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【フローニンゲンからの便り】17563-17566:2025年10月22日(水)


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タイトル一覧

17563

ギターにおけるブラインドタッチ化に向けて

17564

今朝方の夢

17565

今朝方の夢の振り返り

17566

コード学習からのスケール学習

17563. ギターにおけるブラインドタッチ化に向けて  

     

時刻は午前5時を迎えた。今日も早朝のギター練習を旺盛に行おう。昨日からいよいよメロディーラインだけではなくベースラインを合わせた曲を練習するようになり、本格的に曲になってきた。現在受講しているオンライン講座はクラシックギターに焦点を当てており、楽譜はピアノを含めて他の楽器においても使われる標準楽譜を扱っている。確かにギター専用の楽譜はわかりやすいのだが、標準楽譜に比べて情報量が少なく、標準楽譜に慣れてしまえばそちらの方がより豊かな演奏ができると思った。講師のブランダン・アッカー氏も同様の考え方を持っており、自分は特にクラシック音楽の楽曲に特化していきたいと思っているので標準楽譜をもとに演奏ができるようになりたいと思う。それは今後ピアノの演奏を始めた時にも役に立つだろう。


ギターの演奏における「ブラインドタッチ化」は、視覚依存から触覚・運動感覚への移行を意味する。これは単なる技巧の習得ではなく、身体知としての音楽的感覚を内面化していく学習プロセスである。パソコンのキーボードを見ずに正確に打てるようになるまで、指がキー配列を身体的に記憶するように、ギターでも同様に「運動記憶(motor memory)」が形成される。では、どのような練習によってこの段階に至ることができるのか。まず重要なのは、視覚情報に頼らずに「空間感覚」を育てることである。初心者の多くは弦やフレットを目で確認しながら押さえようとするが、この依存状態では触覚や位置感覚の神経経路が十分に発達しない。したがって、最初は短いフレーズやスケールを繰り返し練習し、徐々に目線を離して指の感覚だけで位置を把握する練習が有効である。例えば、Cメジャースケールを5フレット周辺で弾く場合、最初は視覚確認しながら弾き、慣れてきたら目を閉じて同じ運指を再現する。このとき、指板上の各ポジションの「距離感」や「弦移動の触感」を細かく意識することが大切だ。次に有効なのが、「パターン認識」の訓練である。ブラインドタッチがキー配列を「位置パターン」として覚えるように、ギターでもコードフォームやスケール形を視覚イメージではなく身体配置として記憶する。例えば、Eメジャーコードの押さえ方を「1弦から順に押さえる」と意識するのではなく、「人差し指・中指・薬指の相対的な位置関係」として覚える。この相対位置を身体に染み込ませることで、視覚がなくても自然とフォームが再現できるようになる。また、異なるキーやポジションでも同じフォームを転用する練習を繰り返すことで、指板全体の「構造地図(spatial map)」が形成される。さらに、リズムと呼吸を組み合わせた「身体同期」の訓練も欠かせない。ギター演奏では、視覚に頼るよりも身体全体のリズム感と一体化して指を動かす方が効率的である。例えば、メトロノームを使ってテンポを一定に保ちながら、スケール練習やコードチェンジを行う。ここで意識すべきは、リズムに合わせて身体が自然に動く「運動の流れ」であり、目で確認しようとするとこの流れが途切れる。したがって、徐々に「見ない練習」を取り入れ、テンポの中で指が自然に正しい位置を探り当てる状態を目指す。また、暗闇練習も極めて効果的である。夜間に照明を落とした状態で、耳と指の感覚だけを頼りに弾くと、普段見落としがちな音のニュアンスや弦の抵抗感に敏感になる。これはまさに「触覚的聴取(tactile listening)」の訓練であり、ブラインドタッチを超えた感覚統合の段階である。音を聴きながら「指がどの位置にあるか」を感じ取る能力が育つと、たとえステージ上で光が眩しかったり暗かったりしても、安定した演奏が可能になる。さらに上級者になると、視覚を一時的に遮断することが「内的イメージの拡張」にもつながる。目を閉じて演奏することで、音と動きの連続を脳内で「空間的映像」として再構成できるようになり、演奏が身体的行為から芸術的表現へと昇華する。これは「身体が考える」状態であり、知的制御を超えて音楽が自動的に流れ出すようになる段階である。まとめると、ギターにおけるブラインドタッチ化とは、視覚に頼る段階から、触覚・運動・聴覚が統合された「身体的知性(embodied intelligence)」の形成プロセスである。そのためには、短いフレーズでの目を離す練習、コードやスケールの相対位置記憶、リズムに基づく身体同期、暗闇での感覚集中、内的イメージ化、という段階的アプローチが効果的である。この学習を重ねることで、自分の身体そのものが楽器と一体化し、視覚を超えた「感覚的自由」の境地へと到達する。それはまさに、ブラインドタッチを超えた「ブラインドプレイ」、すなわち音と身体が融合した創造的な演奏者への道なのである。フローニンゲン:2025/10/22(水)05:23


17564. 今朝方の夢

        

今朝方は夢の中で、見慣れない予備校の教室にいた。そこでこれから数学の授業が行われることになっていて、最前列の真ん中の机の右端に座ることにした。しかし、自分は数学の宿題をやっていないことに気づいた。というのも自分はまだテキストをもらっておらず、宿題に取り組みたくても取り組めない状態だったのだ。数学の先生は若い男性で、普段は優しいが、宿題や授業態度に関しては非常に厳しいことで有名で、宿題をやっていないことに対して焦りが出てきた。先生が来るのはもうすぐだが、それまでにできるところまでは解答しておこうと思って周りの人にテキストを見せてもらったが、最初の計算問題から非常に難しく、これは一問も解けない可能性があるぞと思い、ますます焦る気持ちが出てきた。すると先生が教室にやって来て、自分は素直に宿題をやっていないことを謝ろうと思った。すると同じく宿題をやっていないらしい小柄な男子生徒が先生のところに歩み寄った。先生は隣の教室で彼に叱責を与えようと考えているらしく、彼と一緒に隣の教室に向かった。自分もそれに合わせて隣の教室に行って先生に謝ろうと思った。隣の教室に入ると、先生は意外にも自分に対して笑顔を浮かべた。どうやら先生は自分のことを大変信頼しているらしく、確かに自分は勉強の良くできる優等生であることが知られていたからそのおかげかと思った。正直に宿題をしていないということを伝えると、偶然にも左手に持っていた昼食用の未開封のクラッカーに先生は目をやり、それを先生への差し入れだと勘違いしたらしく、先生はさらに大きな笑みを浮かべ、自分の肩を軽くポンと叩き、「まだテキストをもらってないのであれば仕方ないよ」と言って叱責することなくその場が丸く収まった。拍子抜けした感じがありながらも、怒られずに済んだことを喜びながら教室に戻った。どうやらその小柄な男子生徒はかなり罵声を浴びせられたらしく、しょんぼりしながら教室に戻ってきた。先生も帰って来たところで授業が始まったが、真ん中の列の後ろの左端の席に座っていた大学時代の女性友達が携帯電話で友人と近況報告を楽しげに始めた。当然のことながら先生はすぐさま携帯を没収し、その女性友達は泣きそうな声で先生に携帯を没収するのはやめてほしいと嘆願していた。


次に覚えている場面は、小中学校時代に過ごしていた社宅の外に夜の時間帯にいたことである。社宅の建物の横で、自分は雑草を足で抜きながら両親と会話をしていた。今晩の夕食はどうするかと話し合っていたところ、突然場面が変わった。今度は見慣れない観光地に母と見知らぬ比較的若い女性と一緒にいて、水上を走る電車に乗って移動しようとしていた。横断歩道を渡り、電車のチケット売り場にやって来た。そこで時計の表示を見たら、時間が左右反対になっていて、奇妙に思えたが、慣れると別に左右逆になっていても時刻の読み取りは難しくなかった。今の時刻は午前8時15分で、次の電車が来るのは8時46分だったので、まだ時間に余裕があるなと思った。水上を走る電車は人気のようで、結構多くの人が乗車するらしかった。電車に乗って向かう向こうの島を観光するのが楽しみな気分で満たされながらチケットを購入することにした。フローニンゲン:2025/10/22(水)05:40


17565. 今朝方の夢の振り返り

        

今朝方の夢の全体構造は、「自己評価と他者評価の緊張」から「許しと受容」への移行、そして「時間と方向感覚の再統合」へと至る心的変容を象徴している。前半の予備校の場面は、典型的な「評価の空間」である。数学という象徴は、論理性・秩序・構造を表すと同時に、人生の複雑な課題を体系的に解く能力を意味する。自分はその空間で「宿題をやっていない=課題を果たしていない」という罪悪感に苛まれているが、その根底には「まだテキストをもらっていない」という理由があり、これは「正しい情報・知識・導きがまだ与えられていない状態」すなわち自己成長の過程における準備不足や未統合の部分を象徴している。先生は「超自我的存在」―すなわち道徳的基準や評価者としての内的権威を体現している。自分はその前で罰を受けることを覚悟するが、結果的に先生は笑顔で許しを与える。この許しの契機となった「クラッカー」は極めて象徴的である。クラッカーは封を開けていない昼食、すなわち「まだ消化されていない潜在的なエネルギー」や「生きる糧となる知恵」を示す。先生がそれを差し入れと勘違いするのは、無意識の中で自分が「まだ未熟でありながらも、善意や誠実さをもって生きようとする姿勢」が他者(=内的権威)に認められたことを意味する。この瞬間、自己批判的な超自我が慈悲的な導師に転化しているのである。また、同じく宿題をしていない男子生徒が叱責される対照構造は、「自己の未熟さを罰する古い内的構造」と「それを赦す新しい構造」との葛藤を示す。自分は後者へと移行し、他者(=自分の旧い側面)が依然として罰を受ける様子を観察する。ここで教師の厳しさと慈愛が共存していることは、成長の過程で自我が「完全性の幻想」を手放し、より包括的な自己理解へと向かうことを暗示している。続く場面転換―社宅の夜の情景―は、心的な帰郷を象徴する。社宅とは過去の生活基盤であり、「幼少期の原風景」における自我の根である。夜に両親と語らうのは、自己の深層で「内なる父性(規律)」と「内なる母性(受容)」が再び対話を始めていることを示す。雑草を足で抜く行為は、無意識下の不要な思考・感情・執着を浄化する象徴であり、成長に伴う心の整理を意味している。ここで「今晩の夕食」という具体的なテーマが出てくるのは、心理的な「糧を得る準備」、すなわち新しい段階に向けた内的滋養の形成を示しているかのようだ。そして最後の場面―水上を走る電車―は、夢の中で最も象徴的な上昇・超越のイメージである。水は無意識の象徴であり、その上を走る電車は「意識が無意識の領域を安全に横断する能力」、すなわち統合された自己の旅を意味する。母と見知らぬ若い女性の同乗は、母性原理の二重性―伝統的な母と新しい女性的側面(直感・創造・共感)―の協働を暗示している。時計の左右逆転は、時間意識の再構築、すなわち過去と未来の視点の転倒である。慣れると違和感が消えるという描写は、「時間の相対性」や「現実の新しい読み方」に適応し始めた心の成熟を表す。8時15分から8時46分という微妙な時間差は、「準備と出発の間の静かな間(ま)」を象徴し、精神的旅路の始まりを静かに予告している。全体を通して、この夢は「自己評価の厳しさから自己受容への移行」、「罪悪感から慈悲への変容」、「過去の浄化と新しい旅への準備」という三層構造を持つ。人生における意味として、この夢は、自分がこれまで追い求めてきた「完全性」や「評価される自己」を手放し、より大きな信頼と流動性の中で生きる段階へと移行していることを示唆している。つまり、自分は今、「数学的な正解」ではなく、「水上を走る直観的列車」に乗る準備を整えつつあるのであり、それは論理を超えて、人生そのものを信頼する成熟の始まりなのだろう。フローニンゲン:2025/10/22(水)05:55


17566. コード学習からのスケール学習

                                   

時刻は午後4時を迎えた。今日は朝にも少し太陽の光が差し込む瞬間があり、朝のジョギングと散歩を楽しみ、先ほどは昨日に続いてギターの理論書を受け取りに近所のショッピングモールに散歩に出かけた。これにて先日注文したすべての書籍を受け取った。ここからはギターの専門書を追加で購入することはしばらくなく、次回は華厳経と法華経に関する専門書の購入を冬のどこかの時期に行おうと考えている。


先ほど散歩しながらふと、ギターでクラシック音楽の演奏や即興演奏を実現させるために、コードの学習とスケールの学習はどちらを優先させるべきだろうかについて考えていた。結論から言えば、優先順位は「コード(和声)→スケール(音階)」である。理由は2つある。第一にクラシック演奏では旋律も伴奏も和声機能に従って意味づけられており、和声の理解なくして音価・アーティキュレーション・運指・ダイナミクスの判断が宙に浮くからである。第二に即興では「何の上で弾いているか」が核であり、ガイドトーン(3度・7度)を起点にした声部連結がフレーズの文法を作るからである。スケールは色彩パレットとして有効だが、下地のキャンバス=コードが見えて初めて機能するのである。具体的には、コードトーン→ガイドトーン→接近音→スケールの順で身体化するのが効率的だろう。まず各和音の1・3・5・7度を全ポジションで即座に取れるようにし、弦3~4本の小さな声部連結でI→IV→V→I、ii→V→I、I→V/Ⅴ→Ⅴ→Iなど代表的カデンツを滑らかに繋ぐ練習を行う。ここに半音上下のアプローチ(クロマチック接近)や囲い込み(enclosure)を加えると、単なる分散和音が音楽的な行文へと変わる。クラシック曲の解釈では、ローマ数字での和声分析(終止形、属七、変位和音、二次属・二次下属、借用和音)を最初に行い、各小節で「どの度数を鳴らすべきか」「どの声部を歌わせるか」を決める。右手はアルペッジョのパターン(ジュリアーニ120:右手のアルペッジョ(分散和音)練習のための120種類のパターン集)を和声進行に合わせて回し、左手はCAGEDやドロップ2/3で実用的ボイシングを整理する。スケール練習はセゴビア運指の機械練習ではなく、当該小節の和音上に“載せて”行う(例えば属和音上ではミクソリディアン、和声短音階由来の導音強調など)。こうするとスケールが「ただの上下運動」ではなく、和声機能に裏打ちされた旋律線となる。即興志向の場合も同様である。まず各コードで3度・7度を唱歌しながら弾き、コードチェンジでの半音連結を最優先する。次にコードトーン+経過音でモチーフを作り、最後にスケール(メジャー、和声短、旋律短、教会旋法、メロディックマイナー派生)を色として重ねる。スケール先行は「流麗だが意味が希薄」になりやすいが、コード先行は「少音数でも説得力のある旋律」を生む。実践手順として、一曲選び和声分析→各小節のガイドトーン連結だけで弾く→同進行でアルペッジョ化→接近音を足して即興→最後にスケールで装飾、を週間ループにすると良い。結論として、コード学習を基盤にスケールを文脈化することが、クラシックの解釈の深みと即興の自由度を同時に高める最短路なのだろう。フローニンゲン:2025/10/22(水)16:47


Today’s Letter

Since I began playing the guitar, my life has become more melodious and harmonious. The guitar brings rhythm to my days, and I feel as if I’m always in a musical flow. Groningen, 10/22/2025

 
 
 

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