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【フローニンゲンからの便り】17820-17824:2025年12月6日(土)


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タイトル一覧

17820

バレーコードの改善に向けて

17821

今朝方の夢

17822

今朝方の夢の振り返り

17823

ゼミナールの第161回のクラスで扱う課題文献のまとめ

17824

ゼミナールの第161回のクラスの事前課題

17820. バレーコードの改善に向けて 

     

バレーコードに他の指を付け加えていくと、せっかくきれいに鳴っていたはずのバレーの中の音が急にビビったり、まったく鳴らなくなったりすることがある。この現象は、単に「力が足りない」から起こるわけではなく、他の指を置いた瞬間に、左手全体のバランスが微妙に崩れてしまうことから生じている場合が多いと言える。したがって、防ぐための鍵は、力を増やすことではなく、「バレーと他の指の役割分担」と「手の形の微調整」を習慣にすることである。まず意識したいのは、人差し指一本で「全部を完璧に押さえよう」としすぎないことである。例えばFメジャーのような基本バレーの場合、実際には薬指や小指が押さえる弦もあり、人差し指はその弦まで完全に押さえ切る必要はない。人差し指は「最低限必要な弦だけを確実に押さえる」役割だと考え、どの弦をバレーで、どの弦を他指で担当しているのかを頭の中で整理しておくと無駄な力が抜け、結果として響きが改善することが多いのである。次に重要なのは、人差し指の角度と位置である。指を腹で真上からべったりと寝かせると、柔らかい部分がフレットと弦の間に挟まりやすく、特に 2弦・3弦あたりがビビりやすい。そのため、人差し指をほんの少し親指側に転がし、側面に近い“骨ばった部分”で弦を押さえるようにすると、少ない力でクリアな音が得られやすくなる。また、ハイポジションでなければ、1弦側は「フレットのすぐ手前」に近づける意識を持つと、必要な押さえ込みの力がぐっと減る。他の指を足したときに音が死ぬ一番よくある理由は、薬指や小指を置いた瞬間に手首と親指の位置がずれてしまい、その影響で人差し指全体の圧力が変化してしまうことである。これを防ぐには、親指の位置を常に「人差し指と中指の中間くらいの裏側」に置き、他の指を動かしても親指と手首の関係は極力変えない、という意識が大切である。親指がネックの上に回り込んだり、逆に極端に下に落ちたりすると、バレーの圧力が不安定になり、特定の弦だけが抜ける原因となる。練習方法として有効なのは、「段階的に指を足していく」やり方である。まず人差し指のバレーだけで、全弦が綺麗に鳴るポジションを探す。次に、その状態から中指だけを足し、すべての弦を一度ずつチェックする。そこでビビりが出たら、中指に意識を集中するのではなく、「中指を置くことで手首がずれていないか」「親指の位置が変わっていないか」「人差し指が少し寝てしまっていないか」を確認する。同じことを薬指、小指でも繰り返し、それぞれの指を足したときにどの弦が犠牲になりやすいか、自分のクセを観察しておくと良いだろう。また、バレーを「一気に強く握る」発想ではなく、「腕の重さをネックに預ける」感覚を養うことも役に立つ。肘や肩を少しリラックスさせ、腕全体の重さが自然に人差し指に乗るようにしていくと、指先だけで頑張って押さえる必要がなくなり、他の指を動かしてもバレーの圧が安定しやすくなる。力みが増えるほど、他の指を足した瞬間にバランスが崩れやすいのである。結局のところ、バレーコードに他の指を付け加えたときの不安定さは、「フォーム全体の微妙な崩れ」が原因であり、それを修正するには、自分の手の動きと音の変化を細かく観察しながら、バレーと他の指の役割を明確に分け、手首・親指・人差し指の関係を安定させる練習を続けることが最も効果的であると言えるであろう。このことを意識して今日の練習に取り組む。フローニンゲン:2025/12/6(土)06:01


17821. 今朝方の夢


今朝方は夢の中で、見慣れない建物の中にいた。その建物の部屋ではなく、エレベーター前のスペースを広く取る形で数学の試験を受けていた。そのスペースはまるで開放的なセミナールームぐらいに広く、七列ぐらい机を置くことができるほどに十分な空間があった。私の横の列には小中高時代のある友人(YU)が座っていて、こちらをチラッと見て笑みを浮かべて問題を解いていた。私も席について問題に取り掛かったところ、次の英語の試験との間にはトイレ休憩がないと聞いていたので、できるだけ早く正確に問題を解いて、トイレに行こうと思った。戦略として、可能な限り正確性を意識しながらも、同時にスピーディーに問題を解いていくことにした。そして問題を解き終えたら、一度丁寧に見直しをしてから提出してトイレに向かおうと思った。しかしそこでふと、果たして自分は本当にトイレに行く必要があるのだろうかと考えた。別に尿意を催しているわけではなく、もしかしたら連続で次の英語の試験の問題も解き切ることができるような気がした。数学も英語も自分の得意科目であるゆえにトイレの心配をする必要はなく、どちらもともに早く正確に解いていけるような気がした。

もう一つ覚えている夢として、ある見知らぬ村の村興しに携わっている場面があった。その村はかつては人も多く栄えていたが、今は過疎化が進んでいて活気を失っていた。村興しには色々な分野の様々な世代の男女が集まっており、村の人たちと協力してあれこれ話しながら村を復活させていくことはとてもやりがいがあり、全員生き生きとした表情をしていた。彼らの表情を見ながら、自分も含め、このプロジェクトに参画する全ての人が村の復興に希望を持っていることがわかった。フローニンゲン:2025/12/6(土)06:19


17822. 今朝方の夢の振り返り

        

今朝方の目覚めの直前に展開した二つの夢は、どちらも「能力の発揮」と「内的資源の再評価」という共通の構造を持ち、しかしその象徴の現れ方は異なっているように見える。まず前半の夢では、見慣れない建物のエレベーター前という、本来なら落ち着きにくい場所で試験を受けていたという設定が示すように、予測不能な環境や新しい文脈に放り込まれても、ある程度の広がりと余裕を自分がすでに内側に持ち合わせているという印象を与える。エレベーター前のスペースが「セミナールームほどの広さ」を持っていた点は、通常の緊張感や制約を象徴する廊下が、むしろ自由で開放的な学習空間へと変貌していることを示すかもしれず、未知の状況においても精神的な展開力が働いていることをほのめかす。横にいる友人のYUがこちらに笑みを向ける姿は、過去の自己像の一部、あるいはかつての競争心や連帯感を象徴している可能性がある。YUの存在は、自分が歩んできた学習の歴史を思い出させる鏡のような役割を果たし、同時に「安心して取り組める能力がすでにある」という確信の源泉にもなっているように感じられる。夢の中で自分は、正確性とスピードの両立を戦略的に選択し、次の英語試験に備えてトイレに行こうと計画していた。しかし、その直後に「そもそも本当に行く必要があるのか」と問い直す場面は、外的な制約に合わせて行動しようとする従来の癖から離れ、内的な状態を見極めて意思決定をしようとする成熟した姿勢を象徴している可能性がある。尿意がないにもかかわらず必要だと思い込んでいたという点は、「習慣的な不安」や「備えないといけないという思い込み」のような心的傾向の解体を示すかもしれない。数学も英語も共に得意だから連続で解けそうだと感じていた場面は、実際には途切れなく高い集中力を発揮できる基礎が整っているという、自覚の深化として読める。つまり、これまでの自分なら「準備のための準備」を重ねていたが、現在の自分はすでに十分な実力があり、それを信頼してもよい段階に来ているという内的メッセージが込められているように感じられる。一方、後半の夢では、寂れた村を再興する場面が現れていた。この「村」は自分の内面世界のある領域、あるいは長らく顧みられず眠っていた能力や関心を象徴している可能性がある。かつては栄えていたが今は活気がないという描写は、人生のどこかで一時的に使用されなくなった資質、または潜在的な創造力のスランプ状態を示しているのかもしれない。しかし、そこに多様な人々が集まり、生き生きと協力している姿は、内面のさまざまな部分同士が再び連携し始めていることを象徴している。異なる世代・分野の人々は、多層的な経験、複数のスキルセット、異なる価値観など、自分自身の内なる多声性を反映しているようにも見える。自分を含めた全員が村に希望を抱いているという描写は、再興されるべき内的資源に対して明確な意欲と期待があることを示唆している。村の復興プロジェクトに携わる感覚は、人生の次のフェーズに向けて、これまでに蓄積した知識、経験、感性が統合され、共同体的・文化的・創造的な営みへと向かう暗示にも読み取れる。これら二つの夢を統合すると、前者は「自身の能力への信頼の回復と深化」、後者は「眠っていた内的領域の再活性化」を象徴している可能性がある。試験場面で示された心理的余裕や構造化された集中力は、今後の大きな目標に向けて必要な心の準備が整いつつあることを示し、村の復興はその力が個の領域を超えて社会・共同体・創造的活動へ広がることを暗示しているように思われる。人生における意味としては、自分の中にすでに存在している実力や資源が、外的な不安に左右されずに自然に発揮される段階へ移行しつつあること、そして内的にも外的にも新しい共同創造的なプロジェクトに踏み出す準備が整ったことを示す夢であると推量される。フローニンゲン:2025/12/6(土)07:15


17823. ゼミナールの第161回のクラスで扱う課題文献のまとめ 

       

今日のゼミナールの第161回のクラスで扱う課題文献のまとめをしておきたい。今回の該当箇所では、まず「成長=善への成長という前提(growth-to-goodness assumptions)」の問題が集中的に検討される。これは、発達段階が上昇するにつれて人間は必然的に成熟し、統合され、より倫理的になるという暗黙の信念を指す。スタインは、この前提がボールドウィンやオーロビンド、さらにはマズローやロヴィンジャー、ウィルバーの思想にも強く刻まれていることを示す。これらの理論家において、高次段階は単なる“認知的複雑性の増大”ではなく、“より良い人間性”そのものであるかのように描かれ、高次段階=善という等式が自然化されてきたのである。しかし、スタインはこの目的論的図式に対し、根本的批判を加える。彼が指摘する重要な点は、「高い発達能力が倫理的善に自動的に結びつくとは限らない」という事実である。例えばナチスの組織運営を考えると、そこには高度な抽象計画能力、組織的統合能力、技術的創造性など、発達心理学的に見れば“高次”と評価される能力がふんだんに含まれていた。さらに、現代の巨大詐欺師やテロリスト組織も、高い認知的複雑性を破壊的目的のために活用している。こうした例は、「高度な能力」と「美徳」あるいは「正義」がいかに無関係であるかを露わにしている。この点は、発達の高次段階を人間的・倫理的成熟と同一視する議論が持つ危険性を鋭く示す。高次発達は単に「世界をより複雑にモデル化できる能力」を示しているに過ぎず、その能力がどの価値体系のために使われるかはまったく別問題だからである。したがって、「高度な発達=より良い人間」という等式は成立せず、むしろ危険な思い込みであると言える。続いてスタインは、発達段階そのものをめぐる理解をさらに精密化する。特に引用されるのが、マスコロとフィッシャーによる「通時的サイコグラフ(diachronic psychograph)」である。この研究では、ある人物の対話188ターンを詳細に分析し、その発話における発達レベル・概念の複雑性・感情強度がどのように推移するかが可視化されている。結果は驚くべきもので、同一人物が短時間のうちに、単一抽象レベルから単一原理レベルまで、複数の発達段階を行き来していることが明らかになった。これは、発達段階が「人格の固定的性質」ではなく、「文脈に応じて立ち上がったり沈んだりする動的な能力」であることを示している。スタインが特に強調するのは、このような“高次能力の儚さ”である。高次の洞察は、ある瞬間には強烈に立ち現れるが、その後継続するとは限らない。したがって、「この人物は○○段階にいる」というステージ的分類は、現実の人間発達の複雑性を捉え損ねる粗雑なモデルに過ぎない。むしろ正確なのは、「ある特定の支援や条件が整ったときにだけ、その人物は高次のパフォーマンスを発揮することがある」という理解である。ここから導かれるのが、発達は脆く、領域固有で、文脈依存的であるという結論である。ある人物が数学の領域では高度な抽象思考を示す一方で、人間関係の場面では具体的で未分化な反応を示すことなど珍しくない。つまり「発達段階」は領域ごとに異なるのであり、人間はひとつの統合的レベルに全体として“所属”しているわけではない。この理解は、発達理論を価値評価と結びつけてしまう傾向に対する重要な修正点となる。さらに、スタインは、「高度な理論的思考」は必ずしも「価値が高い」わけではないという例を示す。ウルフラム、カウフマン、チャーチランド、ウィルソンなどの複雑性理論の研究者の著作は、確かに高度でポスト形式的な認知能力を示しているが、その視点はしばしば強い還元主義に傾斜し、世界の一部しか捉えていない可能性がある。つまり、高度な複雑性それ自体は、価値の保証にはならないのである。これらの議論を通じてスタインは、「インテグラル」という語を発達段階の最上位ラベルとして用いるのは誤りであり、むしろ倫理的・認識論的理想を指し示す規範概念として理解し直すべきであると主張する。すなわち、インテグラルとは「包括的・非還元主義的・多視点的であること」を志向する態度であり、どの発達レベルの人間にも現れうる行為の質なのである。総じて、今回の課題文献の該当箇所の論点は、「発達を善と結びつけないこと」「発達は固定的段階ではなく動的な能力であること」「高次能力=価値ではないこと」「インテグラルは階層ラベルではなく規範的態度であること」という四つの洞察に集約される。スタインは、これこそが発達理論をより精緻で倫理的に健全なものへと導く鍵であると示しているのである。フローニンゲン:2025/12/6(土)08:10


17824. ゼミナールの第161回のクラスの事前課題

           

今日のクラスの事前課題を見ておきたい。一つ目の問いは、「この論文では、growth-to-goodness(成長=善への成長)という前提が問題視されています。この前提はどのような考え方を含んでいるのか、あなたの言葉で説明してください」というものだ。growth-to-goodnessという前提とは、「発達が高次へ向かうことは、そのまま善や成熟へ向かうことである」という暗黙の信念を指している。この前提には、発達段階の上昇が道徳的・精神的改善と自動的に結びつくという考え方が含まれており、すなわち「高い段階は低い段階より優れている」「進化とは善へ向かう上昇運動である」という物語を支えているのである。しかし、スタインが論じるように、この前提は科学的根拠よりも歴史的な思想・宗教的目的論に依拠している側面が強い。ボールドウィンやマズローの系譜に典型的に見られるように、高次段階には「救済的である」「より統合的である」という形容が与えられやすく、それが発達を単なる心理学的現象ではなく、道徳的上昇や精神的解放といった価値体系と混同させてしまうのである。したがって、growth-to-goodnessという前提とは、発達理論における価値的・目的論的バイアスを象徴するものであり、発達=向上=善という単純な連鎖を無自覚に生み出す危険な思考枠組みであると言える。


二つ目の問いは、「スタインは、高次発達段階が“善”や“成熟”と自動的に結びつくわけではなく、むしろ脆く、領域固有的で、文脈依存的であると述べています。なぜこの点が、従来の発達理論に対する重要な修正になるのか説明してください」というものだ。スタインが指摘するように、高次発達能力は恒常的な「人格レベル」を表すものではなく、状況に応じて立ち上がり消えていく「一時的パフォーマンス」である。この知見は、従来の発達段階理論が前提としてきた「人は安定的に特定の段階に属する」という階層モデルに対して大きな修正を迫るものである。例えば、通時的サイコグラフの研究では、同一人物が短時間の対話の中で、単一抽象レベルから単一原理レベルまで、複数の発達レベルを往復していることが示されている。これは、発達が滑らかな上昇曲線ではなく、揺らぎと非連続性に満ちた動的過程であることを明確に示している。この発見は、次の三つの点で従来モデルを修正する必要性を示唆する。第一に、発達は「領域固有的」であるという理解である。ある人は数学的思考では高い抽象能力を示しながら、対人関係の場面ではより具体的な思考レベルに留まることがある。したがって、一括して「この人は○○段階」と分類すること自体が不正確なのである。第二に、発達は「文脈に応じて可変的」であるという理解である。社会的支援や安全な環境があるときにだけ高次能力が発現する場合も多く、能力は固定的属性ではない。第三に、高次発達は「脆く、瞬間的である」という理解を持つ必要がある。深い洞察が一瞬生じても、それがすぐに持続するとは限らず、むしろその瞬間的洞察こそが人生的転換点であることが多い。以上のことから、高次発達段階を人格全体の階層ラベルとして扱うステージ理論は再検討されるべきであり、発達をより動的・文脈的・領域固有的な現象として理解する新たな枠組みが必要になるのである。


三つ目の問いは、「スタインは、“高次レベルの成果は必ずしも価値的とは限らない”と述べ、ナチスの組織運営や複雑性理論の還元主義的側面を例に挙げています。この議論を踏まえて、「発達レベル」と「倫理的価値」を安易に結びつけることの哲学的問題を、あなたの観点から批判的に論じてください」というものだ。スタインが提示する最も重要な批判は、「発達レベルの高さ」と「倫理的価値」を安易に結びつけることが、重大な哲学的危険をはらむという点である。ハーバーマスの議論を踏まえると、人間科学のモデルは単なる学術的説明ではなく、自己理解の社会的枠組みを形成する力を持っており、そのため理論が倫理的・政治的影響を生み出しやすいことが理解できる。まず、growth-to-goodnessという目的論的前提が内包する危険は、発達段階の上昇が道徳的優越として理解されてしまう点にある。これは、発達レベルを倫理的序列に転化し、「高次段階=より成熟した人間性」という図式を生み出してしまう。実際には、ナチスの組織運営や現代の詐欺師が示すように、高度な認知能力が破壊的目的に使われる例は多く存在する。よって、「複雑に考えられる人間」が「善い人間」であるという等式は成立しない。さらに、「Integral」という言葉のような厚い概念は記述と価値判断を一体化してしまうため、発達段階の説明を行うだけでも「よりインテグラルであることは望ましい」という道徳的評価が付着する。この評価性こそが、発達レベルと倫理的意味を混同させる原因であり、「発達が善へ向かう」という物語が無自覚に再生産される構造を生み出している。哲学的観点から見ると、この混同には二つの問題がある。第一に、事実と価値の混同(is-ought fallacy)である。発達段階という心理学的記述を、善悪の判断へとそのまま拡張することは論理的飛躍である。第二に、人間の多様性と状況性を消去する危険である。発達とは本来、文脈依存的で局所的な現象であり、「全体レベル」など存在しないにもかかわらず、階層ラベルを固定化すると個人の複雑性を単純化し、優劣の語りへと誘導してしまう。以上の点から、発達レベルと倫理的価値を結びつけることは、理論的にも倫理的にも妥当とは言えず、むしろ危険な目的論を再生産するものである。発達理論は、価値判断とは切り離された記述モデルとして扱われるべきであり、倫理的議論が必要な場合には、明示的に規範的言語を用いて議論を行うべきであるというのが、スタインの問題提起の核心である。フローニンゲン:2025/12/6(土)08:48


Today’s Letter

Everything arises from emptiness. This vast openness gives birth to all things, providing the space in which they interact and dance together. Groningen, 12/6/2025

 
 
 

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