるだろう。音楽の理論は1つの文明の中で完結するものではなく、人類全体の感性と知覚の可能性を開く普遍的探求へと向かっている。結論として、現代の音楽理論は「完成」に至った体系ではなく、むしろ次元を拡張しながら進化を続ける動的な知のネットワークである。音楽が人間の感覚・身体・文化・技術と共に変化する限り、その理論もまた変化し続ける。理論の発展とは、音楽そのものが持つ無限の可能性を、より深く理解しようとする人間の知の冒険に他ならないのである。フローニンゲン:2025/10/24(金)16:02


17580. 現代音楽の難解さの理由  

   

現代音楽、特に20世紀以降の無調性音楽や実験音楽を聴いたときに、多くの人が「美しさを感じにくい」と思うのは偶然ではない。それは単なる趣味や慣れの問題ではなく、人間の知覚構造、文化的背景、感情処理の仕組み、そして芸術の目的そのものの変化が複雑に絡み合った結果である。まず最も根本的な理由として挙げられるのは、調性(トーナリティ)の崩壊による予測構造の喪失である。人間の脳は音楽を聴く際に、次にどんな音が来るかを無意識に予測しており、その予測が心地よく裏切られるときに快感を覚える。これが音楽心理学でいう「期待理論」である。ところがシェーンベルク以降の現代音楽では、従来の和声進行が意図的に破壊され、音のつながりに明確な方向性がなくなる。結果として、聴き手の脳は予測を立てにくく、音楽を「流れ」としてではなく、断片的な音の集積として受け取ってしまう。これが第一の「理解不能感」の源である。次に重要なのは、文化的慣習としての美意識の問題である。私たちは幼少期から長調の明るさや短調の哀しさに慣れ親しみ、協和音を「調和」、不協和音を「緊張」と感じるよう条件づけられている。だが現代音楽はこの文化的コードに意識的に逆らう運動として生まれた。十二音技法、偶然性音楽、ノイズ音楽などは、いずれも「美とは何か」「秩序とは何か」という問いそのものを投げかける芸術であり、快い響きを目指していない。したがって、私たちが感じる「美しさの欠如」は、作曲家の失敗ではなく、むしろ意図的な脱構築なのである。さらに、感情的文脈の希薄化も大きい。古典派やロマン派音楽では、旋律・和声・リズムが一体となって感情を喚起する構造があった。ベートーヴェンの闘争やショパンの哀愁には、誰もが共感できる情感の物語があった。だが現代音楽は感情を表現するよりも音そのものを探求することを目的とするため、聴き手はそこに心理的共鳴を見出しにくい。音が「何かを語る」よりも「音として存在する」ことに価値が置かれるため、感情移入の入り口が閉ざされてしまうのである。また、身体的リズムとの断絶も見逃せない。人間は呼吸や心拍といった自然な周期性の中でリズムを感じている。バッハやモーツァルトの音楽が身体的快感を伴うのは、それが人間の生理的リズムに寄り添っているからだ。ところが現代音楽では、不規則な拍子、非対称なフレーズ、突発的な休止が頻繁に用いられる。これにより、身体が音楽と同調する感覚が失われ、音楽体験が「身体的な踊り」ではなく「知的な読解作業」に変化する。結果として、音楽が心身の統合を生むどころか、聴覚的緊張をもたらす場合すらある。さらに、意味や意図へのアクセスの困難さがある。現代音楽の多くは、社会批評や哲学的問いを背景に作曲されており、その文脈を知らなければ作品の意図を理解できない。ジョン・ケージの《4分33秒》は「音楽とは何か」という問いを体験させる作品だが、その意味を知らなければ「何も起こらない音楽」としか感じられない。同様に、ルチアーノ・ベリオやリゲティの複雑な構成は、背景の理論を理解して初めて知的快感を得られるが、純粋な聴覚体験としては難解に映る。つまり、現代音楽は「耳で楽しむ音楽」から「思考で読む音楽」へと性質を変えているのである。最後に、感覚と知性の乖離という問題がある。現代音楽は高度な理論構築を伴い、作曲技法が数学的・分析的に発展した。だがその知的秩序は、聴覚的に直感できるとは限らない。作曲家の頭の中では完璧な構造が成立していても、聴き手の耳にはただのノイズや不協和にしか聞こえない。こうした「理性と感覚の断絶」が、現代音楽を冷たく、難解で、感情を拒むものとして感じさせる大きな要因である。要するに、現代音楽が「美しく聞こえない」と感じられるのは、それが「美」を拒絶した音楽だからではない。むしろそれは、自分たちが慣れ親しんできた音楽の文法――調性、リズム、感情表現――とは異なる文法で語られているからである。古典音楽が「秩序と調和」を語る言語だとすれば、現代音楽は「断絶と問い」を語る言語である。その文法に耳を慣らし、音の背後にある「問い」を聴き取るようになるとき、私たちは初めて現代音楽の中に、静寂の余白、響きの粗密、偶然の重なりといった新しい種類の美を感じ取ることができるようになるのではないかと思う。しかし個人的には現代音楽誕生前の音楽を聴くこと、そして演奏することを好んでいる。フローニンゲン:2025/10/24(金)16:10


Today’s Letter

  Music not only fosters my creativity but also helps me unlock my full potential. I often wonder how far I can go as I continue to practice the guitar every day. Groningen, 10/24/2025

 
 
 

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