【フローニンゲンからの便り】17532-17536:2025年10月15日(水)
- yoheikatowwp
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タイトル一覧
17532 | 身体的パズルとしてのボルダリング |
17533 | コードとスケールという語彙・それらを結びつける音楽理論という文法 |
17534 | 今朝方の夢 |
17535 | 今朝方の夢の振り返り |
17536 | 書籍の原稿の加筆修正/ギターの学習補助道具が届いて |
17532. 身体的パズルとしてのボルダリング
今朝もまたギターの演奏を楽しみに喜びに包まれる形で目覚めた。昨日の午後に、11月に予定しているイギリス旅行に向けて、ETA(電子渡航認証)の申請をUK公式サイトから行った。審査日数は英国3営業日以内とのことだったが、申請して1分以内に審査が無事に通ったとの連絡があった。アメリカの渡航認証よりも早く申請が通過し、渡航者は確認メールをプリントアウトしたり、それを提示する必要もないとのことでより便利だった。これでイギリス旅行に向けて全ての準備が整った。
ギターの演奏がまるで音楽的パズルのようなものであり、そのつながりで、身体的パズルとしてのボルダリングをまたやりたくなってきている。ボルダリングは単なる筋力勝負のスポーツではなく、まさに「身体を使って解くパズル」のような営みである。壁に配置されたホールドは、一見すると無秩序に散らばっているが、実際には課題ごとに明確なルートが設定されており、そのルートを攻略するには力だけでなく知恵と工夫が必要になる。身体全体を頭脳の延長として用い、解法を探りながら進んでいく。そのプロセスは、机の上で紙のパズルを解くことと同じくらい論理的で、かつ即興的な判断を求められる。まずボルダリングがパズル的であるのは「ルート読み」の段階からである。スタートする前に壁を見上げ、どのホールドをどう使うのかを頭の中でシミュレーションする。ここで重要なのは、単に「次にどの石を持つか」ではなく、「その石を掴むために身体をどう配置するか」である。右手で持つのか左手で持つのか、足をどこに置けば重心が安定するのか、体をねじるのか伸ばすのか。まるでパズルのピースを試行錯誤しながら組み合わせていくように、自分の身体と壁上の形を重ね合わせていく。実際に登り始めると、パズル的要素はさらに顕著になる。ホールドは必ずしも握りやすいとは限らず、指先しかかからない小さなものや、逆に摩擦で押さえ込むスローパーのような不安定なものも多い。そこに対してどう手の角度を調整し、どのタイミングで足を切り替えるかが解法のカギとなる。力で無理に押し切るのではなく、最小限の動作で最適な位置を選び取る知恵が要求される点が、ボルダリングをパズルたらしめている。加えて、身体を通じて解くパズルである以上、バランス感覚が大きな意味を持つ。例えば、片足で立ちながら対角線上の手を伸ばすような動きは、物理法則を直感的に計算している行為とも言える。重心が少しでも外れると落下してしまうため、自分の身体の重さをどう分散し、壁にどう伝えるかを瞬間的に判断する必要がある。この点では、解答が1つに定まらず、複数のアプローチが存在することもパズルに似ている。異なる体格や得意な動きによって、解き方が変わってくるのだ。ボルダリングのもう1つの特徴は、挑戦と失敗の繰り返しを通じてパズルが解かれる点である。最初のトライでは思ったように手が届かず、途中で落ちてしまうことも多い。しかしその失敗の中で「次は足をもう少し高く上げてから手を伸ばそう」「左手ではなく右手で持ち替えてみよう」といった改善点が見えてくる。つまり、一度で解けない難問を何度も試行錯誤して正解に近づく過程そのものが、知的パズルを解く経験と重なるのである。また、ボルダリングにはリズムや流れが存在する。各ホールドを一手一手クリアしていく動作は、単なる連続動作ではなく、身体全体でフレーズを組み立てるような感覚を伴う。音楽におけるメロディの展開やギターの即興演奏に似て、動きに「呼吸」や「間」があることで、全体が1つの物語のようにまとまる。つまりボルダリングは、パズル的な論理と同時に芸術的なリズム感を必要とする活動でもあるのだ。さらに言えば、ボルダリングの課題は常に変化する。ジムでは定期的にホールドが組み替えられ、新しい課題が用意される。これは、完成したパズルを繰り返し解くのではなく、常に新しい問題集が出題されるようなものだ。そのため毎回新しい戦略を考え、未知の壁に対して自分の身体をどのように適応させるかを探ることになる。この繰り返しによって、身体と頭脳の柔軟性が育まれる。まとめると、ボルダリングは身体を通じたパズル解きである。ルート読みで解法を想像し、実際の登攀(とうはん)で身体を駆使して試行錯誤し、失敗から学びつつ最適解を見出す。この過程は単なる運動を超えて、論理的思考と直感的判断を融合させる知的営みとなる。そして何より、壁の頂点に到達したときの達成感は、難解なパズルをついに解き明かしたときの快感と同質であり、だからこそボルダリングは人を惹きつけてやまないのである。仮に来年イギリスで生活を始めて近くにボルダリングジムがあったら、またボルダリングを復活させてみようかと考えている。フローニンゲン:2025/10/15(水)07:05
17533. コードとスケールという語彙・それらを結びつける音楽理論という文法
即興演奏において、運指の訓練が基盤であることは疑いない。指が自由に動かず、思い浮かんだフレーズを瞬時に再現できなければ、表現の可能性は狭まってしまう。しかし、運指だけでは即興は成立しない。即興とは、単に身体的な反射の連続ではなく、音楽的な意味を持つ「言葉」をその場で紡ぎ出す行為であるからである。そのためには、コードやスケール、さらに音楽理論の習得が不可欠である。これらは単なる知識の体系というよりも、音楽における「語彙」と「文法」に相当するものだと言える。まずコードについて考えてみる。コードは複数の音を同時に鳴らすことで響きを生み出す和音であり、音楽の文脈を決定づける。文章における名詞や動詞に相当し、音楽における「意味の単位」として機能する。例えばCメジャーコードは「安定」や「開始感」を、G7は「緊張」と「解決への期待」を聴き手に与える。このような機能を理解しないまま即興を行うのは、文法を知らずに単語を並べるようなもので、聴き手に意味が伝わりにくい。コードの性格や進行の仕組みを学ぶことは、即興において適切な「文脈」を作る能力を養うことにつながる。次にスケールである。スケールは音を一定の規則で並べた集合であり、旋律の源泉を提供する。これは文章における語彙の集まりに近い。Cメジャースケールを使えば明るい色彩が、マイナースケールを使えば陰影が生まれる。ブルーススケールやモード・スケールは、より個性的なニュアンスを与えることができる。即興において奏者は、その時のコード進行に応じて適切なスケールを選び、語彙を取り出して文を組み立てるようにフレーズを紡ぐ。もしスケールを知らなければ、使える語彙が極端に限られ、表現は単調にならざるを得ない。そして音楽理論は、コードやスケールを体系化する「文法」に相当する。例えば「ドミナントはトニックへ解決する」という和声進行の原理は、英語のSVOの語順規則のように、文を成り立たせる根本的な枠組みである。理論を知ることで、どのようなコードが次に来るかを予測でき、スケールの選択やフレーズ構築の方向性が明確になる。これはまさに、言語を話す際に文法を意識することで意味が伝わりやすくなるのと同じ構造である。こうした観点から見ると、コードやスケールは単なる練習素材や抽象的な理論ではなく、音楽という言語における「語彙」と「文法」に他ならない。即興演奏は、これらを自在に組み合わせることで「会話」を成立させる行為である。奏者はコード進行という対話の文脈を受け取り、スケールから適切な語彙を選び、理論に裏付けられた文法を通じて意味ある音楽を紡ぎ出す。ここに初めて即興が「意味を持った言語活動」として成立するのである。総じて言えば、即興演奏の習得には運指という身体的訓練と並行して、コードとスケールを語彙として蓄え、それらを結びつける音楽理論という文法を理解することが不可欠である。これらが揃ってこそ、即興は単なる音の羅列ではなく、聴き手に意味を届ける音楽的な「会話」となるのである。フローニンゲン:2025/10/15(水)07:12
17534. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、かつて勤めていた会社のオフィスの中にいた。時刻は昼前の時間で、自分は午前中はオフィスのミーティングルームの中で眠ったり、英語の勉強をして気ままに過ごしていた。自分の脳裏にはもう会社を辞めるという選択肢があり、仕事に対してやる気はほとんどなかった。自分の席にいると仕事を与えられそうだったのでそれを避けるためにミーティングルームに1人こもっていた。昼前に自分の席に戻ると、他のメンバーたちは真剣な顔で仕事をしていた。自分にとってはその雰囲気がとても重たく感じられ、ますます陰鬱な気持ちになってきた。自分は一刻も早く会社を辞め、自分の好きなことを勉強するために海外留学を実現させる必要があると思った。だから日々隙間時間をうまく活用して継続的に英語の勉強をしていた。すると少し性格の悪いメンバーの1人が自分の陰口をわざと自分に聞こえるように話しているのが聞こえた。その陰口によって自分はもう今日その瞬間に退職をしようと決意した。そして、彼がこれまでずっと自分に対して嫌味なことを言い続けて来たことが爆発しそうになり、頭の中では彼を殴り倒してからオフィスを去るイメージが浮かんでいた。しかしそれをすると後で警察沙汰・裁判沙汰になるのが面倒だと思ったので、彼を再起不能の状態にしたいと心の中で思っていたが、それをグッと堪えた。そして唯識の教えがふと蘇り、彼に対して爆発する怒りの気持ちを抱いた自分の中にある瞋の煩悩に気づき、それを発揮してしまうとまたその煩悩が強まってしまうと思い、怒りを堪えることができた。それは自分の中での心の成長の証でもあった。煩悩を表に出してしまうと、その行為がまた心の深い層に染み付いてしまう。その負のサイクルから抜け出すことができたことは大きかった。それを受けて、唯識の教えの素晴らしさを改めて実感した次第である。自分はメンバーの誰にも告げずにオフィスを去り、その日を持って会社を辞めた。留学が実現するまでは、近所の塾で講師として仕事をすればいいと思った。しかし講師の仕事も意外と大変で時間が取られてしまうので、どうしたものかと思った。そこで気づいたのは、自分はもう経済的な自由を得ており、カネを得るために仕事をする必要はないということだった。本当に好きなことだけを仕事として最小限継続していけばいいということに気づき、そのことに多大な感謝の念が生まれ、幸福感が湧き上がってきた。これからはもう誰の目も気にせずに好きなことだけに没頭して毎日を生きようという思いを新たにした。フローニンゲン:2025/10/15(水)07:24
17535. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、自己の内面における「束縛からの脱出」と「煩悩の昇華」という二重構造を示している。舞台となるのは、かつて勤めていた会社のオフィスであり、そこは社会的義務と他者の評価に縛られた「外的自己」の象徴である。夢の中で自分はミーティングルームにこもり、眠ったり英語の勉強をしたりしていた。これは、外的義務から距離を取り、内的自己の成長にエネルギーを注ぐ姿を表している。仕事に対するやる気の欠如は、単なる怠惰ではなく、すでに自我の深層で古い同一化を手放す準備が始まっていた徴である。つまり、外的秩序の中での「従属的自己」から、自由に探究する「自立的自己」への移行期にあることを象徴しているのである。他の社員たちが真剣に働く姿に重苦しさを覚える場面は、集合意識が放つ同調圧力に対する自己の拒絶反応を表している。その圧力は、社会的規範に順応するよう求める「他者の眼差し」であり、自分の心を蝕む「内なる監視者」である。これに耐えられなくなった自分は、会社を去る決意を固める。これは現実的な退職の夢想ではなく、心理的な意味での「脱構築」、すなわち古いアイデンティティの死を意味している。次に登場する同僚の陰口の場面は、心の奥に潜む「他者の否定的投影」が顕在化した瞬間である。彼の存在は、実際の人物というより、自分の中の「批判的内的声(inner critic)」を象徴している。彼を殴り倒したいという衝動は、外的抑圧に対する抵抗であると同時に、内なる自己否定への怒りでもある。だがその瞬間に自分は唯識の教えを思い出す。ここで夢は明確に覚醒的な局面に入る。怒りの対象が他者ではなく、「自分の心の作用」にあると気づいた瞬間、瞋という煩悩が照らし出される。唯識における「心・心所・色法はすべて識の変現である」という教えが、自分の実践として息づく瞬間である。怒りを抑えることは単なる道徳的克己ではなく、「業の連鎖を断ち切る識的転換」である。ここで自分は、輪廻的な反応パターンから自由になったと言える。会社を去る場面は、外的制度からの離脱であると同時に、自己の煩悩構造からの解放でもある。誰にも告げずにオフィスを去る行為は、過去との静かな訣別を意味する。塾講師という次の仕事を思い描くが、すぐに「経済的自由をすでに得ている」と気づく展開は象徴的である。これは物質的豊かさの発見ではなく、「内的充足」の覚醒を意味している。つまり、自分の存在そのものがすでに完全であり、外界からの承認や報酬を必要としないことへの悟りである。この気づきは、唯識で言う「依他起性」の超克、すなわち他に依存する存在構造から「円成実性」への転換である。夢の最後に訪れる「感謝」と「幸福感」は、無明が晴れた後の清明な心の象徴である。それは「他者の眼差しから解放された自己」としての再誕であり、これまで外的成功に絡め取られていた意識が、内的な自由に根ざす創造的生へと転じた証であると読める。この夢の人生的意味は明瞭である。すなわち、自分はもはや他者の評価や社会的役割の中で自分を測る段階を超えたということである。外的成功の仮面を脱ぎ、内的成熟を基盤とした自由な自己実現の道へと歩み出した象徴である。怒りを抑えたことは逃避ではなく、心を超えた心への目覚めであった。その静けさの中に、真の自由と幸福の源泉が息づいているのである。フローニンゲン:2025/10/15(水)09:03
17536. 書籍の原稿の加筆修正/ギターの学習補助道具が届いて
時刻は午後4時半を迎えた。今日は午前と午後にギター演奏以外にやることがあった。昼前にメールを確認したところ、中竹竜二さんとの共著書籍の整理された原稿を編集者の方から送っていただき、こちらの方で確認する項目がいくつかあり、また巻頭資料としての理論解説のリクエストを受けて、その文章の加筆をしていた。合計で4時間弱の時間をそれに費やしていた。
現在スペイン在住で、月に1回オーナーのペイトラさんの家を修復したり、他の家の修復作業に従事しているバスさんが午後にやって来て、新しく成立したオランダの住宅法に従って、空気の質を測定する測定器を設置してもらった。その時に、彼に何か楽器の演奏をしているかを尋ねたところ、かつてギターやウクレレを演奏していたとのことで、自分がギターを始めたことを伝えると嬉しそうな表情を浮かべた。バスさんが演奏していたのはスチール弦のギターだったとのことだが、持っているナイロン弦のクラシックギターを見せると、木材の質感と音色を誉めてくれた。せっかくなのでギターを差し出して演奏を促したところ、おもむろにフロアに座り、即興で演奏をしてくれた。今は全然ギターに触れていないとのことだったが、習得した技術は一生物のようで見事な演奏を披露してくれた。ちょうど昨夜と今朝方に練習していた難解と言われるFコードも見事に弾きこなしていたのでさすがだと思った。書籍の加筆修正をその後に終え、昨夜郵便受けに届けられたと通知があったギターの各フレットに貼る学習用のシールとコード表を受け取った。コード表はプラスチックでできており、それは防水加工にもなっていて、持ち運びにも便利そうで何よりであった。今度のイギリス旅行の際にも持って行って、移動時間や隙間時間などにそれを見ながらコードの形を脳内に刻み込み、脳内でそのコードを実際に指で動かしている姿を想像するというイメージトレーニングをしてみたいと思った。こうして着実にギターの演奏技術の向上に必要なものが揃っていくことは嬉しい限りである。フローニンゲン:2025/10/15(水)16:38
Today’s Letter
Playing the guitar brings joy and peace into my life. The inner world of my mind is full of tranquility and creativity. I feel as if I’ve been reborn thanks to music. Groningen, 10/15/2025
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