【フローニンゲンからの便り】17453-17457:2025年9月29日(月)
- yoheikatowwp
- 7 時間前
- 読了時間: 15分

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。
タイトル一覧
17453 | 『唯識般若不異事』に関する論文の執筆/多世界解釈における疑問 |
17454 | 今朝方の夢 |
17455 | 今朝方の夢の振り返り |
17456 | 華厳経と法華経に関心を持って |
17457 | 華厳経の概要 |
17453. 『唯識般若不異事』に関する論文の執筆/多世界解釈における疑問
時刻は午前6時半を迎えた。この時間帯はまだ暗い。今日は基本的には晴れだが、午後3時に少し小雨が降る可能性があるようなので、午後にジムに行く際には折り畳み傘を念のため持っていこうと思う。今週は最低気温が早くも5度になる日があり、最高気温が13度までしか上がらない日もある。秋が着実に深まっており、冬の足音が聞こえてくる。昨日に、良遍の2つ目の文献である『唯識空観』に関するドラフトの加筆修正が終わったので、今日からは『唯識般若不異事』に関する論文のすでに作成しているドラフトに対して加筆修正を行なっていこう。
昨日、多世界解釈(Many-Worlds Interpretation、以下MWI)に関して素朴な疑問を持った。MWIは、量子力学の観測問題に対する1つの解釈であり、ヒュー・エヴェレットによって1957年に提唱された。この理論によれば、観測によって波動関数が収束(コペンハーゲン解釈での「収縮」)することはなく、むしろ全ての可能な結果が「分岐」する形で実現されると考えられている。では、リアリティは「毎秒分岐している」のか、そして「選ばれなかったリアリティ」はどこにあるのか。この問いには、MWIに特有の宇宙論的・存在論的前提が絡んでいると言えそうである。まず「毎秒分岐しているか」という点について考えてみたい。MWIにおいては、分岐は量子状態が「非可逆的に」相互干渉不能(decoherence)になる時に起きる。例えば、シュレディンガーの猫の思考実験では、放射性崩壊の有無によって猫が生死の状態に分岐するが、この「分岐」は観測者の意識によるものではなく、量子的な相互作用によって物理系が環境と不可逆的に絡み合い、重ね合わせ状態が観測されるレベルで確定したように見える時に生じるとされる。したがって、リアリティは「毎秒」どころか、宇宙の至る所で常に、ミクロスケールで数えきれないほど分岐していると見なすことができる。ただし、この分岐は「時間に沿って連続的に起こる」よりも、「因果的に分岐する」と理解すべきだろう。次に、「選ばれなかったリアリティはどこにあるのか?」という問いは、MWIの存在論に踏み込むものである。MWIにおいては、量子力学の基本方程式(シュレディンガー方程式)は決定論的であり、観測によってある状態だけが「選ばれる」わけではない。むしろ、観測者自身も含めた宇宙全体が重ね合わせ状態の中で分岐していく。つまり、自分が「赤いボタンを押した世界」と「青いボタンを押した世界」はどちらも同等に存在し、それぞれに対応する「自分」がその世界を体験している。選ばれなかったリアリティは消えたのではなく、別の「ブランチ(枝)」として存続しているのである。では、その「別のブランチ」はどこにあるのか?物理的空間内にあるわけではない。多世界解釈における世界の分岐は、空間的ではなくヒルベルト空間という抽象的な数学的構造における分離である。私たちが通常知覚する三次元空間においては、その「他のブランチ」は決して相互干渉しない(あるいはしにくい)ため、観測可能ではない。これは、量子的な相互干渉が環境とのデコヒーレンスによって壊されるからである。この視点に立てば、「選ばれなかったリアリティ」は「失われた」わけではなく、「別の歴史を歩む宇宙」として、現在もなお存続している。それは私たちの宇宙とは因果的に独立しており、干渉し合うことはないため、観測や検証は極めて難しい。だが、それはMWIにとって不都合ではない。なぜなら、この解釈は確率や観測問題を内部からではなく、「外部観測者のいない全体的視点」から扱うことで、一貫した物理理論としての整合性を保つことに力点があるからである。要するに、MWIは「世界は毎瞬無限に分岐している」と見なす大胆な仮説であり、「選ばれなかったリアリティ」は私たちがアクセスできないが、消失することなく存続しているとされる。これはSF的に響くが、数学的には極めて厳密であり、決して荒唐無稽な思弁ではない。この理論をどう受け止めるかは、私たちが「リアリティとは何か」をどう定義するかにかかっているのである。フローニンゲン:2025/9/29(月)07:00
17454. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、友人たちと旅をしている最中の高速道路のサービスエリアに立ち寄っている場面があった。そこには奥の方にスーパーがあり、その一角に美味しそうなピザを焼いている店があった。すでに焼き上がったピザが並べられており、そのうちの1つを購入することにした。しかし、自分でトッピングを選ぶこともできるようだったので、生地だけ焼いてもらって、その上に好きなトッピングを選んでいくことにした。ちょうど生地がなくなっていたので、店の奥にいる人に「パン生地をください」と大きな声で言うと、「ピザ生地ですね」と若い女性が笑いながら応答してくれた。確かにそれはパン生地ではなく、ピザ生地だったので、自分の言い間違いを修正して、焼いた生地をもらうことにした。1枚の焼き立ての生地をもらい、そこから種々のトッピングを載せていくことにした。
次に覚えている場面として、サッカー元日本代表のあるストライカーの選手と一緒にサッカーの練習をし、サッカーの練習方法について語り合っている場面があった。その方とのマンツーマンの練習は大変学びになり、自分もやる気を見せていたので、その方も嬉しそうに指導をしてくれた。練習を終え、語り合いをした後に、W杯の決勝が行われることになっていたので一緒に観戦することにした。すると不思議なことに、自分の体はスタジアムの中にあり、ピッチ上の選手の視点を取っていた。日本はなんと決勝まで進んでおり、決勝の相手はドイツだった。決勝は日本のホームスタジアムで行われたため、スタジアムにはたくさんの日本人サポーターがいた。スクリーンに移された世界の様々な国のスタジアムでも巨大なスクリーン観戦が行われているようで、その様子を見ると、アジアの国々は日本を応援し、欧米の国々はドイツを応援しているようだった。いざ決勝戦が始まると、両国の選手同士はクラブチームでは仲間であったり、同じリーグに所属している選手も多いようで、言葉を交わしている姿が印象的だった。前半の最初の方でドイツのコーナーキックになった時、そこで両国のボランチの選手同士が少しいざこざを起こしたが、日本人選手のボランチの選手は冷静な心を持っていたので、そのいざこざを自身でうまく解消した。相手のボランチの選手を讃えながら、フェアプレーに徹する姿勢を示したことによって、ドイツの選手たちは改めて日本の選手たちに敬意を持ったようだった。ホームのサポーターの応援もあって、終わってみると3-0で日本が解消し、悲願のW杯優勝を果たした。もちろん自分も嬉しく思ったが、サポーターたちほどには嬉しさが込み上げて来ず、むしろ冷静な頭で結果について考えを巡らせていた。そして、すぐさま自分の研究上の何か別の重要なことを考え始めていた。フローニンゲン:2025/9/29(月)07:20
17455. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は2つの大きな場面を軸に展開している。ひとつはサービスエリアでのピザ作り、もうひとつはサッカーの練習から決勝戦の観戦、さらにはその勝利の瞬間へと至る流れである。両者は一見無関係に見えるが、深層においては「自己形成の過程」と「社会的・歴史的文脈での自己の位置づけ」という2つの軸を象徴的に織り込んでいる。まずピザ生地の場面は、創造の出発点を示している。すでに焼かれたピザを買うこともできたが、あえて生地から自分でトッピングを選ぶという選択は、自らの人生を既成の型に従うのではなく、自分の手でデザインしようとする姿勢の投影である。さらに「パン生地」と言い間違え、「ピザ生地」と正される場面は、言葉や認識の微妙な差異を通じて、本質を正確に把握することの重要さを示している。つまり人生を創造するにあたっては、曖昧な理解や妥協ではなく、対象を正しく名づけ、的確に捉えることが土台になるということである。焼き立ての生地は「白紙のキャンバス」のようであり、そこに載せるトッピングはこれからの経験、知識、人間関係、価値観を意味している。次にサッカーの場面は、個人の創造性が社会的な文脈に接続される瞬間を象徴している。元日本代表選手との練習は、師から弟子へと伝承される技と精神の共有を意味し、自分の熱意によってその伝承がさらに活性化されることを示している。これは「学びと成長は双方向的である」という洞察である。さらに舞台が一気に拡大し、W杯決勝という世界的イベントへと移る点は、個人の努力がやがて歴史的・集団的な文脈へと響き合うことを示している。日本対ドイツという構図は、単なる勝敗を超えて、アジアと欧米、伝統と現代、異文化間の緊張と融和を象徴している。そして試合中に見られたフェアプレーの姿勢は、対立を競争だけで終わらせず、相互の尊重を通じて新たな関係を築く可能性を示している。夢の中の日本の勝利は、単なるナショナルな栄光ではなく、「尊敬と誠実さが最終的に勝利を導く」という寓話的な意味を持つ。しかし、最も印象的なのは優勝の瞬間に自分が歓喜に溺れず、むしろ冷静に研究上の別の重要な課題に思考を向けている点である。これは「成果や栄光そのものではなく、その背後にある学びと探求の継続こそが自分の関心である」という態度の反映であるかのようだ。社会的な成功や名声はあくまで通過点であり、自らの真の喜びは探究心と精神的深化に宿る、という人生観が透けて見える。この夢全体を貫く構造は、「創造的基盤の形成」から「社会的試練と勝利」へ、そして「超越的な知的探究」へと至る三段階の発展である。ピザ生地は個の創造力、サッカーは集団と歴史の舞台、そして最後に冷静に考えを巡らせる姿は精神的成熟と内的探究の象徴である。人生における意味として、この夢は「自己の創造を恐れず、集団や世界との関わりを誠実に果たしつつ、最終的には知の深化と精神的な探究にこそ自らの価値を置くべきである」というメッセージを示しているのだろう。フローニンゲン:2025/9/29(月)07:38
17456. 華厳経と法華経に関心を持って
時刻はゆっくりと正午に近づいている。今日から良遍の『唯識般若不異事』に対する論文のドラフトの加筆修正に取り掛かった。翻訳の前の箇所でこの文献の概要と意義を説明するパートがあり、午前中は時間を取ってその箇所の加筆修正に勤しんでいた。無事にその箇所の加筆修正が終わったので、明日からは英語に翻訳した箇所の加筆修正を行っていく。
今、唯識の経典である解深密経を超えて、華厳経と法華経にも関心を持っている。それらはいずれも大乗仏教を代表する経典であり、インドから中国、さらに日本の仏教思想と実践に大きな影響を及ぼした2つの柱である。両経典はいずれも「如来の覚りの境地」を説きながらも、表現や重点に大きな違いがあり、その比較は大乗仏教思想の多様性を理解する上で極めて重要である。まず華厳経(Avataṃsaka SūtraあるいはFlower Garland Sutra)は、大乗仏教初期から中期にかけて形成されたとされ、宇宙的規模での仏の智慧と法界の相互浸透を描き出す壮大な経典である。その中心思想は「法界縁起」と呼ばれる全存在の相即相入であり、1つの事物が他のすべてと無限に関係し合い、全体の中に個があり、個の中に全体があるという「事事無礙法界」の世界観を展開する。ここでは、華厳経の象徴的修行者である善財童子が53人の善知識を訪ね歩く物語を通じ、菩薩の修行が無限の関係性の網の目の中で成熟していく過程が描かれる。この壮大な宇宙観は、中国で華厳宗として体系化され、日本では法相宗や天台宗の理論的発展に強い刺激を与えた。とりわけ「一即一切・一切即一」の理念は、存在の相互依存性を端的に示し、後の仏教哲学や芸術にまで浸透している。一方、法華経(Saddharmapuṇḍarīka SūtraあるいはLotus Sutra)は、最終的な仏陀の教えを集大成したとされる経典であり、「一乗思想」を核心に据える。すなわち、仏の教えには方便としてのさまざまな道が示されるが、その究極的な目的はすべて衆生を仏へと導く「一仏乗」に帰一するというのである。この経典では、声聞・縁覚・菩薩といった差別的な修行段階は相対化され、すべてが仏果成就へとつながる方便にすぎないとされる。特に「方便品」では仏が弟子たちに対して三乗を説いたのは衆生の能力に応じた仮の教えにすぎず、真実は一乗であると示す。また「寿量品」では釈迦如来の寿命が無限であることが明かされ、仏は久遠より衆生を導き続けていると説かれる。この思想は、日本の天台宗において「法華一乗思想」として体系化され、さらに日蓮によって「南無妙法蓮華経」の題目に凝縮された信仰運動へと展開していった。両経典を比較すると、華厳経が「宇宙的規模の存在論的相互関係」を説くのに対し、法華経は「衆生救済のための仏の方便と究極的一乗」を説く点で性格を異にする。華厳経の壮大な宇宙論は、修行者に自他不二・世界即仏身という広大な視座を与え、法華経の一乗思想は、あらゆる人間に平等に仏性が具わり、差別なく救済されるという希望を与える。言い換えれば、華厳経が存在そのものの相互浸透性を哲学的に示したのに対し、法華経は衆生に寄り添う実践的・救済的な側面を強調したと言える。総じて、華厳経は「仏智の宇宙的広がり」を示し、法華経は「衆生救済の平等性と普遍性」を示したとまとめることができる。この2つの経典は、大乗仏教が単なる形而上学や救済論にとどまらず、壮大な宇宙論と具体的な衆生救済とを統合的に展開していったことを物語っているのである。近々華厳経と法華経の英語解説書を購入したいと思う。フローニンゲン:2025/9/29(月)11:54
17457. 華厳経の概要
時刻は午後4時半を迎えた。先ほどジムから帰ってきてシャワーを浴びて今に至る。天気予報の通り、午後3時過ぎに天気雨が降ったが、その時にはジムにいたので雨に濡れることはなく、今日のトレーニングも充実したものであったことに満足感を感じている。
近々『華厳経』(Avataṃsaka-sūtra)の英文解説書を購入したいと思っている。華厳経は大乗仏教の中でも最大級の規模を誇る経典であり、インドにおいて断続的に成立した諸経を中国で統合して編成されたものである。特に80巻本(唐訳:実叉難陀訳)と40巻本(般若三蔵訳『入法界品』、すなわち『善財童子53参』)が有名であり、全体を通じて仏の悟りの境地「法界」の相互浸透性を説き、菩薩の修行過程を壮大な宇宙的視野で描き出している。一旦ここでは、80巻本を中心とした全体構成と、各章(品)の内容を要約的にまとめておきたい。まず冒頭に置かれる「世主妙厳品」では、無数の世界の主(世主)が釈迦如来の説法の場に集い、仏の功徳と荘厳を讃嘆する場面が描かれる。ここで華厳経の宇宙的規模が示され、無量の仏刹が相互に輝き合う「法界縁起」の基本構造が提示される。続く「如来現相品」では、如来の身相が法界全体に遍満し、1つの相の中に無限の相が含まれる「一即一切」の理念が示される。ここで既に、仏の身体や智慧が宇宙全体を包み込み、衆生の心に対応して現れることが強調される。「普賢菩薩行願品」では、普賢菩薩の広大な誓願が説かれ、とりわけ「十大願王」が菩薩道の総括として掲げられる。これらは後世中国・日本の仏教実践に深く影響し、特に天台宗・真言宗の修行体系に取り入れられた。中盤の諸品では、「十住品」「十行品」「十廻向品」「十地品」など、菩薩道の段階が体系的に描かれる。「十住」は発心から仏道に安住する段階を示し、「十行」は衆生利益のための実践的行動を説き、「十廻向」は自らの功徳を衆生や仏果へと回向する利他の精神を明かす。そして「十地品」では、菩薩が初地から十地に至る過程を通じて智慧と慈悲を完成させる姿が詳細に展開される。この四段階は大乗仏教における菩薩道の理論的枠組みの中心をなし、華厳宗の「五位十玄門」などの哲理に結晶した。さらに「十定品」「十忍品」「十無尽蔵品」などでは、菩薩が到達する深遠な禅定や忍辱、智慧の無尽性が説かれ、修行が単なる段階的上昇にとどまらず、無限に展開することが示される。後半に進むと「如来十身相海品」や「如来出現品」などで、如来の身と智慧が宇宙全体に網の目のように広がっていることが語られ、事事無礙法界の構造が視覚的・象徴的に描写される。特に「十身相海品」では、仏が十種の身となって衆生と交感し、その全てが相互に含み合うことが説かれる。そして経典全体のクライマックスを形成するのが「入法界品」(40巻本の独立経典でもある)。ここでは、善財童子が文殊菩薩に導かれ、53の善知識を巡礼する物語が展開する。善財は比丘・菩薩・女神・商人・芸術家など多様な存在から教えを受け取り、その都度新しい視野を獲得していく。これは、仏道が単一の師弟関係に閉じるのではなく、無数の関係性の中で展開されることを象徴している。最後に彼は普賢菩薩のもとで菩薩道の総合的実践を学び、普賢の「十大願」をもって入法界の修行が完成する。この物語的展開は、華厳経の抽象的な宇宙論を具体的な修行譚として結晶させており、経典全体の締めくくりにふさわしい。総括すれば、『華厳経』の構成は大きく三段階に整理できる。第一に、仏と法界の宇宙的荘厳を示す冒頭部分。第二に、菩薩道を体系化する十住・十行・十廻向・十地などの段階論。第三に、善財童子の遍歴を描く「入法界品」という物語的実践譚である。これらを通じて経典は、仏智の壮大さ、菩薩道の体系性、修行者の実践的歩みを総合的に描き出している。『華厳経』は単なる抽象的哲学書ではなく、宇宙的存在論と具体的修行譚を融合させた仏教思想の総合大成であり、その影響は中国の華厳宗、日本の天台・真言・華厳各宗をはじめ、芸術や文学、思想界にまで広がっている。すなわちその全体構成は、「宇宙的法界の荘厳」と「菩薩の段階的修行」と「善財の遍歴譚」という三位一体の形式で、仏教の究極的世界観と人間的実践を同時に表現しているのである。フローニンゲン:2025/9/29(月)16:37
Today’s Letter
Birds’ chirping in the morning resonates with the natural music of the world. My own inner music naturally corresponds to it. Groningen, 09/29/2025
コメント