【フローニンゲンからの便り】17528-17531:2025年10月14日(火)
- yoheikatowwp
- 2 日前
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タイトル一覧
17528 | ピアノの楽譜とギターの楽譜 |
17529 | ギターの即興演奏の練習に向けて |
17530 | 今朝方の夢 |
17531 | 今朝方の夢の振り返り |
17528. ピアノの楽譜とギターの楽譜
今日もまたギターの演奏ができるという喜びと共に目覚めた。ギターの演奏を本格的に始めてから、本当に毎日がさらに彩り豊かなものになった。今日は午前中に1件協働プロジェクトのミーティングがあるが、それ以外の時間は基本的にギターの練習に集中しようと思う。夕方あたりで休憩がてら、11月のイギリス訪問に向けてETA(電子渡航認証)の申請をしておきたい。今年からイギリスもアメリカと同じく電子渡航認証がないと入国できなくなったので、忘れずに登録しておきたい。申請から3日以内で入手できるとのことなので意外と早い。
昨夜ふと、この8年間で随分と購入して楽譜が活きてくるかもしれないと思った。それらは全てピアノの楽譜なのだが、読み方を工夫すればギター演奏に活用することができるかもしれないし、今後卓上ピアノを購入した時に必ず活用できるであろうことを嬉しく思った。ギターの楽譜とピアノの楽譜は、同じ五線譜という形式をとりながらも、楽器の構造と表現方法の違いによって本質的に異なるものである。まず決定的な違いは「音域」と「記譜法」にある。ピアノは88鍵盤を持ち、非常に広い音域をカバーするが、ギターは6本の弦と指板の範囲によって表現できる音が物理的に制限されている。そのため、ピアノ楽譜のままギターで演奏しようとすると、記譜上の音は正しくても、実際にはギターで出せない音域に及ぶことが多い。特に左手で弾く低音域(ベースライン)は、ギターでは1オクターブ上げて演奏する必要がある場合が多い。また、ピアノの楽譜は「二段譜(グランドスタッフ)」で書かれ、上段がト音記号(右手)、下段がヘ音記号(左手)で構成される。ギターの場合、通常はト音記号の一段譜で表記され、実音よりも1オクターブ高く記されている。つまり、五線譜上では同じ「C」の位置でも、ギターで鳴る実際の音はピアノより1オクターブ低い。このため、ピアノ譜をギターで読む際には、この「オクターブ差」を頭の中で補正しながら解釈しなければならない。構造的にも違いがある。ピアノは各音が独立しており、同時に多声を弾くことが容易であるが、ギターは弦の配置と指の制約から、同時に押さえられる音の数や形に限界がある。例えばピアノでの三声・四声和音も、ギターでは運指の都合で省略や再配置(ヴォイシングの変更)が必要になる。そのため、ピアノ譜をそのままギターで再現することは技術的に不可能なことも多く、音を間引いたり、重要な旋律や和声だけを抜き出して再構成する必要がある。しかし、これは「演奏できない」という意味ではなく、むしろ「翻訳が必要」ということである。ギターは一種の「編曲楽器」であり、ピアノ譜を素材として自分なりに再構成することで、新しい表現を生み出すことができる。具体的には、右手でピアノのメロディー部分を弾き、左手で伴奏のコード進行を押さえるという形に置き換える。もし楽譜にコードネーム(C、Am、Dm7など)が記載されていれば、それを直接ギターコードに変換して伴奏を作ることもできる。コード表を見ながら、ピアノの和音をギターのコードフォームに置き換えていくとよいだろう。さらに、ギターには「タブ譜(TAB譜)」という独自の記譜法がある。これは五線譜の代わりに弦の番号とフレットの位置を数字で示すもので、視覚的にわかりやすく、ピアノ譜を参考にしながら自分でギター用タブ譜を書き起こすことも可能である。例えば、ピアノ譜のメロディーラインを一音ずつギターの指板上に探し、どのポジションで弾くと自然かを考える作業は、単なる写譜ではなく、音楽的理解を深めるトレーニングにもなる。また、ピアノ曲をギターで弾く際には「ポリフォニー(多声)」の処理に工夫が必要である。バッハなどのピアノ曲には複数の旋律が同時進行するが、ギターではすべてを再現できないため、最も重要な旋律(主旋律や低音)を優先し、残りをハーモニーとして補う形にする。ギターは「少ない音で豊かに響かせる」ことができる楽器であり、和音をフルに再現しなくても、開放弦や共鳴音をうまく使えば十分に深みのある響きを出せる。したがって、ピアノの楽譜をギター演奏に使うことは十分に可能である。ただし、それは単純な「置き換え」ではなく、楽器の構造を理解した上での「再創造」である。ピアノ譜をギター用に編曲する過程そのものが、音楽的思考力と耳の感性を鍛える格好の訓練になる。結局のところ、楽譜とは音楽の地図であり、楽器ごとに異なる地形を持つ世界をどのように歩くかは奏者の創造性に委ねられている。ピアノ譜をギターで弾くことは、他者の言葉を自分の声で語り直すような行為であり、その翻訳の過程でこそ、音楽は新しい生命を得るのである。もちろんまずは練習用にギター専用の楽譜を購入しようと思っているが、上記のような工夫をしながらピアノの楽譜を有効活用する道も探っていきたい。フローニンゲン:2025/10/14(火)06:48
17529. ギターの即興演奏の練習に向けて
ギターの即興演奏とは、まさに「その場で作曲する行為」であり、そこにはいくつかの土台が不可欠である。まず安定した拍感とノリを生み出すタイムの感覚、ペンタトニックやメジャー/マイナーの各スケール、さらにはモードやアルペジオといった音素材、コード進行やフォームに対する和声的理解、そして指板全体を地図のように把握する視覚と触覚が挙げられる。加えて、耳で聴いたものを即座に指に伝える反射神経や、モチーフを発展させる言語的センス、さらにはビブラートやスライドといった表情技術が統合されて初めて、即興は自由で意味のある音楽として立ち上がる。こうした基盤を磨くための戦略として、まずは指板を地図化する作業が必要になる。CAGEDシステムを軸にペンタトニックを五つのポジションで練習し、隣接するポジションをスライドで連結することで、横移動を身体に刻むことができる。その上で、コード進行の中で各コードの3度や7度に着地する練習を重ねれば、スケールに頼り切らずに和声に寄り添う演奏が可能になる。さらに、短いモチーフを反復し、リズムや音程を変化させながら展開する訓練を積むことで、即興に物語性が宿る。また、リズムを強化するためにメトロノームを2拍目や4拍目だけに鳴らし、1音で即興して休符やシンコペーションを磨く方法も効果的である。加えて、アルペジオとスケールを交互に用いることで、常に和声に当たり続ける感覚を身につけられる。制約を設けた即興、例えば「二弦のみ」や「三音のみ」といった練習は、選択肢を限定することでフレーズの輪郭を明確にし、リズム設計を洗練させる助けとなる。耳と指の直結を鍛えるには、まず口ずさんでから同じ音を探して弾くことが有効である。ドローン音を背景に主音感を固定することでインターバル感覚が磨かれ、即興がより直感的なものとなる。また、好きな奏者のフレーズを短く採譜し、全てのキーに移調して変形する作業は、自分の語彙を広げる確実な方法である。さらに、ルーパーを使って伴奏とソロを交互に繰り返す練習を行えば、和声の内側と外側を自在に行き来する耳が育つ。最終的には、演奏を録音して振り返り、着地点や休符、音域の使い方、繰り返しの癖を自己採点し、弱点を翌週の練習メニューに反映させることが成長につながる。例えば1日の練習を30分に区切るなら、クロッキング(1音即興)やスケール連結、コードトーン着地練習、ルーパーを使った実践演奏と振り返りを組み合わせると効率が良いかもしれない。結局のところ、即興の核となるのは「タイム」「コードトーンへの着地」「モチーフの発展」である。音数や速さは後からいくらでも増やせるが、まずは少ない音で深く語り、和声に確実に帰る習慣を身につけることが、即興の自由を最大限に引き出す最短の道であろうことを念頭に、少しずつできるところから上記の練習を始めていく。フローニンゲン:2025/10/14(火)06:55
17530. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、ロンドン、アイルランド、スコットランドにある3つの名門大学が隣接した大学キャンパスの中にいた。自分はそれらの大学を見学しに来たようで、大学の奥深い雰囲気を感じながら散策を楽しんでいた。しばらく歩いていると、アイルランドの大学の建物にやって来た。その建物の前で、男子学生とぶつかってしまい、彼は一瞬嫌な表情を浮かべたが、こちらがすぐに誤り、道を尋ねると、パッと表情が明るくなり、親切に道を教えてくれた。自分が向かおうとしていたのは、目の前の建物を抜けた先にあるミュージアムだった。彼に教えられた通りに歩いてみると、すぐさまミュージアムにやって来た。そこで偶然にも両親と遭遇したので、3人で中に入ってみることにした。すると不思議なことに、ミュージアムに入るためには草履のようなスリッパに履き替えなければならなかった。自分の足のサイズに合うスリッパを探し出していざ扉を開けると、目の前に見えたのは薄暗いカフェだった。少し煙がかかっており、その香りを嗅いだ瞬間に、そこがマリファナカフェであることに気づいた。その店の店員は全て日本人女性で、中年の女性が多い中、レジにいる3人のうちの女性のうち1人は小中高時代のある女性友達(YY)だった。彼女がイギリス在住の客の日本人と話をしており、「過去の自分のことを知っている人はここにはいないから、こうした店で働いていても全然平気」と述べており、ここに彼女を知っている人間がいるということを笑いながら述べたところ、彼女はこちらを見たが自分を認識していないふりをした。彼女がわざとそうした素振りを見せたので、自分のことを誰も知っていない環境で過ごすことの開放感は自分もよく知っていたので、それ以上彼女に声をかけるのはやめた。自分は結局そこで何も購入することはなかったが、店の裏手に出た時に、店の中で吸ったマリファナの煙によって意識が朦朧とし始めた。すると気づけば病院にいて、ワクチンの接種をすることになった。担当してくれたのは日本人の男性の先生で、助手も日本人男性だった。2人はどうやらイギリス生活が長いらしく、日本のうどんの味が忘れられず、ちょうど先ほどもうどんを食べていたそうで、まだ丼が室内の中にあった。担当医は自分がなぜイギリスにやって来たのかを尋ねたので、大学院見学であることを伝えた。すると先生は自分の学問分野に関心を示してくれたので、簡単に自分の専門分野について紹介した。その時にはもう舌が回りづらくなっていて、気がつけば意識が飛び、深い眠りの状態に落ちていた。しばらくしてから目覚めると、意識が爽快になっていた。病院のある建物を後にしたところ、父と高校時代のある友人に出会い、2人が同じ家族になっていて、しかも口論をしていた。2人に近づいた時には、彼らは殴り合いの喧嘩を始めたので、速やかに止めに入った。仲介役として振る舞いながらも、彼らは引き続き暴言を吐きながら殴り合うことをやめなかったので、止めに入るのはなかなか大変だった。しかしようやく2人は少し落ち着いたところ、父はその場に泣き崩れた。そして、定年を迎えるまで企業で一生懸命働いて来たことはなんだったのか。幾多の困難なプロジェクトを遂行し、ハラハラしたり、喜びを感じたことも、それら全てがある種の幻想的な夢であったことを悟って愕然としているようだった。しかし自分はその姿を見て、父がようやく一段深いリアリティの層に気づいてくれたことを嬉しく思った。フローニンゲン:2025/10/14(火)07:12
17531. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の中で自分が歩いた道筋は、外的な旅路と内的な覚醒の過程とが重なり合う象徴的な構造を持っている。3つの名門大学が隣り合うキャンパスという舞台は、知の多元的世界、すなわち異なる伝統や文化的文脈が交錯する「境界領域」であり、そこに身を置く自分は、知と自己の統合を求める探究者として描かれている。ロンドン、アイルランド、スコットランドという地名の並びは、外的にはヨーロッパ的学問の源泉を意味し、内的には理性・感性・直観の三層を象徴している。それらを歩き渡ることは、自己の中の多層的知性を統合していく過程を暗示しているかのようだ。アイルランドの大学の前で出会う男子学生は、異なる文化や他者との摩擦を象徴している。最初の衝突とその後の和解は、自己の中の「他者性」との出会いの瞬間であり、謝罪と対話を通じて他者の中に自分を見る過程を示している。つまり、知的探究とは孤立した思考ではなく、関係性の中で開かれる相互変容の営みであることを、この小さな出来事が暗示している。続くミュージアムへの道は、外界の知から内界の知への通路である。草履のようなスリッパへの履き替えは、俗なる靴を脱ぎ捨て、聖なる空間へ入るための心的転換を意味する。ミュージアムが実際には薄暗いマリファナカフェであったという意外な展開は、知の探究が必ずしも清浄な光だけでなく、無意識や陶酔、忘我の領域を通過することを示唆している。そこで再会する女性友達は、自我の記憶の象徴であり、彼女が「誰も自分を知らない場所で生きている」と言う姿は、社会的アイデンティティを脱ぎ捨てた「匿名の自由」を体現している。彼女を認識しながら声をかけない自分の態度は、過去の自己に干渉せず、静かに見守る成熟した意識の表れである。マリファナの煙により意識が朦朧とする場面は、日常意識の崩壊とトランス的変容の入り口であり、その後の病院でのワクチン接種は「新しい意識への免疫」を授かる儀礼として読むことができる。日本人医師と助手が登場し、彼らが「うどん」を懐かしむ場面は、異国で失われた原郷=心の根源への郷愁を示す。同時に、それは自己の内なる「日本性」、すなわち文化的・精神的アイデンティティとの再接続でもある。医師が自分の学問に関心を示すのは、外的な他者を通じて自己の使命を再確認する瞬間であり、意識の朦朧とした状態から覚醒へと移る過程は、象徴的な「死と再生」の構造を描いている。最後に父と旧友の口論と和解の場面が現れる。これは自我の2つの側面――権威と反抗、理性と情動――の葛藤である。彼らが殴り合い、やがて涙する姿は、人生の闘争が実は幻であったと悟る瞬間であり、父が「企業人生の全てが夢だった」と嘆くのは、社会的ペルソナの崩壊と存在的覚醒を意味する。その時、自分が感じた喜びは、父=内なる権威がついに自己の深層的真理に気づいたことへの安堵であり、それは世代的・心理的癒しの瞬間であった。この夢の全体構造は、「外界の学び」から「内界の覚醒」へと至る精神の道程を象徴している。知の探究、他者との関係、陶酔と忘我、病と治癒、そして父との和解という一連のモチーフは、自己の再構成という1つの物語として統合されている。人生においてこの夢が示す意味は明確である。すなわち、真の学びとは知識の蓄積ではなく、自己の構造そのものを変容させ、過去・他者・文化・家族といった多層の現実を統合することである。父の涙の背後に見えるのは、「幻想としての社会的成功」から「真実としての存在意識」への転換であり、自分がその変容の仲介者となったことこそ、この夢が告げる人生の使命である。フローニンゲン:2025/10/14(火)07:29
Today’s Letter
Today, I can also enjoy creating and solving musical puzzles by playing the guitar. Since I began practicing the guitar, my life has become more colorful and melodious. Groningen, 10/14/2025
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