【フローニンゲンからの便り】17427-17430:2025年9月23日(火)
- yoheikatowwp
- 9月25日
- 読了時間: 11分

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タイトル一覧
17427 | 量子力学の3つの解釈 |
17428 | 今朝方の夢 |
17429 | 今朝方の夢の振り返り |
17430 | 秋のイギリス訪問に向けて |
17427. 量子力学の3つの解釈
時刻は午前5時半を迎えた。今日は昨日同じく晴れのようだが、気温は17度までしか上がらない。それでも昨日よりは2度ほど高いので寒さは感じないだろう。日の出の時間も午前7時半に近くになっており、秋が深まってきたことを感じる。
量子力学の解釈は、同じ数式から異なる世界観を導き出す試みであり、その中でも「コペンハーゲン解釈」「多世界解釈」、そして「トランザクショナル解釈」は代表的な3つである。これらを比較することで、量子理論が抱える根本的問題──特に波動関数の収縮、観測の役割、非局所性──がいかに多面的に解釈され得るかが浮かび上がるだろう。コペンハーゲン解釈はニールス・ボーアらによって確立され、20世紀の主流となった考え方である。ここでは波動関数は「確率振幅を与える道具」と見なされ、観測が行われた瞬間に波動関数が「収縮」して特定の結果が現れるとされる。つまり、測定以前には粒子は確率的に広がった可能性の重ね合わせにあるが、観測によって1つの現実が確定する。この立場の強みは実験結果と即応的に一致する点にあるが、「なぜ観測で収縮するのか」「観測者の意識はどの程度関わるのか」という問題を残す。量子力学に不可避的に観測者を導入せざるを得ないため、科学的客観性に疑問を投げかけると批判されてきた。これに対し、多世界解釈(エヴェレット解釈)は、波動関数の収縮という人工的ルールを廃し、シュレーディンガー方程式のユニタリな発展のみを認める。その結果、観測によって波動関数が収縮するのではなく、宇宙が分岐して「すべての可能性が実際に生起する」と考える。観測者は分岐した世界の1つに属するだけであり、他の可能性も並行世界として存在し続ける。この解釈は数理的にシンプルであり、収縮問題を回避する点が大きな魅力である。しかし「無数の世界が本当に存在するのか」という形而上学的な負担を背負い、観測確率の意味づけ(なぜボルン則が成り立つか)も直感的には難しい。トランザクショナル解釈は、ジョン・クレイマーが1986年に提唱したもので、ウィーラー=ファインマンの時間対称的な電磁理論を量子力学に応用した試みである。ここでは、量子相互作用を「オファー波」と「確認波」のやりとりとして描く。発射側が未来へ向かってオファー波を出し、受信側が過去へ向かって確認波を返す。両者が一致すると「トランザクション(握手)」が成立し、その結果が物理的事象として観測される。この枠組みでは波動関数の収縮は「握手が成立した瞬間」として自然に理解され、観測者の意識を持ち込む必要はない。量子過程は客観的な取引の成立として描けるため、観測問題を新たな視点で整理できる。三者の比較をまとめると、コペンハーゲン解釈は「観測によって現実が確定する」という立場を取り、観測者と物理現象の境界に哲学的な曖昧さを残す。多世界解釈は「収縮を廃して世界の分岐を受け入れる」ことで数学的整合性を守るが、膨大な実在を認めることになる。トランザクショナル解釈は「未来と過去の波のやりとりによる握手」という時間対称的な過程を導入することで、収縮を物理的プロセスとして説明する。ただし未来からの波という直観に反する要素を受け入れる必要がある。この比較から見えてくるのは、いずれの解釈も「波動関数とは何か」「現実とはどこで確定するか」をめぐる問いに対する異なる応答であるという点である。コペンハーゲン解釈は実用主義的で謙虚だが曖昧さを残し、多世界解釈は数理的純粋さを保つ代わりに形而上学的負担を強め、トランザクショナル解釈は因果律を時間対称に拡張することで新しい直観を与える。それぞれが補完的に量子の神秘を映し出しており、いまだ決着はついていない。むしろ、この多様な解釈の存在自体が、量子力学が単なる技術理論を超え、現実と時間の本性に迫る哲学的問いを含んでいることを示してい点で非常に興味深い。フローニンゲン:2025/9/23(火)05:44
17428. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、地元の海水浴場で釣りをしていた。しかし、陸から釣りをしていたのではなく、自分は空を飛びながら釣りをしていた。ロッドを持ち、ルアーを海に垂らして、そのまま宙を移動する形でルアーを海の中を移動させていたのである。するとすぐさま当たりがあり、なかなか大きな魚だと思った。空を飛んでいる加速度を活かして魚を陸に上げようと思ったら、気づけばもう国道の方まで出てきており、逆に減速させる必要が出てきたので、ゆっくりと高度を下げて歩道に地面をつける形で、摩擦力を通じて減速させた。釣り上げたのは白マグロのようで、珍しい魚だった。早速自宅に持って帰ることにし、その他にも釣れた魚や天使のような不思議な存在からプレゼントしてもらった魚を含めて、7匹ぐらいの魚を入れたバケツを持って自宅に戻った。魚たちが死なないようにバケツには少し水を入れておき、調理は父に任せようと思ったのでキッチンの床にバケツを置いておくことにした。父はバケツに入った珍しい魚たちを見て驚いており、同時にそれらを釣り上げた自分を誉めてくれた。気がつくと自分は再び海に戻っていた。今度は波止場で小中学校時代のある友人(KM)と釣りをしていたら、イルカが波止場の海に迷い込んできた。すると、イルカが突然ジャンプして波止場の陸に上がった。驚いたことに、そのイルカは流暢な日本語を話した。どうやら少し陸で休みたいとのことであり、イルカを陸に寝かせ、体が熱くなっているようだったので冷たい水で冷やしてあげることにした。姿も声も可愛らしいイルカだなと思いながら介抱し、再び釣りに戻ろうと思ったところで場面が変わった。
もう1つ覚えている場面は、父の車に母と乗って移動している場面である。見慣れない住宅地の道を走っていると、突然目の前に人が現れ、父はその人を轢いてしまった。幸いにも急ブレーキをかけてぶつかる衝撃を下げたので、その人は無事だったが、警察へ届け出なければならなかった。すると場面は見慣れない商店街へと移った。そこでも父が運転する車に母と乗車していた。商店街の中の道だったこともあり、ゆっくりな速度で車を走らせていると、父はまた人を轢いてしまった。今度は酔っ払った中年のサラリーマンだった。今回は速度も遅かったことにより、軽くぶつかった形だったが、それでもこれまた警察に届け出る必要が本来はあった。しかし、父は車をバックさせていき、商店街のアーケードの始点まで戻って車の中からその男性の様子を確認していた。先ほどはすぐさま車を降りて、車にぶつかった人の安否を確認していたが、今回はそれとは違う対応をしていた。フローニンゲン:2025/9/23(火)06:04
17429. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の構造を見渡すと、まず2つの大きな軸が浮かび上がる。ひとつは「空を飛びながら釣る」という超越的な行為と「珍しい魚を得て父に認められる」という祝祭的・承認的な場面であり、もうひとつは「父の運転による事故」という突発的な破局の場面である。両者は一見対照的であるが、実は同じ根に属しているかのようだ。すなわち、自己が「力を得て外界から恵みを収穫する次元」と「力を制御しきれず他者を傷つけてしまう次元」の両面を同時に体験しているのである。最初の釣りの場面では、空を飛ぶという自由の象徴が現れている。これは地上の制約を超えて自らの可能性を広げる力を意味している。魚を釣る行為は潜在意識の深みに潜む知恵や創造力を引き上げることであり、その魚が珍しい白マグロであることは、通常の努力では得難い稀有な成果や洞察を象徴している。さらに天使のような存在からの贈与というモチーフは、単なる努力だけではなく、不可視の力や運命からの援助が伴っていることを暗示している。そして魚を持ち帰り父に任せるという行為は、父性原理への委託である。ここでは「自ら獲得した創造的資源を成熟した権威に渡し、それを評価される」という構造があり、父からの承認は主体の成長の証明として機能している。次のイルカの場面は、釣りというテーマが続くが、今度は友人と共に行っている。ここで現れるイルカは「知性と遊戯性を兼ね備えた存在」であり、しかも日本語を話すという点で、無意識的なものが意識の言葉に翻訳される象徴である。自分はイルカを介抱し、生命を尊重する態度を示している。これは「得た力をただ利用するのではなく、ケアし支える」という方向性を暗示しており、先の魚を収穫する場面と補完関係にある。つまり創造的な資源を得るだけでなく、その資源や存在を生かし、守る責任があることを示しているのである。一方で、父の運転による事故の場面は、前半の祝祭的な体験とは反転した相貌を示す。ここでは父は「制御者」「導く者」として車を運転しているが、繰り返し人を轢いてしまう。最初は誠実に安否を確認するが、次は距離を取って確認するという対応の変化が描かれる。この構造は「権威的原理の限界」や「判断の揺らぎ」を象徴する。父が繰り返し失敗をすることは、父性原理=秩序や規範そのものが完全ではなく、時に他者を傷つける可能性を孕んでいることを告げている。つまり父の承認を得ることで自己は自らを確かにするが、同時にその父もまた過ちを繰り返す存在であるという両義性が示されているのである。この夢全体を貫く構造は、「創造と破壊」「獲得と制御」「承認と失敗」の二重性である。自己は空を飛び魚を釣り上げるという超人的な力を持つ一方で、その力を地上にどう着地させ、どう制御するかが問われている。父は承認者であり同時に失敗者として現れることで、「外的権威に委ねるだけでは不十分であり、最終的には自らが責任を持って力を制御する必要がある」という課題を提示している。人生における意味として、この夢は「与えられた才能や稀有な成果を、父や他者の承認に委ねる段階を経ながら、やがて自らの責任で制御し活用していくべきである」という成長の過程を示していると言える。魚は潜在的な可能性、イルカはそれを言語化し共有する能力、そして父の事故はその力を誤って使ったときに他者を傷つける危険を象徴している。したがって夢の中心的なメッセージは、「自らの飛翔の力を現実に着地させ、承認に依存せず責任をもって他者と共有すること」にあり、それが今後の人生において主体が歩むべき方向性を示しているのである。フローニンゲン:2025/9/23(火)06:25
17430. 秋のイギリス訪問に向けて
時刻は間もなく午前10時を迎えようとしている。今日は早朝から天気が良く、先ほどは朝日を浴びながらジョギングとウォーキングを楽しんだ。この時間はUVインデックスの値は低く、日焼け止めを塗る必要のない値であり、柔らかい朝日を全身に浴びれることは有り難い限りである。
昨日、嬉しいことにオックスフォード大学のヤン・ウェスターホフ博士からメールの返信があり、11月のキャンパスビジットの際に面会させてもらえることになった。今朝方はウェスターホフ博士に加えて、ブリストル大学のベネデッタ・ロミ博士に連絡をし、同じく面会の機会をもらえないかとメールをしている。今年はオックスフォード大学、ブリストル大学、エディンバラ大学、ロンドン大学東洋アフリカ研究学院(SOAS)に出願をする予定である。いずれかの大学に1校でも合格すれば、そこに進学しようと思っている。理想的には、前者2つの大学院が最初から自分の研究に従事させてくれる修士課程プログラムを提供しているので、前者2つの大学院に進学できたら幸いである。もちろん後者2つの大学院でも自分の研究に従事でき、修士論文を書かせてもらえるが、履修しなければいけないコースワークがあり、自分のように研究テーマが明確で、尚且つ複数の論文を執筆したいと思っている人間にとっては一般的な修士課程プログラムよりもリサーチ型のプログラムの方が好ましい。こうしたプログラムは日米ではあまり聞かず、オランダにも似たようなプログラムがあるが、それでも少しはコースワークが入ってくる。オックスフォード大学のプログラムの1年目は若干コースワークのような印象を持たせるコースを履修する必要があるようだが、ブリストル大学は完全に1年間自らの研究だけに従事できるようだ。エディンバラ大学とSOASのアプリケーションはまだオープンになっておらず、ウェブサイトを確認すると、10月中にアプリケーションの受付が開始になるそうだ。それまでにまずは前者2つの大学院のアプリケーションのあらかたを準備しておきたいと思う。オックスフォード大学のプログラムについてはもう少し確認したいことがあるので、それについては別途プログラムの窓口になっている教授に確認のメールをしたい。
ウェスターホフ博士と面会の約束をすることができたので、11月中旬のイギリス訪問計画を立てようと思う。オランダからの経路として、まずはスコットランドのエディンバラに訪れ、エディンバラ大学でアドバイザー候補の教授と面会ができたらと思う。何日エディンバラに滞在するかは見ていただが、2日か3日ほどエディンバラに滞在した後に、飛行機ではなく列車でエディンバラからロンドンに行き、ロンドンでも一泊してSOASを訪れ、そこで同じくアドバイザー候補の教授と面会ができたらと思う。SOASは英国博物館と目と鼻の先なので、7年ぶりに英国博物館にも足を運びたい。そこからブリストルへ列車で移動し、ブリストルでも数泊滞在することで、街の雰囲気を味わい、ロミ博士と面会できたら幸いである。そこからオックスフォードに移動して、同じく数日ほどオックスフォードに滞在しながら街の雰囲気を掴み、ウェスターホフ博士と面会する旅を計画している。早速ホテルや航空券を午後にチェックしてみよう。フローニンゲン:2025/9/23(火)10:11
Today’s Letter
As autumn deepens and the sunrise lingers, the world outside grows darker, yet my inner world shines with unwavering brightness. Groningen, 09/23/2025

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