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【フローニンゲンからの便り】17297-17302:2025年8月29日(木)


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タイトル一覧

17297

関係的量子宇宙論について

17298

今朝方の夢

17299

今朝方の夢の振り返り

17300

進歩を実感するIELTS対策

17301

ループ量子重力理論とは

17302

多元宇宙論について

17297. 関係的量子宇宙論について 

               

昨日の夕方の雷雨が嘘のように、午前7時を迎えようとしている朝の世界は穏やかである。今の気温は13度で、今日の日中は23度まで気温が上がるようだ。ここから10日間は20度前半の最高気温となり、暑くもなく、そして寒くないという快適な日々となりそうである。

昨日、関係的量子宇宙論(Relational Quantum Cosmology)について調べ物をしていた。関係的量子宇宙論とは、宇宙の根本的な構造を「独立した実体」ではなく「関係の網の目」として理解しようとする試みである。従来の宇宙論は、宇宙そのものを舞台とし、そこに物質やエネルギーが配置されていると考えてきた。しかし関係的アプローチは、絶対的な舞台は存在せず、存在するのは観測主体や系同士の相互関係であるとする。すなわち「何かが存在する」とは「他との関係の中で記述される」ということであり、宇宙全体もまたこの関係性の網としてのみ記述可能だという立場である。この考え方の源流は、カルロ・ロヴェッリ(Carlo Rovelli)が提唱した「関係的量子力学(Relational Quantum Mechanics)」にある。ロヴェッリによれば、量子状態は絶対的に存在するものではなく、常にある観測者(あるいは物理系)との関係として存在する。電子のスピンの向きや粒子の位置は「観測者に対して」確定するのであって、宇宙全体を独立に記述する「神の視点」は存在しない。この見方を宇宙全体に拡張したものが関係的量子宇宙論である。従来の量子宇宙論は「宇宙波動関数」を仮定し、宇宙全体が1つの量子状態にあると考えてきた(ホーキング=ハートルの無境界提案など)。しかし関係的立場からすると「宇宙全体の量子状態」を語ること自体が矛盾する。なぜなら量子状態とは観測者との関係としてのみ定義されるので、宇宙に外部の観測者が存在しない以上、宇宙全体の波動関数は定義不可能だからである。そこで関係的量子宇宙論は「宇宙を絶対的に記述する」のではなく「部分系間の関係の集まり」として宇宙を理解しようとする。この理論の核心には「情報」という概念がある。関係的アプローチでは、物理的対象は相互作用の中で情報を交換することでのみ存在が定義される。電子と検出器が相互作用すれば「検出結果」という関係が成立し、その瞬間に量子状態が確定する。同様に、銀河、星、生命、観測者もすべて相互作用の網の中にあり、その関係が宇宙の構造を形づくる。宇宙とは「孤立した存在の集合」ではなく「情報関係の巨大なネットワーク」である。この立場から見ると、時間や空間もまた絶対的基盤ではなく「関係から派生する性質」となる。ロヴェッリはループ量子重力理論(Loop Quantum Gravity)の研究を通じて、時空を連続的な背景とみなすのではなく、量子化されたスピンネットワークの関係から構築されると論じてきた。宇宙初期の特異点も、時間の始まりとしての「絶対的瞬間」ではなく、関係構造の転換点として理解しうる。つまりビッグバンは「時間ゼロ」ではなく「異なる関係の相から次への移行」にすぎないのである。関係的量子宇宙論は、物理学に哲学的含意ももたらす。まず「存在とは何か」という問いに対して、存在は孤立的ではなく関係的であると答える。この見方は、古代仏教の縁起思想やホワイトヘッドの過程哲学にも通じる。また「観測者とは誰か」という問いに対して、特定の主体に限定せず、相互作用に関わるすべての系を観測者と見なす。これにより「宇宙は観測者がいなければ存在しないのか」という誤解を避けつつ、量子力学の奇妙な性質を整合的に解釈できる。主な提唱者としてはロヴェッリが中心であるが、その思想はジョン・ウィーラーの「It from Bit(情報から存在が生まれる)」の着想や、デイヴィッド・ボームの関係的宇宙観とも響き合う。さらに、量子情報理論やホログラフィック原理とも連関しつつ、「物理法則そのものが関係性のパターンにすぎない」という見方が広がりつつある。結論すれば、関係的量子宇宙論とは「宇宙を俯瞰する絶対的な視点」を放棄し、「相互作用と情報交換の網の目こそが宇宙の実体である」と捉える理論である。それは、宇宙を1枚の絵画のように眺めるのではなく、奏でられる音楽のように「響き合う関係」として理解する試みである。こうした視座は、物理学と哲学を架橋しながら、「私たちが生きている宇宙とは何か」という根源的問いに新たな光を投げかけているのである。フローニンゲン:2025/8/29(金)07:01


17298. 今朝方の夢

                   

今朝方は夢の中で、小中学校時代に住んでいた社宅の中で眠っていた。眠っていた場所は、両親の寝室のある隣のタンスがある部屋か自分の部屋のどちらかだった。眠りから1度目を覚ました時に、自分がどちらの部屋にいるのかわからなくなった。しかし、遠くから両親の声が聞こえてきたような気がして、それをもって自分は自らの部屋で眠っているのだと思った。おそらく最初はタンスのある部屋で寝ていたが一度目を覚まし、今度は自分の部屋に布団を敷いて寝ているのだと思ったのである。


次の場面は、見慣れない街を高校時代のある友人(HH)と一緒に1km5分ペースのゆったりとしたペースで走っている場面である。海岸沿いの松林の道を走っていると、彼が後からやってきて、軽快な走りを見せた。彼は短距離・長距離ともに足が速く、彼にとってそのペースはお茶の子さいさいのようだった。彼は身軽な格好をしていたが、自分は15kgほどの書籍が入った重たいリュックを背負っており、それがハンデとなっていた。しかし、彼に追い抜かされてこのままではまずいと思ったのでペースを上げて彼に追いついき、結果的に彼を追い越した。すると彼が突然走りながら小便をし始め、自分が彼を抜いたタイミングでこちらにいたずらとして放尿してきた。それが自分の左手に少しかかり、嫌な気分になった。それを受けて私は彼と一緒に走ることをやめて、そこからは空を飛んで移動することにした。いつもは高度の変更も速度の変更も自由にできるのだが、その日は様子が違った。なかなか自分の思う通りの高度にならなかったのである。なので途中で車道を走る車にぶつかりそうになったり、地上にいる人の目によく晒されて目立っていた。多数の街に向かう大きな駅の大きな広場にやってきた時に初めて高度が思うような高さになり始め、そこから望む高さで飛行ができた。その際に、日焼けをしないような高度を慎重に選んでいこうと思った。

最後に覚えているのは、「マジック:ザ・ギャザリング(MTG)」とポーカーが行われているカジノ風の店の中にいた場面である。そこで私は高校時代のクラスメートのある友人がプレーするポーカーの試合を観戦していた。彼は強い対戦相手と向き合っており、最初はとても弱気であった。そこでカジノのオーナー風の男性が彼にアドバイスをした。そのアドバイスは彼を励まし、彼のマインドを肯定的な方に変えるものだった。それを受けて、最初こそ弱気だった彼は自信をつけ、最初のラウンドで見事に勝利した。隣のテーブルでは、外国人の同年代ぐらいの女性が楽しそうにMTGをプレーしており、私はその様子も横目で見ており、時折彼女たちに話しかけて試合の進展の状況を確認した。右目でポーカーの試合を、左目でMTGの試合を観戦することは自分にとってとても楽しく、どちらのゲームもそれぞれに固有の魅力があって充実した時間を過ごしていた。フローニンゲン:2025/8/29(金)07:28


17299. 今朝方の夢の振り返り

            

今朝方の夢はまず社宅という原風景に自分を戻す。両親の寝室の隣か自室かを判別できない揺らぎは、親密圏と自立圏の境界が再編されつつある徴であるかのようだ。遠くの両親の声を手掛かりに自分の居場所を確定する運びは、外的権威の残響を内的羅針盤として転用する技であり、タンスのある部屋から自室へと「寝場所を移した」と感じる推移は、記憶の収納庫から自己物語の編集室へと主体が移動することの寓意である。海岸沿いの松林は陸と海の境界であり、過去と未来の接線である。高校時代の友人HHは比較と競争の化身で、彼の軽快さは若さの基準値を示す一方、自分が背負っていた15kgの書籍入りリュックは知の負荷であり同時に誇りである。その彼が走りながら放尿し左手に飛沫がかかる場面は、原初的な優越の誇示と境界侵犯の混線であり、左手=受容・無意識側への不意打ちの汚染として刻まれる。ここで同伴走行を断ち、飛行へ切り替える決断は、水平の競走から垂直の視座へと移ること、比較の地平を離陸して自律の高度を求める変換のように見える。しかし思うように高度を制御できず、車の流れや人々の視線に曝される不安定さは、自由が未だ技法として熟していないことを示す。多数の街へ通じる大きな駅の広場で初めて高度が安定し始めるのは、ネットワークの結節点に身を置くときこそ個の自由が整流されるという示唆である。日焼けを避けるために高度を選ぶ意識は、光=名誉と熱=消耗の最適露出を設計する成熟であり、見られることと燃え尽きることの間に精妙な境界を引く知恵である。カジノ風の店は運と技が交差する劇場である。弱気な友人がオーナー風の男性の助言で勝者へ転じる筋書きは、内的メンターを迎え入れるだけで意思決定の確率分布が反転しうることの実例である。隣のテーブルのMTGは世界構築と創発の象徴で、外国の同年代女性たちは異文化的アニマの来訪として、言語と戦略の可塑性を喚起する。右眼でポーカー、左眼でMTGを観る二重注視は、論理的推理と直観的連想という両半球モードの同時稼働であり、確率を読む眼と物語を紡ぐ眼が一致協働する瞬間の歓びである。2つのゲームを横断して楽しむ自分は、勝敗の緊張と創造の遊戯性を同一時間に重ねられる器をすでに獲得しつつあるかのようである。この夢全体は、親から受け取った定位感を内在化しながら、若き日の比較の回路を離れ、知の重みを抱えたままでも露出を賢く管理し、社会的結節点において自由の技法を磨く過程を描いているように思える。汚辱の悪戯は境界設定の稽古台であり、飛行の不安定さは高度を得るための授業料である。終盤の勝利と二重の眼差しは、内なるメンターの声を増幅し、計算と想像を統合する力が臨界に近づいている兆候である。人生における意味は明瞭である。比較の地面から離陸し、学知という重力を否定せずに運びながら、名誉の光と消耗の熱を弁別して最適露出を設計し、内なるメンターと二重の眼を養うなら、自分は駅前広場のような結節点で高度を得て、競走でも逃避でもない第三の移動様式――創造的飛行――に安住できるという宣言のように受け取れる。フローニンゲン:2025/8/29(金)07:43


17300. 進歩を実感するIELTS対策

  

フローニンゲンは秋の入り口に入ってからしばらく経ち、朝は本当に肌寒いほどである。朝のジョギング兼ウォーキングにおいても、汗をかくことは全くない。もちろん自宅に帰ってくる頃には体全体がポカポカしていることは確かで、微量ながら朝日を浴びれることもまたメリットである。来月の中旬に控えたIELTSの試験に向けて、準備は着々と整っている。毎日朝と午後の2回に分けて、ChatGPTのVoice Chat機能を使ってスピーキングの問題を丸々1セット、合計で2セットほど回答し続けてしばらくが経つ。ChatGPTからのフィードバックのおかげもあり、着実にその成果が目に見えて感じられるようになっており、スピーキングに関しては前回のバンドスコアを超えられそうである。手強いライティングに関しても、ようやく配点の高いパート2に関してChatGPTから高い評価が得られるようになってきていることは良い兆しである。これまでは思わぬ文法ミスが多く散見され、スペルミスなども目立った。そうした文法上・スペル上のミスのパターンがストックされ始めており、注意深く文章を書くことができており、それがスコアを押し上げる形になっている。それと同じぐらいに重要なのが、問題のパターンごとにどのようなパラグラフ構成でどのような内容について文章を書いていけばいいのかという明確な指針があることである。2年前の前回はその辺りの指針があまりなく、全ての問題パターンに対してほぼ同じようなテンプレートを用いてしまっていて、それがTask Achievementの項目のスコアを下げていた可能性がある。試験までまだ時間があるが、すでに40分の回答時間の中に収まる形で文章を執筆することができている。一文一文執筆するごとに読み直しをしてスペルチェックをしながら、最後まで文章を書いたらもう一度全体を見直して、スペルの確認に合わせて語彙を言い換えたりする時間も十分に確保できている。あとは、トピックセンテンスから徐々に抽象性を落としていき、最終的には具体例を提示する流れをよりスムーズなものにし、確実なものとしたい。IELTSの対策は、リーディングとリスニングにおいても良い影響をもたらしている。本来は唯識に関する論文の執筆の続きに取り組むことや、量子論や宇宙論関係の専門書を没頭して読んでいきたいところだが、それらを傍に置いてIELTSのリーディングの問題から得られることを楽しんでいる。幸いにもリーディングで取り上げられる話題は面白いものばかりであり、自分の知識の幅を広げることに役立っている。そうした楽しみの一環としてリーディング対策ができていることは喜ばしい限りだ。リスニングにおいても聞き取りの精度を上げる良い機会として日々の対策を楽しみ、確かな進歩を感じている。残りの人生で何回IELTSの試験を受けることになるのかわからないが、また2年後以降に受けることがあれば、それを自らの英語力のブラッシュアップの最良の機会として捉えて対策を楽しみたい。フローニンゲン:2025/8/29(金)10:29


17301. ループ量子重力理論とは


今日はIELTSの対策をいつも以上に時間をかけて行い、それに並行して毎日の日課である良遍の漢文書籍の転写も終えている。ちょっとひと休憩として、先日届けられた量子論・宇宙論関係の専門書に目を通したいと思う。


ループ量子重力理論(Loop Quantum Gravity, LQG)は、量子力学と一般相対性理論を統合しようとする試みの1つであり、超ひも理論と並ぶ代表的な量子重力アプローチである。その特徴は、空間や時間を背景として与えるのではなく、それ自体を量子化された構造として記述する点にある。すなわち、宇宙の「舞台」である時空が粒子的・離散的な構造を持つと考えるのがループ量子論の核心である。この理論の提唱には複数の研究者が関わっている。基盤はアシュテカール変数を導入したアビハイ・アシュテカール(Abhay Ashtekar)によって整えられ、1980年代後半から1990年代にかけてカルロ・ロヴェッリ(Carlo Rovelli)、リー・スモーリン(Lee Smolin)らによって体系化された。アシュテカール変数は、一般相対論をヤン=ミルズ場に似た形式で書き直すことで、量子化を可能にした。ロヴェッリとスモーリンはこの形式を用いて「スピンネットワーク」という新しい数学的枠組みを導入し、そこからループ量子重力理論が形を整えていった。ループ量子重力理論の根本的アイデアは、空間を連続的なものとみなさず、最小単位に分解することである。量子化された空間は「スピンネットワーク」と呼ばれるグラフ構造として記述される。これは点(ノード)と線(リンク)から成るネットワークであり、それぞれが量子数(スピン)を持つ。ノードは体積を、リンクは面積を担い、こうして空間そのものが離散的な単位に刻まれる。つまり空間の面積や体積は任意に細分化できるのではなく、プランクスケール(10^-35m 程度)に対応する最小単位を持つとされる。この考え方は、古典的に滑らかに見える布が、顕微鏡で見ると織物の目で構成されているのと似ている。時間についても同様であり、ループ量子論は時間を背景的な連続変数として扱わず、スピンネットワークの「遷移」によって生まれるものとする。この遷移は「スピンフォーム」と呼ばれ、スピンネットワークが互いに結び変わっていく過程を表す。したがって、時間は「絶対的な流れ」ではなく、関係の変化のパターンとして立ち現れる。これは関係的量子力学の立場とも響き合い、宇宙の根本に「時空の織物」が存在するという直感的なイメージを与える。ループ量子重力の重要な成果の1つは、「特異点問題」への解答である。一般相対論では、ビッグバンやブラックホール内部で時空は無限に曲がり、物理法則が破綻する。しかしループ量子重力では、時空は離散的であるため「無限の密度」は生じない。例えば、「ループ量子宇宙論(Loop Quantum Cosmology)」の研究では、ビッグバンは時空の始まりではなく、以前の収縮宇宙からの「反跳(ビッグバウンス)」として解釈できることが示されている。これにより、宇宙が「始まりを持たない」可能性が浮上し、時間と存在の根本的理解に新たな視点を与えている。また、ブラックホールに関しても、ループ量子重力は「中心特異点」が解消される可能性を示唆する。内部は量子効果によって有限の構造を持ち、情報喪失問題の解決につながる道筋も議論されている。さらに、ブラックホールのエントロピーがその表面積に比例するというベッケンシュタイン=ホーキングの公式が、ループ量子重力の枠組みから導かれることも重要な成果である。理論としての強みは、背景独立性を保ちながらも数学的に厳密であり、時空そのものの量子化を実現している点にある。ただし課題も多い。スピンネットワークやスピンフォームがマクロな時空にどのように連続体として現れるのか、標準模型の粒子や相互作用をどう統合するのか、といった問題は未解決である。そのため、超ひも理論との比較で「数学的な包括性に欠ける」と指摘される一方、余計な仮定を導入しない「ミニマリズムの美学」が評価されてもいる。まとめれば、ループ量子重力理論はアシュテカール、ロヴェッリ、スモーリンらが提唱した「時空そのものを量子化する理論」であり、空間と時間をスピンネットワークという離散的構造として捉える。特異点の解消やビッグバウンスなど、宇宙観に革命的示唆を与える一方で、標準模型との統合や実証的検証には課題を残す。それでもなお、この理論は「宇宙は織物のように編まれた量子ループの集合である」という鮮烈なイメージを与え、21世紀の物理学における重要なフロンティアであり続けている。フローニンゲン:2025/8/29(金)15:29


17302. 多元宇宙論について

     

多元宇宙論(multiverse theory)は、「私たちの宇宙は唯一ではなく、数多くの宇宙が存在し得る」という仮説である。直感的には途方もないアイデアだが、現代物理学のいくつかの理論は自然に「多元宇宙」の可能性を導き出す。提唱者は1人に限定できないが、重要な源流にはヒュー・エヴェレット、アンドレイ・リンダ、マックス・テグマークらの名が挙げられる。エヴェレットは量子力学の「多世界解釈」を1957年に提示し、リンダは1980年代に「インフレーション宇宙論」から多元宇宙像を展開した。テグマークは多元宇宙を体系化し、レベルごとの分類を提示した。まず量子力学の観点から見ると、「観測するたびに宇宙が分岐する」というイメージが浮かぶ。エヴェレットの多世界解釈によれば、量子測定の結果は1つに収縮するのではなく、あらゆる可能性が同時に実現し、それぞれ別の宇宙が生成される。例えばコイントスをした場合、私たちの宇宙では「表」が出るが、並行宇宙では「裏」が出る。私たちはその一方を経験しているにすぎない。このモデルでは、宇宙は巨大な「枝分かれする木」のように増殖していくのである。次に宇宙論のインフレーション理論が導く多元宇宙を考えてみたい。アラン・グースが提唱したインフレーション宇宙論では、初期宇宙は指数関数的に急膨張した。この膨張は場所によって止まるタイミングが異なり、泡宇宙(bubble universe)が次々と形成される。アンドレイ・リンダはこれを「永遠のインフレーション」と呼び、膨張の止まった領域ごとに独自の物理定数を持つ宇宙が生まれると考えた。イメージとしては、シャンパンの液体の中に泡が次々と生まれるように、多元宇宙が「泡の群れ」として広がっている姿である。私たちの宇宙もその1つの泡にすぎず、他の泡には異なる法則が支配する可能性がある。さらに宇宙の物理定数の「微調整問題」も多元宇宙論を後押ししている。例えば、重力定数や電子質量がわずかに異なっていたなら、星も惑星も生命も存在できなかった。なぜ宇宙の定数は生命に適した値を取っているのか。この問いに対し、多元宇宙論は「無数の宇宙が存在するので、たまたま生命が可能な宇宙に私たちがいるにすぎない」という説明を与える。これは「人間原理(anthropic principle)」と結びつき、宇宙定数の謎を解く1つの枠組みを与えている。マックス・テグマークは多元宇宙を体系的に四段階に分類した。レベルIは「無限の空間における別の領域」としての宇宙、レベルIIは「異なる物理定数を持つ泡宇宙」、レベルIIIはエヴェレット流の「量子分岐による多世界」、そしてレベルIVは「数学的に可能なあらゆる構造が宇宙として存在する」という極めて抽象的な階層である。イメージ的に言えば、レベルIは果てしなく広がる大地の別の町、レベルIIは異なる気候や法則を持つ異世界、レベルIIIは鏡に映るもう1人の自分が歩み出す並行現実、レベルIVは「数学という設計図がすべて宇宙になる」という究極のプラトン的世界観にあたる。もちろん多元宇宙論は実証が難しい。別の宇宙を直接観測することはほぼ不可能だからである。ただし、インフレーションの痕跡として宇宙背景放射に「泡宇宙同士の衝突痕」が残るかもしれないという研究や、量子情報論を通じて多世界解釈を支持する動きもある。まだ仮説段階ではあるが、現代宇宙論の先端で真剣に議論されている。結論として、多元宇宙論は「宇宙は1つ」という常識を覆し、私たちの現実を巨大な「可能性の海の一滴」として位置づける。夜空の星々が無数に輝くように、宇宙そのものもまた無数に存在するかもしれない。私たちが見上げるこの世界の背後には、異なる法則と物語を持つ果てしない宇宙の群れが広がっている――それが多元宇宙論の描く壮大なイメージである。フローニンゲン:2025/8/29(金)16:14


Today’s Letter

Reality is always radiating before my eyes. Although my ego sometimes interprets things as negative, there are neither positives nor negatives in this reality. Everything floats beyond our judgment. Groningen, 08/29/2025

 
 
 

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