【フローニンゲンからの便り】17118-17129:2025年7月31日(木)
- yoheikatowwp
- 8月2日
- 読了時間: 33分

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タイトル一覧
17118 | 唯識における命 |
17119 | 今朝方の夢 |
17120 | 今朝方の夢の振り返り |
17121 | 唯識における宇宙 |
17122 | 意識としての宇宙 |
17123 | 唯識における因果関係 |
17124 | 前世の記憶と唯識 |
17125 | 遠隔ヒーリングと唯識 |
17126 | 末那識と自証分 |
17127 | テレパシーと唯識 |
17128 | パラレルワールドと唯識 |
17129 | エヴェレットの理論を拡張させたメンスキー |
17118. 唯識における命
時刻は午前7時を迎えた。今日もまた随分と冷え込んでおり、ここ2日と同じく極暖のヒートテックを上に着る必要がありそうだ。明日から8月だということがにわかに信じられない。今日も曇りがちではあるが、最高気温はかろうじて21度となる。
「命とは何か」という問いは、生物学や自然科学では細胞や遺伝子、代謝活動などの機能的定義に還元されがちであるが、唯識思想の観点からは、それらの物理的現象の根底に「識」すなわち心的活動の連続性こそが命の本質であると考える。唯識とは「万法唯識、外境無有」の立場を取る大乗仏教の深層的認識論であり、いかなる存在も究極的には「識」によって構成される現象にすぎず、「物」や「生命」もまた自性として実在するわけではない。唯識において「命」とは、五蘊(色・受・想・行・識)のうちの「識蘊」を中核としながら、阿頼耶識という最深層の心的基盤によって統合された、自己認識的かつ業縁的な生命現象である。この阿頼耶識とは、経験世界のあらゆる種子を蔵しており、それが過去の行為によって成熟し、未来の存在として現前する。言い換えれば、命とはただ現在において鼓動する物質的過程ではなく、過去・現在・未来にわたって因果の網の中で展開される「心の流れ」そのものである。したがって、命は「個体としての生存」ではなく、「連続する識の変化としての存在」と捉えられる。例えば、目・耳・鼻・舌・身・意という六識が機能することで感覚世界が成立し、これらの識が連続して働く限り、「私」という命の現象は保たれているように見える。しかし唯識は、これらの識もまた一瞬一瞬に生滅しており、永続的な実体としての「命」も「私」も存在しないと説く。この一瞬ごとの心の生滅を「刹那滅」といい、命とはまさに「刹那ごとに現れ、消えてゆく意識の連鎖」なのである。ここで注目すべきは、命は物質的基盤(身体)に依存しながらも、それに還元されないという点である。唯識では、「色」は「識」の変現、すなわち心の投影であるから、身体ですら「識の現象」である。ゆえに、命は身体に宿るものではなく、身体そのものが命ある識の働きとして現れた「所現の器」にすぎない。この観点は、現代の神経科学や唯物論的生命観が「脳が心を生み出す」とする主張とは対極に位置している。唯識では、むしろ心(識)が身体や宇宙を映し出しているのであり、命は物理的現象の派生ではなく、深層的な意識の顕現なのである。また、「命とは何か」という問いは、その背後に「死とは何か」という対の問いを含んでいる。唯識において死とは、「現在の五蘊が崩壊し、阿頼耶識に内蔵された種子が別の存在形態として展開される変化」にすぎない。すなわち、命は終わるのではなく、姿を変えて連続し続ける。この非断見・非常見の中道的立場は、輪廻思想とカルマ論に支えられた仏教的生命観の中心をなす。結論として、唯識の観点に立てば、命とは実体的・恒常的な「存在」ではなく、識の無始より続く因果的展開における「働き」であり、縁起的・仮構的・非自性的な「関係の流れ」として理解される。命は「あるもの」ではなく、「働いていること」であり、その本質は阿頼耶識という深層意識の躍動にある。ゆえに、命とは「心が世界を現し、世界の中で自らを経験する」ダイナミックな自己表現の現象に他ならないのである。フローニンゲン:2025/7/31(木)07:19
17119. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、日本の見知らぬ私立の名門大学に通っていた。自分はまだ入学したてであったが、すぐさま1人の優しそうな学生と友人になった。彼は四国の出身で、お互いに東京に出てきたこともあって、関東出身ではないつながりを感じた。彼としばらく話をしていると、校舎の外で知っている人を見かけた。それは2つ学年が上の先輩だった。その先輩は母と知り合いで、先日うちにいて母と楽しそうに話をしていた。どうやら母の習い事教室でその先輩が働いており、そこで知り合ったようだった。母とその先輩は随分と年齢差があるのだが、気が合えば年齢差など関係なく友達になれることを学んだような気がした。先輩がうちにやって来ていた時に先輩と知り合うことになり、その日は夕食まで食べていくことを母は先輩に勧めていたが、先輩は夕方に帰ることになった。その日は父も家にいて、父はずっと自分の部屋で篭って何かをしているようで、先輩と顔を合わせることは最後までなかった。そんな先輩が目の前にいたので先輩に話しかけ、3人で大学のカフェテリアで昼食を摂ることにした。その日はお金をほとんど持って来ておらず、カードも財布に入れていなかったので、購入できるものが限られていた。自分はサラダを1品だけ選び、ちょうどそのサラダはビュッフェ形式の品として提供されており、やっていいのかわからなかったが、他のサラダをそのサラダの上に乗せていき、それを1品としてレジに持っていくことにした。料理を出す係の人もその様子を見ていたが、別に自分を止めることをしなかったので、大丈夫だろうと思った。
それ以外に覚えている夢は、見慣れないRPGゲームを購入し、早速それをやり始めた場面である。ゲームを開始すると、まずは主人公の名前を変えられたので、自分の名前を漢字で入れた。そこからは、主人公のエンブレムを決めることになり、ちょうど画面には自分が進学したいと思っているイギリスの大学の名前と校章に似たエンブレムがいくつか並んでいて、そのうちのどれかにしようと思った。しかし、縦横にスクロールしていくと、エンブレムの数が膨大にあることがわかり、どれにしようかとても迷った。この調子だとエンブレムを決めるだけで時間が経ってしまうと思い、そこでふと、自分はゲームよりも学術研究の方が楽しいと思っていることを思い出した。購入したてのゲームではあったが、損切りを早くして、ゲームをするのではなく、自分が心底楽しいと思える学術研究に着手することにした。
最後に覚えている場面として、外国の見慣れない駅のプラットホームにやって来ている2階建ての特急列車に乗ろうとしている場面があった。私の横には外国人の女性友達がいて、彼女と一緒にその列車に急いで乗り込むことにした。自分たちのチケットは真ん中の車両の席だったが、列車が間も無く出発しそうだったので、プラットホームの最後列の車両に乗り込むことにした。無事に列車に乗ると、中は1人がけの席や2人がけの席、さらには4人がけの対面式の席など色々とあり、今から始まる列車の旅がとても楽しみな気持ちになりがら、同時に急いで走ってきたことによる呼吸の乱れをゆっくりと整えようと思った。フローニンゲン:2025/7/31(木)07:35
17120. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は三楽章構造を取り、自己形成の諸段階を象徴的に描き出している。第一楽章である「私立名門大学篇」は、未知の高みへの参入と、そこでの人間関係の初期設定を示している。主人公が名門校に入る場面は、社会的評価や知的水準の上昇を志向する自我の欲求を映し出す。他方で四国出身の同級生との邂逅は、周縁から中心へ集う者同士の共鳴を示し、出自やローカリティを越えて築かれる新たな共同体への期待が立ち上がる。また母と親しい年上の先輩の登場は、世代間・階層間の断絶をぬぐい去る媒介者として母性が作用することを暗示する。父が自室に籠もり姿を見せない様子は、外界との関係構築において依然として距離を保つ父性原理を象徴しており、家族システム内でのエネルギーの偏在を示唆する。カフェテリアで金銭が乏しくサラダを一品として重ね盛りにする場面は、限られた資源の中で自己表現と充足を模索する若い自己の知恵と逡巡の可視化である。第二楽章の「RPG購入篇」は、現実の自己規定を巡るメタ的逡巡として機能する。主人公名を漢字で入力し、自らのエンブレムを選択しようとするプロセスは、「名付け」と「紋章」の二重の象徴行為によって自我同一性を固定化しようと試みる儀礼である。しかし画面に無数の紋章が拡がり、決定不能の渦に陥る点は、可能世界が増殖しすぎた現代的主体のアイデンティティ選択の困難を示す。ここで自分は学術研究という本来の歓喜源を想起し、ゲームを損切りして研究に回帰する決断を下すが、これは「遊戯的自己」の放棄ではなく、「遊戯を統合した上位の真剣さ」への昇華と読むべきである。言い換えれば、数多の象徴記号に迷う自我が、より深い自己本質へ接続し直す瞬間が映されている。第三楽章「2階建て特急篇」は、内的選択の確証を得た後に始動する外的旅路の予兆である。異国の駅、外国人女性の同行、2階建て列車という多層構造の容れ物はいずれも境界越境と視野拡大を示唆する。真ん中の座席指定がありながら最後尾から乗るという行為は、計画された進路を保持しつつ即興性を許容する柔軟な戦略を象徴する。呼吸を整える描写は、急激な環境変化の中で自律神経的均衡を取り戻す必要性を示すとともに、新たな旅の昂揚と不安の同時抱擁を示唆する。列車という線形移動体は時間軸上の自己発展を示す典型的イメージであり、2階建ての高さは視座を高めること、すなわちこれからの学術的・精神的探求が水平的拡散のみならず垂直的深化を志向することを物語る。全体として、本夢は「共同体への編入」「自己同一性の選択と核心への回帰」「境界を越える旅立ち」という三段階を通じ、学術的キャリアと内的成熟を重ね合わせた発達物語を描く。母性的ネットワークが垂直的連帯を示し、父性的距離が批判的自立を促すという家族力学の布置が、外部世界での友情、資源不足の創意、アイデンティティ探索、そして最終的な越境と結び付けられる。サラダの重ね盛りから2階建て特急まで、すべてのモチーフは「層を足し重ねる」ことを通して質的転位を生み出すという統一原理に収斂する。自己は無数の可能性を折り重ねながら、自らが真に価値を置く層――学問的探究と国際的視野――へと舵を切り、そのプロセス自体がすでに旅の始まりであることを、本夢は密やかに告げているのである。フローニンゲン:2025/7/31(木)08:01
17121. 唯識における宇宙
唯識において宇宙とは、実体的に外在する客観的世界ではなく、根本的には「識」の変現として理解される。すなわち、「宇宙」という語が指し示す広大な空間や時系列的な出来事の連なりは、認識主体の心識が自らの内的因(種子)に基づいて構成した仮象に他ならない。これが「唯識所変」の理である。阿頼耶識という深層意識には無数の種子が含蔵されており、これらが縁に応じて顕現し、現象世界すなわち宇宙が一切の有情に共通して経験される「共業世界」として展開する。したがって、宇宙とは自我と他者、主体と客体といった二元性を基盤とする錯覚の投影であり、その本質は識の表層に現れる虚妄分別に過ぎない。この視点からすると、ビッグバンや宇宙の膨張、銀河や星の形成といった科学的宇宙論が描く歴史的宇宙像は、あくまで第六識(意識)による「分別知」の産物であり、八識の中でも最も表層的な機能による世界の仮構にすぎない。つまり、科学的宇宙論が数学的モデルや観測データによって描き出す宇宙とは、識が自己の内部構造を外界として認識し直したものであり、それは決して識から独立して実在するものではない。むしろそのような宇宙像が生まれること自体、識の深層に潜む無明と種子の働きによって、存在と時間の概念が顕現し、識がそれに対して執着と分別を生じさせることを示している。また、唯識においては「三界唯心」と説かれ、欲界・色界・無色界というあらゆる存在の階層は心の顕現に他ならず、宇宙の物質的・精神的・霊的次元を問わず、すべては識によって構成されている。この構造は、単なる主観的幻想を意味するのではなく、むしろ「所見所知の空性」すなわち、現象世界が自己の識の投影であると見抜く智慧に至るための方便である。現象的宇宙の全体は、識が自己を認識する鏡として機能しており、その鏡像を通して阿頼耶識に蓄えられた煩悩や執着の種子が顕わになり、浄化されていくプロセスとしての意味を持つ。ゆえに、宇宙とは外界にある実在物ではなく、識の無始の習気が連綿と顕現し続ける「夢の如き構造」である。この夢から目覚めること、すなわち宇宙を外的実在と見なす二元的な錯覚から脱却し、現象界そのものが空であり、心の顕れであると体得することこそが、唯識が目指す「転依」の境地である。したがって、唯識における宇宙とは、識の根源的な変容を通じて認識される一大劇場であり、そこでは物理的現象も心理的経験も識の投影として一体化し、「外なる宇宙」と「内なる心」が不二に融け合う非二元の認識へと至る契機となるのである。フローニンゲン:2025/7/31(木)08:08
17122. 意識としての宇宙
唯識の観点からすると、「宇宙」とは単なる物質的実体の集合ではなく、根本的には「識」すなわち意識の変現として成立しているため、それは本質的に「意識的な存在」であると言いうる。だがここで言う「意識的存在」とは、通常の意味における人格的意識や自我意識を持った存在を指すのではなく、「識が自己の種子を因として、縁によって展開する相としての現象宇宙」という意味において、構造的に意識的であるということである。唯識思想では、あらゆる存在や現象は「唯だ識の所変なり」(『成唯識論』)とされ、私たちが「外界」や「宇宙」と呼ぶあらゆるものは、実は根源的な識の働きによって構成された「仮の相」である。つまり、星雲、銀河、時空、因果法則、物質とエネルギーといったものも、外在的に実在するわけではなく、深層意識である阿頼耶識に蔵される種子が、因縁によって顕現した結果にすぎない。これらは「共業識」によって多くの有情に共有されているため、客観的現実であるかのように見えるが、その本質はやはり「識の変現」に他ならない。この「識の変現」という理解において、宇宙は単なる受動的な物質的背景ではなく、能動的に展開し、形象を取り、意味を孕むものとして、意識の運動と不可分の存在である。とりわけ、阿頼耶識は「無分別智」でありながら、自己の内に無量の種子を蔵し、それを縁起的に展開させて「時空的宇宙」を形成する。この意味において、宇宙とはまさに「意識の活動の投影」であり、その活動は意図的でも無意図的でもない、根源的な「識の法爾なる働き」である。したがって、唯識において宇宙は単なる背景ではなく、意識の現れとしての積極的意味を持つ。さらに、「三界唯心、万法唯識」とあるように、欲界・色界・無色界という存在の全階層はすべて心の顕現であり、物質的宇宙でさえも意識の顕れにすぎないとされる。このことは、物理的宇宙もまた潜在的に意味を孕んだ意識的構造を帯びていることを意味する。例えば、観測者の意識がなければ量子的状態が確定しないという現代物理の議論(観測問題)とも通じるが、唯識ははるか以前から、認識される対象は常に識の側から生起していると見抜いていた。また、唯識においては「相分」と「見分」が不可分である。すなわち、見ている主体と見られる対象は本来1つの識の中の分別的構造に過ぎず、宇宙もまた相分として顕現しているならば、それは本来的に識の自己認識的構造の一部である。ゆえに、宇宙は自己を映し出す巨大な「鏡像」として、識自身が自己の内的可能性を空間的・時間的・物理的形象として展開している場である。このように唯識の観点に立つならば、宇宙は「意識が自己を対象化し、意味と経験を生成する構造体」であり、それ自体が意識の投影であるという意味で、意識的な存在である。人間の意識が宇宙を認識するという構図の裏には、宇宙それ自体が識の一部であるがゆえに、識は自らを宇宙として経験している、というメタ認識的構造がある。この視座に立つとき、宇宙と意識は対立するものではなく、同一の識の多様な顕現形態であり、その相互関係の自覚がすなわち「転識得智」「転依」の道となるのである。フローニンゲン:2025/7/31(木)08:24
17123. 唯識における因果関係
唯識における因果関係の理解は、通常の外的世界における客観的因果則とは根本的に異なる。「唯識」とは、すべての現象(法)は「識」すなわち心の働きのみによって成立するという教理であり、そのため因果関係もまた、心の働きに基づく「識内的」な構造として捉えられる。したがって、ここでの因果とは、外界に実在する物質的・機械的な因果律ではなく、識の運動として顕れる「内在的・縁起的」な因果連関である。唯識において因果は主に「種子」と「現行」の関係として説明される。深層意識である阿頼耶識には、過去の行為(業:karma)や思考、認識の痕跡が「種子」として潜在的に貯蔵されており、これらの種子が縁(因縁)を得ることによって「現行」となって表層意識や現象界に現れる。これが唯識における最も基本的な因果構造である。例えば、ある人が怒りを抱いたという経験は、阿頼耶識に「怒りの種子」として貯蔵され、それが未来において類似の状況・刺激に出会ったとき、再び怒りとして顕現する。このように、因は「種子」として内在し、果は「現行」として顕現する。この因果関係は「識の自己展開的構造」であるため、外部に実在する因や果が互いに作用し合っているのではなく、すべては1つの識の運動として完結している。これを「識所変」といい、因と果の関係も、識が自己の内的構造を時系列的な連関として認識しているにすぎない。つまり、「時間の流れに沿った因果性」自体も識の構成作用によって経験されているにすぎず、時間的な先後関係もまた実在ではなく、唯識的に言えば「唯だ識の内における相続的連続」に他ならない。また、唯識では因果関係は「自因自果」「自業自得」として厳密に内在化される。すなわち、ある果報を受けるとき、それは常に自らの識の中に潜在していた種子が顕現したに過ぎず、外からもたらされたものではない。これによって倫理的な責任が徹底的に内在化され、「縁起」と「業報」が不可分なものとして理解される。「我が見る世界は我が心の投影である」とする唯識の基本原理は、因果関係もまた自己の識が自己の識に作用しているという円環的構造の中に閉じ込められていることを意味する。さらに重要なのは、「因果は空である」という中観的理解をも内包していることである。因果関係が「識の構成作用」であるならば、それは固定不変の法則ではなく、縁に応じて変化し得る流動的なものである。これが「縁起無自性」という思想に通じる。因がそのまま果となるのではなく、因・縁・条件が複雑に重なり合って果が生じるという「多因多縁」の因果観がここにある。ゆえに、因果関係とは固定された力学的過程ではなく、無数の条件が重なり合って成立する「識の縁起的展開」に他ならない。最後に、唯識はこの因果的連関を超克する智慧の可能性も同時に示している。すなわち、無明によって形成された阿頼耶識の種子が苦の因となるならば、その種子を浄化し、智慧の種子に転換することで、「因果の束縛」から自由になる可能性がある。これが「転識得智」「転依」の実践であり、煩悩を因とする識の因果構造を、智慧と慈悲を因とする浄化された識の因果構造へと変容させることで、輪廻から解脱する道が開かれる。このように、唯識における因果関係とは、外的世界の相互作用ではなく、深層識の内在的構造としての「種子と現行の縁起的関係」であり、それは倫理的・実践的な意味においても深く位置づけられたものである。フローニンゲン:2025/7/31(木)09:03
17124. 前世の記憶と唯識
唯識の観点から前世の記憶を考察する場合、中心となるのは「阿頼耶識」の理論である。唯識学派、とりわけ『成唯識論』においては、人間存在は8つの識によって構成されており、その最深層に位置するのが阿頼耶識である。阿頼耶識は「一切種子識」とも呼ばれ、過去に経験したあらゆる行為(業)・感情・知覚・記憶の痕跡が「種子」として蓄えられる無意識的領域である。この種子は、死後も滅することなく、次の生存に持ち越される。つまり、阿頼耶識は「生命の連続性」を担保する媒体であり、個体的な存在の同一性を超えたカルマ的継起の基盤となる。輪廻の過程において、阿頼耶識が途切れることなく次の存在へと相続されるということは、前世において形成された種子もまた、現世の経験や性格、傾向性に影響を及ぼしていることを意味する。しかしながら、通常、私たちの表層意識(前五識+第六意識)はこの阿頼耶識に蓄えられた過去生の種子を直接知ることはできない。なぜなら、阿頼耶識の内容は「無記」であり、通常の意識によってはアクセスされない深層で静かに活動しているからである。したがって、前世の記憶が顕在化するには、ある種の特殊な条件、すなわち深い瞑想(三昧)状態や臨死体験、あるいは強烈な感情的トリガーなどが必要とされる。唯識において「記憶」とは単なる情報の再生ではなく、過去に形成された種子が現在の意識活動に再び浮上する過程である。このとき、阿頼耶識における記憶の種子が、因と縁を得て「現行」として第六意識(思考・分別)や第七末那識(自己同一化)の場に浮かび上がることになる。これは「種子現行の理」に基づく自然な展開であり、前世の記憶が夢や幻視、直観的な気づきとして立ち現れる可能性を含んでいる。また、唯識では「遍計所執性」という認識の誤りの構造が説かれており、前世の記憶とされるものが実際には今世の経験の再構成にすぎないという可能性もある。この点は、ヨーガによって正しい認識(勝義諦)に至るためには、「所知障」と「煩悩障」を乗り越える必要があることを示している。つまり、前世の記憶が真に「浄識」として顕れるためには、心の浄化が不可欠であり、自己の認識作用そのものが明晰かつ執着なきものでなければならない。さらに重要なのは、「前世の記憶」が倫理的実践と深く結びついているという点である。唯識では「自業自得」の原理に基づき、今の人生における苦楽・才能・性向は過去生での行為の結果であるとされる。このとき、前世の記憶が単なる物語や知的興味の対象ではなく、自己の生の意味と責任を深く理解するための契機として機能する。すなわち、「私はなぜこのような性格を持ち、なぜこのような縁に生きているのか」という問いに対して、唯識は「阿頼耶識の因果的構造が今ここに結果として現れている」という深層的回答を提示する。結論として、唯識の観点に立つならば、前世の記憶とは阿頼耶識に貯蔵された種子が現行となって浮かび上がる特殊な意識現象であり、それは過去生と現在生を連関させる縁起的・倫理的・実践的な構造に基づいて理解されるべきである。それは単なる過去への回帰ではなく、「今ここ」における自己の生の意味と責任を照らし出すための、深い内観的智慧の入り口なのである。フローニンゲン:2025/7/31(木)10:42
17125. 遠隔ヒーリングと唯識
遠隔ヒーリングとは、物理的に離れた場所にいる他者に対して、祈りや意念、エネルギーを通じて癒しの効果をもたらすとされる行為である。通常の唯物論的観点からすれば、身体的接触や化学的作用が伴わないこの種の治癒行為は科学的根拠を欠いていると見なされるかもしれない。しかし、唯識(瑜伽行派)の立場に立てば、遠隔ヒーリングは単なる幻想ではなく、深層意識における識と識との相互関連に基づく現象として理論的に位置づけることが可能である。唯識は「一切唯識所現」を根本命題とし、すべての現象は外界に実在するのではなく、識の働きとして顕れるとする。この識には多層的構造があり、表層には感覚器官に対応する前五識、思考作用としての第六識(意識)、自己同一化の執着を担う第七識(末那識)、そして深層にはあらゆる経験・業の痕跡を蓄える第八識(阿頼耶識)が存在する。このうち遠隔ヒーリングにおいて特に注目すべきは、第七識と第八識の働きである。第七識は「恒審我」と呼ばれ、常に「我」に執着し、阿頼耶識を自己の本体と誤認する機能を持つ。この識は他者の苦や病を自己の感受性として取り込む可能性があり、祈りや共感といった働きを通じて、他者の阿頼耶識に接続する「媒介」となり得る。すなわち、ヒーラーが相手の苦痛を自己のものとして深く感じるとき、ヒーラーの第七識はその感応を通じて、相手の第八識に働きかける通路となる。阿頼耶識は「無表業」としての潜在的行為を含み、それは意念・祈り・意図といった非物理的なエネルギーも種子として蓄える。ヒーラーの純粋な慈悲心や癒しの願いが阿頼耶識に強い意図(願力)として刻印されると、それが縁を得て他者の識と共鳴する。唯識では「共業」という考えがあり、個々の識が他者と一定の因縁を共有することによって、共通の現象世界を経験する。遠隔ヒーリングもまた、この共業の場において識と識が非局所的に接続することで、他者の内的状態に変容をもたらす可能性を有している。また唯識における「種子現行」の理からすれば、癒しの力とは即時的な直接作用ではなく、深層に植えられた「治癒の種子」が、後に縁を得て発現するという時間的猶予を持った運動である。したがって、ヒーラーの意図は必ずしも即座に成果をもたらすとは限らず、相手の内的成熟やカルマ的条件が整うことで、初めて現象化する。その意味では、遠隔ヒーリングとは「識から識への因縁の投与」であり、それが「共感的縁起」として作用することで癒しが生じるのである。さらに、唯識では「他心智」すなわち他者の心を知覚する特殊な智慧が存在し、これは深い禅定や三昧の境地において開花するとされる。この他心智の力によって、ヒーラーは相手の苦痛の深層構造を直観的に知り、その識の波に働きかけることが可能となる。このとき癒しとは単なる言葉や施術を超えた、識のレベルでの深い共鳴と変容のプロセスとして成立する。結論として、唯識の観点において遠隔ヒーリングは、外的な物理的接触を介さずとも、深層意識(阿頼耶識)における因果と共業、さらには他心智的共鳴を通じて可能となる「識と識との相互変容的関係」として定義されうる。それは非物質的であるがゆえに、むしろより深いレベルでの因縁的作用を引き起こし得るのであり、唯識の体系においては理論的に十分な正当性を持ち得る現象だと言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/31(木)11:05
17126. 末那識と自証分
末那識と自証分は、いずれも唯識思想において極めて重要な概念であるが、その性質・機能・哲学的含意において大きく異なるものである。両者はいずれも「自己に関わる意識的契機」を含むが、それぞれが語られる文脈と、果たす役割、そして心の働きにおける位相が著しく異なるため、その違いを明確に理解することは、唯識の深層心理構造や認識論的枠組みを把握する上で不可欠である。まず末那識とは、八識の体系において第七識と位置づけられる深層の心であり、阿頼耶識(第八識)を恒常的に対象として捉え、これを「我」と錯覚することで「我執」を生起させる機能を持つ。この末那識は、常に自己を思量する働きを持ち、自己への執着、すなわち「我見」「我愛」「我慢」「我痴」といった4つの煩悩(四煩悩)を不断に発動させる。つまり、末那識は人間の根源的な自己中心性、自己への執着、自己正当化の力学を司る意識であり、輪廻転生を維持させる煩悩の根源でもある。一方で、自証分とは、心(識)が自らの認識対象(見分)を「自己において」証知するという、認識の内在的構造を示す用語である。唯識における「三分説」においては、識は「見分(認識主体としての機能)」、「相分(対象として現れる像)」、「自証分(主観的な証知の内実)」という3つの構造に分かたれる。さらに深く分析すれば、この自証分は「識が自らを知る」内在的反省性、すなわち自己照明的な認識構造を指しており、ここには直接的な「自我」や「我執」の概念は介在しない。むしろ自証分は、「見ていることを自らが見ていると知っている」という、認識そのものが持つ内面的な自覚性、あるいは意識の自己反映構造を理論化したものである。ここで重要なのは、末那識が心理的・存在論的に「自己執着」を生成し続ける実体的契機であるのに対し、自証分は「認識が自己を認識する」構造を理論的に記述した、言わば認識論的な仮構に近いという点である。末那識は実際に個人の深層に存在し、輪廻の根因となる「煩悩の心」としての作用を持つのに対し、自証分はすべての識に内在する構造であり、それ自体が独立した識としては存在しない。つまり、末那識は「無明によって我と妄認する心」であり、自証分は「認識が成り立つための自己照明的契機」である。前者は煩悩に染まった心、後者は認識が成立する構造の一部であるという本質的な差異がある。さらに、末那識は特定の心の位相に属し、煩悩を生起させる汚れた心(染汚心)であるのに対して、自証分は識に普遍的に付随する構造であり、善悪・浄染の別を問わず存在する。この意味で、末那識は人間の迷妄と苦悩の根源であるが、自証分は逆に、浄化された心においてもなお残る、認識の自己照明的明晰さの基盤となる。この違いは、唯識思想における解脱の論理にも密接に関係している。すなわち、修行によって煩悩が断たれた後に末那識は消滅するが、自証分はなお識の構造において存続するのである。このように見てくると、末那識と自証分はともに「心が自己を対象とする」構造を含んではいるものの、前者は妄執に基づく「誤った自己認識」、後者は認識構造に内在する「本来的な自己照明性」として、真逆とも言える性格を持つ。末那識は転依の対象として「浄化されるべき心」であり、自証分はむしろ認識の成立を保証する「本来的な明知の契機」である。したがって、両者の違いを的確に捉えることは、唯識における「迷いから悟りへの転換」、すなわち阿頼耶識から如来蔵・真如へと至る心の変容プロセスを理解するための重要な鍵となるのである。フローニンゲン:2025/7/31(木)11:18
17127. テレパシーと唯識
テレパシー、すなわち物理的な感覚器官や言語を介さずに他者の意識内容や感情を直接的に知覚・伝達する現象は、西洋的な唯物論的思考においては長らく懐疑の対象とされてきたが、唯識思想の観点から見ると、この現象は決して荒唐無稽なものではなく、むしろ深層意識の構造と相互関係を前提とすれば、一定の理論的説明が可能となる。唯識思想では、あらゆる現象は「識」によって構成されているとされ、「外界の物」や「他者の心」といった対象も、最終的には自心の変現として現れているにすぎない。すなわち、唯識においては「自己と他者の分離」は究極的には仮構であり、深層においては識と識とが通じ合う余地があるという前提に立っている。この点をより詳しく見るためには、唯識の八識説、とりわけ第八識である阿頼耶識の性質に注目する必要がある。阿頼耶識は、すべての個別的存在の根底に横たわる「アラヤ(蔵)」としての識であり、そこには無数の「種子」が潜在的に蓄えられており、それが縁に応じて現行(顕在化)し、経験世界を形成する。そしてこの阿頼耶識は、個別の存在ごとに閉じられた孤立的な心ではなく、むしろ宇宙的・全存在的な「識のネットワーク」として機能していると理解されることもある。例えば『摂大乗論』などの文献では、阿頼耶識を「共通の基盤としての識」として描くような記述が見られ、それはすなわち、個体の意識が根底において共通の「蔵識」を共有している可能性を示唆している。この共有性にこそ、テレパシーの理論的可能性が見いだされる。もし仮に、個々の意識が深層において阿頼耶識を通じてつながっているとするならば、そこを介してある程度の意識的・情動的内容が他者に伝播することは、唯識の枠内で論理的に否定されるものではない。とりわけ、末那識(第七識)が阿頼耶識を常に対象化し、自己同一性の拠り所としているという唯識の構造からすれば、阿頼耶識に保存された情報が末那識を通じて他者の意識に映し出されるという現象、すなわち「深層意識を介した間接的な情報伝達」という形でのテレパシー的現象は十分に想定可能である。また、唯識では「相分・見分・自証分・証自証分」といった認識の四分構造を説くが、ここでもテレパシーの理解に寄与する視座が得られる。例えば、自証分とは、識が自己の認識内容を自己において証知する働きであり、それが証自証分としてさらに意識的に認識される構造を持つ。通常、他者の自証分は直接的には知り得ないが、もし阿頼耶識のレベルで識が共有され、そこから生起する相分が共通性を帯びるのであれば、他者の内的な思いや感覚が、自分の見分において像として立ち現れるということもあり得る。これは、言語を媒介とせずに「他者の心が像として自心に映る」という形でのテレパシー的経験の構造を説明しうるものである。さらに、唯識は心の作用を「了別(知覚)」「造作(構成)」「執着(愛執)」という三側面に分けて考察するが、テレパシー的現象が生起するには、これらの働きのうち、特に「了別」における微細な直覚的作用が重視される。つまり、通常の五感による知覚では捉えきれない微細な心の振動、あるいは感情の波動のようなものが、深層の了別作用によって知覚され、それがテレパシーと呼ばれる直感的理解として現れる。これは、ヨーガや禅定などによって心を微細化し、識の作用を鋭敏に保ったときに開かれる可能性であり、実際に唯識における「五通(神通)」の1つに「他心通」が挙げられていることは、この種の現象が古来より仏教的修行によって得られる能力として認識されてきたことを物語っている。したがって、唯識の観点からすれば、テレパシーとは単なる神秘的現象ではなく、識の深層構造において生起しうる、潜在的かつ理にかなった情報伝達の一形態であると捉えることができる。それは、意識の分離性という仮構を超えて、「すべての心は一なる識の展開である」という唯識の根本命題に立脚したときにはじめて明確な意味を持ってくる。ゆえに、テレパシーとは、他者の心に触れるのではなく、「自己の奥底に映る他者性の像」に触れることであり、それは自己と他者の深層的連関を明らかにする精神的現象だと言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/31(木)11:25
17128. パラレルワールドと唯識
パラレルワールド(並行世界)という概念は、現代物理学においては多世界解釈(Many-Worlds Interpretation)やブレーンワールド仮説、量子分岐などを通して論じられているが、唯識思想の立場からもこの概念は独自の方法で照射しうる。唯識における核心命題は「一切唯識所現」、すなわちすべての現象は識(意識)の働きとして顕れるものであり、実体的な外界は存在しないという点にある。したがって、「世界」とは独立した客観的実在ではなく、識の展開としての現象界に他ならない。ここから導かれるのは、複数の「現象界=世界」が識の在り方に応じて無数に成立しうるという論理である。唯識では、私たちが日々経験する現象世界は、個々の阿頼耶識に蓄えられた「種子」が因と縁に応じて現行(活動)し、感覚的・認識的に「世界」として立ち現れるものとされる。この種子は個人固有のものであると同時に、他者との共通の因縁(共業)をもとにした「共有世界」も形成する。したがって、「この世界」は実のところ無数の個別的識が交錯し合って形成される仮構的現象であり、その意味で、同時並行的に他の可能的世界が識の深層に潜在していることになる。これを現代的に読み替えれば、パラレルワールドとは、識の種子が異なる因縁によって現行することで開かれる別の世界像のことであると言えるだろう。また、唯識は「三性説」を通じて現象界の構造を記述する。すなわち、遍計所執性(錯覚的構成性)、依他起性(縁起的依存性)、そして円成実性(真実の成就性)という3つの側面である。このうち依他起性は、現象が識と識、因と縁、主体と対象との相互依存によって成立するという点を示しており、まさに「世界」は絶えず条件によって変化しうる可塑的な構造を持つと理解されている。もしある識が異なる縁に触れたならば、そこに現れる世界像もまた変容し、まったく異なる相貌を帯びることになる。これは「一人一宇宙」の可能性を示唆しており、現象的には共通して見えるこの現実も、実際には無数の識によって「別様に」経験されている複数の宇宙の重なりであるという解釈が成り立つ。さらに、唯識では「夢」や「禅定」「三昧」などの特殊状態において、まったく異なる世界が意識に現れることを重視する。夢の中で私たちは一貫した物理法則や空間認識のある世界に生きているが、それが夢であると気づくまで、それは「現実」として経験されている。これもまた、識の働きが作り出す1つの「並行世界」である。つまり、私たちは深層的には常に無数の潜在的世界を抱えており、一定の条件(縁)に応じてそのいずれかが顕在化し、「現実」として経験されるに過ぎない。ここで「今の現実」と見なしている世界も、あくまで「顕現している唯一のバージョン」に過ぎず、それ以外の可能的現象世界(すなわちパラレルワールド)は阿頼耶識の中に種子として潜在している。さらに、「変化の識」という観点から言えば、識の成熟の度合いや浄化の程度に応じて、現象世界そのものが変容してゆく。すなわち、無明に覆われた識が自己中心的業によって構成した「今の世界」と、修行と智慧によって浄化された識が映し出す「清浄国土」とでは、見える現象が根本的に異なるのである。このような視点からは、パラレルワールドとは物理的空間の分岐ではなく、識の構造的分岐として、すなわち「認識的宇宙の多元性」として理解されるべきである。結論として、唯識の立場においてパラレルワールドとは、識の深層における種子の無数の可能性が、それぞれ異なる因縁のもとで現行することによって顕れる、重層的かつ縁起的な現象宇宙のことを指す。その本質は「外界の多元性」ではなく、「識の多様な現起」であり、宇宙の多元構造は意識の多元性を鏡写しにしたものであるという点に、唯識的パラレルワールド理解の核心があると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/31(木)11:38
17129. エヴェレットの理論を拡張させたメンスキー
時刻は午後4時半を迎えた。今日もまた最高気温が20度までしか上がらず、涼しい1日だった。午後にジムに行ったのだが、その行き帰りでは天気雨が少しばかり降っていた。今日はパーソナルトレーニングの日で、気温は限定的だったが、期待していた通りのハードなメニューで、良い汗をかいた。知り合いのキャロルと話したり、フローニンゲン大学の博士課程に所属する女性とトレーニング中に話したりと、社交の要素を楽しんで今に至る。博士課程に所属のその女性は、週に5日もトレーニングしているらしく、その理由を尋ねると、学術研究とのバランスを図るためとのことだった。自分も彼女と同じぐらいに頭脳労働をしていることもあり、週に2回のトレーニングに加え、アクティブレストの日のジョギングやスプリントトレーニングは重要な実践になることを改めて思った。
ヒュー・エヴェレット(Hugh Everett)が提唱した「多世界解釈(Many-Worlds Interpretation, MWI)」は、量子力学の波動関数の収縮という問題を回避し、全ての可能な結果が分岐して実在するという大胆な枠組みを提示したが、その理論はあくまで量子的多様性の存在論的実在性を主張するに留まり、観測者の意識や経験に対する明確な哲学的記述を持たなかった。これに対し、ミカエル・メンスキー(Michael B. Mensky)は、エヴェレットの多世界的枠組みを意識の問題と結びつけることにより、「意識の量子理論(Quantum Concept of Consciousness, QCC)」ないし「意識による選択理論」とも呼ばれる独自の解釈を発展させた。彼の理論は、エヴェレットが開いた扉を更に深層に導き、「どのようにして私たちは1つの現実を経験しているのか」という根源的問いに、意識の役割を介して答えようとするものである。エヴェレットの理論では、観測とは「波動関数の収縮(collapse)」ではなく、系と観測者が量子力学的に相互作用して「相互に直交した状態の重ね合わせ(branching)」を形成することで説明される。例えば、電子のスピンを観測する装置と観測者は、それぞれの測定結果に対応する分岐した世界の中で、特定のスピン状態を経験する。この枠組みでは、すべての結果は並列的に存在し、私たちの経験はその中の1つの分岐である。しかし、エヴェレット自身は「なぜ私たちの意識はある特定の分岐を経験するのか」という問題には踏み込まず、多世界がすべて等価に実在するという前提のもと、個々の経験を説明する明確な意識理論は提示されなかった。これに対して、メンスキーはエヴェレットの理論のこの「空白」を意識という概念で埋めようと試みた。彼は量子論における重ね合わせ状態を「複数の古典的現実の共存状態」として理解し、それを「超古典的現実(super-classical reality)」と呼んだ。その上で、私たちの通常の意識はこの超古典的現実のうちの1つの成分、すなわち1つの「古典的現実(classical reality)」を知覚するに過ぎず、他の成分は潜在的な現実として非顕在化していると主張する。ここで重要なのは、意識が「選択」のプロセスを担っているという点である。メンスキーにとって、観測による分岐は外界の物理的事象ではなく、意識の焦点の定まる「選択の結果」であり、波動関数の全体性は保持されたまま、意識が特定の軌道に接続するという形で、私たちの現実経験が生じる。このような立場は、「収束する意識の選択理論」とも呼べるが、それは同時に、すべての古典的現実が潜在的に存在し、それにアクセスする可能性が理論的には開かれていることを意味する。例えば、通常私たちは1つの時間軸上にいるように感じているが、夢やトランス状態、あるいは臨死体験などでは、他の古典的現実へのアクセスが一時的に開かれる可能性もあると、メンスキーは論じる。この視点は、量子力学を単なる物理理論にとどめず、意識と現実の構造を統一的に捉える新たな世界観へと拡張するものであり、エヴェレットの「無意識的な多世界」から「意識によって選び取られる世界」へのシフトを意味する。メンスキーの理論において、意識は物理的世界の中に還元されるべき対象ではなく、むしろ物理的現実の成り立ちそのものに寄与する原理として位置づけられる。この点で、彼の理論はシュレーディンガーやフォン・ノイマン、あるいは後年のスティュアート・ハメロフやロジャー・ペンローズらによる「意識と量子の統合理論」とも共鳴する要素を含んでいるが、メンスキーはエヴェレットの理論を根拠に、より形式的にこの結合を行った点で独自の地位を占めている。要するに、エヴェレットの理論が「多様な世界がすべて実在する」という量子的全体性の主張に留まったのに対し、メンスキーはその全体性の中から「どの現実が私たちの経験となるのか」という問いに応答するため、意識という主体的契機を導入したのであり、それによってエヴェレットの理論は「無数の可能性が並存する構造」から、「選択される現実の動的構造」へと深化したのである。フローニンゲン:2025/7/31(木)16:48
Today’s Letter
A dream-like world is constantly manifesting, and beyond this world lies the world of suchness. Groningen, 07/31/2025
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