【フローニンゲンからの便り】17309-17314:2025年8月31日(土)
- yoheikatowwp
- 18 時間前
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タイトル一覧
17309 | イノベーションの普及理論から見た現在の成人発達理論の普及状況 |
17310 | 今朝方の夢 |
17311 | 今朝方の夢の振り返り |
17312 | トランスパーソナルな探究熱/核融合と核分裂 |
17313 | 宇宙論における事前確率について |
17314 | 多進法的量子コンピューターの可能性について |
17309. イノベーションの普及理論から見た現在の成人発達理論の普及状況
時刻は午前7時を迎えた。今日は少し曇っている。日曜日の朝の時間はとても穏やかで、鳩がホーホーと鳴いている。昨日、社会学者エベレット・ロジャースが提唱したイノベーションの普及理論をもとにある考え事をしていた。彼が提唱した理論では、「イノベーター」という立ち位置が最も先進的だが、それを超えた「スーパーアーリー・イノベーター」という比喩を用いると、現在の日本で成人発達理論を学んでいる人々の立ち位置とその意義がより鮮明になるのではないかと思った。そもそもイノベーション普及理論において「イノベーター」とは、新しい知識や技術を社会に先んじて取り入れ、試行錯誤を重ねながら実践する少数派である。だが、日本における成人発達理論の現状は、まだ社会的認知がきわめて低く、学術界や一部の専門領域を除けば一般に浸透していない。そのような状況でこの理論を深く学び、実践に結びつけている人々は、イノベーターの中でもさらに先駆的な「スーパーアーリー・イノベーター」と呼ぶことができるのではないかと思う。この「スーパーアーリー・イノベーター」としての学習者の意義は、まず第一に「未知の可能性を切り拓く探究者」であるという点にある。成人発達理論は人間の成長を生涯にわたるプロセスとして捉え、単なるスキル習得や成果主義的な尺度を超えて、人間存在の多層的な変容を理解しようとするものである。こうした視座を先行して取り入れることは、まだ社会がその必要性に気づいていない段階で「未来の教育・組織・対人支援のあり方」を見通すことに直結する。第二に、スーパーアーリー・イノベーターは「橋渡し役」としての社会的機能を担う。すなわち、理論そのものは専門的で抽象度が高いため、そのままでは広く普及しにくい。そこで彼らは、自らの学びを翻訳し、教育現場・組織開発・リーダーシップ研修・カウンセリング実践など具体的な文脈に応用することで、成人発達理論を社会が理解できる言葉へと媒介する役割を果たす。この橋渡しの努力こそが、のちのアーリーアダプターやアーリーマジョリティを引き寄せるための基盤となる。第三に、スーパーアーリー・イノベーターは「倫理的な責任」をも同時に負っている。新しい理論や知識を先取りする立場にあるからこそ、それを自己利益や狭い集団の利益に独占するのではなく、社会全体の発展に資する形で活かす必要がある。成人発達理論は個人の内的成長を扱うものであり、誤った使い方をすればラベル貼りや序列化につながる危険もある。したがって、彼らは単なる理論の利用者にとどまらず、社会における健全な普及を導くガイドとしての役割を担うのである。総じて言えば、「スーパーアーリー・イノベーター」として成人発達理論を学ぶことの意義は、未来を先取りし、人類の成長理解の地平を拓きつつ、その知を社会へと橋渡しし、かつ倫理的に健全な形で広めていくことにあるのではないかと思う。彼らはまだ芽吹いたばかりの理論を抱きかかえる先駆者であり、やがて多数派がそれを理解し活用する時代が訪れるための土壌を耕す存在なのである。フローニンゲン:2025/8/31(日)07:22
17310. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない野原にいた。そこは日本兵たちが駐屯している戦場で、私は一民間市民としてそこにいた。敵兵の姿が見えない戦場で、突然複数の日本兵が味方を銃殺し始めた。そして私も銃で撃たれ、複数の箇所に傷を負った。銃撃されたほぼ全ての日本兵は即死だったが、私は生き残ることができ、助けがやって来る2ヶ月もその場で生存した。助けにやって来たのは銃殺をした日本兵たちで、遺体回収の一環の中で自分の生存を確認し、保護してくれた。そのうちの1人の兵士になぜ仲間を銃殺したのかを尋ねたところ、「上官の命令は絶対だからだ」と一言述べた。それを聞いて私は恐ろしくなった。というのも彼らは自分の頭で考える能力を持っておらず、またそれが許されない状況下に絶えず晒されていることを通じて、人間ではなく、むしろ戦場マシーンのようになってしまっていると思ったからである。2ヶ月もの間、戦場で寝そべっている中で自分の傷は不思議と自然に癒えていたが、まだ完治はしておらず、それらの箇所を兵士たちは治癒してくれようとしていたが、これもまた上官の命令なのだろうと思った。彼らのような存在は日本社会に蔓延しており、日本の社会構造をなんとかしないといけないという思いが再燃した。
次に覚えているのは、100m*4の世界陸上の決勝戦を観戦していた場面である。日本は決勝に進出し、見事なバトンの受け渡し技術で銀メダルを獲得した。それは快挙であり、選手たちはフィールド上で大いに喜んでいて、観客席にいる日本人たちも歓喜に包まれていた。この夢の後に、見慣れない広い家にいた場面を覚えている。そこではたくさんの小中高大学生が生活を共にしていて、それぞれが自分の好きな学科の勉強をしていた。私はまず居間で、小中高時代のある女性友達(YY)に話し掛けられた。彼女は地面に置かれた長机の前に座っており、彼女の隣にはまた別の男性の友人(TK)が座っていて、自分は立っていた。彼女は私に、ある実現したいプロジェクトの実現のために自分の家に定期的に訪れて相談事をしてもいいかと尋ねてきた。私は間髪入れずにその申し出を快諾したところ、彼女はとても嬉しそうな笑顔を浮かべた。彼女はどうやらこれまでずっとその申し出をしたかったようだが、私があまり人を自宅に招かないような雰囲気を発していたことから言い出しづらかったようである。そこから別の部屋に移動したところ、ある広い部屋に中学1年生ぐらいの女の子とが小さなテレビの前に座って勉強をしていた。彼女に話しかけると、英語の勉強をしているようで、海外ドラマを見ながら英語の勉強をしているようだった。彼女はとても熱心に英語の勉強をしていて、その目的を尋ねると、将来NASAで働きたいとのことだった。自分はこれまで長らく英語を学んできたこともあり、彼女の夢の実現に向けて、英語の学習に関して何か手伝えることがあるかもしれないと思い、そこからはしばらく彼女の横に座って彼女の英語学習の支援をすることにした。英語を勉強している間、終始彼女の目は輝いていた。フローニンゲン:2025/8/31(日)07:43
17311. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の構造は、まず暗黒の戦場の場面から始まり、次に国家的祝祭の場面へと移り、その後に共同生活と教育の空間に展開していく三部構成を成している。この流れは、暴力と命令による拘束の世界から、技術と連帯がもたらす成果の世界を経て、最後に未来を志向する学びと支援の世界へと遷移する象徴的な物語として解釈できるだろう。戦場の場面は、無機質な秩序のもとで人間性を失った兵士たちが、命令によって味方をも銃殺するという倒錯した現実を映し出している。そこに登場する「上官の命令は絶対」という言葉は、主体性を奪われた人間が機械と化す過程を凝縮しており、日本社会における同調圧力や無批判的従属の構造を象徴していると言える。夢の中で自らが銃撃を受けながらも生き延び、2ヶ月もの間、自然治癒の中で耐え続ける姿は、社会的暴力に晒されながらも人間性の最後の火を守り抜こうとする自己の姿に重なるであろう。そして、再び兵士たちに助けられるという逆説的展開は、同じ社会の病理を体現する存在によっても救済の手が差し伸べられる可能性を示し、社会の構造的矛盾の中で生きる複雑さを表している。次の場面では、陸上リレーの銀メダル獲得という成功体験が描かれる。ここでは「命令による機械性」とは正反対の、個々の主体的努力と緻密な協働の果実が象徴されている。リレーにおけるバトンの受け渡しは、ただのスポーツ技術ではなく、世代や仲間の間で信頼をもって未来を託し合う象徴的な行為である。その成功が「日本」という集合的アイデンティティを歓喜に包み込む様は、社会においても命令ではなく協働と信頼によってこそ成果が生まれるという希望的ビジョンを表現していると解せる。そして最後の場面は、教育と共同生活を基盤とする大きな家のイメージである。ここには小中高大の若者が共に暮らし、それぞれの志に従って学んでいる。戦場の「命令」とリレーの「協働」を超えて、未来の社会を築く基盤が「学びと支援」にあることを夢は示している。かつての友人からのプロジェクト相談の申し出に快諾する場面は、自己が人を受け入れる柔軟さを回復しつつあることを表している。これは戦場で見た「拒絶と破壊」の社会構造を内的に乗り越えようとする兆しであろう。さらに、NASAを目指して熱心に英語を学ぶ少女の姿は、未来に向けての志を象徴し、その目の輝きは人間が自らの自由意思と情熱によって未来を切り開く可能性を示している。自分がその学びを支援しようとする姿は、自らが「命令に従う兵士」から「未来を支援する大人」へと変容する道筋を暗示している。総じて、この夢は「命令による機械化」から「協働の成果」へ、そして「支援と学びの未来」へという三段階の精神的成長を描いている。すなわち、社会における無批判な従属と暴力の構造を目撃し、それを恐れ、克服しようとする内的契機がまず現れ、次に協働による成功体験の希望が映され、最後には次世代への支援と学びの共同体という究極の再生ビジョンが提示されているのである。この夢が人生において意味するのは、自己が単に社会の病理を批判するにとどまらず、その批判を超えて未来を育む存在へと成長しようとしていること、すなわち「壊された社会を修復し、次世代に信頼を手渡す」という使命を自覚させることである。フローニンゲン:2025/8/31(日)08:02
17312. トランスパーソナルな探究熱/核融合と核分裂
自分は確かにまだ未知のものを知りたいという思いで日々探究を続けているのだと思うが、どうもそのような個人から湧き上がる力では今の自分の探究熱を説明できない。自分は世界の一部であり、宇宙の一部であるから、世界が世界自身を知りたいと思う衝動、宇宙が宇宙自身を知りたいと思う衝動に導かれて日々の探究に専心して従事しているのだと思う。詰まるところ今の自分の探究熱は、パーソナルなものを超えて、トランスパーソナルなものになったのだろう。
昨日から、映画『オッペンハイマー(2023)』を視聴している。3時間の長編作品であるこの映画から色々と考えさせられることは多い。ふと、核融合と核分裂ではどちらがより強いエネルギーを放出するのだろうかと疑問に思った。調べてみたところ、結論から言えば、単位質量あたりに放出できるエネルギーは核融合の方が核分裂より大きいので、物理学的に「より強い」のは融合であるが、ただし1回の反応あたりの見かけのエネルギー量だけを見ると、重い核の分裂の方が数値が大きく、文脈によって評価が入れ替わる点に注意が要るということを知った。鍵は「結合エネルギー曲線」とのことだ。原子核の安定度(核子あたり結合エネルギー)は鉄付近で最大になり、軽すぎる核は融合して重くなるほど、重すぎる核は分裂して軽くなるほど、いずれも鉄側へ近づくときに余剰エネルギーを放出する。ゆえに「軽い核は融合」「重い核は分裂」がいずれもエネルギー源となるのである。数値感を整理してみたい。代表的な核分裂であるウラン235の1回の核分裂は、2つの中量核と複数の中性子に割れて、概ね200MeV程度を放出する。一方、実用候補として最も「易しい」核融合である重水素(D)と三重水素(T)の反応は、ヘリウム4と高速中性子に変わり、合計で約17.6MeVを放出する。この比較だけ見ると「200MeV>17.6MeV」で分裂が強そうに見える。しかし1回の反応で消費される質量が大きく異なるため、単位質量あたり(エネルギー密度)で比べると逆転する。ウラン235が理想的に完全燃焼してもおよそ80テラジュール/キログラム規模であるのに対し、D–T融合はおよそ数百テラジュール/キログラム(約3.4×10^14J/kg)に達する。核子1個あたりの尺度で見ても、融合側のエネルギー獲得効率が高い。これが「融合の方がより強い」と言える核心である。さらに質的な違いも重要である。分裂は連鎖反応で自己増幅しやすく、臨界を超えると短時間に莫大な出力を叩き出せる(ゆえに兵器化が容易)一方、燃え残りの長寿命放射性核種が多く生じる。融合は点火(高温・高密度・十分な閉じ込め時間)という厳しい条件を満たさねば連鎖的に続かず、維持は難しいが、生成物はヘリウムなど比較的無害で、理論上は燃え尽き効率と安全性に利点がある。D–Tでは放出エネルギーの大半が14MeV級の中性子に乗るため、材料照射や二次放射化の課題は残るが、長期高レベル廃棄物の規模は分裂より小さく抑えられる傾向にあるとのことである。まとめれば、自然法則の地図(結合エネルギー曲線)が示す通り、軽い核の融合と重い核の分裂はいずれもエネルギーを解き放つが、エネルギー密度という厳密な物差しで見ると核融合が優位である。実用の観点では、分裂は「技術的に実現しやすい強さ」、融合は「到達すればより濃密でクリーンな強さ」を持つ、と位置づけられる。言い換えれば、分裂は既に開かれた現実的な扉、融合は高い敷居の先にある理想の扉である。どちらが強いかという問いは、数の大小だけでなく、どの物差しで世界を見るかを問うている。その物差しを意識的に選べるとき、私たちは「使える強さ」と「望ましい強さ」を賢く両立させうるのかもしれない。そのようなことを考えながら、引き続きこの映画の視聴を続けていきたい。フローニンゲン:2025/8/31(日)09:08
17313. 宇宙論における事前確率について
宇宙論における「Prior(プライヤー)」とは、観測データを解析する際に「データを得る前にあらかじめ仮定する確率分布や知識」を意味する。統計学的にはベイズ推論の枠組みで用いられる概念であり、「事前確率」とも呼ばれる。宇宙論は観測できる範囲が限られており、しかもサンプルが「宇宙1つ」しかないため、推論の多くが不確実性に満ちている。そこで必然的に「Prior」をどう設定するかが、宇宙論の結論に大きく影響する。イメージとしては、山の天気予報に似ている。例えば「これまでの経験から山では午後に雷雨が多い」と知っている登山者は、その前提を頭に置いた上で空模様を観察する。青空が見えていても「午後は崩れるかもしれない」と思うのは、その事前知識(Prior)が働いているからだ。同じ観測データを見ても、Priorの違いによって未来の予測は異なりうる。宇宙論でも同様に、観測データに統計的なモデルを当てはめる際、どのような事前の仮定を置くかが鍵となる。具体例を考えてみたい。宇宙論で重要なパラメータに「ハッブル定数(宇宙の膨張率)」がある。近年、初期宇宙から推定した値(プランク衛星による観測:約67 km/s/Mpc)と、局所宇宙での超新星観測からの値(約73 km/s/Mpc)が食い違っており、「ハッブル張力」と呼ばれる問題になっている。このとき解析者は、データに統計モデルを適用するが、どのようなPriorを置くかで推定値が変動する。例えば「ハッブル定数は宇宙論標準モデルΛCDMに従うはず」というPriorを置けば、観測値は67付近に収束する。一方、「局所観測を信頼する」というPriorを重視すれば、73に近づく。つまり、Priorは「データをどう読むかを方向づける眼鏡」のような役割を果たす。また、ダークマターやダークエネルギーの存在比率を推定する場合も同じである。観測データ(銀河分布や宇宙背景放射の揺らぎ)に統計モデルを当てはめる際、「宇宙は平坦である」というPriorを採用すれば、ダークエネルギーの割合は70%前後に収束する。しかしもし、「曲率を自由に許す」というPriorを取れば、解釈は異なってくる。これは料理のレシピに似ていて、同じ素材(観測データ)を使っても、塩を先に多めに入れるかどうか(Prior の設定)で最終的な味が大きく変わるのと同じである。このようにPriorは不可欠であるが、同時に「どこまで主観的で良いのか」という問題を孕む。なぜならPriorはデータ以前の信念を数値化したものだからだ。宇宙論では1つしかない宇宙を相手にするため、「サンプルを無限に集めて平均する」といった方法は使えない。したがって、理論的な美しさや物理的合理性を根拠にPriorを置くことが多い。例えば、「宇宙は等方・均質である」という宇宙原理は、観測の事実と同時に「最もシンプルな説明を優先する」というPriorによって支えられている。さらに直感的な比喩を加えると、Priorは「地図を持って旅を始めること」に似ている。地図がなければ進む方向を決められないが、同時に地図は必ずしも完全ではなく、未知の道を無視するかもしれない。観測データという旅の途中で目にした風景をどう解釈するかは、手にした地図=Priorに大きく依存する。もし平原の地図を持っているときに山脈を見れば「地図が間違っている」と気づくかもしれないし、逆に「これは小さな丘に違いない」と解釈してしまうかもしれない。結論として、宇宙論におけるPriorとは「データを解釈する前に置く前提的な信念を数理化したもの」である。これはデータをより確かな形で理解するための道具である一方、設定の仕方によって結論が左右される危うさもある。私たちは1つの宇宙しか持たないゆえに、Priorなしでは解析できないが、Priorに頼りすぎれば「自分の眼鏡に映る宇宙」しか見えなくなる。そのため現代宇宙論では、さまざまなPriorを比較検討し、観測と理論を突き合わせながら「どの地図がもっとも現実に近いか」を探り続けているのである。そのようなことを改めて学んだ。フローニンゲン:2025/8/31(日)12:45
17314. 多進法的量子コンピューターの可能性について
量子力学における基礎単位である量子ビット(qubit)は、古典的な0と1の二値に固定されず、状態ベクトルとして「0状態」と「1状態」の重ね合わせを取ることができる。この特徴から「量子は二進法に限られないのではないか」「三進法や十進法で計算可能なのではないか」という発想が生まれるのは自然である。実際、この方向性はすでに研究されており、そこでは「qudit(量子d次元系)」という概念が提案されているらしい。通常のqubitは二次元ヒルベルト空間における状態ベクトルであり、|0⟩と|1⟩という基底の線形結合で表現される。しかし、より高次元の量子系を考えれば、例えば三準位系では|0⟩、|1⟩、|2⟩という3つの基底を持つ状態空間が構築できる。これを「qutrit」と呼ぶ。同様に、四準位系ならququart、十準位系ならqudit(d=10)と呼ばれる。量子力学の数理構造上は、これら高次元の状態空間を利用することに理論的な制約はなく、むしろ多値論理を直接扱える計算資源を得られる可能性がある。理論的な利点としては、まず情報の表現効率が挙げられる。例えば、n個のqubitは2^n通りの状態を表現できるが、同じ数のqutritでは3^n通りの状態を表現できる。次元が増えることで指数的な情報量の拡張が可能となり、同じ数の量子素子でより多くの情報をエンコードできる。これにより、量子通信や暗号プロトコルの効率性向上が期待される。実際にqutritを用いることで、量子鍵配送(QKD)のセキュリティが強化されることが理論的に示されている。また、誤り訂正の観点でも、quditを用いた符号化は、ある種のノイズモデルに対して有効である可能性が議論されている。ではなぜ現在の研究や開発の主流は依然として二進法的なqubitに依拠しているのか。それは主として技術的制約による。現代の量子コンピューターは超伝導回路、イオントラップ、光子、スピンなどさまざまな物理的実装方式を利用しているが、多くの場合、安定的に制御しやすいのは二準位系である。三準位以上のエネルギー準位は存在していても、熱雑音や環境との相互作用によって容易にデコヒーレンスが進み、精密な制御が難しくなる。例えば、超伝導量子ビットにおいては、実際には三準位以上の準位が存在するが、計算のためには意図的に二準位のみを利用している。制御・測定の複雑性が増すとエラー率が上昇し、現実的な計算には使いにくいのである。しかし、技術的挑戦は進んでいる。イオントラップ型量子コンピューターでは、イオンの内部状態を多準位的に利用し、qutritやququartの操作が実験的に実証されている。光子を用いた方式でも、偏光だけでなく時間や空間モードを組み合わせ、多次元の量子状態を符号化する試みが行われている。これらはまだ規模が小さいが、「十進法的量子コンピューター」を理論的に可能にする道を指し示している。ただし注意すべきは、実際の「量子計算アルゴリズム」は必ずしもd進法そのものに依存しているわけではないという点である。現在の量子アルゴリズムは多くがqubitを前提に設計されているため、quditを使う場合には新たなアルゴリズム設計が必要となる。逆に言えば、quditを利用すれば、二進法に制限されない新しい種類のアルゴリズムや計算手法が開発される可能性もある。結論として、量子力学の枠組み上は「二進法に限らない計算単位」、すなわちqutritやquditを用いた三進法・十進法的な量子コンピューターは理論的に十分可能である。ただし、現時点で主流が二進法的qubitに依存しているのは、物理的制御の安定性と技術的成熟度のためであり、将来的に技術が進展すれば多値量子計算が現実化する可能性は高い。したがって、量子コンピューターは「0と1を超える」潜在能力を秘めており、将来的には十進法的な演算を自然に扱える新たな計算パラダイムが生まれる可能性を含んでいるのである。この分野は引き続きウォッチし、探究を進めていこう。フローニンゲン:2025/8/31(日)16:55
Today’s Letter
My motivation to study is no longer merely personal—it has become transpersonal. I am driven by powerful, almost explosive, transpersonal impulses to study. Groningen, 08/31/2025
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