【フローニンゲンからの便り】17382-17388:2025年9月13日(土)
- yoheikatowwp
- 2025年9月15日
- 読了時間: 23分

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タイトル一覧
17382 | ゼミナールの第149回のクラスの予習(その1) |
17383 | ゼミナールの第149回のクラスの予習(その2) |
17384 | 今朝方の夢 |
17385 | 今朝方の夢の振り返り |
17386 | ヴェールに覆われた実在と唯識思想との接点 |
17387 | ジョン・ベルの『Speakable and Unspeakable in Quantum Mechanics』 |
17388 | ピーター・バーンによる『The Many Worlds of Hugh Everett III』 |
17382. ゼミナールの第149回のクラスの予習(その1)
時刻は午前7時半を迎えた。今の気温は12度と低く、今日の最高気温は18度と限定的である。秋の深まりを味わいながら、今日のゼミナールの第149回のクラスの予習をしておきたい。今日からザカリー・スタインの『On Operationalizing Aspects of Altitude』という論文を扱っていく。今日も事前に5つの問いを受講生の方々に共有した。それらのうち、まずは理論的な3つの問いを見ていく。1つ目の問いは、「ケン・ウィルバーのインテグラル理論における「四象限モデル」とは何を意味し、それぞれの象限はどのような区分を表しているか説明しなさい」というものである。インテグラル理論の四象限とは、人間経験と知の領域を主観(個人の内面)・間主観(集合の内面)・客観(個人の外面)・間客観(集合の外面)という基本的区分に整理し、個体と集合の「内/外」を二軸で図示したものである。これは第一人称・第二人称・第三人称という視点の体系化から導かれ、各象限は互いに還元不能な現象領域と探究方法を持つという前提に立つ。すなわち、左上象限(UL)は個人の内的経験とその構造、右上象限(UR)は個人の外的様相(行動・生理)、左下象限(LL)は文化的意味世界、右下象限(LR)は制度・システムのダイナミクスを表すのであり、これに基づく方法論の精緻化が統合的方法論の多元主義(IMP)である。IMP では8つの原初的視点(ゾーン)が区分され、UL 内部の現象学と構造主義、LL の解釈学とエスノメソドロジー、UR のオートポイエシスと経験主義、LRの社会的オートポイエシスとシステム理論が対応づけられる。この区分は、学問領域を恣意にではなく視点の論理から体系づける枠組みであり、本論の心理学的議論の土台をなすものである。2つ目の問いは、「「ライン(lines)」と「レベル(levels)」の違いを具体例を用いて説明しなさい。また、この区別が発達心理学においてなぜ重要であるのかを論じなさい」というものだ。ラインとレベルの差異は、発達研究の中心的区別である。ラインとは心理機能の相対的に独立した領域(道徳的推論、自然物理への推論、リーダーシップ推論等)であり、レベルとは各ライン内部で順序的に組織化される発達の節目(段階・秩序)である。ゆえに一個人は、物理的推論では高度でありつつ、道徳的推論では相対的に未熟であるという非同期のプロフィールを持ちうる。この非同期は、能力の分布が領域間で異なるという実証的知見に支えられ、サイコグラフ(psychograph)という表現で可視化される。サイコグラフでは縦軸が共通の発達的高さ、横に複数のラインが並置され、例えば数学的能力が音楽的能力より高位にあるといった「個人内差」を示す。このような区別が重要なのは、評価や介入を「総合点」でなく、どのラインのどのレベルにボトルネックがあるかという設計可能な単位に落とし込めるからであり、成人発達においても領域別の育成戦略(例:倫理的熟慮と言語的抽象の分離評価)を可能にするからである。3つ目の問いは、「ウィルバーが提唱する「Altitude(高度性)」は、異なる発達ラインを共通の尺度で比較するためのメタ概念である。一方で「ライン絶対主義(line absolutism)」の危険性が指摘されている。この両者の緊張関係を説明し、Lectical™ Assessment System(LAS)がどのようにしてこの問題に応答しているかを論じなさい」というものだ。Altitude(高度性)は、多様な発達ラインが1つの共通空間を「上方」へ推移するというメタ概念であり、心理グラフの縦軸(y 軸)として各ラインを整列させうる仮想的「物差し」を与える。ウィルバーは、この縦軸を説明する仮説として、(a)認知ラインが他のラインの成長の必要条件として機能するという見解、(b)縦軸それ自体を「意識一般」の勾配とみなす見解、の併用を提示する。しかし同時に、特定ラインの段階語彙(例:道徳の前・慣・後慣)を他のラインへ外挿する「ライン絶対主義(stream/line absolutism)」を厳しく戒め、各ラインの段階構造はリンゴとオレンジの関係にあり相互還元できないとする。ゆえに高度性は経験的概念というより、異分野の測定を同一発達空間に整列するための規制的・方法論的理念であり、「それ自体」を直接操作的定義するのではなく、その側面を操作化するしかない。言い換えると、高度性というのは、実際に直接観察できる“データ”そのものではなく、いろいろな発達の測定方法をひとつの共通の地図の上に並べるための“方針”や“ものさしのイメージ”に近い。ゆえに「高度性そのもの」をそのまま測ることはできず、抽象度や複雑さといった一部の性質に着目して“代理的に”測るしかない。この緊張に対し LAS は、内容固有のモデル語彙を避け、言語的パフォーマンスに表出する階層的複雑性という領域横断的特性を測る「物差し」として機能することで応答する。すなわちLAS は、異なるタスクに対する応答を同一の尺度上で得点化し、ラインごとの固有構造を保ったまま共通の縦軸で比較可能にする。これは「モデル(各ラインの理論)」と「メトリック(測定軸)」の混同を避ける戦略であり、ライン絶対主義への懸念を和らげる。加えて、Raschモデリング(テストや評価の得点を「難易度」と「能力」の両面から共通の物差しで測り直し、結果を客観的で比較可能な尺度に変換する統計的手法)による検証では、LAS と領域別測定(コールバーグや Armon 等)を再標準化して比較した際に高い相関(r≈.92、R²≈.85)が示され、両者が事実上同一の潜在次元—階層的複雑性として顕現する高度性—を測っていることが裏づけられている。したがってLAS は、高度性の「側面」を言語的証拠に即して操作化し、サイコグラフ構築の実務を簡素化する方法論的基盤を提供するのである。フローニンゲン:2025/9/13(土)07:53
17383. ゼミナールの第149回のクラスの予習(その2)
4つ目の問いは、「あなたが「リーダーシップ能力の発達」を調べる研究者であると仮定する。LASを用いてサイコグラフ(psychograph)を作成する際、どのようなタスクや質問を参加者に与えればよいか、具体的に2つ以上挙げ、その理由を説明しなさい」というものだ。リーダーシップ能力の発達を LAS でサイコグラフ化するには、言語的パフォーマンスを通じて異なるコンピテンシーを表現させる複数タスクを設計し、各タスクの応答を同一の「階層的複雑性」尺度で採点・配置すればよい。具体的には、(1)現場の意思決定を迫る職場ジレンマ(意思決定スキル)、(2)「リーダーシップとは何か」を問う概念的インタビュー(リーダーシップ推論)、(3)利害対立を含む倫理的ジレンマ(倫理的推論)、(4)与件付きの戦略立案演習(全社的視座)などを組み合わせる。これらはすべてオープンエンドであり、受検者に多面的な視点統合・因果連結・抽象化・原理化の言語構造を生成させる設計とする。収集後は、各タスクを同一の物差しでスコア化し、ライン別に得点を並置することで、同期的サイコグラフ(ある時点の領域分布)や通時的サイコグラフ(同一人物の時系列推移)を構築できる。かかる手順により、単一の総合段階評定では捉えにくい強み・脆弱性のプロファイルが明瞭化し、領域別の育成設計に接続可能となるのである。最後の問いは、「組織研修や成人教育の場面において、従来の「内容依存型の評価(例:業務知識テストやケース問題の正答率)」と、LASのような「階層的複雑性に基づく評価」とでは、どのような違いが生じるか。成人学習者やリーダー育成に与える影響を2点以上挙げて説明してください」というものだ。従来の内容依存型評価は、特定領域の知識や「正解」の保有を指標化する方式であり、業務知識テストの得点やケース問題の選択肢正答率など、内容固有の到達度を測るものであるのに対し、LAS に代表される階層的複雑性に基づく評価は、受検者の言語的パフォーマンスに現れる抽象化・統合・関係づけの構造を測定軸とし、領域横断で比較可能な「発達の物差し」を与える点に本質的差異があると言えるのである。前者は「何を知っているか・どう答えたか」という内容の適合性を主眼とし、後者は「どのような論理構造で語り、どのレベルまで統合できるか」という形式的・構造的成熟度を主眼とするため、評価によって学習者に返されるフィードバックの性質と、その後の育成設計が大きく異なるのである。以下、その違いが成人学習者およびリーダー育成に与える主要な影響を述べる。第一に、フィードバックの解像度と転移可能性が異なるのである。内容依存型評価は「知識の穴」を局所的に特定しやすく補講計画も立てやすいが、獲得した対症療法的知識が新しい文脈へ転移する保証は弱いという限界を持つ。他方、階層的複雑性評価は、受検者が複数の視点や制約(利害・時間軸・不確実性など)をどの階層で統合できているか、どの抽象度で原理化できているかを可視化するため、学習成果が領域や状況を越えて転移する可能性を高める学習方策(例:視点統合の訓練、メタ認知の強化、原理―事例往還の設計)に直結するのである。リーダー育成では、単発の「正解選択」よりも、関係者間のトレードオフを原理水準で整理し、選好と根拠を言語化できる力が役割遂行の中核であるため、後者の評価がより実務適合的なフィードバックを提供しうるのである。第二に、育成設計(カリキュラム設計・難易度設計)の粒度と順序性が異なる。内容依存型評価はシラバスの章立てに沿って到達度を測るため、知識モジュールの追加・削除という水平加算的な処方に傾きやすい。対して階層的複雑性評価は、受検者が現在どの統合階層にいるか(例:単純な並列列挙→一次の因果連結→多変量の相互制約系→上位原理への束ね)を示すため、課題の提示順や支援の足場かけ(スキャフォールディング)を、構造の段階跳躍に最適化して設計できるのである。結果として、単なる知識の「足し算」ではなく、思考の「作り替え(再組織化)」を狙った成人発達的介入が可能になるのである。第三に、人財プロファイリングと配置・選抜の妥当性が異なるのである。内容依存型評価は特定ドメインの熟練度が高い者を選抜しやすい反面、ドメインが変わるとパフォーマンスが劣化するリスク(狭域エキスパート問題)を内包する。階層的複雑性評価は、意思決定、倫理的熟慮、戦略的統合など異なるラインを共通軸で採点しサイコグラフ化できるため、役割要件に応じた強み・弱みの立体把握と、配属・育成の精緻化に資する。とりわけ管理職・経営層候補の選抜では、知識量よりも統合階層の高さが職務適合に直結する場面が多く、後者の評価の有用性は大きいのである。第四に、学習者の動機づけとメタ認知の形成が異なる。内容依存型評価は「正解獲得」への外発的動機を強めやすく、テスト対策的学習に収斂しがちであるのに対し、階層的複雑性評価は「より高い統合様式で語る」ことが明確な学習目標となるため、自己説明・問いの生成・視点切替といったメタ認知的実践を促進しやすいのである。成人学習においては、経験の再物語化と内省が学習の主たる駆動要因であり、構造的フィードバックは学習者の自己評価基準そのものを洗練させる効果を持つ。もっとも、階層的複雑性評価にも限界と注意点がある。第一に、言語的パフォーマンスに依拠するため、身体化された実践知や暗黙知の捕捉には補助的観察(360 度フィードバック、現場同行、行動観察)を要する。第二に、複雑性の高さを過度に価値づけると、迅速なヒューリスティック判断や単純明快な意思伝達の価値を過小評価する逆機能が生じうるため、役割・状況に応じた「十分条件としての複雑性」の見極めが必要である。第三に、評価の設計・採点に専門性を要し、導入当初は教育者側の訓練コストが発生する。ゆえに実務では、内容依存型評価と階層的複雑性評価を相補的に用い、前者で基礎的ドメイン知識を担保しつつ、後者で統合様式の発達をモニタする二層設計が妥当である。以上より、組織研修・成人教育の文脈では、内容依存型評価は「できる・知っている」を迅速に測る短距離走の計器であり、階層的複雑性評価は「どう統合し、どう語るか」を可視化する長距離走の計器であると言えるだろう。両者の差異を理解し、役割要件と学習目的に即して併用設計を行うことが、成人学習者とリーダーの持続的な能力発達を実装する上での最適解となるはずである。フローニンゲン:2025/9/13(土)08:11
17384. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、搭乗口から乗り込んで停車している飛行機の中にいる場面があった。すでに全員が搭乗したのだが、そこで突然世界の時間が止まった。それを受けて私と数人の友人は、空港内の散策をすることにした。それもまた私たちに課せられたミッションの1つであり、貴重な文献が空港内に置き忘れられていることを聞き、それを探しに出かけた。しばらく空港内を散策していると、突然自分は瞬間移動し、時刻が夜のかつて小中学校時代に過ごしていた社宅の玄関にいた。玄関のドアを強引に開けようとする存在が外にいて、ドアが開くと、ゾンビが出てきた。私は手に持っていたハンマーでゾンビの頭を吹き飛ばし、それを撃退した。どうやらゾンビは頭を吹き飛ばなさないと死なないようになっていたので、これからそれに注意してゾンビの撃退に出かけようと思った。母は自分が夜遅くに外に出ていくことを心配していたが、ゾンビを撃退できるのは自分しかいないような気がしたので、使命感に燃える形で母を説得して外に出かけることにした。すると偶然にも玄関の外の階段を駆け上がってくる人がいて、その男性は私に助けを求めに来た。近くで大きな火災があり、そこにゾンビも出没しているとのことだった。私はその男性と一緒に階段を降りた。すると巨大なトラックに派手なデザインを纏った消防車がやって来て、それに乗り込んで現場に向かうことにした。すると気づけば私はまた先ほどの空港にいた。空港の中は時間が動いているが、空港の外は引き続き時間が止まっていた。搭乗口の外の飛行機も当然ながら止まった時間の中にあった。空港のラウンジで、前職時代の先輩社員の方に遭遇した。その方に話を聞くと、女性の先輩社員がレストランにいるということを聞いたので、その方に会いにレストランに向かった。そのレストランで無事にその方に会うことができ、言葉を交わしているとお腹が空いて来たので、自分もレストランで食事をすることにした。しかし、その方が使っていた高級レストランではなく、友人と一緒に大衆イタリアンレストランに行くことにした。レストランが多数集まる空港内の箇所に到着し、目星のレストランがあったのでそこに入ると、3つのビュッフェコースを提示された。自分はできるだけ豊富なメニューを食べたかったので一番上のコースを選ぼうとしたが、そのコースが二重線で消されていたので、真ん中のコースを選ぶことにした。それでも基本的に置かれている全ての食材を食べられるようだったのでそれにしたのである。いざ食材を取りに行こうとすると、再び機内の中にいて、どうやら今から出発のようだった。そこで再び時間が元のように流れ出した。フローニンゲン:2025/9/13(土)08:34
17385. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の構造は、時間の停止と再開、移動の反復、そして「使命」と「食事」という二重のテーマを軸に展開している。まず、飛行機が搭乗を終えたにもかかわらず時間が止まるという導入は、人生のある局面で流れが途絶え、自己が宙吊りにされたような感覚を象徴していると解釈できる。飛行機は本来、未来へと運んでくれる乗り物であるが、その進行が中断されたことで、外部世界の「進行」が停止し、代わりに「内なる空港」での探索が始まるのである。空港は「移行の場」すなわちリムナルな空間であり、そこに忘れられた文献を探すという行為は、自己の過去や無意識に隠された知恵を発掘する使命を意味するであろう。次に、場面は突如として幼少期の社宅へと転移する。ここでのゾンビの登場は、過去に積み残された恐怖や抑圧された感情が「生き返った」姿であると考えられる。ゾンビが頭を吹き飛ばさないと死なないという条件は、感情や記憶を断片的に処理するのではなく、思考の中枢にある固定観念や古い自己像を徹底的に破壊しなければならないことを示している。母が心配する場面は、自己保存の声や安全志向の側面を象徴するが、それに対して自分は「使命感」を優先し、未知なる闇に出かける決断を下す。これは成長過程における「家」の庇護から外の世界へ出る通過儀礼的な場面に等しい。さらに火災とゾンビの同時発生は、緊急性と混沌が絡み合った人生の危機を象徴している。そこに現れる派手な消防車は、外部からの支援あるいは自己内部の「英雄的エネルギー」の具現化である。にもかかわらず、場面は再び空港に回帰する。この循環構造は、夢の全体が「外界の危機への出撃」と「内界の探索としての空港滞在」とを往復するリズムで編まれていることを示している。外部世界の時間は止まったままである一方、空港内部では時が流れているという対比は、社会的時間が凍結しても、自己の内的発達は続いているという逆説を示していると言えるだろう。ここで前職の先輩に遭遇することは、過去の職業的文脈や人間関係が自己形成に再び呼び戻されることを意味している。その先にあるレストランの選択は、欲望と現実の折り合いを象徴する。高級レストランを選ばずに大衆的な場を選んだこと、また最上位コースが取り消されており真ん中のコースを選ぶことになったことは、理想的な選択肢が閉ざされても、次善の策を柔軟に受け入れる姿勢を表している。それは人生における「完全な充足」を追い求めるよりも、現実に即した豊かさを味わう成熟の姿と読めるだろう。そして最終的に、食材を取りに行こうとした瞬間に再び機内へと戻り、飛行機が発進し始める。これは、自己が「準備を整える過程」を経て初めて時間の流れが再開され、未来へと進むことが可能になるという暗示である。つまり、ゾンビとの戦い、火災への対応、過去との邂逅、食事の選択といった一連の象徴的な出来事を通じて、自己は内的な課題をある程度統合し、ようやく外的な世界の時間と歩調を合わせる準備が整ったのである。人生における意味として、この夢は「過去に囚われた影を断ち切り、現実の制約を受け入れつつ、内的成熟を経て次なる飛躍へ向かう」ことの寓話であると言えるだろう。飛行機が象徴する未来の旅路は、一度時間を止めて自己探究に没入しなければ再開できない。ゾンビを倒す勇気も、現実的選択を受け入れる柔軟性も、そのすべてが未来へと進むための必要条件なのである。すなわちこの夢は、人生の飛行が再び動き出す前に、自己が「使命を担う者」として成熟するべき内的課題を抱えていることを示唆しているように思える。フローニンゲン:2025/9/13(土)09:10
17386. ヴェールに覆われた実在と唯識思想との接点
朝の冷水シャワーとモーニングソルトウォーターが大切な習慣になったことに加え、朝のジョギング兼ウォーキングはやはりとても大きな効果を心身にもたらしているように思う。昨年の冬に日本からオランダに戻って来て以降、強い雨が降っている日とジムに行く日を除いては、朝に外に出かけてジョギングをしたり、歩いたりすることが習慣になった。今日も朝日を浴びて、エネルギーが十分に補填された形である。
バーナード・デスパーニャ(Bernard d’Espagnat)が提唱した「ヴェールに覆われた実在(veiled reality)」という概念は、量子力学が示す観測依存性や非局所性を踏まえ、私たちが直接経験することのできない次元の存在を仮定する試みである。彼によれば、私たちが認識する現象世界はあくまで「現れ」であり、その背後には人間の知覚や概念枠組みを超えた「覆われた実在」が広がっている。これは科学的実在論を完全に放棄するのではなく、科学の到達点が示す「限界」を受け入れながら、それでも何らかの実在が存在するという中道的立場である。この思想を東洋哲学、特に唯識思想や現代の量子哲学に関連付けると、興味深い照応関係が浮かび上がる。唯識思想においては、私たちが経験する世界は「識」の投影として理解される。すなわち、物質的世界は「外界」として独立に存在するのではなく、阿頼耶識に蓄積された種子が縁によって顕現したものに過ぎない。この観点からすれば、私たちが「客観的事物」と呼ぶものは意識に依存した相対的構築物であり、その背後に「真如」という究極的な実在が横たわっている。ここでいう真如は直接的に捉えることのできないが、修行や智慧によってその「覆い」を取り払うことが可能とされる。デスパーニャの「ヴェールに覆われた実在」は、直接知覚できない究極的次元の存在を認めるという点で、この唯識的な真如観と深く共鳴している。ただし、唯識が「識」のみを実在とみなす点に比して、デスパーニャは「不可視の実在」をあくまで科学的合理性の延長上で推定するため、両者は同一ではないが、いずれも「現象の背後に直接には触れ得ない次元を措定する」という共通点を有している。さらに量子哲学の文脈においても、「ヴェールに覆われた実在」は重要な意味を持つ。量子力学の解釈問題は、観測以前に粒子がどのような状態にあるのかを問うと同時に、その問い自体が成立するのかを揺るがす。コペンハーゲン解釈が「観測結果のみが意味を持つ」とするのに対し、デスパーニャは「観測の背後に、ヴェールに覆われながらも存在する何か」があると考える。この立場は、ハイゼンベルクが言及した「可能態」や、デイヴィッド・ボームの「内在秩序(implicate order)」とも響き合う。すなわち、私たちが直接知覚できる現象世界は「外在秩序」であり、その背後に潜む深層の秩序は、直接にはアクセスできないが存在しているとされる。デスパーニャの議論は、この「背後の実在」を科学的合理性を保持しながら認める試みと解釈できる。唯識思想と量子哲学、そしてデスパーニャの「ヴェールに覆われた実在」を貫く共通項は、人間の知が触れ得る世界と、その背後に潜む不可視の次元との二重構造の認識である。唯識では現象は「識」の変現であり、その背後に「真如」がある。量子哲学では測定結果として現れる「古典的現象」の背後に、非局所的で非決定的な量子領域がある。そしてデスパーニャにとっては、科学が描き出すモデルの背後に「ヴェールに覆われた実在」がある。いずれも、現象世界をそのまま「絶対」とはせず、その奥に不可視の次元を措定することによって、人間的認識の限界を超えた実在を想定しているのである。結論として、「ヴェールに覆われた実在」という概念は、量子力学の哲学的解釈を超え、東洋思想の深層とも交差する普遍的な問題意識を映し出している。それは「私たちが見る世界はすべてではなく、その背後にさらに深い次元が存在する」という直観であり、この直観こそが哲学と科学、そして宗教的省察を結び付ける架け橋となっているのである。フローニンゲン:2025/9/13(土)10:18
17387. ジョン・ベルの『Speakable and Unspeakable in Quantum Mechanics』
ジョン・ベル(John Bell)の『Speakable and Unspeakable in Quantum Mechanics』は、量子力学の基礎問題において最も重要かつ影響力のある論文集の1つであり、ベルの定理や局所実在性の限界をめぐる議論を集大成した著作である。本書は初版が1987年に出版され、後に改訂版も出されている。ここで「speakable(語り得る)」とは物理学の言葉で厳密に表現できる領域を指し、「unspeakable(語り得ない)」とは量子理論において直観的理解や古典的記述が困難な領域を意味する。タイトル自体が、量子論の解釈問題がいかに人間の言語や直観を超えた課題であるかを示唆している。本書の中心的テーマは、ベルが1964年に発表した有名な「ベルの定理」である。ベルはアインシュタインらが主張した「局所実在論」、すなわち物理的現象は観測に依存せず局所的に決定されるという立場が、量子力学と両立しないことを数学的に証明した。彼の不等式(ベル不等式)は、もし局所実在論が正しいなら測定結果はある範囲に収まるはずだが、量子力学の予測はそれを超える相関を示すとする。この予測は後にアラン・アスペらによる実験で検証され、量子力学が正しく、局所実在論が成り立たないことが強く支持された。ベルの議論は、量子もつれ(entanglement)の非局所性を理論的に裏付け、量子情報科学や量子通信の基礎を築いたと言える。また本書は、単なる数理的証明の集成ではなく、量子力学解釈の多様な立場を批判的に検討している点に特色がある。ベルはコペンハーゲン解釈に対して懐疑的であり、「観測」というあいまいな概念を基礎に据えることの哲学的問題を指摘する。彼は観測者を特別扱いせず、物理的過程を一貫して記述できる理論を志向していた。例えば、彼はパイロット波理論(ボーム力学)に強い関心を持ち、決定論的で隠れた変数を持つモデルが量子論の奇妙さを整理する可能性を探った。本書にはその擁護や議論も収められている。さらに、ベルは「unspeakable」な領域にこそ量子力学の本質が潜んでいると考えた。すなわち、日常言語や古典的直観で説明できる「speakable」な範囲を超え、因果性や局所性といった基本概念が通用しない世界像に直面していることを強調する。その姿勢は、物理学と哲学の境界を意識させ、現代における「量子哲学」の形成に大きな影響を与えた。総じて『Speakable and Unspeakable in Quantum Mechanics』は、量子力学の解釈をめぐる議論を根底から揺るがし、物理学者だけでなく哲学者や科学思想史家にとっても必読の書であると言える。ベルの定理は単なる数学的命題にとどまらず、実在の性質、観測者と世界の関係、そして人間の知の限界を問う哲学的挑戦である。この著作を通じてベルは、量子論が突きつける「語り得ないもの」に真摯に向き合い、科学がなお直面し続ける根源的課題を鮮明に示したのである。フローニンゲン:2025/9/13(土)13:51
17388. ピーター・バーンによる『The Many Worlds of Hugh Everett III』
今日のゼミナールの第149回のクラスも非常に充実していた。今日から初めて参加された3人の方々、そして数ヶ月ぶりにゼミに戻って来てくださった方を含め、今日のクラスを通じてまた一歩自分も人間発達に関する学びが深まった。
数日前に初読を終えた書籍に、ピーター・バーン(Peter Byrne)による『The Many Worlds of Hugh Everett III』というものがある。本書は、量子力学の多世界解釈(Many-Worlds Interpretation, MWI)の創始者であるヒュー・エヴェレット三世(Hugh Everett III)の生涯と思想を詳細に描いた伝記的研究である。本書は、量子論の解釈史における大きな転換点を提示したにもかかわらず、長らく周縁的存在に追いやられてきたエヴェレットの人物像を浮き彫りにする。さらに、科学史・思想史・社会史を交錯させながら、多世界解釈がなぜ当初受け入れられなかったのか、そして後にどのように再評価されていったのかを解明している点が非常に興味深い。エヴェレットは1950年代にプリンストン大学で博士課程を修了し、量子力学における「測定問題」に果敢に取り組んだ。当時支配的であったコペンハーゲン解釈は「波動関数は測定によって収縮する」という立場を取っていたが、エヴェレットはこれを不要と考え、波動関数は常にシュレーディンガー方程式に従って決定論的に進化し、観測とは単に世界が「分岐」する過程であると主張した。これが多世界解釈であり、観測のたびに宇宙は無数の枝に分岐し、それぞれの可能性が現実化しているとする。この発想は現在の量子情報論や宇宙論に大きな影響を与えているが、当時の学界では理解されず、エヴェレット自身も学術界に居場所を見いだせなかった。バーンの著作が興味深いのは、エヴェレットの科学的業績だけでなく、その人間的・社会的側面を丁寧に描き出している点である。エヴェレットは冷戦期のアメリカで軍事研究やシンクタンク活動に従事し、核戦略の数理モデル化にも携わった。彼は卓越した頭脳を持ちながらも、学界との摩擦や自身の内面的葛藤、さらには家族との複雑な関係に悩まされ、50歳で早逝する。その息子マーク・オリヴァー・エヴェレット(ロックバンド「Eels」のフロントマン)が父の足跡を辿るドキュメンタリーを制作したことでも知られるように、彼の生涯は科学史を超えて文化的関心を呼び起こしている。本書はまた、多世界解釈が科学コミュニティに再評価されていく過程も追っている。エヴェレット没後、量子情報科学の発展やデコヒーレンス理論の進展によって、彼のアイデアが改めて注目を浴び、今日では真剣な候補として議論されている。バーンは、エヴェレットの理論が単なる奇抜な思いつきではなく、徹底した合理主義の産物であり、量子力学の内部に潜む矛盾を解消しようとした真摯な試みであったことを強調する。総じて『The Many Worlds of Hugh Everett III』は、量子力学の歴史的解釈論争を背景に、1人の科学者の孤独な闘いと、その思想が後世に与えた影響を多角的に描き出す書物である。エヴェレットの多世界解釈は今なお論争的であるが、彼の挑戦は科学の進展における「異端」の価値を示すものであり、この書は量子論に関心を持つ者だけでなく、科学思想史や人間の知的探究の本質に関心を持つ読者にとって必読の一冊である。フローニンゲン:2025/9/13(土)18:51
Today’s Letter
Consciousness engulfs reality, rather than the other way around. Reality itself is encapsulated within both individual and collective consciousness. Groningen, 09/13/2025

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