【フローニンゲンからの便り】17365-17368:2025年9月9日(火)
- yoheikatowwp
- 14 時間前
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タイトル一覧
17365 | フォルカー・ショーメルスの書籍が示唆する哲学的含意 |
17366 | 今朝方の夢 |
17367 | 今朝方の夢の振り返り |
17368 | IELTSの模擬試験の2回目を終えて/東洋思想の観点による弦理論とループ量子重力の哲学的対比 |
17365. フォルカー・ショーメルスの書籍が示唆する哲学的含意
時刻は午前8時半に近づいている。今朝方は10時間半以上の睡眠を途中で起きることなど取っていた。心身が深い休息を求めていたようで、その恩恵を十分に享受した。ここ数日は寝る前に視力回復を目的にした目の運動や頭のマッサージなどを入念に行なっており、それが刺激となって深層的な休息を促したのかも知れない。今日からは天気が崩れ、気温も10度後半となる。1日のどこかの時間は必ず雨が降るような秋らしい天気となり、今日は正午前から雨が降るようなので、午前中のジョギング兼ウォーキングには支障はなさそうである。
昨日にも言及したフォルカー・ショーメルスの『A Primer on String Theory』が示唆する哲学的含意を、ループ量子重力(Loop Quantum Gravity, LQG)との対比において考察してみたい。弦理論では、時空は基本的に連続的な多様体として前提され、その上で一次元的な弦が運動する。高次元時空やコンパクト化の幾何学が素粒子のスペクトルを決定するため、物理法則は「連続幾何学の形」に依存する。ここには、時空をあくまで滑らかな場として保持しつつ、その上の構造(弦やブレーン)が統一をもたらすという哲学がある。一方、ループ量子重力では、面積や体積が固有値を持ち、時空そのものが量子化されて「離散的スペクトル」を持つ。これは時空を物質的実体としてではなく、量子的構造から浮かび上がる現象として見る立場であり、連続性を基盤にする弦理論と対照的である。弦理論は、基本的に「背景時空の上に弦を置く」という枠組みで定式化される。そのため背景依存性を内包しており、AdS/CFT対応のように特定の時空背景を前提に議論が進む。一方でデュアリティの研究から、背景の選び方自体が相対化される傾向も生まれている。対照的に、ループ量子重力は背景独立性を出発点とする。時空は「与えられた舞台」ではなく、スピンネットワークやスピンフォームの関係的構造から出現する。哲学的に言えば、弦理論は「存在の基盤としての時空」を保持し、LQGは「関係から出現する時空」を主張しているのである。弦理論の哲学的特徴は「統一志向」である。5種類の超弦理論がデュアリティで結ばれ、最終的にM理論へと収束する構図は、「自然は究極的に1つの法則で貫かれている」という古典的合理主義を体現する。一方、ループ量子重力は重力に特化し、物質場の統一やゲージ相互作用の統合にはそれほど踏み込まない。その代わり、一般相対論の背景独立性を忠実に引き継ぎ、局所的・関係的な構造から宇宙を理解する。ここには「単一の究極理論」よりも「複数の視点から現実を構築する」という多元的・関係的な哲学が色濃い。弦理論においては、時間は基本的に背景的パラメータとして保持される。ワールドシート上のパラメータやAdS/CFTの境界時間など、時間は理論の整合性の枠内で扱われるが、時間そのものが「派生的に出現する」という構図は前面化されない。LQGでは、時間は基本的に存在せず、スピンフォームの遷移振幅のような「出来事間の関係」から派生的に現れる。したがって哲学的には、弦理論は「時間を基盤とした宇宙像」を保持し、LQGは「時間の出現性」を主張するという対照をなす。弦理論は、そのランドスケープ問題に示されるように、物理法則が一意に決定されない可能性を孕んでいる。これは「私たちの宇宙は多数の可能性の1つに過ぎない」という多宇宙的実在観につながりうる。哲学的には「選択された幾何学が物理を決める」という構図であり、プラトン的な数学的実在論に接続する。ループ量子重力は、観測可能な現象に焦点を当て、宇宙の量子反跳やブラックホール情報問題への具体的解答を目指す。哲学的に言えば、それは「経験的に検証可能な最小の基盤」を求める現象学的・構成主義的立場に近い。したがって、弦理論の哲学的含意は「連続・統一・背景依存・超次元・多宇宙」という方向にあり、ループ量子重力は「離散・多元・背景独立・関係性・時間の出現性」という方向に位置づけられる。両者の対比は、自然哲学における古典的実在論と関係論的実在論の現代版とも言えるだろう。すなわち、弦理論は「世界の背後に統一的秩序がある」という理念を体現し、ループ量子重力は「秩序は関係性の中から立ち現れる」という理念を体現しているのである。フローニンゲン:2025/9/9(火)08:35
17366. 今朝方の夢
今朝方は3部構成の夢を見ていた。最初の場面はデパートの中にあるプールを舞台に展開されたものだ。プールの端は浅かったが、そこから徐々に深くなり、真ん中は特に深かった。最初浅いところで体を水に慣らしていると、右足に何かが触れる感覚があった。見ると、手のひらサイズのカメが自分の足を噛んでいたようだった。それは大した痛みはなかったが、びっくりしたことは確かである。自分が驚くと、カメは水の深い方に向かっていった。ちょうど近くに小中学校時代の2人の親友(SI & HS)がいたので、彼らにカメがいたことを伝えると、彼らはプールにカメがいることをあまり信じていないようだった。すると、プールサイドで小学校に入りたてぐらいの女の子が不安気な表情を浮かべて何かを探しているようだった。彼女に話しかけてみると、ペットのカメが逃げてしまって探しているとのことだった。私はすぐに、先ほどのあのカメは彼女のペットだと思った。すぐさま私は彼女に、プールの中にカメがいたことを伝え、自分たちが探してあげるから大丈夫だと述べた。すると彼女は安堵と喜びの表情を浮かべた。私は近くにいた2人の親友に、自分を信じて一緒にカメを探してくれとお願いした。そこからカメを探し始めたのだが、カメはなかなか見つからなかった。特にプールの深い箇所は潜って見ないと見えないようになっていたので、潜って探すことをした。プールはかなりの広さがあったので3人でバラバラに探していると、カメが私たちの視界を避けて動いてしまうことが考えられたので、周りの大人たちに協力してもらう形で、列を成してペンキを塗るかのようにしてプールの中を探っていくことにした。すると気づけば自分はプールから上がっていて、デパート側を散策していた。すると、2人の警察官がバケツに何かを捕獲している姿を見つけた。私はカメが捕獲されたのかと期待したが、どうやら一群の小魚を捕獲したようだった。私は2人の警察官に、ある女の子がペットのカメを逃してしまい、それを探しているのでカメを見かけたらプールの運営者に連絡してほしいと伝えた。
2つ目の夢の場面は、小中学校時代に住んでいた社宅から始まった。どうやら引っ越しをすることになったらしく、父はすでに下で新車にエンジンをかけて待っている状態だった。母と私は、最後に忘れ物がないかを確認しており、自分の衣服が数着ほどリビングに置きっぱなしになっていたのでそれらを手で持って下に降りた。車に乗ろうとすると、すでに後ろの席には4人の友人が乗っていた。なので私は助手席に乗ることになった。いざ全員が車に乗ったところで出発すると、友人のうちの1人が、昨年と今年の夏に行われたサッカーの大会の話をし始めた。自分はその大会には参加しておらず、昨年は炎天下の猛暑の中で行われた試合で惨敗したが、今年は暑さは大したことはなく、試合も快勝したとのことだった。そこから私たちは最近の暗号資産の市場について話をし、お互いに保有している暗号資産のこれからについて意見交換をした。そこで出てきた意見は賛否両論様々なものがあったが、こうして様々な意見を交換することの意義を改めて感じた。
最後の夢は、どこからともなく流れてきた「蛍の光」を口ずさみながらある惑星を浄化している場面である。その歌を歌えば歌うほどにその惑星が癒されていくのが感じられ、自分は歌うことと同一化して歌い続けていた。その惑星は何億光年も離れているのだが、自分はこれから気の遠くなるほど長い期間をかけてその歌を歌い続けようという気概に満ちていた。フローニンゲン:2025/9/9(火)09:28
17367. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は3部構成の劇のように展開しており、それぞれが異なる象徴を通じて1つの大きな人生的メッセージを描き出していると解釈できる。最初の場面であるデパートのプールは、日常の中に潜む深層意識の領域を象徴している。浅瀬で体を慣らしている段階は、自らの意識をまだ安全な範囲で保ちながら未知の深みへ備える状態である。そこに現れた小さなカメは、無意識からの小さな呼びかけや抑圧された記憶の象徴と見なせる。噛まれた驚きは、意識下に潜んでいたものが突如として触れてきた衝撃を意味するが、それは致命的な痛みではなく、むしろ探索を促す刺激であった。少女がペットを探す姿は、自分の内なる無垢な部分が失われた大切な存在を求めていることを表している。ここで自分がその探求を引き受け、仲間や大人を巻き込む様子は、個人の問題が共同体的な営みとなり、無意識の影を回収する作業が全体的な成長と癒しにつながることを示している。しかしカメは容易に見つからず、代わりに警察官が捕らえたのは小魚であった。この場面は、無意識の核心的な存在(カメ)がすぐには見つからず、まずは表層的な象徴(小魚)に出会うことになる発達過程を示している。すなわち真の自己との邂逅は時間を要し、協力と忍耐を必要とするのである。第二の夢は、社宅からの引っ越しと車での出発という場面を通して、過去の生活から新たな局面へと移行する象徴を描いている。父の車は人生の推進力であり、母との確認作業は未解決の課題を整理する過程を表す。助手席に座る自分は、主体性と受動性の中間の立場を示し、仲間と共に新しい旅路へ向かう心構えを象徴している。サッカーの話題は過去の失敗と成功の対比を示し、それを受け止めながら暗号資産という未来志向の不確実性に関して議論する流れは、過去の経験と未来への希望を統合しようとする精神的営みを表す。意見交換の多様性に価値を見出すことは、自我の発達が自己完結ではなく他者との対話を通して深化することを強調している。最後の夢は、個人の枠を超えたトランスパーソナルな次元の象徴である。「蛍の光」を歌いながら惑星を癒す行為は、自己と宇宙が共鳴し、個の声が全体の浄化に寄与するという理想的な精神状態を示している。しかもその行為が途方もない時間の広がりにおいて継続される意志として描かれていることは、有限の自己を超えた大いなる存在の流れへの奉仕を意味している。これら3つの夢を総合すると、まず第一部で個人の無意識に潜む影とそれを探し求める無垢な自己が示され、第二部では過去から未来への移行において仲間と共に多様な意見を交わす成長の姿が描かれ、最終部ではその営みがさらに拡張され、宇宙的な癒しへとつながっていく物語となっている。この構造は、自己探求から共同体的成熟、さらに宇宙的奉仕へと至る螺旋的発達の道筋を象徴しているのだろう。人生における意味として、この夢は「自己の深層に潜む影や失われたものを探し出し、仲間と共に対話を通じて成長を遂げ、その成果を全体の癒しへと昇華させよ」という呼びかけであると解釈できる。それは、1人の存在が自己を超えて世界に響きを与え得ることを示唆しており、今後の生の方向性を宇宙的共鳴と奉仕の軌道に乗せるよう促しているのである。フローニンゲン:2025/9/9(火)09:48
17368. IELTSの模擬試験の2回目を終えて/東洋思想の観点による弦理論とループ量子重力の哲学的対比
今日は随分と気温が低く、この時間帯ですでに16度ほどの気温である。自宅ではすでに極暖ヒートテックを着て過ごしている。下は長ズボンだが、その下にはまだヒートテックを履く必要はないが、それも時間の問題だろう。
今日もまた日曜日に続き、IELTSの模擬試験を1セット解いた。今日からはリスニングとリーディングを本番同様の時間で問題を解くだけではなく、ライティングに関しても60分の中でパート1とパート2に取り組んだ。これまでとりわけアウトプット科目のライティングとスピーキングに力を入れてきていたこともあり、それらの科目については本番に向けてすでに準備はかなり整っている。しかし、リスニングとリーディングに関してはまだ改善しなければならない点がいくつか見えており、ここから残り5回の模擬試験を通じてそれらの改善に励む。本番の試験では、メモを取るのは最小限にする。メモ用紙を使うのは、リーディングの際に判断を迷った問題の番号を書き留めるだけにするということを今日改めて確認した。
弦理論とループ量子重力(LQG)の哲学的対比を唯識思想や縁起の観点から行ってみたい。弦理論は、究極的に1つの統一的理論(M理論)へ収斂することを志向している。この発想は、唯識における「阿頼耶識」の観念に近い。すなわち、万物の差異は最終的に1つの根源的蔵識に包摂されるという見方である。弦やブレーンといった多様な構造が、究極的にはより大きな統一的基盤に還元されるという理論的直観は、唯識における「万法は一識に帰す」という立場に響き合う。余剰次元やデュアリティの相互変換は、阿頼耶識の中で種子(bīja)が多様に展開する様に喩えることができるだろう。これに対してLQGは、時空を離散的・関係的な構造として理解する。ここには「縁起」の思想が重なる。すなわち、存在は固定的な本質を持つのではなく、因縁の相互関係から生起する。スピンネットワークやスピンフォームは、点や線の実体ではなく、関係性の網目そのものである。時間や空間も固定的に与えられるのではなく、その関係的構造から派生する。これは「諸法は縁起に依って生じ、縁起に依って滅する」という仏教的洞察と響き合っている。弦理論が背景時空を前提するのに対し、LQGは背景独立性を掲げる。この対比は、実体視と空観に対応させられる。弦理論は「時空という場」を実体的に措定するため、いわば「所依としての実体」を認める立場に近い。一方LQGは、基盤的な舞台を否定し、関係そのものから時空を導く。これは中観派が主張する「自性は空であり、存在は関係的に成立する」という思想に近い。すなわち、背景独立性は物理学的な形で「空」を体現していると言える。弦理論の統一志向は、すべてを「一心」へと還元する唯識的観点に似ている。世界の多様性は根源的一心の働きとして解釈される。他方、LQGの多元的・関係的宇宙像は、華厳の「事事無碍法界」に通じる。すなわち、個々の存在が互いに縁り合いながら全体を構成し、その関係性の網目そのものが宇宙であるという発想である。前者は「統一の一」、後者は「相即の多」と言えるだろう。弦理論における時間は基盤的パラメータとして措定されるのに対し、LQGにおける時間は出来事の関係から派生する。これは唯識における「識の相続」に似ている。時間は独立の実体ではなく、識の流れの中で縁起的に現れるものと理解される。弦理論的時間が「所依」としての枠組みに近いのに対し、LQG的時間は「相続」としての関係性に近い。東洋思想から見れば、弦理論は唯識的「一識統合」の哲学に通じ、LQGは縁起・空・華厳的相即の哲学に通じる。前者は「根源的一」への収斂を強調し、後者は「関係の網目」から現実が立ち現れることを強調する。両者は対立するのみならず補完しうる。唯識と中観が大乗仏教の二大潮流を形成したように、弦理論とループ量子重力もまた、量子重力の探究において相補的な2つの道を指し示していると言えるのではないだろうか。フローニンゲン:2025/9/9(火)18:28
Today’s Letter
The colder it gets from now on, the more I can cultivate my energy. A harsh, cold winter will definitely make me more energetic. My tenth winter in the Netherlands is coming soon. Groningen, 09/09/2025
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