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【フローニンゲンからの便り】18368-18372:2026年3月16日(月)

  • 2 時間前
  • 読了時間: 16分


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タイトル一覧

18368

エディンバラ大学での指導教官について

18369

今朝方の夢

18370

今朝方の夢の振り返り

18371

バッハのコラール(その1)

18372

バッハのコラール(その2)

18368. エディンバラ大学での指導教官について         


エディンバラ大学の仏教学修士課程に進学した場合、誰に修士論文を指導してもらうのがよいのかということについて今一度考えている。現在の研究テーマは日本法相宗の唯識思想であるため、直感的には仏教哲学を専門とする森里武先生の方が直接的に近い分野であるように思える。しかし、もう一人の候補であるアビゲイル・マクベイン博士の経歴や研究内容を詳しく見ていくと、必ずしも専門が完全に一致していなくても、むしろ修士段階では大きなメリットがあるのではないかと感じ始めている。マクベイン博士は、日本仏教そのものの思想研究というよりも、東アジア全体における仏教の伝播や交流の歴史を研究している学者である。特に奈良時代前後の日本において、大陸から渡来した僧侶や仏教文化がどのように日本社会に受容されていったのかという問題を中心に研究している。博士論文では、八世紀に日本へ渡来した僧侶たちの活動や、東大寺大仏開眼会などの国家儀礼との関係を分析しているという。こうした研究を見ていると、日本仏教を孤立したものとして理解するのではなく、中国や朝鮮、さらにはシルクロードを含む広い東アジア世界の中で理解するという視点が強いことがわかる。この点を考えると、日本法相宗の研究もまた、単なる思想史として扱うだけではなく、東アジアにおける知識伝播の一つの事例として捉えることができるように思う。法相宗の思想的源流は玄奘や窺基の唯識学にあり、それが奈良時代に日本へ伝えられ、日本独自の学問体系として発展していった。つまり、日本法相の研究は本来、中国仏教・東アジア仏教の知識ネットワークの中で理解されるべきテーマである。その意味では、仏教思想そのものを分析する研究とは少し角度は違うものの、東アジア仏教の伝播と交流を研究しているマクベイン博士の関心とも十分に接点があるように思える。さらに、研究分野そのもの以上に重要だと感じるのは、学術的なネットワークである。マクベイン博士はコロンビア大学の東アジア言語文化学部で博士号を取得しており、その後も同大学でポスドク研究員および講師を務めている。コロンビア大学はアメリカにおける日本研究・仏教研究の中心的拠点の一つであり、そこから形成される研究ネットワークは非常に強いと聞く。また、Association for Asian Studiesや American Academy of Religionといった主要な国際学会にも積極的に参加している。将来的に北米の大学院博士課程に進学する可能性を考えると、こうしたネットワークにつながっている指導教官から推薦を受けることの意味は決して小さくない。もう一つ感じるのは、研究方法論の面での学びである。マクベイン博士の研究は、思想史というよりも、文献学や歴史学を基盤とした日本宗教史研究である。古文書、漢文史料、儀礼記録、寺院資料などを用いながら、日本仏教がどのように社会制度や政治と関係していたのかを分析している。日本法相宗の研究も、実際には思想だけを読むだけでは不十分であり、奈良仏教の制度、国家との関係、寺院ネットワークなどの歴史的背景を理解する必要がある。修士段階でこうした歴史研究の方法論を学ぶことは、博士課程で研究テーマを広げていく上でも大きな意味を持つのではないかと思う。また、日本仏教研究という分野は、必ずしも仏教哲学の枠組みだけで研究されるわけではない。多くの場合、日本宗教史、日本研究、あるいは東アジア研究という大きな枠組みの中で扱われる。そう考えると、日本研究コミュニティとつながりの深い指導教官から指導を受けることは、将来の研究活動において重要な基盤になる可能性が高い。もちろん、森里先生の専門である仏教哲学の視点も非常に重要である。理想的な形としては、思想研究と歴史研究の両方の視点を組み合わせた指導体制が望ましいのかもしれない。修士論文ではマクベイン博士のような歴史研究の専門家から研究設計や史料の扱い方を学びつつ、仏教哲学の解釈については森里先生から助言を受けるという形が実現すれば、研究の幅は大きく広がるだろう。修士論文は、必ずしも専門分野が完全に一致している指導教官のもとで書かなければならないわけではない。むしろ修士課程の重要な目的は、研究テーマそのものよりも、研究の方法、史料の扱い方、学術的な議論の組み立て方を学ぶことにあるのかもしれない。その意味で、東アジア仏教史という広い視野から日本仏教を見ている研究者の指導を受けることには、長期的に見て大きな意味があるのではないかと感じている。フローニンゲン:2026/3/16(月)05:56


18369. 今朝方の夢 

           

今朝方は夢の中で、地元の海岸に立っていた。目の前に広がる海を前にして、左右を見ると、横一列に長い列をなして小中学校時代の友人たちがいた。今から私たちは、横一列に手を繋いで海に入り、沖に向かっていくことになっていた。いざ海に入る瞬間は、海が濁っていて何がいるのかわからないという恐怖が幾分あったが、少し泳ぎ始めてみると、泳ぐ心地良さを感じることができた。そこからもしばらくは濁った海が続いており、泥水を飲まないように注意していた。私たちはみんな、この濁った箇所を超えていくと、清らかな海が広がっていることを確信していた。泥水の山場を超えて、水が清らかになってきた瞬間に夢の場面が変わり、気づけば見慣れない大きな屋敷の中にいた。その屋敷は忍者屋敷のように複雑で、かつ色々な仕掛けがなされていた。その仕掛けにはまらないように、注意深く屋敷の奥に進んでいくことにした。最初に待ち受けていたのは、どこまでも高く続いていくかのような複雑なジャングルジムのような仕掛けだった。一本一本のポールから落ちないようにして、どんどんと上によじ登っていった。すると途中にドラゴンボールの漫画何冊も置かれていて、もちろんそれらを読む余裕はなかったが、そこを通る時に足が当たってしまい、漫画が次々と下に落ちていった。それらの漫画は家主が大切にしていたものらしく、家主に怒られないか心配だったが、心の中に家主の表情が想起され、どうやら家主は寛容な心の持ち主のようで安堵した。そこから一気に上に上がっていくと、ようやく屋根裏部屋に到着した。そこには一人の女性が生活をしていて、本や衣類が散乱しており、壁際には比較的立派な仏壇があった。自分よりも先に、小中学校時代のある友人(MS)が到着しており、その女性と何か相談事をしていた。自分もその話に加わり、自分の知見を用いればそれを解決できることを伝えると、その女性は喜びの笑みを浮かべた。フローニンゲン:2026/3/16(月)06:07


18370. 今朝方の夢の振り返り 

                               

今朝方の夢は、自分の人生における「通過」と「到達」の二つの運動を象徴している可能性が高いように思われる。最初に現れる海岸の場面は、人生の大きな境界線に立っている状態を表しているのかもしれない。海は古くから無意識や可能性の象徴として語られてきたが、濁った海という形で現れている点は、これから踏み込む領域がまだ明瞭には見えていないことを示している可能性がある。見えないものへの恐怖がありながらも、横一列に友人たちと手をつないで進んでいく構図は、成長が完全に孤独な営みではなく、過去の人間関係や人生の記憶によって支えられていることを示唆しているようにも見える。小中学校時代の友人が並んでいるという点は、人生の原初的な自己、いわば人格の基礎が形成された時期の象徴である可能性が高い。つまり、自分が沖へ進むという行為は、過去の自己の連続性を保ったまま、より深い人生の領域へ踏み込んでいく過程を意味しているのかもしれない。海に入ると濁りが続き、泥水を飲まないよう注意している場面は、変化の過程における混乱や不純物を象徴している可能性がある。新しい挑戦や環境の中では、情報や経験が混濁し、何を信じてよいのか分からない状態が続くことがある。しかし夢の中では、その濁りの先に必ず清らかな海があると皆が確信している。この確信は、理屈ではなく直観的な信頼として存在しているようであり、自分の内面にある「進めば必ず視界が開ける」という深い信念の反映である可能性がある。濁った海を泳ぐ心地よさを感じ始める場面は、未知の環境に適応し始める瞬間、あるいは困難そのものが成長の手応えへと変わる瞬間を象徴しているのかもしれない。場面が屋敷へと移るのは、外的な旅から内面的な探求への転換を表している可能性がある。忍者屋敷のように複雑な構造を持つ家は、心そのもの、あるいは人生の知的世界を象徴しているように思われる。そこには仕掛けが多く、注意深く進まなければならないという点から、知識や思考の世界が単純なものではなく、慎重な判断を要求する領域であることを示唆しているのかもしれない。ジャングルジムのように上へと登る構造は、学びや探究の階層性を象徴している可能性がある。一本一本のポールを掴んで登る動作は、知識や技能を一段ずつ積み上げていく過程の比喩のようにも見える。途中に置かれていた漫画が落ちていく場面は、人生の過去の楽しみや文化的記憶を象徴しているのかもしれない。ドラゴンボールという作品は多くの人にとって少年期の象徴的な物語であり、それが落ちていくという出来事は、ある意味では幼年期の世界から距離を取る瞬間を表している可能性がある。ただし家主が寛容であるという感覚が浮かんでいる点は、過去を手放すことが必ずしも罪ではないという内面的理解を示しているのかもしれない。つまり、人生の次の段階に進むために古い象徴が落ちていくことは、自然な変化として許されているのだという感覚である可能性がある。屋根裏部屋に到達すると女性と仏壇が現れる。この場面は夢の中心的な象徴の一つであるように思われる。屋根裏は建物の最も高い場所であり、心理的には精神的視点の高みを象徴することが多い。そこに生活する女性は、直観や智慧、あるいは内面的な導きの象徴である可能性がある。仏壇が置かれている点は、この場所が単なる生活空間ではなく、精神的意味を帯びた領域であることを示唆している。つまり、海の通過と屋敷の登攀(とうはん)を経た先に、自分は精神的な問いの中心に到達したという構造であるのかもしれない。そこに友人MSが先に到着しているという点も興味深い。これは、人生のある問題に対してすでに誰かが先に取り組んでいるという象徴である可能性がある。自分がその対話に加わり、自分の知見で問題を解決できると伝えると女性が喜ぶ場面は、これまで蓄積してきた知識や経験が、他者の課題を照らす力を持ち始めていることを示唆しているようにも見える。この夢全体は、濁った海を越え、複雑な屋敷を登り、最後に精神的な空間へ到達するという三段構造を持っている可能性がある。人生における意味として考えるならば、これは自分が現在、過去の自己とつながりながら未知の領域へ踏み込み、混乱や試練を越えた先で、知識や経験を他者のために役立てる段階に差し掛かっていることを象徴している夢である可能性がある。濁った海の向こうに清らかな水が広がっていると確信していたように、今進んでいる道の先には、より透明な理解や使命が開けていることを内面が静かに告げているのかもしれない。フローニンゲン:2026/3/16(月)07:07


18371. バッハのコラール(その1)

                    

今の自分にとってバッハの楽曲が難しく感じられるのは、ごく自然なことなのかもしれない。バッハの音楽の核心は、単に指の速さや技巧ではなく、複数の声部が同時に存在するポリフォニーの構造にあるからである。クラシックギターは一本の楽器で複数の声部を同時に表現しなければならないため、各声部を独立した旋律として理解しながら弾く能力が求められる。その意味で、いきなり完全な形でバッハの作品を弾こうとすると、難易度が非常に高く感じられるのは当然である。この状況に対して、コラールをメロディーラインとベースラインに分けて練習する方法は、非常に理にかなったアプローチであると考えられる。バッハのコラールは四声体で書かれているが、その骨格を形作っているのは主旋律(ソプラノ)と低音(バス)である。ソプラノは音楽の歌そのものを担い、バスは和声の基盤を支える柱となる。この二つの声部をまず明確に理解することで、音楽の縦の和声構造と横の旋律構造の両方が見えてくる。ギターで練習する場合、最初にメロディーだけを弾き、次にベースだけを弾くという形で分解することは、声部の独立性を身体的に理解するために有効である。メロディーラインを単独で練習することには、特に重要な意味がある。クラシックギターで「歌うように弾く」という表現がよく使われるが、そのためには旋律を一つの歌として感じ取る必要がある。歌手が息の流れやフレーズを意識するように、ギタリストも旋律の呼吸を感じなければならない。コラールのメロディーはもともと賛美歌として歌われる旋律であるため、自然なフレージングと呼吸が内在している。したがって、それを単旋律として丁寧に弾く練習は、音をつなげる感覚、フレーズの方向性、音楽的な呼吸を身につけるための理想的な素材となるだろう。ベースラインの練習にもまた独自の価値がある。バッハの音楽では、ベースは単なる伴奏ではなく、強い推進力を持つ旋律として機能している。ベースの動きには和声の進行が凝縮されており、音楽全体の流れを方向づける役割を担う。ギターでベースを明確に弾けるようになると、音楽の重心が安定し、全体の構造がはっきりしてくる。つまり、メロディーが歌であるとすれば、ベースは歩みのリズムのようなものであり、音楽の骨格を支える存在である。この二つの声部を別々に練習した後で、それらを同時に弾く段階に進むと、音楽の立体感が急に理解できるようになる可能性が高い。最初から四声体をそのまま弾こうとすると、指の動きばかりに意識が向かい、音楽の構造が見えなくなりがちである。しかし、旋律と低音を身体的に理解してから統合すると、各声部の役割を意識しながら演奏できるようになる。これはポリフォニーを理解するための重要なステップである。また、この方法にはもう一つ重要な効果がある。それは、音楽を「横の線」として理解する能力を高めることである。初心者はしばしば音を和音の塊として捉えがちであるが、バッハの音楽では各声部が独立した旋律として流れている。メロディーとベースを個別に練習することで、音楽を線として感じ取る感覚が養われる。この感覚こそが、クラシックギターで歌うように弾くための基礎になる。結果として、コラールをメロディーとベースに分けて練習することは、バッハの音楽の核心であるポリフォニーを理解するための優れた練習法であると言えるだろう。それは単なる技巧の訓練ではなく、音楽の構造を身体的に理解するためのプロセスである。そして、この練習を続けることで、旋律を歌のように表現する能力と、低音で音楽を支える感覚が同時に育ち、クラシックギターの演奏全体の音楽性を大きく高める可能性がある。フローニンゲン:2026/3/16(月)07:40


18372. バッハのコラール(その2)

                                 

バッハのコラールをクラシックギターで練習することには、技術的・音楽的・認知的という三つの側面において大きな効能があると考えられる。コラールは一見すると単純な和声進行の賛美歌のように見えるが、実際には西洋音楽の和声と声部書法の精髄が凝縮された教材であり、ポリフォニー理解の基礎を身につけるための極めて優れた素材である。まず技術的な観点から見ると、コラールはクラシックギターの「声部の独立性」を鍛える練習として非常に有効である。ギターという楽器は一本で複数の声部を同時に表現する必要があるが、初心者や中級者はどうしても和音の塊として音を処理しがちである。その結果、メロディーが埋もれたり、低音が不明瞭になったりする。しかしバッハのコラールでは、ソプラノ・アルト・テノール・バスという四つの声部がそれぞれ独立した旋律として書かれているため、演奏者はどの声部が音楽の中心なのか、どの声部が和声の支えなのかを意識しながら弾く必要がある。この意識はギターの演奏において非常に重要であり、声部のバランスをコントロールする能力を育てる。次に音楽的な観点では、コラールは「歌うように弾く能力」を養うための理想的な素材である。クラシックギターの演奏では、旋律を人の声のように自然に歌わせることが重要だとよく言われる。しかし実際には、フレーズの呼吸や方向性を理解しないまま音を並べてしまうことが多い。コラールの旋律は本来教会で歌われる賛美歌として作られているため、自然なフレーズ構造と呼吸が内在している。旋律を丁寧に弾きながらその流れを感じ取ることで、音を単に鳴らすのではなく、フレーズとして歌わせる感覚が養われる。この感覚はバッハだけでなく、タレガやソル、アルベニスなどの作品を演奏する際にも大きな助けになる。さらに重要なのは、和声感覚が大きく向上することである。バッハのコラールは機能和声の典型的な進行を多く含んでおり、トニック、ドミナント、サブドミナントといった和声の力学が非常に明確に表れている。これをギターで弾くことで、単にコードを押さえるのではなく、和声がどの方向へ進んでいるのかを耳で感じ取る能力が育つ。和声の流れを理解できるようになると、音楽の緊張と解決、推進力と安定感といった構造がはっきりと見えてくる。これは演奏表現を深めるうえで極めて重要な能力である。さらに認知的な観点から見ると、コラールの練習は音楽を「縦」と「横」の両方で理解する力を養う。縦とは和音の構造であり、横とは旋律の流れである。多くの演奏者はどちらか一方に偏りがちだが、バッハの音楽ではこの二つが同時に成立している。コラールを練習することで、旋律の流れを追いながら同時に和声の構造を感じ取る能力が鍛えられる。この能力はポリフォニーを理解するための基本的な思考様式とも言える。また、コラールは比較的短い作品が多いため、構造全体を把握しやすいという利点もある。大規模なバッハ作品にいきなり取り組むと、音楽の全体像を理解する前に技術的な難しさに圧倒されてしまうことが多い。しかしコラールであれば、短い中に和声・旋律・声部書法のエッセンスが凝縮されているため、音楽の構造を理解しながら練習を進めることができる。このように考えると、バッハのコラールは単なる練習曲ではなく、音楽理解そのものを深めるための教材であるといえる。声部の独立性、旋律の歌わせ方、和声感覚、ポリフォニー理解といった多くの要素を同時に鍛えることができるため、クラシックギターの基礎的な音楽性を大きく高める効果があると考えられる。結果として、コラールを丁寧に練習することは、単にバッハを弾くための準備にとどまらず、あらゆるクラシックギター作品をより深く理解し、より音楽的に演奏するための土台を築く作業であると言えるだろう。フローニンゲン:2026/3/16(月)08:20


Today’s Letter

A bright sunny morning fills me with energy. The sun has always been one of my greatest sources of support. I will radiate my positive energy into the world. Groningen, 3/16/2026

 
 
 

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