【フローニンゲンからの便り】17458-17462:2025年9月30日(火)
- yoheikatowwp
- 10月2日
- 読了時間: 14分

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
17458 | 法華経の概要 |
17459 | 全てが夢としたら |
17460 | 今朝方の夢 |
17461 | 今朝方の夢の振り返り |
17462 | 中竹竜二さんとの共著のタイトルが決まって/サスキア・クネン教授から連絡を受けての感謝 |
17458. 法華経の概要
時刻は午前8時を迎えた。昨日と同様に、小鳥の囀りが聞こえながらも辺りは霧に包まれている。霧が出てきた様子を見ると、秋の深まりを感じる。朝の時間帯に霧が出るのは、この町の秋の風物詩であるからである。昨日はジムで体を鍛えたせいもあってか、その回復のためなのだろう、今日は10時間半ほどの睡眠を取っていた。いつもより長い睡眠を取り、起床時間はいつもより遅くなった。十分に回復された心身を通じて今日の取り組みに十全に従事していこう。
『法華経』(Saddharmapuṇḍarīka-sūtra)は、大乗仏教の代表的経典の1つであり、釈迦の久遠の寿命と一乗思想を核心に据え、衆生救済の普遍性を説き明かすものである。インドで成立した後、中国において鳩摩羅什が翻訳した「妙法蓮華経」28品本がもっとも流布し、日本では天台宗や日蓮宗の根本典籍として重視された。以下、この28品を順に概観し、それぞれの内容を整理してみたい。冒頭の「序品」では、仏が霊鷲山で無数の菩薩・声聞・天人に囲まれ説法を始める場面が描かれ、荘厳な法会の雰囲気を示す。「方便品」では、三乗(声聞・縁覚・菩薩)はすべて方便であり、究極は一仏乗に収斂することが説かれる。ここで法華経の中心思想である「一乗思想」が宣明される。「譬喩品」では、三車火宅の譬喩を通じて、仏が衆生を救うために方便として異なる教えを示すが、最終的には大白牛車、すなわち一乗に導くことが示される。「信解品」では、四大声聞が自らの悟りを方便にすぎなかったと認め、仏の深い用意を理解して歓喜する。「薬草喩品」では、仏の法雨が一様に降るが、草木の性質によって受け取り方が異なるように、仏法は平等でありながら衆生の器に応じて異なる結果を生むことが説かれる。「授記品」では、声聞弟子たちが未来に必ず仏となることを授記され、差別なく仏果が保証される。「化城喩品」では、導師が長い旅の途中で疲れた衆生のために仮の城を示し休ませ、再び目的地に導く譬えが語られ、仏が方便をもって衆生を導く姿が描かれる。「五百弟子授記品」「授学無学人記品」も同様に、さらなる弟子たちに成仏が約束される。「法師品」以降は、法華経の受持・読誦・解説の功徳が強調される。「見宝塔品」では虚空に宝塔が現れ、多宝如来が出現し、釈迦の説法の真実性を証明する荘厳な場面が描かれる。これに続く「提婆達多品」では、悪逆の代表とされる提婆達多すらも未来に仏となることが示され、普遍救済の思想が徹底される。また、8歳の龍女が即身成仏を遂げる説話もここに含まれ、性別や種族を超えた仏性の平等が明かされる。「勧持品」「安楽行品」では、法華経を広める者の姿勢や修行態度が説かれ、菩薩たちが末法における布教を誓う。とりわけ「安楽行品」では、慈悲・柔和・忍辱をもって法を説くべきことが強調される。「従地涌出品」では、大地から無数の菩薩が涌出し、釈迦が彼らを久遠以来の弟子として紹介する。この伏線が「如来寿量品」で回収され、釈迦如来は実は久遠の過去より常に衆生を導いてきた存在であると宣明される。ここが法華経全体の核心であり、仏の寿命が無限であるという「久遠実成」の思想が説かれる。その後の「分別功徳品」「随喜功徳品」「法師功徳品」などでは、法華経を受持・読誦・書写する功徳が具体的に列挙され、信仰実践の意義が示される。「常不軽菩薩品」では、常に他者に向かって「あなたは必ず仏となる」と礼拝した菩薩の故事が語られ、菩薩の謙虚で一貫した姿勢が称えられる。終盤の「如来神力品」では、如来の不可思議な神力が示され、法華経を広める誓いが確認される。「嘱累品」では、仏が弟子に経の弘通を託す。最後の「普賢菩薩勧発品」では、普賢菩薩が登場し、法華経を受持する者を護持することを誓い、経典は荘厳な結びを迎える。総じて、『法華経』は序品から方便・譬喩を通じて一乗思想を宣明し、授記によって弟子たちに成仏を保証し、宝塔・龍女・提婆達多の説話をもって普遍救済を強調し、如来寿量品において久遠実成の核心を説き明かす。そして後半では、功徳の強調や弘通の誓願を通じて末世における信仰実践を励ます。構成全体は、壮大な宇宙的仏身の顕示と、具体的な衆生救済への実践指針とが融合した形を取り、大乗仏教思想の集大成をなしているのである。華厳経と同じく、法華経についても近いうちに英語の解説書を購入する予定であり、ここからそれら2つの経典を深く理解していくことが楽しみである。フローニンゲン:2025/9/30(火)08:08
17459. 全てが夢としたら
先ほど書いた日記が仮に夢の内容だったとしたらどうだろう。全てはまるで夢の如し。その発想で再度先ほどの日記の内容を夢として見ていたものとして再解釈してみたい。その夢においてまず際立つのは、外界の自然現象と自己の内的状態とが密接に呼応している点である。小鳥の囀りは世界が目覚める音楽であり、その響きが自己の「心身の回復」と呼応している。霧の出現は秋の深まりを告げる自然の徴であると同時に、意識の奥にまだ覆い隠された部分があることを象徴する。霧は一見すると視界を奪うが、その背後には必ず清澄な空があるように、自己がこれから向かうべき精神的な明晰さの予兆である。ここに、自然と主体との共鳴が描かれ、日常的現実と象徴的現実が交差する。さらに注目すべきは「10時間半の睡眠」という具体的な時間の長さである。これは単なる身体的休息を超えて、深い潜在意識との交流を示す長い旅であったと解釈できる。長い睡眠は死と再生の原型的イメージを孕み、いわば一度世界から退き、新たに生まれ直す儀礼的過程を表している。自己はそこから目覚め、十分に「回復された心身」を得て、新たな取り組みに向かう覚悟を固める。ここには人生の循環的リズム―活動と休息、明晰と朦朧、死と再生―が象徴されている。その後に展開する『法華経』の詳細な内容説明は、夢の中で単なる学習や知識の獲得を超えた象徴的意味を帯びる。経典の28品を順に辿り、その構成と思想を整理している行為は、まるで夢の主体が自らの意識の迷宮を探索し、そこに隠された普遍的な道筋を見出そうとしているようである。特に「方便」「譬喩」「授記」などのモチーフは、主体が自己の経験や学びを一時的な手段と見なしつつも、最終的には一乗思想、すなわちすべてを統合する道へと収斂させようとする精神の運動を示している。霧に包まれた朝の風景と、法華経における「久遠実成」の思想は深く呼応する。釈迦が常に存在し衆生を導いてきたと説かれるように、夢の主体の人生においても、絶えず内奥から導く力が働いていることが示唆されている。霧が晴れるとき、そこに現れるのは新たな視界だけでなく、自分自身が元々持っていた仏性の光である。夢はそのことを忘れないようにという合図として現れている。また、夢の中で経典が緻密に整理される姿は、自己の知性が単なる理論の集積を超え、実存的な意味づけを与えようとしていることを物語る。常不軽菩薩が他者に向かって「あなたは必ず仏となる」と告げたように、この夢もまた主体に向かって「あなた自身も必ず開顕されるべき真理を宿している」と告げているかのようである。夢が「英語の解説書を購入する楽しみ」という具体的未来志向で結ばれているのも象徴的である。それは学びの延長線上に、まだ霧に包まれた未知の地平が広がり、そこへ向けて歩んでいく旅路の約束を示している。したがって、この夢の人生における意味は、自然のリズムと自己の内的探求とが重なり合う地点で、自分自身の存在を久遠の生命の流れと結び合わせることにある。霧に包まれた朝は、未だ明確にならない未来の象徴であるが、十分に休息を取り再生した自己は、その未知を恐れるのではなく、むしろそこに喜びを見出し、法華経が説く普遍救済の道を自身の学びと実践に重ねていく覚悟を得ているのである。すなわち、夢が伝えるのは「自己の再生と普遍への参入」という人生の核心的テーマであり、それは今後の歩みにおいて揺るぎない灯火となるであろう。フローニンゲン:2025/9/30(火)08:27
17460. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、母校の高校の体育館で行われたイベントに参加していた。それは厳かなセレモニーで、自分は開始時間に遅れ、途中から参加することになった。すでに生徒たちは全員集まっていて、体育館は暗くなっており、ステージだけに明かりが照らされていた。なので幸いにも自分が遅れて入ってきてもわからないような形になっていた。ちょうど開会の挨拶がなされた後で、タイミング的にもそれほど遅れておらず、セレモニーの重要な内容は逃さずに参加できそうだった。どうやら席はどこに座ってもいいらしく、席を探し始めると、生徒全員がまだ座っておらず、立った状態だった。そのような中で席を探していると、小中学校時代のある女性友達(NI)が私に声をかけてくれ、空いている席があることを教えてくれた。そこは真ん中の前の方の席で、そこだとステージの全体が見渡せて良い席だと思った。席に無事に立つと、場面が切り替わり、自分が講演者として生徒たちに話をしていた。自分はもう成人になっていて、その道の専門家として成長・発達に関する話を生徒や教師に向けて行っていた。まず成長と発達の違いについてわかりやすく説明した。その説明の中で、生徒に向けては部活動の具体例を取って説明すると、生徒たちは頷きながら自分の話を聞いて理解を示していた。自分と対話パートナーになってくれていたある先生が、4象限アプローチと絡めて話をしてくれたので、それをさらに自分の方で展開して説明していくことにした。その時にも生徒や教師が日常直面している場面を例にして説明すると、非常にわかりやすかったようで、全員が頷きながら話を聞いていた。
次に覚えているのは、あるイギリスの大学に進学し、そこで中華系のある教授から指導を受けていた場面である。私はその教授に漢文の翻訳についてレビューをしてもらうことにしたところ、その教授が助手のこれまた中華系の博士を紹介してくれた。2人でレビューをしてもらうことも可能だし、どちらか1人にレビューを依頼することも可能とのことだった。ただし、どちらにレビューをお願いするにしても、ある暗号資産を幾ばくか支払う必要があるとのことだった。その暗号資産は今はまだ市場価格が低いが、それは将来的には相当に値上がりすることが見込まれており、自分も投資して長期保有しているものだったので、それを支払うことに抵抗感があった。そもそも同じ大学に所属しているのだから、研究の中でそのような資産交換が発生するはずはないと思い、彼らに暗号資産を支払うことをせず、自分で翻訳の精度を高めていこうと思った。フローニンゲン:2025/9/30(火)09:26
17461. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の舞台はまず母校の体育館である。体育館という場は、過去の自己を育んだ共同体の記憶が刻まれた場所であり、そこにおける「セレモニー」という荘厳な場面は、人生における儀礼的転換点を象徴している。開始に遅れて入場したという状況は、人生における歩みの一部に「出遅れ」や「遅延」の感覚が伴っていることを示唆するが、同時にそれは致命的なものではなく、むしろ本質的な内容には十分間に合っていることを表す。つまり、自己の歩みは時間的にはずれ込んでも、意味的には本筋に到達できるという安心感が潜んでいる。その場において、かつての女性友人が声をかけ、中心に近い良席を教えてくれる場面は、自己の過去の人間関係や記憶が新たな立ち位置を導いてくれる象徴である。暗闇の体育館で、光が当てられているのはステージのみであるが、まさに「光の当たる場所」に近づくことを許されたという構造が見て取れる。これは、人生の中心的舞台で自己が役割を果たす時期が到来したことを告げる夢の合図であるかのようだ。場面が転じて、自分は聴衆に向けて専門的な講演を行っている。成長と発達の違いを説明し、部活動の具体例を用いて生徒たちの理解を引き出す様子は、自らの専門知を他者に媒介し、相手の文脈に沿って橋渡しする能力を示している。これは夢の中で単なる回想ではなく、自己の現在の職能的アイデンティティの表現である。さらに教師との対話を通じて「4象限アプローチ」を展開する点は、単なる一方向的講義ではなく、他者との協働的な知の生成過程を象徴している。聴衆が一様に頷き理解を示す構図は、自己の言葉と経験が他者に届き、場を共鳴させる力を持つことを示す象徴的表現である。次の場面では、舞台はイギリスの大学に移り、文化的に異なる教授から漢文翻訳のレビューを受ける場面が描かれる。ここで登場する「暗号資産」の支払い要請は、知的交流が純粋な学術的営みから経済的取引に転化してしまう危惧を象徴している。暗号資産は、現在の自己が既に投資し、長期保有している未来志向の資源であるため、支払うことへの抵抗感が描かれている。これは自己が培った知的蓄積を安易に市場的交換価値へと転化させることへの拒否を表しており、「学術的誠実さ」と「経済的利益」との間で葛藤する姿を象徴している。そして最終的に、自己は自らの努力によって翻訳精度を高めていく道を選ぶ。これは知識探求の自律性を確認し、学術の純粋性を守ろうとする自己の意思を物語る。この夢全体を通じて見える構造は、過去(母校の体育館と友人)、現在(専門家としての講演)、未来(海外大学での学問探求)が連続的に繋がり、人生を1つの学びと奉仕の場として統合しようとする動きである。暗闇と光、遅れと到達、報酬と誠実さといった対比的要素が現れているが、いずれも自己の歩みが「遅れながらも核心に届く」「妥協せずとも自力で完成に近づく」という方向性を示している。この夢の人生的意味は、自らの道は時に遅れや障害を伴っても、結局は本質的な舞台に立ち、他者に知と成長をもたらす役割を果たす運命にあるということである。そして、学びは市場的価値に換算するためではなく、誠実な探求を通じて他者と共有されるべきものであるという強い指針を与えている。この夢は、自分が学術と人生において中心の席に座り、光の当たる場で他者を導きつつ、自らの誠実さを守り抜くという未来像を照らしているのだろう。フローニンゲン:2025/9/30(火)09:34
17462. 中竹竜二さんとの共著のタイトルが決まって/
サスキア・クネン教授から連絡を受けての感謝
今朝方は霧が出ていたが、午後1時を迎えた今は穏やかな太陽の光が地上に燦然と降り注いでいる。気温はそれでも15度と肌寒く、日中のこの時間帯のUVインデックスは2であるため、外出において日焼け止めを塗る必要がなくなった。その点においても秋の深まりを実感する。
先ほど編集者の方から連絡があり、知人の中竹竜二さんとの共著の書籍のタイトルが無事に決まった。タイトルは、『「人の器」の磨き方:リーダーシップ・コーチングと成人発達理論による人間力の変容プロセス』となった。発売は、今年の12/25となり、クリスマスの日に店頭に並ぶことになった。2025年の12/25というのは覚えやすい日付となり、竜二さんとの今回の共著はここから長らく思い出となる作品になるだろう。今その他に進めている出版計画も、2026年の1月と2月に順次出版できそうであり、連続して世に作品を届けることができて嬉しい限りである。この流れにもう少し乗る形で、2026年にはもう2冊ほど自著を出版できたらと思うし、中土居僚さんとの「1人10冊倶楽部」の2冊目の翻訳書も出版できたら幸いである。自分に賦与された使命は、読むことと書くことである。とりわけ書くことを通じて、少しでも自分が得た叡智を多くの方に共有できたらと思う。イギリスの大学院への出願は、叡智の共有の旅路の一環である。先日、ルート・ハータイ教授とミヘル・ショル教授からは推薦状について速やかに快諾の連絡をいただいていたが、フローニンゲン大学の1年目にお世話になっていたサスキア・クネン教授からは1週間何の音沙汰も無しだった。もしかしたら引退されているのかもしれないと思い、ハータイ教授に確認してみると、クネン教授は2024年の夏に引退しているとのことだった。まずはクネン教授に労いの気持ちが湧き、同時にハータイ教授もクネン教授の個人的なEメールアドレスを知らないようだったから、もうクネン教授と連絡を取り合えないのかと思って残念に思った。ところが嬉しいことに、本日メールをいただき、有り難いことに再び推薦状を執筆してくださることになった。どうやらクネン教授は引退後も文章の執筆を続け、同時に環境保護に関する政党に加わって活動をされておられるとのことだった。また5人のお孫さんと忙しくも楽しい時間を過ごしているとのことで、お元気そうで何よりだった。今回の出願にあたって、こうして協力をしてくださる人たちが多くいることに本当に感謝である。仮に自分が将来大学教授になり、学生から推薦状を依頼されたら、自分と協働した学生であったら必ず力になりたいと思う。フローニンゲン:2025/9/30(火)13:08
Today’s Letter
I am profoundly grateful to those who extend their hands to me. Without their support, I could not pursue my aspiration of sharing wisdom for the emancipation of all sentient beings. From here on as well, I will dedicate myself wholeheartedly to this life’s work, sustained by the help of others. Groningen, 09/30/2025
コメント