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【フローニンゲンからの便り】17810-17815:2025年12月4日(木)


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タイトル一覧

17810

西田幾多郎の場所の論理と量子場理論

17811

今朝方の夢

17812

今朝方の夢の振り返り

17813

音による彫刻としてのクラシックギターの演奏

17814

指跡からの考察

17815

音楽的瞑想としてのクラシックギターの練習

17810. 西田幾多郎の場所の論理と量子場理論 

                         

西田幾多郎の「場所の論理(場所的論理)」は、通常の主体—客体構造を超えて、すべての存在が成立する根源的な場=「無の場所」を提示したものである。この“場所”は単なる空間座標系ではなく、存在の根拠を支える超越論的基底であり、事物が相互に関係し合う前提そのものを成す。この思想構造は、一見すると哲学的抽象の極地のようであるが、量子場理論(QFT)が提示する“場”と組み合わせるとき、新たな統合理論の萌芽を孕んでいるように思われる。まず、QFTにおける“場”は、粒子を基底とする古典的実体論を超え、宇宙の根底には量子的揺らぎを持つ連続的な“場”が広がっているという見方を採用する。電子場、クォーク場、光子場といったさまざまな場が重なり合い、相互作用することで物理的世界が構成される。ここで重要なのは、場が「物質の背後にある根本構造として、非局所的・非実体的である」という点である。すなわち、物理はすでに“もの”ではなく“場の関係性”へと移行している。この点において、西田哲学は驚くほど現代的である。彼のいう「絶対無の場所」は、個物が生起する前の根源的基底であり、存在と無、主体と客体、作用と受動が未分化である場である。ここでは事物は固定的に存在するのではなく、「自己限定」という動的過程を通じて生成される存在として理解される。つまり、西田の場所は“相互作用の前提となる無限の受容場”であり、これは量子場の「真空状態(vacuum state)」と非常に親和的な構造を持っている。量子真空とは、一見何もない状態でありながら、無数の仮想粒子が絶えず生成・消滅する「存在と非存在がゆらぎ続ける場」である。これは、西田が説く「無は存在の裏側ではなく、存在を生起させる契機そのもの」という洞察と重なり合う。すなわち、真空は単なる空虚ではなく、潜在性の充満した“生成の場所”であり、西田の“無の場所”は哲学的な形でこの構造を捉えていたと考えられる。さらに注目すべきは、西田が「主体と客体は同一の場所における相互限定として成立する」と論じた点である。これは、観測者と観測対象の区別が曖昧になる量子測定問題とも響き合う。量子現象とは、観測によって対象が確定するように見えるが、その背後では観測者と対象が相互に関係し合う“場的構造”が存在する。つまり、量子論はすでに「関係そのものが物理の基礎である」方向へ向かっており、これは西田哲学の「行為的直観」「相即性」といった概念と密接にリンクし得る。量子場理論の枠組みを拡張する可能性が見えるのは、特に「場所の論理」が“場そのものを成立させるメタ的基盤”を提供している点である。QFTが扱う場は物理的存在であるが、西田の場所は物理的場の背後にある“存在可能性の領域”であり、物理法則を記述する“論理の場”とも言える。もし量子場を生み出すさらに深い構造があるとすれば、それは数学的でも物理的でもない、存在論的・現象論的基盤であるはずである。西田の場所はまさにこのような「場の場(meta-field)」を記述する哲学的枠組みである。この“場所の深層性”を導入すると、量子場理論は「場の相互作用」だけでなく、「相互作用が成立する前の潜在的条件」までを含む拡張された枠組みを持つ可能性がある。この方向性は、量子重力理論、ホログラフィー原理、ループ量子重力などが試みているアプローチとも通底し、物理学が未だ言語化できていない“場の生成条件”を哲学的に補完する役割を果たし得る。総合すると、西田幾多郎の「場所の論理」は、量子場理論の基底に潜む“存在の条件”を照らし出す哲学的道具となり得る。物理が場の振る舞いを記述するなら、西田哲学はその場を成立させる根源的な地平を示すのであり、この連携は今後、形而上学と物理学の融合へと進む可能性を秘めていると言えるであろう。フローニンゲン:2025/12/4(木)05:21


17811. 今朝方の夢

                 

今朝方は夢の中で、見知らぬ雰囲気の良い小さなカフェで小中高時代のある友人(TK)と話をしていた。学術研究の話題が挙がった時に彼がふと、海外の大学院に行って社会学の観点から意識の研究をしたいと述べた。私は彼が海外大学院に関心を持っていることに驚き、同時に嬉しくなった。というのも、意識研究に関して仲間が増えることは有り難く、また彼が社会学の観点というユニークな視点で意識を研究しようとしていることも面白いと思ったからである。そこから彼が思わぬ事実を開示した。なんと彼は自分が日本で卒業した大学を卒業しており、しかも成績優等で卒業したとのことだった。最初彼が母校を卒業していることを知って耳を疑った。というのも自分が知る限り、彼の成績は母校の入学には達しておらず、またそもそも自分たちが卒業した高校から母校に進学する人は10年に一人いるかいないかぐらいの極めて稀だったからである。そもそも彼がなぜその大学を志望したのかを尋ねてみると、中学校時代に読んでいた漫画の主人公が母校のカッコ良さを語っており、それに触発されて志望するようになったとのことだった。漫画の力は恐るべきものがあると思った次第だ。そこから彼はちょうど手元にあった大学時代の成績表を見せてくれた。すると確かに素晴らしい成績で驚いた。そもそも彼が母校の難解な数学の入試問題をどうやって突破したのかを尋ねてみると、高校時代は理系だったことと、社会学部は数学の配点が一番低かったのでなんとかなったとのことだった。未だ彼が母校出身であることは信じられなかったが、そこからも海外留学の話で盛り上がった。すると、ある別の友人(KF)の母親がカフェで働いており、私たちに笑顔で挨拶をしてくれた。ところが私が飲もうと思っていたブラックコーヒーのカップを下げてしまい、これからそれを飲もうとしていたので店の奥に行って説明することにした。すると友人の彼がかつて働いていたカフェの店長がやって来て、彼との再会を心底喜んでいた。そこから私はふと、彼が海外の大学院に行って学位を取得したら、書籍を一緒に書いたり、セミナーを一緒に開催したり、色々と協働ができるなと思った。しかしその一方で、彼が本当に同じ大学を卒業していたら、キャンパスで一度は顔を合わせたはずなのにとも思った。フローニンゲン:2025/12/4(木)05:33


17812. 今朝方の夢の振り返り

                            

今朝方の夢で現れた見知らぬ小さなカフェは、自分の内面の静かな片隅、まだ未開拓の可能性が潜む領域を象徴しているように思われる。その心地良い空間で小中高時代の友人と向き合っている光景は、過去の自分との対話、あるいは“別の可能性としての自分”との再会を暗示しているのではないかと推測される。彼(TK)は実人生でも知的探究とは距離のある人物だったかもしれないが、この夢では意識研究への本気の志を語り、海外大学院を志望する人物として登場している。この変容は、自分の中で眠っていた知的エネルギーや社会学的視点が、別の姿を借りて現れている兆候とも考えられる。彼が母校を優秀な成績で卒業していたという“逆転”は、過去の評価や固定観念が反転する瞬間の象徴のように映る。自分が「彼は母校に届くはずがない」と思い込んでいた背景には、自分自身の能力や可能性を狭めてしまう無自覚な枠組みがあったのかもしれない。夢の中でその枠組みが破られ、TKが堂々と合格・卒業し、しかも優秀な成績を取った事実が突きつけられることは、自分の中に潜んでいる“見落としてきた潜在力”が姿を現してきたことの象徴とも読める。特に、TKが「漫画に触発されて志望した」という点は、外部からの偶発的な刺激が人生を方向づける力を示唆している。自分の人生においても、一見取るに足らない出来事や物語が、実は深層で重要な選択の因子となっているという示唆があるのかもしれない。創造性の源泉や、探究のモチベーションの源は、往々にして説明不能な方向からやって来る。この夢の場面はまさにそのことを語っているように思われる。さらに、彼が手元に持っていた成績表が素晴らしかったことは、過去の自分では見えなかった“他者の力量”や“自分の可能性”が、今になってはっきりと形を成して見えてきたことの象徴とも考えられる。つまり、過去に対して新たな見方が生まれ、そこから未来へ向かう励ましが流れ込んでいるような構図である。カフェでKFの母親が現れたり、ブラックコーヒーのカップが下げられたり、あるいはカフェの店長が再登場したりするのは、自分と他者の縁が予期せぬ形で再び結び直される象徴的表現のように思われる。人生の線が思いがけないところで再連結し、そこから新しい展開が生まれるという暗示があると推測される。そして、TKと一緒に書籍を執筆したり、セミナーを開催したりといった協働のイメージは、自分の今後の探究が“個の営み”から“共創の営み”へと向かう兆しを示唆しているようである。一方で、「本当に同じ大学の卒業生なら、どこかで会っていたはず」という疑念は、“可能性としての自分”と“現実としての自分”のズレを意識した瞬間の象徴のように感じられる。つまり、現実の自分はまだ歩んでいないルートがあり、そのルートを辿った自分が夢の中で友人として語りかけているとも読める。総じて、この夢は、自分の中で眠っていた知的エネルギー、未開拓の視点、そして共創の未来が一斉に姿を現し始めている兆候のように思われる。過去の友人が“別の人生を歩んだ自分”として現れたことは、未来の方向性を再構築しようとする心の動きの象徴であるとも推測される。人生における意味として、この夢は、自分の探究の旅がさらなる広がりを迎えつつあり、今後は他者との協働、予期せぬ縁、そして想像を超えた潜在力が次々に開花することを示唆しているように思われる。過去の枠を越え、未来の自分を迎えに行く準備が整いつつある予感がする。フローニンゲン:2025/12/4(木)06:36


17813. 音による彫刻としてのクラシックギターの演奏  

                   

クラシックギターを弾いているとき、自分は「音を彫刻的にこの宇宙に創造している」という感覚を覚えることがある。この感覚は、単に音符を正確に再生しているというレベルを超えて、空間と時間そのものを音で刻み込み、目に見えない彫像をその場に立ち上げているような体験であると言えるだろう。石や木を削る代わりに、指先と弦によって空気の振動を彫り出し、その振動が聴く者の身体と意識の中に形を結んでいくのである。クラシックギターの音は持続が短く、弾いた瞬間から減衰へと向かう運命にある。この儚さが、かえって「彫刻している」という感覚を強くするのではないかと考えられる。一音一音は、出した瞬間から消えゆくことを運命づけられながら、それでも確かにこの宇宙に「一度だけ現れる形」として刻まれる。石像が空間に固定された形だとすれば、ギターの音は時間軸に沿って次々と彫り込まれていく「時間彫刻」であるとも言えるだろう。演奏者の身体感覚もまた、この彫刻的感覚に深く関わっている。右手のタッチの角度、弦に当てる瞬間の速度、爪と指頭の配分、左手で弦を押さえる圧力やビブラートの振幅。これらすべてが音色の輪郭や厚み、質量感を決定する。つまり、身体の微細な動きが、そのまま音の彫りの深さ、面の滑らかさ、陰影のコントラストとして現れるのである。彫刻家がノミの一撃の角度や力加減に全神経を注ぐように、ギタリストも音を出す瞬間のタッチに全意識を集中させる。その集中が、「今、この一音で宇宙に一本の線を刻んでいる」という感覚を生み出すのである。さらに、音は空間との相互作用によって完成する。部屋の大きさ、壁の材質、床や天井の反響、窓から差し込む光までもが、音の印象を微妙に変化させる。そう考えると、ギタリストは自分の指だけではなく、演奏空間そのものを素材として扱う彫刻家であるとも言える。響きを聴きながら、「この部屋では少し柔らかめに」「ここでは輪郭をはっきりさせて」などと無意識に調整しているとき、自分は空間と共同で一つの音響彫刻を創り上げていると感じられるのである。また、音は聴き手の内面においても形を結ぶ。あるフレーズは懐かしさの像を、ある和音は緊張や憧れの像を、あるアルペジオは透明な光の柱のような像を、心の奥に立ち上げるかもしれない。つまり、物理的な空気振動としての音は、聴き手の感情や記憶と出会うことで、内的世界の中に複雑な彫像を生み出していく。この意味で、ギタリストは外界だけでなく、聴く者の意識世界に対しても彫刻を行っている存在であると見なせるのである。クラシックギターの演奏が「音を彫刻的に創造している感覚」として立ち上がるとき、自分は、単に楽譜をなぞる人間ではなく、この宇宙に一回性の形を刻み続ける創造者として立ち現れているのだと感じられる。音はすぐに消えるが、その一瞬ごとの形は確かに世界の履歴に刻まれていく。その感覚は、自分の生そのものもまた、時間という大理石に刻み込まれていく一回性の彫刻であることを静かに教えているのではないかと思われる。フローニンゲン:2025/12/4(木)06:42


17814. 指跡からの考察

                           

クラシックギターにおける左手の押弦には、単なる「力で押さえる」という以上の繊細な構造が存在する。音質、ビブラートのしやすさ、ポジション移動の滑らかさ、長時間の演奏に耐える身体構造など、あらゆる要素を左右するためである。まず結論を述べると、押弦の最適ポイントは、指先の“やや腹寄りの硬い部分”であり、爪の付け根のすぐ下のふくらみである。そして、多くの奏者に見られるように、押弦跡が指先の中央からわずかに内側(親指側)に寄るのは極めて自然なのだろう。斜めにギターを構えるために偏っているというより、ギターという楽器の構造と左手の生体力学上「偏らない方が不自然」だとさえ言える。まず、押弦ポイントについて考えてみたい。クラシックギターの弦は、鉄弦とは異なり張力が強くないが、それでも確実にフレットへ押しつけるためには、指の“硬い部分”で捉えることが不可欠である。指腹の柔らかい部分を使うと、弦が指にめり込みすぎて、音色が滲んだり、雑音が混じったり、必要以上の力が必要になる。また、爪の近くの硬い指腹を使うと、理想的な角度で弦を押し込めるため、音の立ち上がりが明瞭になり、ビブラートの自由度も高くなる。このポイントは、ほとんどの名手が共通して使う位置である。次に、自分の指を観察してみて気づいた「指跡が左に偏る」問題についてである。これは非常に多くの奏者が経験するが、結論から言えば偏っていて問題はなく、むしろ自然である。その理由は3つある。第一に、クラシックギターは身体の正面ではなく、やや左側に傾けて構える楽器であるという構造的理由がある。ギターを水平に置いて正面で弾く奏法は存在しない。胴体を右脚に乗せるクラシックスタイルの場合、ネックは必然的に身体の左側へと伸びる。したがって、左手の指は弦へわずかに斜め方向から到達することになる。この角度によって、指先の跡が内側(親指側)へ寄るのである。第二に、人間の手の構造上、自然に弦を押さえると指はわずかに内旋する。完全に直交して押さえようとすると、無理に手首をひねる必要が生じ、かえって腱や小指側の関節に負担を与える。とりわけ長時間の演奏では痛みの原因にもなる。したがって、指が自然な角度で触れている限り、跡が少し偏るのはむしろ「身体に正直なフォーム」である。第三に、クラシックギターはポジションによって角度が変化する。例えば1~5ポジションでは、指はやや右斜めから入る。9ポジション以上では、左手の角度はより水平に近づき、指跡は多少中央に寄る。この変化こそが自然であり、すべてのポジションで“直交した跡”を得る必要はない。では「直交させるべきか」という問いにどう答えるべきか。結論としては、無理に直交させようとする必要はない。その理由は二つある。一つは、直交しようとすると肘・手首・指の組み合わせが不自然になり、フォーム全体に負荷がかかることである。クラシックギターの理想的な姿勢は「最小限の力で最大の効果を得る」ものであり、わずかな角度の違いを矯正するために大きな筋力を使うのは逆効果である。もう一つは、音質面での問題である。指が正しいポイントで弦を捉えていれば、多少斜めでも音はクリアになり、ノイズも減る。むしろ直交にこだわるあまり指腹が弦を覆ってしまい、音がこもるケースがある。したがって、目指すべき理想は「直交ではなく、指先の硬い部分が弦に最も効率よく接触する角度」である。この角度は個々の手の形によって異なり、教科書的な“90度”を強制するよりも、自分の手に自然に馴染む角度を微調整する方が音も身体も安定する。指跡が爪と腹の間で、やや左寄りに偏るのは、ギターの構え・手の構造・弾くポジションの三要素が生み出す自然な現象であり、矯正するべき欠点ではなく、むしろ適切なフォームの証拠であるとさえ言える。大切なのは「斜めかどうか」ではなく、「音がクリアか」「疲れが少ないか」「自由に動けるか」である。押弦跡が偏っていても、これらの条件が満たされていれば、それがあなたの身体にとって最適な押弦フォームであると言えるであろう。フローニンゲン:2025/12/4(木)07:34


17815. 音楽的瞑想としてのクラシックギターの練習


クラシックギターの練習を単なる技巧獲得の手段としてではなく、深い音楽的瞑想、さらには禅定そのものへと昇華させるためには、ギターを“物体”として扱うのではなく、“心が静まる場”として捉えることが肝要かと思う。禅定とは、心が一点へ収まりながら同時に世界と一体化していく体験であり、その性質はギター演奏が本来的に備える感覚構造と強く響き合う。まず重要なのは、姿勢と呼吸を練習の前段階としてではなく、練習そのものの一部として統合することである。演奏前に数回深呼吸を行うだけでなく、フレーズと呼吸を同期させることで心は自然と現在の瞬間に引き戻され、思考は鎮まり、音と身体が調和した輪郭を帯びはじめる。次に、指先の触感を“観察”ではなく“観照”として扱うことが大切である。左手が弦を押さえるときの硬さや温度、右手の爪が弦をはじく瞬間の抵抗感、弦から指が離れるときの微細な振動など、触覚そのものが心の働きと一体化するように体験されると、音を出す行為がそのまま感覚禅定の入口となる。さらにメトロノームは拘束装置ではなく“呼吸の代理”として捉えると良いだろう。40~60BPMのゆっくりとした拍を吸い込み、次の拍へ向けて音を吐き出すように弾くと、テンポは心の律動と一致し、リズムが精神の深層へ向かう道標になる。音を観照する姿勢も欠かせない。音が生まれ、空間に漂い、やがて静かに消えていく過程全体を聴き取ると、単音の練習でさえ“起・住・異・滅”の流動性を示す法の現れとなり、音楽は思考の産物ではなく、存在そのものの呼吸のように感じられる。これに関連して、“間(ま)”を積極的に鍛えることも、禅的演奏へと至る重要な契機となる。音と音のあいだに一呼吸置き、減衰の最後の一粒まで耳を澄ませることで、音の裏側にある静寂が立ち上がり、沈黙そのものが音楽となり始める。演奏中に意識の焦点は収束と拡散を繰り返すべきである。指先の動きや弦の抵抗へ一瞬収束し、次の瞬間には空気の振動や部屋全体の響きへ拡散する。この往復運動によって、意識は狭小な集中から広大な静けさへと開かれ、演奏者と音、空間が一つの場へと融合する。最も深い段階においては、“自分が弾いている”という主体的感覚さえ薄れ、指が自然に動き、音が自ずから立ち上がり、消えていくのを見守るような境地が訪れる。これは唯識でいう自証分の透明化にも類似し、演奏行為そのものが心を浄化し、心が音を浄化し、音がまた心を澄ませるという循環が成立する。総合すると、クラシックギターの練習を禅定へと導く鍵は、呼吸、触覚、音の生成と消滅、沈黙、空間の広がりを緻密に意識へ統合し、自己と音の境界を薄めていくことである。ギターという楽器は、本質的に深い精神性を育む道具であり、日々の練習がそのまま精神の深化へとつながる可能性を秘めているのである。そのようなことを休憩中にふと思う。フローニンゲン:2025/12/4(木)14:07


Today’s Letter

I have been steadily perceiving the fundamental reality beneath the mind’s fabricated constructions. The essential ground of reality has never been separate from me. It is me, and I am it. Groningen, 12/4/2025

 
 
 

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