【フローニンゲンからの便り】17567-17573:2025年10月23日(木)
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タイトル一覧
17567 | クラシックギターの立奏について |
17568 | 今朝方の夢 |
17569 | 今朝方の夢の振り返り |
17570 | スローモーションの練習の重要性 |
17571 | 瞑想実践としてのスローモーションのギター練習 |
17572 | メトロノームを活用したギター練習 |
17573 | 40BPMのマインドフルなギター練習 |
17567. クラシックギターの立奏について
時刻は午前5時半を迎えた。ここ最近は日の出の時間がめっきり遅くなり、サマータイム終了を来週に控えた今、日の出は午前8時以降である。まだ深い闇に包まれた朝の世界の中で、小雨が降りしきる音がかすかに聞こえてくる。
クラシックギターの演奏は座って行うことが多いようだが、工夫次第で立って行うことができることを知った。ギターの演奏を立って行うことには、座って行う場合とは異なる身体的・心理的な利点が数多く存在する。それは単に姿勢の違いではなく、音楽的表現の自由度や身体エネルギーの使い方、さらにはパフォーマンス心理にまで関わる深い意味を持つ行為である。立って演奏する際に欠かせないのが「ギター・ストラップ」である。これは肩からギターを吊り下げて支えるためのベルト状のアイテムであり、正式名称は「ショルダー・ストラップ」とも呼ばれる。素材はナイロン、レザー、キャンバスなど多様で、長さ調整が可能な構造になっている。このストラップこそが、立奏を可能にする基盤である。先日スペインのメーカーからクラシックギター用のストラップを購入し、到着を楽しみに待っているところだ。話を戻すと、立って演奏する最大の利点は「身体全体の解放」である。座奏の場合、ギターは太ももや体幹の一部に固定され、重心が下方に集まりやすい。これにより安定感は得られるが、身体の自由度が制限される。一方、立奏では重心が足裏に分散し、腰・背中・腕の可動域が広がる。これにより、ダイナミックなストローク、リズミカルな体の動き、ライブパフォーマンスにおける身体表現が自然に生まれる。特にロックやファンク、ブルースなど身体のリズム感を重視するジャンルでは、立って演奏することでリズムの「体感的一体化」が進み、グルーヴが生まれやすくなるだろう。身体が動くことでリズムを感じ、リズムが身体を動かす――この循環こそが音楽の生命力を高める鍵である。また、立って弾くことは「聴衆との心理的距離」を縮める効果もある。座っていると、演奏者の身体エネルギーは内向的になりやすく、観客との間に物理的・心理的な境界が生まれやすい。立奏では自然と視線の高さが聴衆と一致し、身体全体を使った表現ができるため、演奏が「対話的」なものへと変わる。特にライブ演奏では、立って弾くことで観客の反応に即座に呼応し、音楽が空間的な交流の場として立ち上がる。つまり、立奏は「音楽の社会的側面」を強調し、演奏を孤立した技術行為から、身体を通じたコミュニケーションへと変容させる。一方で、座奏には精密な指のコントロールや長時間の練習に向いた安定性がある。クラシックギターやジャズギターの分野では、座って弾くことでギターの角度と姿勢を一定に保ち、微細なニュアンスをコントロールしやすくする。これは「集中と持続の演奏姿勢」として優れている。しかし、逆にその安定性は身体のリズム的自由を抑制することにもつながり、感情の発露や身体的な勢いを生かした演奏にはやや不向きである。つまり、座奏は「内的集中型」、立奏は「外的表現型」と位置づけられるのではないかと思う。立って演奏するためのストラップには、いくつかの選び方と使用上の注意がある。まず、長さの調整が重要である。ストラップが短すぎると肘の角度が窮屈になり、肩や手首に負担がかかる。一方で長すぎると指板が遠くなり、左手のポジション移動が不安定になる。理想的な長さは、自然に立ったときにギターのボディが腰骨付近にくる程度である。また、ストラップの幅にも注意が必要だ。細いものは軽量で動きやすいが、長時間の演奏では肩への圧力が増す。革製の幅広ストラップは重量の分散に優れており、特にエレキギターやセミアコのような重いギターには適している。さらに、ストラップピンの位置にも工夫が必要で、ギターのバランスを取るためにはボディ上部のピン位置が安定性を大きく左右する。心理的な観点から見ても、立って演奏することは「演奏者の自立感」を象徴している。座奏では楽器が膝の上にあるため、無意識のうちに身体が楽器を「支えられている」感覚を持つが、立奏では逆に自分が楽器を「支える側」となる。この関係の逆転は、演奏者が音楽を主体的に掌握する意識を強化し、自信や表現の確信を高める。ステージ上で立ってギターを抱える姿勢には、単なる演奏技法を超えて「自己表現の姿勢」としての意味がある。身体が垂直に立つことで、心の軸も垂直に立ち上がる――立奏とはまさに、その象徴的行為である。総じて言えば、座奏は「精密さと内省」、立奏は「自由さと外的表現」を体現する。立って演奏することは、身体を通じて音楽を「流動的な生命の行為」として経験することであり、その実現には信頼できるギター・ストラップの存在が不可欠である。ストラップは単なる道具ではなく、音と身体を結ぶ媒介であり、演奏者にとっての「翼」のようなものである。座って演奏するとき、音は身体の中で完結するが、立って弾くとき、音は身体から放たれ、空間と共鳴する。つまり立奏とは、音楽が「自己を超えて世界と響き合う」瞬間を可能にする身体的な解放の形なのである。まだストラップは到着していないが、机の支えを借りながら、今日からはできるだけ立って練習をしていきたいと思う。フローニンゲン:2025/10/23(木)05:46
17568. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、両親の実家にいる場面があったのを覚えている。食卓を3人で囲みながら夕食を食べていると、父が健康に良い天然水を紹介してくれ、まずそれを母に勧めた。しかし母はすでに普通の水を飲んでおり、父からの勧めを一旦断った。すると父は残念そうな表情を浮かべて機嫌を損ねたので、自分が代わりにその天然水をもらうことにした。自分が飲むと決まって父は機嫌を取り戻し、笑顔を浮かべたのでホッとした。
この場面を受けて次に見ていたのは、実際に通っていた高校を舞台にした文化祭の場面である。ある教室で私はAマイナーの曲をギターで演奏していた。それは多くの人に聞かせていたわけではなく、ごく少数の人に向けた演奏会で、演奏が終わると1人の女性が声をかけてきた。どうやら自分の演奏に響くものがあったらしく、大きな賛辞を送ってくれた。それは演奏者として大変励みになり、ここからまたよりいっそう練習に力を入れていきたいと思ったし、他者に向けて演奏を披露するということは社会的な営みでもあるからそれを積極的に行っていきたいと思った。そこから私は、この文化祭の変わった構造について思いを馳せた。というのも、スポーツフェスティバルとセンター試験が同時に行われていたのである。男女が分かれてスポーツ競技に勤しみながら、午前の部が終わったら男女で集まって昼食を食べることになっていた。私たちのクラスはそれなりにスポーツで良い成績を収めていた。昼食の時間になると、小中高時代のある女性友達(NI)がセンター試験の国語を解き終えて帰って来て、すぐさま自分にある問題の解答を尋ねてきた。試験問題を隅々まで記憶していたわけではないので、彼女の問いに対して答えることはできず、むしろよく彼女はその問題を覚えていたなと思った。確かに彼女にとってみれば、その問題を悩んだからこそ覚えていたのだと思うが、それにしても驚きであった。自分は意外にも試験の問題を解いたら頭から脇に置くようなタイプなのだと実感した。昼食前に彼女が自己採点しているのを見ると、どうやら点数は200点中136点のようで、目標にしていた点数よりも少し低いが、しかしなんとか耐えた点数のようだった。フローニンゲン:2025/10/23(木)06:00
17569. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の最初の場面において、両親と食卓を囲むという構図は、自分の内的世界における「原初的家族的統合」の象徴である。父が健康に良い天然水を勧めるという行為は、「生命の源泉」あるいは「精神的な清らかさ」への導きを意味している。ここで水は単なる飲み物ではなく、「内的な浄化」と「意識の刷新」を象徴していると言える。しかし母はその勧めを断る。これは、自分の内面において「母性的側面(受容・情感・安定)」が、父性的側面(理性・意志・方向性)の示す新しい価値観をすぐには受け入れられないことを示している。すでに母は普通の水を飲んでおり、つまり「既存の安心できる情緒的世界」に満たされている。一方で父は、より純粋で新しいエネルギーへの接続を求めている。そこで自分がその水を代わりに飲むという行為は、両者の間を媒介し、「調停者」としての自己の役割を示唆している。父母のエネルギーの橋渡しを担うことによって、父の笑顔が戻るというのは、内面のバランスが一時的に回復することを意味する。つまり、この場面は自分の精神的成熟の1つの表象であり、両親の象徴的側面を自らの中で統合しようとする試みである。続く場面では、舞台が「高校の文化祭」へと転じる。ここで自分はAマイナーの曲をギターで演奏している。Aマイナーという調性は、感情の深みと哀愁を湛えた音世界を象徴しており、自分の「内なる真実の声」が芸術的表現として外界へ解放される瞬間を表している。観客がごく少数である点も重要である。これは「まだ外界との接続が限定的であるが、深く誠実な交流が始まりつつある」ことを意味している。そして、その演奏に感動した女性が現れる。彼女は「外的世界が自己の内的表現を認める瞬間」を体現しており、自分の創造行為が他者の心に届いたことを通して、「自己表現=社会的奉仕」という認識が芽生える。ここには「芸術的表現を通して社会とつながる」という発達上の転換点が描かれている。この文化祭には奇妙な構造がある。スポーツフェスティバルとセンター試験という、身体性と知性、競争と評価という2つの次元が同時に展開している。この二重構造は、「行動的な生のエネルギー」と「認知的な成熟」との間で揺れる青年期から成人期への移行を象徴している。午前中の競技で成果を上げ、昼食で交流するという流れは、「自己の外的活動」と「社会的関係性の調和」を表す。一方で、センター試験を終えて戻ってくる女性友人NIの存在は、「過去の自分」との再会を意味している。彼女が試験問題を覚えているのに対し、自分はすでに忘れている。ここには、「結果よりも過程を生きる者」としての自己の特性が示されている。彼女の136点という具体的な数値も象徴的である。200点満点の中で約3分の2という数字は、「完全ではないが十分に合格点である人生の成果」を示唆しており、自己の歩みに対する肯定的な象徴として現れているかのようだ。総じてこの夢は、「内的統合」「芸術的表現」「知的成熟」「社会的接続」という四層のテーマを貫いている。冒頭の家族的場面では、内なる父母を調和させることで精神的均衡を得る。中盤のギター演奏では、自己の創造性を他者と共有する喜びを体感する。そして終盤では、競技と試験という象徴を通して「生の全体性」を統合的に捉える姿勢が示される。すなわちこの夢は、自分の人生が「内面の調和から社会的創造へ」という発達的螺旋の上を着実に歩んでいることを暗示している。人生における意味として、この夢は「自己の内なる両親の統合を経て、芸術と知性のバランスをとりながら社会的貢献へと進む成熟の予兆」を示している。父の天然水を飲む行為からギター演奏、試験の象徴まで、一連の流れは「清らかな源泉を受け取り、それを音楽という形で他者へ還元する」という循環的構造を持っている。つまり、自分の人生は、精神的に得た清水を芸術的表現を通じて世界へ流し返す旅であり、その流れの中で自己と他者、理性と情感、過去と未来がひとつに溶け合おうとしているのである。フローニンゲン:2025/10/23(木)06:18
17570. スローモーションの練習の重要性
雨音が少し強くなっている中で早朝のギター練習を終えた。ギターの練習において、速く弾けるようになることを最初の目標に据えるのは、実は最も危うい落とし穴なのではないかと思う。多くの初学者が、スピードを技術の証と誤解し、焦りながら指を動かそうとする。しかし、音楽における速度は結果であって原因ではない。速さは精度と身体の統合が極限まで磨かれたあとに、自然と立ち上がる「副産物」にすぎない。したがって、練習において最も重要なのは「遅さの中に潜む正確さ」を体得することなのではないかと思う。この点において、ギターの練習はこれまで行ってきたジークンドーの鍛錬と通底している。ブルース・リーが「速さを求めるな。正確さを求めよ。正確さを求めれば、速さは自然に現れる」と語ったように、遅い動作の中にこそ真の制御力が宿るのである。スローモーション練習の第一の効用は、神経系の再構築にある。速く動かそうとすると、脳は運動の粗いパターンを一時的に借りて代用するため、無意識に「雑な癖」を作ってしまう。対して、ゆっくりとした動作では、一つひとつの指の角度、弦への圧力、ピッキングの方向などを微細に感じ取ることができる。この繊細な感覚の積み重ねが、神経回路の精密な配線を生み、後にスピードを上げた際にも安定した運動を維持できるようになる。つまり「遅さは脳の彫刻」であり、速さの基礎構造を築く行為に他ならない。第二に、遅い練習は意識と身体の一致をもたらす。高速で弾くとき、意識は音よりも遅れてしまい、演奏が自動化に支配される。これは一見上達のようでいて、実際は「思考なき再生」にすぎない。スローモーションで練習することで、各音の発生瞬間に意識を同調させ、身体の微動を丁寧に感じ取ることができる。こうして「意識が身体を導く」という理想的な関係が生まれ、演奏そのものが瞑想的な集中の場となる。第三に、遅い練習は音の質を育てる。速い演奏では音の粒立ちや響きの持続に注意が向かいにくい。だが、テンポを極限まで落とすと、各音の立ち上がりや減衰、弦の共鳴が鮮明に聴こえ始める。ギターは単に指の運動ではなく、振動の芸術である。スローモーションの練習は「音の彫刻家」として自分を鍛える時間でもあり、そこから生まれる一音一音の深みが演奏全体の魂を形づくる。この練習法をより効果的にするための工夫としては、まずメトロノームを極端に遅いテンポ(40~50)に設定し、各拍の間に意識を留めることが挙げられる。その間に呼吸を整え、身体のどこにも力みがないかを確認する。また、「一音に一呼吸」を意識すると、音と身体、呼吸が一体化し、より深い集中状態に入れる。さらに、ミスをしたらその箇所を数回繰り返すのではなく、「なぜそのミスが起きたのか」を身体感覚として観察する。こうした観察的な態度こそ、成長の最短経路である。結局のところ、遅い練習とは「速さへの回り道」ではなく、「最も速く上達する道」である。遅さを恐れる者は一生速さを得られず、遅さを友とする者だけが、自由自在な速さを体得するという教訓を言い聞かせたい。ゆっくりとした練習の中で、自分の身体と心のズレを微調整し、音に生命を吹き込む。ギターの道とは、時間を圧縮する技ではなく、時間を味わう技なのだろう。雨音に耳を傾けながらそのようなことを考えていた。フローニンゲン:2025/10/23(木)07:59
17571. 瞑想実践としてのスローモーションのギター練習
スローモーションのギター練習は、単なる技術向上の手段にとどまらず、深い瞑想実践の一形態となり得る。ギターという楽器は、音を出すために指・腕・肩・背中といった全身の連動が求められるが、それらの微細な動きを極端にゆっくりと行うことで、意識が身体の内部に深く沈み込み、今この瞬間の自己と一体化していく。これは禅における「只管打坐」や、ヨーガの「アーサナ」にも通じる行であり、音楽を通して心を鎮め、身体を通して意識を澄ませる実践である。まず、スローモーション練習が瞑想になる最大の理由は、注意の集中が呼吸のリズムと一致するからである。通常の速い練習では、意識が音の先へと飛び、演奏が思考に引きずられる。しかしテンポを極端に落とすと、音と音のあいだに「静寂の空間」が生まれる。その空白に意識を留めることによって、呼吸が自然と深まり、心拍が落ち着き、神経系全体が安定してくる。この状態では「弾いている自分」と「聴いている自分」がゆるやかに融合し、行為と観照が一致する。すなわち、演奏そのものが瞑想の入口となる。次に、身体の内側に生じる感覚への気づきが高まるという点がある。スローモーションの練習では、指の腹が弦に触れる瞬間、爪が弦をはじく抵抗、音が空気に溶ける余韻といった微細な現象が、まるで拡大鏡の下で観察されるかのように鮮明に感じられる。これらの感覚に完全に没入することは、禅で言う「一行三昧」の境地に似ている。つまり、指を動かすこと自体が修行であり、音が立ち上がる一瞬一瞬が悟りの契機となる。また、スローモーション練習は思考の沈静化にも寄与する。速い演奏では「うまく弾けるか」「ミスをしないか」といった自己評価的思考が常につきまとうが、テンポを極限まで落とすことで、そうした雑念が浮かぶ余地が少なくなる。音に意識を集中させ続けるうちに、思考の波は徐々に静まり、心が鏡のように澄み渡る。この状態では、音楽は「目的のための手段」ではなく、「自己そのものの表現」として現れる。ここにおいてギターは、自己と世界を媒介する「禅器(ぜんき)」となる。さらに、スローモーション練習は呼吸法と組み合わせると効果が倍増するだろう。一音に一呼吸を合わせ、吸うときに内側へ集中し、吐くときに音を外へ放つ。すると、音は呼吸の延長として生まれ、演奏が生理的なリズムと一体化する。このとき奏者は「弾く者」ではなく「音の通り道」となり、自己意識が薄れ、音そのものが演奏者を奏でる。これは、瞑想における「無我の境地」と同質である。このような練習を日々続けるための工夫としては、まず早く弾こうとしない勇気を持つことが重要である。メトロノームを40~50の遅いテンポに設定し、一音ごとに身体全体を感じながら弾く。そしてミスをしたときは「失敗」と捉えず、「気づきの入り口」として観察する。音を出すことよりも、音が出る前の沈黙を聴く姿勢が大切である。この「聴く練習」を積み重ねることで、ギターは単なる楽器ではなく、意識を磨く鏡となる。要するに、スローモーションのギター練習は、技巧を超えた意識の芸術である。そこでは、速さを競う心が消え、音と沈黙、呼吸と身体、行為と存在がひとつに融け合う。ギターを弾くとは、音を操ることではなく、音に導かれて「今この瞬間」に完全に生きることである。スローモーションの中でこそ、音楽は祈りとなり、演奏は瞑想となるのである。フローニンゲン:2025/10/23(木)08:25
17572. メトロノームを活用したギター練習
良遍の漢文文献の転写を終え、再び30分ほどギターの練習をした。集中して練習できる時間に限りがあることを考えると、30分一区切りの練習は良いリズムをもたらすのではないかと思う。ここからさらに熟達が進めば、15分の区切りでも十分に集中して練習の効果を上げることが期待できそうである。
今日から本格的にメトロノームを使った練習を取り入れ始めた。ギターの練習においてメトロノームを使うことは、単にリズム感を養うためだけの手段ではない。それはむしろ、音楽的意識と身体的動作を時間という見えない軸に結びつける行であり、スローテンポでの練習においては特に、心と身体の微細なズレを可視化し、演奏を根本から整える重要な道具となる。テンポとは音楽の心拍であり、メトロノームはその「心臓の鼓動」を外部化したものである。したがって、メトロノームを使う練習は、自分の内部リズムと外的時間の調和を探る瞑想的な作業でもある。まず、スローテンポにおけるメトロノームの第一の役割は、「間」を体感させる教師としての機能である。多くの演奏者は速いテンポで弾くときにはリズムの流れに身を委ねられるが、テンポを極端に落としたとたん、拍と拍のあいだの「空白」に耐えられなくなる。そこに現れるのは、心の焦り、集中の途切れ、そして無意識のテンポの揺れである。メトロノームの一定のクリック音は、こうした心の不安定さを照らし出す鏡であり、その音に自分の呼吸と身体の動きを合わせていくことで、内的なリズム感が鍛えられていく。スローテンポは「音と音のあいだを聴く修行」であり、メトロノームはその沈黙を支える導師のような存在である。第二に、正確なタイミング感覚の再構築という点で、メトロノームは極めて有効である。速いテンポでのズレは一瞬の誤差として流されてしまうが、遅いテンポではそのズレが明確に露呈する。例えばテンポ50のクリックに合わせて四分音符を弾く場合、1拍のあいだには1.2秒もの時間がある。この長い間を正確に維持するには、単なる感覚ではなく、身体内部のリズム生成メカニズム(小脳・運動皮質・聴覚野)が精密に同期する必要がある。ゆえにスローテンポ練習は、神経系に「時間の正確な刻み方」を再教育する行為であり、演奏者を「拍の職人」へと育てる。第三に、メトロノームは自我とリズムの対話装置として機能する。演奏中、人はしばしば自分の感情や興奮によってテンポを無意識に揺らしてしまう。スローメトロノーム練習では、外部から与えられる一定のリズムと自分の内部の衝動との間に「ズレ」が生じる。このズレを観察することは、まるで瞑想において雑念に気づくことと同じである。メトロノームに従おうとする心と、自由に動きたい衝動のせめぎ合いの中で、演奏者は自らの心のリズムの乱れを知り、制御力を高めていく。つまり、メトロノームとは「外的時間との対話を通じて自己を調律する装置」なのである。さらに、スローメトロノーム練習は音楽的表現力を深める。一定の拍に合わせて弾くことは、単なる規律ではなく、音の「重心」を感じる感覚を育てることでもある。テンポを50や40といった遅い速度に設定すると、1音の出発と終息のすべてを味わえるようになる。どの瞬間に音を置くか、わずかな前ノリ・後ノリで音楽の表情は劇的に変化する。メトロノームの打点を「時間の線」としてではなく、「音を置くための場」として捉えると、演奏がより有機的に呼吸し始める。こうしてリズムの中に生命が宿る。この練習を効果的に行うための工夫としては、まずテンポを極端に落とし、メトロノームのクリックを2拍目と4拍目だけに設定してみることが挙げられる。これにより、自分自身で1拍目を内的に刻む必要が生じ、内的リズム感が強化される。また、メトロノームを完全に聴くのではなく、「一緒に呼吸する」意識を持つと、リズムが身体に溶け込み、演奏が自然体になる。結局のところ、スローテンポでのメトロノーム練習とは、音楽的精度を高めるだけでなく、「時間との調和」を学ぶ行である。そこでは音の間隔が沈黙と瞑想に変わり、一定の拍が自我を超えた秩序への橋となる。ギターを通してメトロノームと向き合うとは、外的リズムに自分の心拍を合わせ、宇宙の拍動に共鳴していく行為なのである。そのような意識でこれからメトロノームを常に活用した練習を楽しんでいきたい。フローニンゲン:2025/10/23(木)10:36
17573. 40BPMのマインドフルなギター練習
時刻は午後4時半を迎えた。今日はパーソナルトレーニングの日で、今日もまた準備してもらった創造的な新たなメニューを通じて身体全身と脳に十分な刺激がもたらされた。身体のトレーニングも学術研究も、そしてギターの練習も、変動性を考慮して異なる刺激を入れた鍛錬をしていく必要がある。今日のトレーニングでは特にジャンプを通じて大腿四頭筋に刺激を入れていくことが多く、ラバーバンドを使ったジャンピングプッシュアップは強度が高かった。特に後者のエクササイズは自主トレーニングでもぜひ取り入れていきたい。
ジムに行く前もメトロノームを通じてギターの練習をしていた。メトロノームの設定を40BPMにして、極めてゆっくりとしたテンポでギターを練習することは、単なる音楽的訓練にとどまらず、身体のリズムそのものを再調律する生理的・心理的な実践となるのではないかと思う。この速度は、通常の安静時の心拍(60~80BPM)よりも明確に遅く、1拍に約1.5秒の間隔がある。つまり、心臓や呼吸よりも外側の時間に身を委ねる行為であり、肉体が「早すぎるリズム」から解放される契機となる。まず第一に、40BPMでの練習は副交感神経系を優位にする。速いテンポで練習しているとき、身体は交感神経モードに入り、筋肉が緊張し、心拍や呼吸が浅く速くなる。これに対して、極端に遅いテンポでは、演奏動作のひとつひとつに間が生まれ、その間を意識的に感じ取ることになる。この「間」の感知こそが副交感神経を刺激し、心拍をゆるやかにし、呼吸を深く整える。つまり、40BPMの練習は、音を生み出すと同時に「身体を沈静化させる呼吸法」として機能するのである。第二に、スローテンポでの練習は心拍変動(HRV: Heart Rate Variability)を高める効果があるだろう。HRVとは、心拍のゆらぎの度合いを示す指標であり、これが高いほどストレス耐性や情動調整力が高いことが知られている。40BPMのテンポでギターを弾くと、自然に呼吸のリズムも同調し、1拍の間にゆっくりと吸い、次の拍に向かって静かに吐くという形になる。この「1拍=1呼吸半」ほどの周期は、心拍変動を最大化させる呼吸リズム(およそ1分6呼吸=10秒サイクル)に近い。その結果、自律神経が整い、心身のバランスが回復することが期待される。第三に、40BPMでの演奏は集中力と身体感覚の統合を促す。通常のテンポでは、音が次々と流れ、意識は「次の音」へと先走りやすい。しかし、40BPMのテンポでは、1音を出すたびに静寂が広がり、その余韻に耳を傾けざるを得ない。この間に意識が深く内側へと沈み、自己観察的な集中状態——すなわち「フロー」や「瞑想状態」に近い心身の統一感が生じる。この状態では、脳波はβ波からα波、さらにはθ波に移行し、前頭前野の過剰な活動が鎮まり、創造的直観が高まることが知られている。音を出すごとに意識が静まり、弾くことそのものが呼吸と一体化する。このようにして、演奏行為が「音楽的瞑想」となる。さらに、40BPMの練習は筋肉と神経の協調性を回復させる。速いテンポでは、動作の粗さや力みが隠れてしまうが、遅いテンポではそれらが明確に意識される。結果として、無駄な力を抜き、必要最小限の動きで音を出す「経済的運動」が身につく。このことは、長期的に見て腱や関節への負担を減らし、演奏による慢性的な疲労を防ぐ。また、ゆっくりとした動作の繰り返しは小脳を中心とした運動学習系を強化し、神経回路を精密に再構築する。生理的観点から見れば、40BPMのギター練習とは、呼吸・心拍・筋肉・神経という4つのリズム系を同期させるトレーニングである。これにより、演奏中の動作が「努力」から「自然」へと変化し、心拍と音の拍が一体化する瞬間が訪れる。つまり、身体のテンポが外的リズムと共鳴することで、「内なる時間(心拍・呼吸)」と「外なる時間(音楽・テンポ)」が調和するのだ。この調和状態において、奏者は音を制御するのではなく、音に導かれている感覚を得る。結局のところ、40BPMの練習は、単なる技術鍛錬ではなく、「時間の瞑想」である。心臓よりも遅いテンポに身を委ねることで、身体は沈静し、意識は深く内面へと還る。呼吸は音とともに流れ、心拍はリズムと同化する。そこで奏でられる音は、技巧の産物ではなく、生命そのものの拍動の延長となる。ゆえに、40BPMのギター練習は、音楽を超えて「心身の再調律」をもたらす最も静かな修行なのである。そのような意識でこれからもメトロノームを40BPMに設定したマインドフルなギター練習をしていきたい。フローニンゲン:2025/10/23(木)16:47
Today’s Letter
My music flows from the realm of ultimate truth, although the sensation remains somewhat elusive due to my current level of skill. The more I refine my musicality, the more I can contribute to the world through the therapeutic and transformative power of my music. Groningen, 10/23/2025
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