【フローニンゲンからの便り】17484-17487:2025年10月6日(月)
- yoheikatowwp
- 16 分前
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タイトル一覧
17484 | 成実宗への関心 |
17485 | 今朝方の夢 |
17486 | 今朝方の夢の振り返り |
17487 | 心理物理的な人間/土地に関する未知性 |
17484. 成実宗への関心
時刻は午前7時半を迎えた。空はうっすらとした雲に覆われていて、午後からは小雨が降るようだ。風は穏やかで、小雨が降っても特に問題はなさそうである。
法相宗以外の南都六宗に関心を最近強く寄せており、成実宗についても昨日調べていた。成実宗は、中国において後秦の鳩摩羅什(344–413)が訳した『成実論』(原題『サティヤ・シッディ・シャーストラ』)を根本典籍とする宗派であり、南都六宗の1つとして奈良時代の日本でも盛んに学ばれた。「成実」とは「真実を成ずる」という意味であり、この論はインド説一切有部(サルヴァースティヴァーダ)の実在論を批判的に継承しつつ、中観思想への移行を橋渡しする重要な位置を占める。著者はハリヴァルマン(訶梨跋摩)とされ、彼は有部の阿毘達磨思想を学びながらも、その自性実在論に疑義を抱き、より空の理に近い見解を提示したと考えられている。『成実論』の基本的立場は、諸法は一切「無自性」であり、真に実在するものではなく、ただ仮に名として存在するにすぎない、という点にある。ただし龍樹の『中論』のように徹底的に空を主張するのではなく、まだ有部的な法分析を下敷きにしている点に独自性がある。例えば、五蘊や十二処、十八界といった存在分析の枠組みを受け継ぎつつ、それらの法を究極的な実在としては認めず、依存的・相対的な存在として位置づける。こうして『成実論』は、有部の「一切法有」説を批判しながら、「一切法空」へと傾斜する中間的立場を示したのである。成実宗の思想的特徴を整理すると、第一に「無我説の徹底」である。自己(アートマン)を否定することは仏教共通の立場だが、成実宗はさらに一歩進めて、構成要素である諸法自体にも実在性を認めない方向へと進んだ。第二に「空観への傾斜」である。とはいえ中観のようにあらゆる言説を破砕するのではなく、阿毘達磨的分析を活かしつつ、それを空の視点で再解釈するため、論理的な緻密さと批判的精神が共存している。第三に「中観への橋渡し」としての位置である。成実宗の思想は、中国における中観派の受容に大きく影響を与え、後の三論宗の形成に重要な役割を果たした。中国では、鳩摩羅什門下の僧たちによって盛んに研究され、一時は有部・倶舎論的立場と対抗する形で学派を形成した。しかし、やがて中観思想や瑜伽行派の台頭により独立宗派としては衰退していった。それでも『成実論』はインド阿毘達磨から大乗中観への思想的移行を理解する上で欠かせない典籍となった。日本には6世紀末から7世紀初頭にかけて伝来し、奈良時代には南都六宗の1つとして重視された。当時の日本仏教は宗派的信仰というよりも学派的研究の形態を取っており、成実宗はその中で「論宗」と呼ばれる学派の一角を担った。具体的には、法相宗や三論宗と並んで、仏教思想の論理的側面を深める役割を果たしたが、やはり独立した教団としては長続きせず、後には法相・三論などに吸収されていった。それでも南都六宗の一環として日本仏教の初期知的基盤を形成した意義は大きい。総括すると、成実宗の経典は『成実論』ただ1つであり、その特徴は有部的法分析を批判的に受け継ぎつつ諸法無我を徹底する点、空の思想に傾斜し中観への道を開いた点、日本仏教においては南都六宗の1つとして思想的基盤を築いた点にある。成実宗は後世において独自宗派としては消滅したが、「実在の否定を通じて空に近づく」という姿勢は、仏教思想史の中で阿毘達磨から大乗哲学へ至る過渡期の重要な一歩を示すものと言える。フローニンゲン:2025/10/6(月)07:52
17485. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、スコットランドのエディンバラ大学にいた。そこで大学院の出願に向けて、アドミッションの方から色々と話を聞いていた。本当は仏教研究をしようと思っているのに、なぜか自分は開発経済学や純粋な経済学に関心があるとその方に伝え、それらの学問分野のプログラムの資料をもらった。資料をもらってみたものの、やはり自分の情熱はそれらの分野にはなく、仏教研究にあることを再確認した。アドミッションオフィスを出て一度外に出てみると、驚いたことに、そこは実際に通っていた中学校のグラウンドだった。再び建物の中に入ると、そこはやはり引き続き大学で、どうなっているのだろうと不思議に思った。せっかく建物の中に戻ってきたので、今度は仏教プログラムの資料をもらうことにし、それに加えて授業を聴講させてもらおうと思った。聴講しようと思ったクラスに参加すると、なぜかもう自分はその大学の学生になっており、その授業の履修登録も完了している状態だった。教壇に立っているのは、中観の研究で著名なジェイ・ガーフィールド教授だった。それほど大きくない教室だったこともあり、席はほとんど埋まっていた。前の方の席に座ろうとすると、自分はそのクラスに参加するのが久しぶりだったため、勝手を知っておらず、教授がちょうど学籍番号を読み上げている時だったので、どうやら出席を取っているのだと思った。自分の学籍番号をすでに過ぎて番号を読んでいたので、教授のところに行って自分の学籍番号を伝えると、かつて参加した時のクラスの小テストの結果を返却してもらった。ちょうど最初の2回のクラスは参加しており、それらの小テストを返してもらったのだ。2回目の小テストを見ると、単位を取得するために必要な出席回数が記されており、残り4回参加しないといけないらしかった。もう期末に近づいていて、果たして自分は必要な出席回数を満たすことができるのだろうかと焦った。しかし幸いにも、よくよく計算するとここから全てのクラスに参加すれば、ギリギリ4回満たせることがわかり、ここからのクラスは全部出席しようと思った。むしろ中観の世界的権威から教えを受けることができるというのは本来有り難いことで、なぜこれまで授業をサボっていたのかが不思議なぐらいだった。授業が始まると、自分の後ろの席には中学校時代のバスケ部のキャプテンの先輩がいて、先輩は優しい言葉を掛けてくれた。いざ授業を真剣に聞こうと思ったところで、自分の手元から魔法瓶が落ちてしまい、それがコロコロと左の方に転がっていった。すると、左の席に座っていた見知らぬ女子学生がそれを拾ってくれ、渡してくれた。魔法瓶を受け取った瞬間に、今度はリュックサックが椅子から落ちてしまい、今日はよく物が落ちるなと思った。そこで今度は、教室にいたある女子生徒が合図をした瞬間に複数の生徒のコーラスが始まり、教室を驚かせた。ガーフィールド教授も驚いていたし、自分の授業の進行を妨げるためにあまり心地良く思っていないようだった。どうやら彼らはコーラス部のようで、教室の雰囲気を盛り上げるために用意していた歌を歌い始めたようだった。
もう1つ覚えているのは、小中学校時代に過ごした社宅の寝室で、ある親友(NK)と話をしながらボール遊びをしていた場面である。しばらく話をしていると、冷蔵庫にあった苺大福のことを思い出し、それを持ってきて食べようと思った。しかし、夕食の時間が近づいていることもあり、今それを食べるのはやめにして、明日の朝に食べることにした。実際に翌朝、苺大福に加えて半分に切ったグレープフルーツを一緒に食べることにした。お腹が空いていたこともあり、大きな苺大福の横に据えられていた通常の小さな大福も食べられそうだったので、それも美味しくいただくことにした。フローニンゲン:2025/10/6(月)08:11
17486. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は二重の場面構造を持ち、いずれも学びと滋養をめぐる象徴的な展開である。前半はエディンバラ大学という具体的な学術的文脈に置かれており、そこで自分の進路に迷いを持ちながらも最終的に仏教研究への情熱を再確認する過程が描かれている。経済学の資料を受け取ったものの心が動かず、再び仏教のプログラムへと歩を進める姿は、外的な期待や合理性の名の下に選び取ろうとする進路と、内的な声が告げる本来の志との間で揺れ動く自己を示している。大学の建物が突然中学校のグラウンドに変容するのは、進学や研究という未来志向の営みが、同時に過去の自己形成の場、つまり青春期の体験と結びついていることを暗示する。学びは直線的な進行ではなく、過去と現在が交差する円環的な営みであることを夢は示している。ガーフィールド教授が現れ、出席の不足を懸念する場面は、学問への真摯さを欠いてきた過去の自覚と、残された機会を最大限活かそうとする決意との葛藤である。残りの授業に出席すれば単位を取得できるという発見は、人生においても「まだ間に合う」という希望の表象である。同時に、なぜ権威ある教師からの直接の学びを先延ばしにしてきたのかという疑問は、日常生活における惰性や回避の姿勢を突きつける批判である。授業中に物を落とす場面は、自身の不安定さや注意散漫を示すが、それを拾ってくれる見知らぬ学生の存在は、周囲の人々の支えや善意が学びの場を成立させることを象徴する。さらに、突如として始まるコーラスは、秩序だった学問の場に対する無邪気な創造性の侵入であり、知的な規律と芸術的な自由のせめぎ合いを体現している。教授の戸惑いは権威的秩序の側面を示しつつ、学びが常に予定調和の中でのみ成立するわけではないという真理を浮き彫りにする。後半の場面は学術的文脈から離れ、家庭的で親密な場に移る。社宅の寝室での親友との語らいと遊びは、知的な探究の基盤となる情緒的な絆や安心感を表している。苺大福やグレープフルーツといった食べ物のモチーフは、心身を養う滋養の象徴であり、特に「夕食前に食べるのを控えて翌朝に取っておく」という行為は、欲望をただ満たすのではなく、節度を持って未来へと喜びを延長する姿勢を示している。翌朝、苺大福とグレープフルーツを共にいただく場面は、知的・精神的な学びが単なる義務や空虚な努力ではなく、人生に潤いを与える甘美な果実となることを暗喩する。しかも通常の大福まで食べることができたという満足は、予期せぬ豊かさが慎重な選択の先に訪れることを物語る。夢全体を通して示されるのは、学びをめぐる二重の軸である。一方は制度的・形式的な学び、すなわち大学や教授との関わりであり、そこでは責任感や出席、試験といった外的要件が課せられる。他方は生活的・情緒的な学び、すなわち友人や家庭の場における滋養と歓びである。前者は義務の側面を、後者は享受の側面を担い、その両者が補い合うことで真の成長が実現することを夢は語っている。人生における意味として、この夢は「外的な秩序と内的な情熱」「過去の記憶と未来の志」「義務としての学びと歓びとしての学び」を統合する課題を示している。人は学びの道を歩む中で時に迷走し、寄り道をし、忘れ物をするが、それでも他者の支えや自らの情熱に立ち返ることで、最後には本来の方向を取り戻すことができる。苺大福を翌朝まで待ったように、真の滋養は先延ばしの中で熟し、やがて深い満足を与える。すなわちこの夢の核心は、学びと人生を「義務から歓びへ」と変容させ、志と節度をもって歩み続けることの大切さを告げているのだろう。フローニンゲン:2025/10/6(月)08:31
17487. 心理物理的な人間/土地に関する未知性
時刻は午後4時半を迎えた。天気予報では雨が降る予定だったが、霧雨のような小雨しか降っておらず、それほど煩わされることなくジムから戻ってきた。今日の気温の上昇は限定的であったにもかかわらず、ジムでは意外にも汗をかき、おそらく湿度の高さゆえだったのだと思う。今日もまた大きな筋肉をメインに鍛えていき、ジムでは数人ほど知り合いがいたので、簡単に言葉を交わした。特に、日曜日以外は毎日ジムに通って鍛えているというチャーリーという女性とは最近よくジムで話している。彼女はフローニンゲン大学の博士課程に在籍しており、今年の秋から3年目とのことでそろそろ博士論文の執筆に取り掛かるとのことだ。いつも感じていることだが、ジムは単に体を鍛える場ではなく、人と交流できる社交の場としても意義を持つ。こうしてジムで体を動かしていると、人間存在の本質に心理物理的な性質があることが如実に見えてくる。今の自分が唯識と量子論に強い関心を示しているのは、人間存在のその両面性があるからかもしれない。
ジムからの帰り道、これまでお世話になっていたスマートショップの1つが閉店になったことを知って少し残念に思った。同じ通りには過去にも別のスマートショップがあり、それも数年前に閉店となり、現在は老舗の1店舗だけが残っている。確かに同じ通りに同様のスマートショップがあると差別化が難しく、先行者利得によって経営が難しかったのだろうと思われる。仮にその店が閉店になって別の種類の店が誕生したとしても、その店に通ったことのある自分の記憶は朽ち果てることはない。気づけばフローニンゲンでの生活も10年目に入っていて、これまでの人生で10年連続して生活したことのある町は山口県の地元を除けばフローニンゲンだけである。東京は途中で断絶があり、確かに合計では12年ほど過ごしたが、連続では7年しかそこで生活していない。仮に来年からイギリスで生活をすることになったら、その地での生活はどれくらい長くなるだろうか。また、最終的に自分が落ち着くことになる町はこの世界のどこになるのだろうか。自分の人生にはまだそうした土地に関する未知性が残っている。フローニンゲン:2025/10/6(月)16:41
Today’s Letter
Physical training at the gym is indispensable to my physical well-being. Taking walks and jogging also enhance my overall well-being. This reminds me not only of the importance of exercise but also of our nature as psychophysical beings. Groningen, 10/06/2025
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