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【フローニンゲンからの便り】17816-17819:2025年12月5日(金)


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タイトル一覧

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39冊のクリスマスプレゼント/開放弦と押弦の音色の差

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今朝方の夢

17818

今朝方の夢の振り返り

17819

始まりなき・起点なき自己性

17816. 39冊のクリスマスプレゼント/開放弦と押弦の音色の差       

           

時刻は間もなく午前5時を迎える。今の気温は4度で、今日の最高気温は6度とのことである。一昨日にふと、かつて生活していたカリフォルニアのアーバインの気候を調べたら、12月に入ってもまだ25度の気温の日があることに改めて驚いた。当時を振り返ってみても、冬も温暖であったことを懐かしく思い出す。


昨日、自身のクリスマスプレゼントとして、数日かけて華厳経・法華経・ソロギターの楽譜を吟味し、合計39冊を日本のアマゾンから一括注文した。送料だけで40,000円近くになったが、それに資するだけの書籍・楽譜群であると思う。それらは今後長く付き合っていけるものなので、非常に良い買い物をしたと満足している。注文画面を見ると、ちょうどクリスマスから年末年始あたりには到着するとのことなので、今から到着がとても楽しみである。

クラシックギターにおいて、同じ和音であっても開放弦を使う場合と押弦だけで構成した場合では、微細ながらも音色が明確に異なる。この差は単なる主観的印象ではなく、音響学的にも演奏技術的にも実在の違いである。まず音響の面から見ると、開放弦は弦がナットとサドルの間で完全に自由に振動できるため、倍音が豊かに含まれ、響きの抜けがよく、明瞭な立ち上がりを持つ。この自由振動のため、開放弦は持続も長く、音量も相対的に大きい。一方で押弦の場合は、弦の振動点が指によって固定されるため、微細なミュート効果が生じ、倍音構造が若干抑制される。そのため、同じ音高でも“閉じた”柔らかな音色となり、音の密度が高まる。言い換えれば、開放弦は空気を軽やかに震わせ、押弦は木材と指先を通して深い内部響きを作り出す差異が存在する。これに加えて、開放弦は右手のアタックがそのまま音の立ち上がりに反映される一方、押弦では左手の押さえる強さや角度が音の質に影響する。したがって押弦の音色操作の幅は開放弦よりも広い。押さえる指の角度、圧力、弦に触れる部位の違いによって、微妙なテンション感や響きの深さを変化させられる。開放弦の音色は透明でありながら、その透明さゆえに「指の音色操作の影響を受けづらい」という特徴があり、一方で押弦は演奏者の微細な身体感覚が音色に直接刻印される「可塑性の高い音」となる。この二つの性質の違いこそが、同一和音でも質感が大きく変わる理由である。さらに、左手の運動性という観点からも、開放弦と押弦は演奏全体に異なる役割を持つ。開放弦を含む和音は、左手に余裕を生み、ポジション移動を滑らかにしたり、難易度の高い連続和音の流れを支えたりする。反対に、すべてを押弦だけで構成した和音は、左手の独立性と筋力、そしてポジション固定能力を高める。開放弦は「身体の力みを抜く」のに有効であり、押弦和音は「手の協調運動を鍛える」機能を持つとも言える。では、同じ和音を複数の指使いや指板位置で弾けることにはどのような効能があるか。第一に、音楽的表現の幅が飛躍的に広がる。例えばEの和音ひとつでも、開放弦を含む明るい響き、押弦だけで作る密度の高い響き、指板上の高い位置で鳴らす温かい響き、駒寄りで押さえた鋭い音色など、場面によって自在に使い分けられる。この音色の多様性は、表現力に大きな影響を与える。第二に、作曲的・編曲的な視点が身につく。和声をただ“押さえる形”として記憶するのではなく、“音の集合と響きの質感”として理解することで、音楽を立体的に扱えるようになる。さまざまな和音フォームを身体で覚えることは、耳で和声を聴き分ける訓練にもつながり、結果として即興演奏や編曲能力が高まる。第三に、演奏技術面での恩恵が大きい。押弦を主体とする複数フォームを覚えることで、左手のポジション移動が滑らかになり、バレーコードや複合和音への適応能力が向上する。そして開放弦フォームを組み合わせることで、難易度の高い楽曲の中でも安定して流れを作ることが可能になる。第四に、同じ和音を様々な形で弾く能力は「音楽瞑想」にも寄与する。開放弦の透明な響きと押弦の深い響きの差を丁寧に聴くことは、耳を研ぎ澄ませ、意識を微細な振動へと降ろす行為となる。和音の位置を変えながら響きの差異を味わう練習は、注意が自然に一点へ収束し、同時に音の広がりへと拡散していく体験をもたらし、深い集中状態に至りやすくなる。総合すると、開放弦と押弦の違いは単なる音色の微差ではなく、身体の使い方、耳の感性、音楽の理解の仕方にまで影響する重要な要素である。そして、同じ和音を多様に弾ける能力を身につけることは、表現力、技術、理解力、そして精神的集中のすべてを豊かにする。これは、クラシックギターの奥深さそのものに触れる最良の訓練であり、自分の音楽世界を広げていく大きな鍵となるであろう。フローニンゲン:2025/12/5(金)05:04


17817. 今朝方の夢 

 

今朝方は夢の中で、オックスフォード大学のカレッジのカフェテリアの中にいた。そこで私はコーヒーを飲みながら一服していた。すると、仏教哲学の泰斗であるヤン・ウェスターホフ教授がやって来て、テーブルについて鞄を開け、学生が提出したレポートの採点をし始めた。多忙な中でレポートの採点をするのはカフェテリアでの食事中なのだと理解し、ウェスターホフ教授に対して労いの気持ちを持った。教授に挨拶をしに行こうと思って挨拶をに行くと、ウェスターホフ教授は満面の笑みを浮かべて挨拶を返してくださった。レポートを見ると、驚いたことにそれは自分が提出したものだった。ウェスターホフ教授は速やかにフィードバックをくださり、最初のレポートであるにもかかわらず非常によく書けていると褒めてくださった。しかし、評価はBだった。アメリカの大学院だったらAを必ずやもらえるであろう内容のものがオックスフォード大学ではB評価止まりなのだと理解し、背筋を正されるような気持ちになった。厳格な評価システムがこの大学にはあるとわかり、そのシステムを通じて自身の論文執筆能力をさらに磨いていこうと思った次第である。カフェテリアを後にしようと思ったら、ウェスターホフ教授がカバンの中から何かを取り出そうとし、表情が焦り出している姿が見えた。何やら重要なキーが見つからないとのことで、近くにいた女子学生が焦ることなくじっくり探してみることを提案していた。

次に覚えているのは、新築の一本のタワーのような大学キャンパスの窓を外から磨いている場面である。自分はボランティアでその仕事をしており、ワイヤーの安全綱をつけてタワーの外をうまく移動しながら立派な絵画が描かれた縦長のガラス窓を磨いていた。ふと直感的に、その窓ガラスは所々割った方が見栄えが良いのではないかと思い、ガラス窓を少しずつ割っていくことにした。その作業が全て完成して地上に降りると、そこでまた立ち止まって考えたことがあった。今の季節は涼しい風が入ってきて心地良いかもしれないが、冬は寒いかもしれないと思ったのである。どうやら大学側も同じ考えのようで、割られた窓の修復を急遽行うとのことだった。それを聞いて、どこか申し訳ない気持ちになったし、自分の美的感覚が裏目に出てしまうことがあるのだと反省した。

最後の夢の場面もある反省を促す内容だった。私は見慣れない国道を自転車で快走していた。その国道の道は不思議な作りになっており、自転車専用レーンを走っていると、自動的に速度が上がる仕組みになっていた。そのため、気づけば時速70kmという非常に速い速度が出ており、体感的に時速50kmを越え始めると、バランスをちょっとでも崩すと事故になる危険性があったので、安全を期して時速40kmまで落とすことにした。それでも自転車にとっては十分に速い速度だった。自転車専用レーンには前後に数人ほど見知らぬ外国人の男女が自転車を走らせていて、彼らと一定の距離を保ちながら走行を楽しんでいた。すると、私たちの間に突然一匹の白い犬が割って入ってきた。その犬は私たちに向かって吠えながらも、危害を加えることはなかった。私がその犬と視線を合わせると、その犬は私にだけ吠えて来るようになった。イタズラでちょっとちょっかいをかけてみようと思って、犬に向かって吠え返してみると、犬は興奮してしまい、国道の終わりで突然ジャンプし、私の頭に齧り付いた。それは全く痛くなかったが、反射的に犬を振り払うと、その犬は国道の真ん中に落ちた。そしてそこにバイクが突っ込んできて犬と衝突した。バイクの運転手は転倒し、大事ではないが怪我をしてしまったようだった。犬の方も死んではいないが、怪我をしてしまったようだった。それを受けて、自分が何か反射的に行うことが誰かに危害を加えてしまうことになり得ることを反省した。フローニンゲン:2025/12/5(金)05:24


17818. 今朝方の夢の振り返り  

           

今朝方の夢全体を貫いている構造は、外界の出来事を通して自分の内側の成熟度や判断基準が試される一連のプロセスのように見える。いずれの場面でも、自分は「一歩成長に向かう直前」にある存在として描かれ、外界の象徴がその成長のための鏡となっているように感じられる。まずオックスフォードのカフェテリアの場面では、自分が憧れと尊敬を寄せる存在が目の前に現れ、自分の作業成果が初めて評価されるという形式を取っている。この構造は、自分がこれから進もうとしている知的世界における基準の高さを示唆しているのではないかと思われる。教授が満面の笑みを向けながらもB評価をつけるという構図は、「人格的受容」と「学問的厳しさ」が同時に提示されていることを象徴しているようである。つまり、存在としては歓迎されているが、技術・思索・論証の水準はさらに上を求められているという二重のメッセージが夢の中で示されているのではないかと思える。また、教授が焦ってキーを探す姿は、権威的存在も不完全であり、絶えず何かを探し続けているという等身大の姿を暗示しているかもしれない。自分が近づこうとしている世界は完璧無欠ではなく、そこには人間味があり、その中で自分も肩の力を抜いて歩んでよいという気配も読み取れる。次のタワーの窓を磨く場面は、自分が理想や美的直観に従って外界を整えようとする能動的姿勢を象徴しているように思われる。高所での作業という構造は精神的・学問的高みを暗示し、その窓を磨く行為は自分の視界を澄ませ、世界理解を透明にしようとする努力を表しているようである。しかし、その途中で「割った方がよい」と感じてガラスを破るという展開は、自分の創造性や独自性がときに非意図的な破壊を伴う可能性を示唆しているのではないかと思える。新しい洞察を得たり古い枠組みを壊したりする行為はしばしば必要だが、その結果が他者の不便や修復作業を生む可能性もあるという気づきが込められている。完成後に生じた冷気への懸念は、自分の直観的判断と長期的影響とのギャップを示し、衝動ではなく熟考を必要とする局面が増えていることを象徴しているようである。最後の自転車の高速走行の場面は、自分の成長速度そのものを象徴しているように感じられる。気づかぬうちに時速70kmに達していたという描写は、自分の現在の探究や学習が想定以上の速さで進んでいることを暗示している可能性がある。しかしその速度は危険と隣り合わせであり、バランスを崩せば事故につながるように、自分の勢いが過剰になると全体の調和が壊れる可能性も示されているのではないかと思われる。犬が割り込んでくる場面は、予期せぬ他者要因や外界の刺激が流れに急に介入することを示す象徴のようである。吠え返すという反射的な反応が事故につながる構図は、自分の不用意なリアクションが他者にも自己にも影響しうるという教訓的メッセージを含んでいると思われる。夢の中での怪我は軽度であり、これは現実の自分がまだ修正可能な段階にいることを暗示するのかもしれない。総合すると、この夢は「成熟への最後の調整段階」に入った自分を描いているように思われる。権威との出会い、独自性の発露と反省、成長速度の制御と反応の慎重さという三つの要素が一連のテーマとして繰り返し現れている点から、自分はこれから学問的にも人格的にも大きな舞台へ進もうとしており、その入口で態度・判断・速度・他者との距離の取り方を微細に調整する必要があることを示唆しているようである。人生における意味としては、夢は「すでに十分な力があるが、その力を洗練させる段階がこれから始まる」と告げているように感じられる。憧れの世界に迎え入れられつつも、さらに高い精度と成熟を求められる場面が続くという暗示であり、自分の知性・表現・判断・反応がより深く穏やかに統合されるとき、本来進むべき道がいっそう明確になるであろうと夢は語っているように見える。フローニンゲン:2025/12/5(金)07:05


17819. 始まりなき・起点なき自己性


昨日ふと立ち上がった自分はいつから自分であるのかという問いは、唯識における「識の流れ」そのものに触れる本質的な問題である。自己意識を担う第六識と末那識を中心に考えると、自己の始まりは固定的な一点として捉えることが難しく、むしろ流動的で境界の曖昧なプロセスとして理解されるべきであるという方向性が浮かび上がってくるであろう。唯識では、生の連続は阿頼耶識に潜在する種子の流れとして把握される。この種子は過去の行為・経験の痕跡として蓄積され、輪廻の連続を可能にする基底として機能する。もしこの立場に立つならば、「自分」というものの始まりは受精の瞬間に限定されず、さらに遡って別の生命経験から伝わる種子の流れの中に位置づけられることになる。この観点からすれば、自分が自分であるという感覚は、受精以前にも潜勢態として存在していたと推量される。だが、その潜勢態は明確な自己意識を持つ形ではなく、あくまで条件次第で展開する可能態としての「自分性」である。末那識は阿頼耶識を「自分」と誤って執着する働きを持つが、この働きが強く立ち上がるのは胎児発達のかなり早い段階と考えられる。感覚器官が形成され、微弱な内外の刺激が流れ始める頃、識の流れは自他の区別に向けて組織化されつつあるのではないかと思われる。しかし、それ以前の段階からも阿頼耶識の連続流はすでに息づいており、そこでは末那識的な自己執着の萌芽が、ごく微細な形で動き出していた可能性がある。末那識は始まりを持つのではなく、むしろ「条件が整えば自然に立ち上がる」性質を持つと理解すべきかもしれない。第六識が司る思考・判断・分別は出生後の経験と密接に関わる。生後の世界との接触、言語体系の獲得、他者との関係性が第六識を急速に発達させ、「自分とは何か」という問いを扱えるほどの自己構造を形成していく。したがって、第六識の発達は時間と共に段階的に展開し、「自分」という感覚は経験の集積を通じて形作られるのであって、ある瞬間に突然誕生するわけではないだろう。しかし唯識的観点から見ると、この「段階的形成」はあくまで現象界での表現にすぎず、根底的には阿頼耶識の流れが絶えず自己性の種子を孕み続けている点が重要である。流れそのものは瞬間瞬間に生滅し、固定的な主体はいない。したがって、「自分の始まり」を一点で確定しようとする問い自体が、末那識によって構成された「固定的な自我像」に依存したものとも言える。もしこの視点を採用するなら、「自分」は受精の瞬間に始まったわけでも、過去世のある一点から始まったわけでもなく、「始まりなき連続的プロセス」として理解されるべき存在になる。自分が自分であるという感覚は、無数の条件が交わる瞬間ごとに立ち上がる仮構のようなものであり、そこには起点を特定する余地がほとんどない。種子の流れは因果の網目として無始であり、末那識の執着もまたその網の一部として常に湧き上がっては消える。こうした理解から推量すれば、「自分はいつから自分か」という問いへの答えは次のように整理できるかもしれない。自分は、始まりを持たない流れとして常に生成され続けてきた存在であり、その時々に現れる自己意識は識の働きの一表現にすぎない。つまり、自分は特定の瞬間に成立したのではなく、無数の刹那の重なりの中で常に「生成されている」のである。この視点に立つなら、人生における意味は「自分とは流れそのものとして生きる」ことにあると言えるだろう。固定的なアイデンティティを求めるのではなく、生成の軌跡を丁寧に見つめ、種子の流れをより清らかにしようと努めるところに、生の深い実践が見出されるのではないかと思われる。フローニンゲン:2025/12/5(金)08:06


Today’s Letter

Everything, including my academic study and music practice, flows smoothly and naturally. This organic process nourishes the deepest realm of my being. If I continue to move with this flow, I can become one with it. Groningen, 12/5/2025

 
 
 

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