top of page

【フローニンゲンからの便り】17431-17433:2025年9月24日(水)


ree

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

17431

大学院への出願を通じた良き出会い

17432

今朝方の夢

17433

今朝方の夢の振り返り

17431. 大学院への出願を通じた良き出会い  

                       

時刻は午前6時を迎えた。今の気温は7度と低いが、起床してすぐに半身浴をし、さらにそこから冷水シャワーを浴びたので、体が芯から温まっている。ここからフローニンゲンはしばらく良い天気が続く。もはや最高気温は20度に満たないが、晴れの日が多いことは何よりであり、朝は秋を感じさせる朝日をしっかりと浴びたいと思う。


今回のイギリスの大学院への出願を通じて、また良き出会いがあり、良縁が広がっていきそうな予感がある。昨日は、オックスフォード大学のケイト・クリスビー教授から返信があり、オックスフォード大学の仏教プログラムについて詳細な回答をしてくれた。オックスフォード大学の仏教プログラムは、世界的に見てもおそらく最も入学要件が厳しく、プログラム自体の要求水準が極めて高い。自分は良遍の思想探究をしたく、まずは法相二巻抄の註釈研究に従事したいと考えており、それは中世日本語で執筆されている。そうしたこともあり、プログラムの1年目で要求される仏教外国語は中世日本語を専攻したかったが、あいにくそれはなく、どうしたものかと思って相談したところ、古典中国語を推薦してもらった。確かに良遍のその他の作品は全て古典中国語で執筆されていることもあり、古典中国語を1年目にしっかりと学んでいこうと思った次第である。クリスビー教授はミン・フゥイ教授という古典中国語の専門家を紹介してくださり、フゥイ教授にその点を相談した。オックスフォード大学のプログラムに限らず、どのプログラムに進学したとしても、1年目から博士課程への進学に向けて博士論文のドラフトを執筆していきたいと考えている。まさに博士課程では古典中国語で書かれた因明大疏私抄の註釈研究をしたいと考えており、フゥイ教授には古典中国語の観点からアドバイスを貰いたいと思う。実際にすでにその註釈研究に向けて転写を始めているのだが、辞典を調べても出てこない感じがいくつかあるので、それらの読みと意味をフゥイ教授に尋ねてみたいと思う。またフゥイ教授が担当するのは単に古典中国語の授業だけではなく、古典中国語で書かれた華厳経を扱うコースもあり、それはぜひ履修したいと思う。というのも、良遍は華厳宗と法相宗の融和に務めた功績もあり、良遍のその試みをさらに紐解くためにも重要なコースになるだろう。クリスビー教授はオックスフォード大学にいる教授だけではなく、SOASのルシア・ドルチェ教授を紹介してもらった。日本仏教を専門とするドルチェ教授に早速連絡を取ったところ、速やかに返信してくださった。ドルチェ教授は日本仏教に関心があり、仏教と神道との接点を探究する研究にも従事しておられるとのことで、まさにそれを試みていた良遍の思想の研究をする上でアドバイザー候補に相応しいと思って連絡をさせていただいた次第である。この秋にイギリスを訪れたときに、やはりせっかくなのでロンドンにも滞在し、SOASを見学してきたいと思っている。すでに日にちは決めており、ドルチェ教授とも30分でいいので面会ができないかの打診をしたところである。すでにブリストル大学のアドバイザー候補の教授にも連絡を取っており、あとはエディンバラ大学のアドバイザー候補の教授を見つけ、その教授にも連絡を早めに取っておきたい。フローニンゲン:2025/9/24(水)06:17


17432. 今朝方の夢 

               

今朝方は夢の中で、見慣れない屋内施設の中にいた。そこはどうやら種々のインドアスポーツを楽しめる施設のようで、自分の目の前には高く聳え立つクッション性のマットがあった。そのマットの上には数人の外国人が何かスポーツを楽しんでいるようだった。どうやらまずは地面からジャンプして、数メートル上のマットの上に飛び乗ることが求められているようだった。そしてマットの上に着地した箇所に何か仕掛けがある可能性があり、2人の外国人はマットの穴に沈んでいた。厳密には、地面にいる際にゴルフボールを打ってマットの上に上げて、そこから自分の体をジャンプさせてマットの上に持っていく必要があった。この得体の知れない競技に自分も関心を示し、まずやってみようと思った。自分の一打目は、あえてマットの端に着地させることにした。というのも、真ん中に着地した人たちが軒並みマットの穴に落ちていたからである。端に着地した自分は、逆にマットの全体を眺め渡すことができ、ここから次の一打をどこに打つかを考え始めた。 その他に覚えているのは、実際に通っていた中学校の廊下を歩いている場面である。しばらく廊下を歩き、階段を上がって教室のある階に行こうとしたら、踊り場の洗面所の端に冷水機が設置されていることに気づいた。そこに2人ほどの女性友達が向かっている姿が見え、自分も彼女たちの後に水を飲もうと思ったが、考えを変えて速やかに教室に戻ることにした。階段を上り切って廊下を歩いていると、ある双子の友人の弟と遭遇し、彼と話しながら歩いていると、教室の手前で彼が非常に難しい英単語を咄嗟に口にした。それは確かに自分も知っている単語ではあったが、会話の中で使ったことは一度もなく、単に認識できるだけの単語だった。教室に入ったタイミングで、彼にその単語をどこで習ったのかと尋ねたら、彼もまたそれは単語帳を通じて知っただけだと述べた。自分も同じく単語帳を通じてその単語を知っていたのだが、彼はそれを会話の中で咄嗟に活用できたことがすごいと思った。自分の学習方法も応用をより意識したものにしなければならないと思った次第である。教室の真ん中の席に座ると、音楽の先生が教室にやってきた。先生は放送委員の顧問でもあり、自分は放送委員長でもあったので、先生から何か文句を言われるのかと思ったら、案の定そうだった。しかし文句というよりも、放送委員長としての仕事をサボっていた自分の仕事ぶりに関して仄めかすようなことを幾分笑みを浮かべながら述べた。先生は別に怒っているわけではないようで安堵し、放送委員長としての仕事もまたぼちぼちちゃんと全うしていこうかと思った。フローニンゲン:2025/9/24(水)06:30


17433. 今朝方の夢の振り返り

                          

今朝方の夢の冒頭に現れる屋内施設と、そこに据えられたクッション性のマットは、人生の試練や挑戦を象徴しているかのようだ。マットの高さは、単なる運動の障害物ではなく、精神的あるいは社会的な「壁」としての性質を帯びている。地面からジャンプしてそこに到達する行為は、基盤の上に積み上げられた既存の経験から、より高次の場へと飛び上がる移行の比喩である。そして、マットの中央に着地した者が穴に沈んでしまうという仕掛けは、中心すなわち安全で当然と思われる選択が必ずしも安泰ではないことを示している。夢の中の自分があえて端に着地することを選んだのは、思考の柔軟さと戦略的な眼差しを表すものであり、既存の規範や「多数派の真ん中」に従うのではなく、あえて視野を確保できる立ち位置を取ることが未来の可能性を広げるという直観を暗示している。ここには、自己の生き方における「俯瞰」と「独自性」の志向がにじみ出ているのである。次の場面で現れる中学校の廊下は、過去の自我形成期を象徴する舞台である。そこに冷水機が設置されていたことに気づくのは、学びや記憶の場においてもなお新しい「潤い」や「清涼感」を得られる可能性を示している。女性の友人に続いて水を飲もうとするが、結局飲まずに教室へ向かう選択は、自己の欲求を一時的に抑えて目標に進む決断を意味する。これは欲望よりも学びや責務を優先する姿勢の表象である。双子の弟との会話において、難解な英単語が唐突に飛び出す場面は、知識の「認識」と「活用」の間にある隔たりを突きつけている。知っていることと、それを即興的に用いることは異なる。夢の中で自分が感心するのは、単なる知識の蓄積ではなく、それを文脈に応じて生き生きと運用できる力こそが真の学習の成果であることを無意識が教えているからである。ここで自分が「応用を意識した学習が必要だ」と悟るのは、夢が自分に課す成長課題をそのまま映し出したものである。すなわち、知識を所有することから、それを流動的に使いこなす能力への転換である。最後に登場する音楽の先生は、規律と創造性の双方を象徴する存在である。放送委員長という役割は、声を社会に届ける責務、すなわち「表現の責任」を意味している。先生が怒るのではなく笑みを浮かべて仄めかす形で注意を促すのは、外的権威の強制ではなく、内的な良心の呼びかけを示している。自分がその場で安堵しつつ、また責任を果たそうと決意するのは、過去の怠惰や躊躇を超え、社会的役割を再び真剣に担おうとする内的な覚悟の表れである。この夢全体を貫く構造は、「挑戦―選択―応用―責任」という流れに収斂している。高いマットに挑むことは未知への挑戦であり、冷水機の場面は欲求と選択の葛藤を示し、難解な英単語は知識の応用力への覚醒を促し、先生との対話は責任の再確認へと至っている。つまりこの夢は、自分がこれから直面する人生の局面において、単なる知識や立場の保持ではなく、それを応用し、独自の視点を持ち、なおかつ責任を引き受けて社会と関わる必要があることを告げているのである。人生における意味として、この夢は「内的成長の第二段階」を示していると言える。すなわち、過去の学びを単なる所有物として抱えるのではなく、それを即興的に活かす柔軟さを養い、その上で社会的責務を引き受ける器を広げることである。端に着地して全体を眺めるように、自分の人生においても中央の安易な道ではなく、自らの選択で視座を確保し、そこから責任と応用力をもって歩んでいくことが、未来を開く道であると夢は示しているのだろう。フローニンゲン:2025/9/24(水)06:55


Today’s Letter

I am highly motivated to pursue Buddhist studies in academia. I plan to read as many books and papers on Buddhism as possible, which will be helpful not only for my graduate studies but also for my future research. Groningen, 09/24/2025

 
 
 

コメント


bottom of page