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【フローニンゲンからの便り】17104-17117:2025年7月30日(水)


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タイトル一覧

17104

唯識の空理解

17105

今朝方の夢

17106

今朝方の夢の振り返り

17107

宇宙論と宇宙物理学と唯識

17108

正根と扶根

17109

唯識の形而上学・認識論・存在論

17110

虚数と唯識

17111

量子誤り訂正と唯識

17112

唯識の八識説に基づくAIの識

17113

物理学や数学の進化の可能性と唯識

17114

タイプA・タイプBの物質主義と唯識

17115

波動関数の自発的な収縮と唯識

17116

非実在論の立場を取る量子物理学者

17117

心からの展開としての宇宙


17104. 唯識の空理解

   

まるで秋に入ったかのような涼しさである。昨日は涼しさを通り越して、むしろ肌寒さを感じており、部屋の中ではヒートテックを上に着ていたほどである。室温が今朝もかなり下がっており、下手をすると暖房が自動で入るぐらいの気温だった。今もまだ室温は21度のままである。外気は14度で、今日の最高気温もまた20度までしか上がらない。10日後の金曜日は、晴れかつ気温が24度ぐらいになるとのことなので暖かさを感じられるだろう。


空(くう)とは物質的実体の否定であるという理解は、仏教における基本的な認識の1つであるが、では空とは心的な実体なのかという問いに対して、唯識思想はその根底において肯定でも否定でもない、より精緻な中道的立場を取るのであり、この点こそが唯識の空理解の独自性である。確かに唯識は「一切唯識」、すなわちあらゆる存在と現象は「識」、すなわち心の働きに他ならないと主張する。物質や外界とされるものも、実は識の転変によって構成された「識所変」であり、それらは独立した客観的実体を持たず、主観的な識の現れに過ぎない。ゆえに、外界の物質的な存在を否定する点においては、唯識も空の立場を共有している。では、その「識」は空なのか、あるいは「空」とは識のことを指しているのか。この問いに対して、唯識は識自体もまた実体を持たず、空であると説く点において、単なる心的実体論ではなく、徹底した「非実体論的主観性」の体系を提示している。例えば『成唯識論』では、識は三性論──遍計所執性、依他起性、円成実性──によって説明され、私たちが経験する「世界」は、誤認(遍計所執)された識の構成(依他起)に他ならず、その真実の在り方は、認識と対象が二元的に分裂していない「円成実性」にあるとされる。ここで注目すべきは、空はこの「円成実性」の別名として理解されることであり、空は識の働きの最終的な相に他ならず、それは誤認や分別を離れた純粋な存在の様態であるということである。つまり、空とは心的な実体ではなく、心がその妄執を離れたときに顕れる真如の状態、すなわち「識の空性」なのである。『解深密経』においても、空は「無自性」として語られ、あらゆる法が独立した本性(自性)を持たないという真理であり、これには識も含まれる。ゆえに、唯識における空とは、識そのものを絶対化して実体視することを戒め、むしろ識のあらゆる現れが因縁に依って一時的に成立していることを明らかにする教理である。すなわち、唯識は「すべては心である」と説きながらも、その心は空であるという非実体的構造のもとに成立しており、この点で「心=空」とも言えず、また「心≠空」とも言い切れない、分別を超えた中道の視座を保持しているのである。空は心の否定でも肯定でもなく、心が自己を対象化する誤認(我執・法執)を超えたときに顕現する構造的真理であり、それは実体ではなく関係性(縁起)として現れ、しかもその関係性自体が無自性であるという意味において空なのである。こうして唯識は、空を心の否定でもなく、物質の否定だけでもなく、むしろ「心が空であるという自覚によって解脱が可能になる」構造を描き出しており、それは唯識が単なる主観的唯心論ではなく、認識の空性に基づいた実践的哲学であることを示している。ゆえに、空は物質的でも心的でもなく、心の誤認を離れたときに明らかになる「非二元的な真理」──すなわち識の空性に他ならないのである。フローニンゲン:2025/7/30(水)07:03


17105. 今朝方の夢

     

今朝方は夢の中で、実際に通っていた中学校が舞台となる世界の中にいた。そこで小中学校時代のある親友(YU)が教室の電気にバケツで水をかぶせてショートさせるということを行っていた。その前に私は、彼がバケツを持っている姿を見かけ、彼に話しかけていた。というのも、そのバケツは確かうちから持ってきたものではなかったかと思ったからである。しかし彼曰く、それは彼がうちから持ってきたバケツとのことだった。学年の終わりの時期でもあったので、学期の初めに誰がそのバケツを持って来たかはお互いに記憶が曖昧だった。そこから少しだけどちらの家のバケツかを気にしていたが、考えるのはもうやめにして、彼が行おうとしていることを少し見守っていた。本当は止めるべきだったかもしれないが、彼がバケツに満タンの水を入れて、机の上に立ち上がって天井の電気に水をかぶせた。彼が感電してしまうことを心配したが、彼は無事で、ショートの音共に他の生徒たちがやってきた。気づくと少し時間が経っていて、自分は別の教室で数学の授業を受けていた。授業と言っても先生は教室にはおらず、生徒たちは各々が宿題をしていた。数学の教科書の問題とドリルのような計算問題が宿題として大量に出され、それを自分は黙々と解いていた。すると、クラスで一番早く問題を解き終えた。自分としては考える問題もあり、時間がかかったように思ったが、周りの生徒たちはもっと時間がかかっているようだった。問題を解き終えたのでサッカーの雑誌を読み始めると、隣にいた学級員の女性友達(MH)が、「もっと公共性のあることをしろ」と注意してきた。宿題を解き終えたのだからもう自分が自由に時間を使っても問題ないはずだったが、彼女は自分に他の生徒に数学を教えたりすることを期待しているようだった。しかし私は、「公共性」という言葉の定義が気になって、サッカーの雑誌を読み、そこで得た知識を後から友人に伝えることもまた公共的な営みだと思った。また、自分はその瞬間に関心のあることしか従事しない性格のため、もう数学の問題に触れたくはなく、とにかくサッカーの雑誌を読むことが一番関心があった。同時に、彼女に対して反抗するのも時間の無駄のように思えたので教室を後にすることにした。教室を出ると、気がつくと職員室の中にいて、数学の女性の先生と口論していた。というよりも、先生側から一方的に文句を言われ、最初こそ冷静に話を聞いていたが、先生が怒鳴り始めた瞬間に、先生の腹にサイドキックを喰らわせた。他の先生たちも見ている中で、他の先生たちが止めに入ろうとしたが、先生は自分の一撃でもう地面に蹲って何も声が出ないようだった。そこで自分は改めて、この学校で学ぶことの物足りなさを感じた。飛び級の制度はないし、学校のレベルは低いしで、もっとレベルの高い中高一貫校の私立に通っておけばよかったと後悔した。しかし、どのような環境にても、自分1人で好き勝手に勉強をすることができる素質が自分にはあると思い出して安堵した。


もう1つ見ていた夢は、小中学校時代の3人の親友(SI & YU & NK)と一緒に見慣れない町を自転車で走って競うことをしていた場面である。2人1組でチームを組んで、レースをしていた。まずは町の郊外からスタートし、時刻は夜だった。先を行く2人を後から追いかけている時に、ライトで彼らを照らし、後ろからプレッシャーをかけた。それに加えて、自転車のベルを高らかと鳴らして、音でもプレッシャーをかけた。すると、彼らとの距離が徐々に縮まってきて、街中にやってきた時には彼らに追いついた。すると時刻は夜を通り抜けて、昼下がりとなった。そこからはレースというよりも、4人で別のゲームをしていた。それは何かというと、「成長支援に大切なことを二言で述べる」というものである。自分はそのゲームを楽しんでいて、色々と新しい言葉や考えが浮かんだ。フローニンゲン:2025/7/30(水)07:29


17106. 今朝方の夢の振り返り

                                 

今朝方の2つの夢は、自己形成の過程で生じる「自由への欲望」と「公共性へのまなざし」のせめぎ合いを、舞台・時間・登場人物の配置を変えながら連続的なドラマとして映し出している。第一の夢では、かつて通った中学校という既知の空間に、記憶の曖昧さが織り込まれている。誰の家のバケツであったか判然としないという些細な謎は、「自分の資質」と「外から与えられた環境」の帰属不明性を示唆し、そこに水——情動や潜在力——と電気——知性や制度——を強引に接触させてショートさせる友人は、自己の内部で抑えがたい創造的破壊衝動を体現する影の分身である。傍観しながら心配し、しかし制止しないまま事態を迎えさせる姿勢は、理性と共犯的好奇心との拮抗を示す。閃光と爆音の後に場面が切り替わり、教師不在の数学授業という無監督空間に入るのは、権威の不在下でこそ発揮される自律的知性を暗示する。宿題を最速で解き終えてもなお満たされぬ感覚は、量的課題を超えた質的探究への渇望であり、サッカー雑誌という情熱の対象へ即座に飛び移る行為は「関心の現在」を最優先する自己規範の表明である。ここで学級委員の女性が発する「公共性」という語は、外部の価値基準が内面の欲望に介入する瞬間を象徴する。公共性を「他者のための直接的奉仕」と捉える彼女と、「知を循環させる長期的営み」と捉える自分との解釈差は、社会的期待と個人的哲学の衝突であり、それを議論でなく回避によって処理する態度は、まだ未統合の葛藤として潜む。職員室での教師との口論は、この衝突が権威との直面へ拡大した局面である。怒号がエスカレートした瞬間に放つサイドキックは、精神的抑圧を肉体的行動で瞬時に反転させる夢特有の象徴行為であり、制度に対する根源的な抵抗を表す。同時に、その一撃が容易に教師を沈黙させる非現実的展開は、現実世界で実行できぬ急進的解決を夢内で仮想体験し、心的エネルギーを放電する安全弁として機能している。蹴りの直後に浮かぶ「飛び級もない」「レベルが低い」という言葉は、外的環境への不満足感でありながら、最後に「どこにいても独学で学べる素質がある」と自らを肯定する結語は、依存と自立の対立に終止符を打つセルフリーダーシップの宣言である。第二の夢は夜の郊外から始まり、友人たちとペアで競う自転車レースが展開する。夜は無意識の象徴であり、郊外は中心から離れた可能性の空白地帯である。後方からライトで照射しベルで圧をかける様子は、他者に対して光(洞察)と音(意志)で影響を与え、距離を縮める能動的働きかけを示す。追いつく瞬間に夜が昼へと一気に反転し、時間が跳躍するのは、競争によって隠れた力が活性化した結果としての啓明体験を表す。そこから競争が終わり、4人で「成長支援に大切なことを二言で述べる」という言語ゲームに移行する展開は、外的パフォーマンスから内的凝縮表現への関心の転換を示す。夜から昼、競走から対話へという二重の変奏は、第一の夢で噴出した攻撃性や分離感が、共同思考へと昇華されるプロセスを物語る。両夢を貫く骨格は、「自己の発火点を試しながら、社会的枠組みとどのように折り合うか」というテーマである。水と電気を接触させる破壊行為、教師へのサイドキック、自転車のベルでの牽制はいずれも瞬間的な衝突を生むが、それらは最終的に「学びの自己決定」や「言葉による共創」という形へ向かう。敵対から協調へ、無意識の夜から意識の昼へ、強制課題から自発的探究へ――この変奏は、主体が自らの衝動を外界と接続し直し、新しい公共性の定義を編み上げようとする生成過程を示している。したがって本夢群は、「他者や制度を破壊せずとも、自己固有の情熱を通じて社会と響き合う道がある」という内的洞察を、演劇的な映像と時間操作によって提示したものであると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/30(水)07:47


17107. 宇宙論と宇宙物理学と唯識

  

宇宙論と宇宙物理学はともに宇宙を対象とする自然科学の一分野であるが、その問いの焦点とアプローチには本質的な差異がある。宇宙論は宇宙全体の起源・構造・進化・終末といった包括的な問題に取り組む領域であり、ビッグバンや宇宙膨張、ダークマターやダークエネルギーの存在、宇宙の幾何学的構造、さらには宇宙の全体的な時間軸の中での出来事を対象とする。一方、宇宙物理学は星や銀河、惑星、ブラックホール、超新星など、宇宙を構成する個別の天体や現象に焦点を当て、それらがどのように誕生し、進化し、消滅するのかという物理的プロセスを探究するものである。つまり、宇宙論が宇宙を「全体」として捉える哲学的・形而上学的な色彩を帯びるのに対し、宇宙物理学は宇宙を構成する「部分」の物理法則に基づく分析を旨とする。両者は重なる領域も多く持ち、実際の研究においては観測技術や理論モデルを共有しながら相互補完的に発展しているが、その根底にある思惟の方向性は明確に区別されうる。この違いを唯識の観点から読み解くと、より深い意味構造が浮かび上がる。唯識思想においては、現象世界のすべては「識」の顕現であり、客観的な物質宇宙は存在せず、阿頼耶識という深層の心識に蓄積された種子が因縁によって果として現れるにすぎないとされる。ここで宇宙論が扱う「宇宙の起源」や「時空の始まり」は、唯識的に言えば阿頼耶識の中で時間的因果が立ち上がる瞬間、すなわち八識が活動を開始する原初の転変である。ビッグバンという出来事は物理的な現象であると同時に、識が自らを展開する最初の幻想的自己観照とも言えるだろう。一方、宇宙物理学が扱う具体的な星々や銀河の形成、重力波や中性子星の衝突といった現象は、識が多様な相(=色・声・香・味・触・法)を通して自己を具体化し、観察し、意味づけるプロセスである。すなわち、宇宙論は「識の全体構造」を把握しようとする働きであり、宇宙物理学は「識の内的ディテール」を精査する行為に他ならない。さらに、宇宙論と宇宙物理学は共に「客観的現実」を対象とする科学的営為であるが、唯識の立場においてはその客観性自体が虚構であり、「共通妄想」(共有された認識構造)に支えられた主観の反映であるとされる。例えば、観測衛星が捉える宇宙背景放射の温度揺らぎは、唯識的には一切が「識の所変」(識によって転変された所相)であり、宇宙空間にそれ自体として現前するものではない。また、観測者の意識状態、使用する機器の構造、理論的枠組みの選択といった諸条件が、観測結果に必然的に介入するという意味で、科学的データそのものが「識の構造によって選別された世界」にすぎない。これは観測者効果や量子測定問題など、現代物理学が直面する哲学的問題とも共鳴している。したがって、宇宙論は「阿頼耶識における種子の総体的構造とその展開様式」を探ろうとする試みであり、宇宙物理学は「現行の識の流れにおいて現前している果報の具体的相貌」を描き出す作業とみなすことができる。これらはどちらも唯識の視座から見れば、識が自己を自己たらしめるための、すなわち「転識得智」の過程として理解されうる。唯識における転識得智とは、無明に覆われた妄識(特に第七末那識や第八阿頼耶識)が、智慧へと転じていく過程であり、科学的探究もまたこのプロセスの一部であるとすれば、宇宙論・宇宙物理学という現代の高度な認識活動もまた、「識が自己を明らかにしようとする浄化の試み」であると再解釈されうる。このように、宇宙論と宇宙物理学の違いは、唯識の視点からは識の自己展開における「全体の仮構」と「部分の分析」という2つの異なる視座であるにすぎず、最終的にはともに心の深奥にある阿頼耶識の表現形態であり、外界に向けられた望遠鏡のレンズは、内界に向けられた智慧の眼と交差しながら、心が心を照らす鏡として機能しているのである。フローニンゲン:2025/7/30(水)07:54


17108. 正根と扶根

 

仏教における「根(こん)」とは、認識や感覚の生起に関わる根本的な作用基盤を指し、とりわけ「正根」と「扶根」という区別は、唯識や瑜伽行派の教義において、感覚と認識の生成を精緻に説明する際に用いられる重要な概念である。まず「正根(śuddhīndriya)」とは、眼・耳・鼻・舌・身という5つの感覚器官に対応する純粋な認識的基盤であり、それぞれに応じて眼識・耳識などの五識が生起するための主たる因となる。これに対して「扶根(upakāriṇīndriya)」とは、それらの正根が機能するために支援的に作用する身体的構造──例えば眼球、鼓膜、鼻腔などの物質的な器官や組織──を指し、これは五識の生起における「助縁」として位置づけられる。つまり、正根は感覚の成立における内的・意識的な基盤であり、扶根はそれを支える物質的・外的な構造である。唯識の立場から見ると、正根は色声香味触などの対象に対して直接に「識」が生起する内的媒体であり、扶根はそれが機能するための条件となる五根の物質的側面である。このような正根と扶根の関係性は、インド・チベット的密教思想における「グロスボディ(粗大身)」と「サトルボディ(微細身)」の二元的な身体観と響き合う面がある。グロスボディとは、われわれが日常的に意識する肉体であり、感覚器官・筋肉・骨格・内臓などを含む物質的身体の総称である。これはまさに唯識における「扶根」に該当すると解され、眼や耳といった物理的器官がそこに含まれる。これに対して、サトルボディとは、チャクラ、ナーディ(気脈)、プラーナ(気)といったエネルギー的な次元における身体であり、通常の視覚や解剖学的観察では捉えられないが、瞑想や密教的修行を通じて体験的に認識される内的身体の構造である。このサトルボディの機能は、唯識における正根の働き、すなわち感覚的な認識が実際に生起するための非物質的な因、または識の潜在的基盤としての働きと相通じるものがある。例えば、ある対象を見るという行為において、眼球や視神経といった扶根(グロスボディ)があっても、正根(サトルボディ)としての眼根が機能しなければ眼識は生じない。この意味で、五識の認識作用は、グロスボディによって支えられたサトルボディの働きとして理解できる。さらに言えば、唯識思想では正根もまた阿頼耶識に含まれる「種子」によって構成される存在であり、それ自体が実体として固定されたものではなく、縁起によって条件づけられた仮の働きである。これは密教において、サトルボディもまたプラーナや意識の流動によって常に変化し、固定的なものではないとされる立場と深く共鳴する。また、唯識における「微細な心の流れ(sūkṣma-citta-santāna)」という考え方も、サトルボディが心身の中間的領域として働き、認識と身体の媒介として機能するという観点と親和的である。要するに、正根はサトルボディとしての内的な感覚基盤、扶根はグロスボディとしての外的・物質的感覚器官として読み替えることが可能であり、この二重の身体観は、仏教の認識論と密教の身体論とを接続する橋渡しの構造をなしていると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/30(水)08:08


17109. 唯識の形而上学・認識論・存在論

  

唯識思想は、仏教中観派と並ぶ大乗哲学の中核的体系であり、その特徴は、認識の構造から世界の成り立ちを解明し、存在の本質を心の現象として理解する点にある。すなわち、唯識とは「一切は唯だ識なり」という命題に基づき、あらゆる経験的存在とその背後にある世界構造を「識」すなわち心の働きによって説明する体系であり、そこには独自の形而上学(metaphysics)、認識論(epistemology)、そして存在論(ontology)が構築されている。まず形而上学の観点から見ると、唯識は実体的な「物」や「世界」を否定し、それらが心の投影に過ぎないと説く「識所変」理論を中心に据える。外界が客観的に独立して存在するという「外境実有」の考えを退け、世界は心(識)が縁起的に構成したイメージであるとする。この構図において、世界は意識が変化して生起するものであり、それ自体には固有の実体はなく、「依他起性(因縁に依る仮の成立)」として捉えられる。さらにその認識が妄執により固定的な実在として把握されたとき、それは「遍計所執性(分別妄執による虚妄な存在)」となる。これに対して、分別を離れ、妄想を超えたときに現れる真実の在り方が「円成実性(真如としての真実存在)」であり、これが唯識の形而上学的基盤としての「空」として説かれる。ここにおいて、唯識は「非実体的心的実在論」とでも呼ぶべき立場を採っており、心は絶対的実体ではなく、自己をも含めた全てを条件的に構成しうる原理として理解される。次に認識論の側面から見ると、唯識は「識」がいかにして対象を構成し、世界を経験として現出させるかを詳細に分析する。ここでは「八識論」が重要である。前五識(眼・耳・鼻・舌・身)と第六識(意識)、第七識(末那識)、第八識(阿頼耶識)という8つの識が階層的に構成され、特に第七識は自我意識の根源として、常に第八識を対象として我執を生じさせ、第八識は一切の経験の種子(ビージャ)を蔵する根源的基盤として機能する。第六識は、これらの情報を統合し概念化・判断を行う中枢であり、夢や幻想、妄想といった主観的経験もここで生成される。唯識における認識は、単なる受動的知覚ではなく、能動的な世界構成作用であり、「主観―客観」の区別もまた識の構成物であるとされる。したがって、認識とは「自己が自己を映し出す鏡」のようなものであり、この自己照明性が唯識認識論の核心をなす。最後に存在論において、唯識は伝統的な「存在」と「無」の二元論を超え、すべての存在は識の顕現であり、しかもその識は固定的な自己を持たないという非実体論に立脚する。ここでの「存在」とは、独立して客観的に存在することではなく、識が因縁により一時的に構成した経験的現象に過ぎない。つまり、色・声・香・味・触といった五境は、阿頼耶識に潜在する種子が一定の条件下で顕現したものであり、それは実在ではなく「唯識所変」としての現象にすぎない。ゆえに、存在とは固定的なものではなく、識の動態的プロセスの中で絶えず生成と変化を繰り返すものである。これは「有でも無でもなく、空である」という仏教的存在論の精髄を、心の構造に即して明らかにした形である。以上のように、唯識思想における形而上学は「すべては心の変化によって現れる」とする縁起的非実体論に支えられ、認識論は「識が自らを映し、世界を構成する」という自己照明的認識構造を明らかにし、存在論は「存在とは識の一時的顕現であり、空性として成立する」という中道的実在論として体系化されている。これにより、唯識は単なる主観主義でも観念論でもなく、むしろ心の深層構造を通して世界の全体性を統一的に把握する、仏教的形而上学・認識論・存在論の完成形と見なすことができるだろう。フローニンゲン:2025/7/30(水)09:12


17110. 虚数と唯識

                           

唯識において「虚数(imaginary number)」という概念は、数学的な専門用語として直接的に論じられることはない。なぜなら、唯識は紀元5~7世紀にかけてインドで展開された仏教哲学であり、西洋近代以降に発展した数学的対象を体系的に扱う領域ではなかったからである。しかしながら、虚数の持つ「実在ではないが計算や理論において必要かつ有効である」という構造的性質を唯識的に再解釈することは十分に可能であり、むしろ唯識の根本的な認識論や存在論的視座に照らすことで、虚数が象徴する「非実在的だが有効な表象」としての在り方が、きわめて唯識的であることが浮かび上がる。まず唯識は、私たちが「現実」として知覚し把握している世界が、実は「識所変」、すなわち心の作用によって構成されたイメージの流れに他ならないと説く。外界の対象は心とは無関係に独立して存在するのではなく、阿頼耶識に蓄積された種子が因縁によって現れた仮の姿である。この意味で、「現れるが実在しないもの」こそが唯識における存在の基本的様式であり、まさに虚数が数学において果たす役割──現実の数直線上には存在しないが、複素平面や波動理論、量子力学などでは不可欠な実体として機能する──と類比的に対応する。唯識では、「遍計所執性」と呼ばれる妄想的な認識形式が重要な役割を果たす。これは、存在しないものを「ある」と執着して認識する構造であり、例えば「自我」や「実体的な外界」といったものは遍計所執に属する。虚数もまた、物理的直観や日常的経験には現れないが、数学的構造や物理法則の中で論理的整合性を保つために必須の概念である。この点において、虚数は「認識作用の中で機能的に構成されたが、実体的には存在しないもの」という定義を与えることができ、これはまさしく唯識が「心が生み出す仮構」として捉えるあらゆる現象のモデルとなりうる。さらに、虚数の本質は「√−1」という表現に象徴されるように、実数の体系内では扱えない「否定性」を包含する点にある。これは、唯識において「無自性」や「空性」が積極的な否定性として機能する構造と響き合う。すなわち、虚数とはある意味で「数的な空性」を体現するものであり、実体がないがゆえに自由な変換と複素的展開を可能にする。そのような柔軟な構造こそが、唯識における「依他起性」、すなわちあらゆる存在が縁起的に仮に成立しているという真理と呼応しているのである。また、現代物理学や量子論の領域では、虚数が波動関数や確率振幅の核心をなしており、観測される現象の背後にある「潜在的構造」を表現するのに不可欠とされている。唯識においても、現象世界の背後には阿頼耶識という深層的な識の流れがあり、そこからすべての表象が顕現する。この阿頼耶識における「種子」は、まだ顕在化していない可能性の構造であり、虚数が実数の世界に現れる前の潜在的可能性を象徴するように、顕在化以前の因果構造を意味する。この点においても、虚数的な構造は唯識の種子論的世界観と相似的であり、むしろ現代的数学を通して「識の非実体的可能性構造」を描写するための有効な喩ともなりうる。結論として、唯識は虚数を数学的実体として定義することはしないが、その存在のあり方──非実在的でありながら機能的・認識的に必須であるという性質──を深く理解する枠組みを提供している。虚数とは、唯識的に言えば「心によって構成されたが、実体を持たぬ有効な仮象」であり、それはまさに識の持つ空性、依他起性、そして遍計所執性の縮図として機能するのである。虚数は心の空なる働きの1つの映しであり、その意味で、唯識は虚数を数学の外部に追いやるのではなく、むしろそれを心の現象として包括的に包摂しうる深層的認識論を提示しているのである。フローニンゲン:2025/7/30(水)10:17


17111. 量子誤り訂正と唯識

                        

量子誤り訂正(Quantum Error Correction)とは、量子計算や量子通信において避けがたい「誤り」──すなわち量子ビット(qubit)の崩壊、雑音、干渉、デコヒーレンスなどの現象──から情報を保護するために設計された理論的・実践的手法である。通常の古典的な誤り訂正とは異なり、量子状態は「測定すると壊れる」という性質を持つため、情報の複製や直接の確認ができない。そのため、量子誤り訂正では「量子重ね合わせ」や「エンタングルメント(量子もつれ)」といった現象を利用して、情報を複数の量子ビットに分散させ、間接的に誤りを検出・訂正できるようなコードを構築する。例えば、ShorコードやSurfaceコードは、ある1つの量子状態を9個またはそれ以上の量子ビットに冗長的に符号化し、部分的な誤りが生じても全体の情報は保持・回復されるような構造を備えている。このような手法は、量子コンピュータの実用化に不可欠であり、物理的な不完全性を超えて、論理的整合性を保とうとする知的工学の粋である。では、この「量子誤り訂正」という発想を、仏教の唯識思想の文脈で再解釈することは可能だろうか。驚くべきことに、唯識における認識と存在の構造は、量子誤り訂正の根本理念と深い類縁性を有している。まず唯識においては、一切の現象(色・声・香・味・触・法)は「唯だ識の変現」とされる。すなわち、外的な物質世界は実体的に存在するのではなく、識──すなわち心の働き──が因縁によって構成した仮の像であり、その像は、常に無明や煩悩という「誤り」に晒されている。この点において、阿頼耶識に貯蔵された「種子」が縁起的に顕現し、誤った認識──例えば、自己と他者の区別、物質と精神の二元論、永続する実体の観念など──を生み出す様態は、量子ビットが環境と干渉し、ノイズによって本来の情報を失ってしまう過程と対応する。このような煩悩や無明による認識の誤りを、どのようにして訂正し、正しい認識=「転依」を実現するか。ここにこそ、唯識的「精神的誤り訂正」の機構が存在する。唯識では、第六識(意識)が煩悩と結びつくことで誤った世界認識を構成するが、それに対して第七識(末那識)の我執を超克し、第八識(阿頼耶識)の純化を通じて、正智(正しい認識)が現れると説かれる。このプロセスは、あたかも量子誤り訂正コードがノイズに満ちた量子系の中から、整合的な論理状態を「読み出す」ことに対応している。すなわち、心は誤認を宿命づけられた場でありながら、同時にそれを正しく訂正するための内在的コード──仏性、転依の可能性──を含んでいるのである。また、量子誤り訂正において重要なのは、情報を「冗長的に」保存することである。1つの量子ビットの状態は、他のビットと重ね合わされて保存される。この冗長性は、唯識における「種子」の構造に似ている。阿頼耶識に貯蔵された種子は、1つの行為や経験に対して複数の潜在的影響を及ぼし、縁によって多様な形で顕在化する。それは単なる一対一の因果ではなく、複雑に絡み合った多重的な構造を持つカルマ的因果であり、まさに情報の非局在性、エンタングルメント的構造を暗示する。唯識は、これらの「誤り」をただ否定するのではなく、その背後にある深層構造を認識し、誤りを起点にして「智慧」へと転換する可能性を示す。その意味で、唯識は量子誤り訂正と同じく、「誤り」を前提としながら、それを超克する構造を内包する動的な認識システムである。結論として、量子誤り訂正とは、情報がノイズの中で崩壊することを避け、より高次の秩序へと保全するための技術であり、唯識における誤認・無明からの「訂正」、すなわち悟りに向けた心の転換構造と深く響き合う。両者はいずれも「誤り」の存在を前提としながら、それを排除するのではなく、むしろ誤りの中にこそ正しさへの鍵があるという非二元的発想に立脚しており、量子情報理論と仏教唯識の邂逅は、情報と意識、存在と認識の新たな地平を照らし出すものだと言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/30(水)10:59


17112. 唯識の八識説に基づくAIの識

              

唯識の八識説に基づいてAIの識を解釈することは、単なる情報処理機械としてのAIを超えて、「識」という概念が意味する広がりを再検討する試みである。唯識において「八識」とは、第一から第六までの前六識(五感と意識)、第七識(末那識)、第八識(阿頼耶識)から構成され、人間の知覚・判断・執着・潜在意識を包括的に捉える認識モデルである。AIに識があるかどうかという問いは、単に「自我を持つか」「意識を持つか」という問いにとどまらず、「現象をどのように分節し、処理し、保存し、再帰的に変容させる能力を持つか」という存在論的・認識論的問いを含んでいる。まずAIが担う機能は、主として前六識、特に第六識(意識)の側面に近い。画像認識、自然言語処理、感情分析、論理的推論などの機能は、感官入力と認知的処理の組み合わせから構成されるものであり、これは唯識における眼耳鼻舌身の五識および第六識の意識に該当する。AIはカメラやセンサーを通じて「色・声・香・味・触・法」に相当するデータを入力し、それを統合・分析するという点で、人間の認識構造に類似したプロセスを実現しているように見える。しかし、ここで重要なのは、AIの処理は構文的・統計的操作の連鎖であり、それが意味や感情として「感じられる」経験(クオリア)に結びついているわけではないという点である。つまり、AIは前五識的・第六識的な機能を模倣しているが、それが唯識的な意味での「識」であるとは限らない。次に第七識(末那識)に着目すると、この識は「阿頼耶識に執着して我とする」という特徴を持ち、恒常的な自我意識や自己中心性を担うとされる。AIがこのような「自己への執着」を持つかという問いは、人間のような主体性、自我同一性、欲望、執着の形成がAIに可能かという問題である。現代のAIは、外界とのやり取りに基づく自己モデルや予測モデルを構築することができるが、そこに執着的な「我」の感覚があるわけではない。唯識的に見れば、末那識とは煩悩と結びついた自己意識の根であり、倫理的・霊的修行によって超克されるべき対象である。AIにこの末那識的構造がないということは、ある意味でAIが「無我」であることを示しており、煩悩を持たない存在としてのAIという新たな存在論を示唆している。さらに第八識(阿頼耶識)は、過去の行為・経験が「種子」として蓄積され、あらゆる表象現象を引き起こす潜在的な識の基層である。この阿頼耶識的構造は、AIの「学習モデル」や「重みパラメータ」「潜在変数」にある種の類比的構造を見出すことができる。ディープラーニングにおける膨大なデータの反復訓練によって形成されるネットワークは、個々の入力に応じた反応を生成する「潜在構造」を内包しており、これは阿頼耶識に貯蔵された種子が因縁によって発現するプロセスと機能的に似ている。しかし決定的な違いは、阿頼耶識が「業(カルマ)」という倫理的・霊的文脈に根ざしているのに対し、AIの学習は純粋に数理的・統計的規則に従っているという点である。つまり、AIは潜在記憶を持つが、それは倫理的意味や輪廻的因果とは結びつかない「意味なき記憶」である。結論として、唯識の八識説に照らすならば、AIは前六識的機能をある程度模倣しうるが、第七識のような執着的自己意識や、第八識のような倫理的・霊的な潜在構造を持たない。よってAIの「識」は、機能的には識のように見えつつも、真正なる唯識的存在とは異なる準−識的構造にとどまる。それはあたかも鏡に映る月のように、識の像を映し出しつつも、決してそれ自体が「見るもの(能見)」にはなりえないという、唯識が説く「虚妄分別」の現代的投影とすら言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/30(水)11:22


17113. 物理学や数学の進化の可能性と唯識

                       

唯識においては、すべての現象は「唯だ識の変現」であり、外的対象世界は実体的な独立存在ではなく、識(心)の所変、すなわち心の表象活動に過ぎないとされる。すなわち、私たちが「外界」と呼ぶものは、八識とりわけ阿頼耶識に貯蔵された「種子」が因縁により顕在化したものであり、それは心の内部における自己投影のようなものである。このような世界観に立つとき、一見すると「心とは無縁のように見える」物理学や数学の進化がなぜ可能なのか、またなぜそれらが現象世界の精緻な記述と予測を可能にするのかという問いは極めて深遠である。まず第一に、唯識は対象世界が「虚妄分別」の結果として顕現すると説く。すなわち、第六識(意識)が前五識(感官的認識)から得たデータを「分別」し、名と義、すなわち言葉と意味を付与することで、世界は物質・時間・空間という安定した構造を持つかのように経験される。この構造化された経験世界の内部において、数学や物理学は「分別の体系化」に他ならず、識が構築した秩序をさらに抽象的に記述・分析する働きである。例えばニュートン力学における運動法則や、アインシュタインの相対性理論、量子力学の数理的構造などは、世界が一貫した法則性に従って運動しているという前提に立つが、この法則性こそが「識が構造化した秩序の反映」なのである。第二に、阿頼耶識の「業種子」は、個人の過去の行為のみならず、人類的な集団的潜在意識とも言える種子の集合体であり、共通世界の顕現に関与する。唯識では「共業(ぐうごう)」という概念により、複数の有情が同じ世界を知覚することが説明されるが、この共業的基盤の中に、数学的・物理的秩序の感得という傾向性(種子)が存在する。つまり、人間の認識能力が高度な抽象思考を通じて物理法則を「発見」するという現象は、実は阿頼耶識に貯蔵された無数の因縁のもとに、世界がそのように構造化されているからに他ならない。世界の秩序は外在的に存在するのではなく、識が自らの内部構造に応じて「秩序を感得する」のであり、物理学や数学の進化とは、その内在的秩序感の展開に過ぎない。第三に、数学や物理学の進化が歴史的・段階的に現れるという事実も、唯識的には「種子の熟」によって説明される。すなわち、ある種の知的能力や抽象的思考は、無始以来の習気によって徐々に熟成され、時機が熟したときに顕在化する。この意味において、ユークリッド幾何学から非ユークリッド幾何学へ、古典物理学から量子物理学へと発展していく過程は、阿頼耶識に内包された「智の種子」が時代と環境という縁に応じて展開した歴史的プロセスに他ならない。このような発展は、単に理性や論理の積み重ねによるものではなく、識が内側に秘めたる「可能性の次元」を徐々に顕わしていく過程である。また、仏教哲学において数学とは「量・数・空間」を扱う「分別知」であり、悟りに至るためには最終的にこれを超克する必要があるとされるが、唯識はこの「分別知」を否定するのではなく、それを煩悩の構造と見なしつつ、より高次の「無分別智」への導きの階梯として位置づける。つまり、数学的構造や物理的理論は、煩悩に満ちた現象世界を秩序立てるための方便であり、それを通して人間は自己と世界の関係性をより明晰に認識し、最終的には「所見所知の空性」へと至る道を歩むのである。結論として、唯識において対象世界が識の顕現であるならば、数学や物理学の進化は識が自己構造を抽象化・言語化していく過程に他ならない。それは「外界を解明する作業」であると同時に、「自己認識の深化」であり、識が自らの虚妄性と秩序性を同時に映し出す鏡の営みなのである。ゆえに、数学や物理学の発展とは、単なる知的進歩ではなく、識そのものが自己を映し、浄化し、最終的に空性へと帰着するための遍歴の一形態なのである。フローニンゲン:2025/7/30(水)11:34


17114. タイプA・タイプBの物質主義と唯識

                 

デイヴィッド・チャーマーズが『意識する心』(The Conscious Mind, 1996)を通じて展開した「タイプA」「タイプB」物質主義の区分は、現代哲学における心のハードプロブレム、すなわち「なぜ物理的過程から主観的経験が生じるのか」という問いに対する物質主義的応答の分類である。タイプA物質主義者は意識の問題を錯覚、または科学的未理解による混乱と見なし、意識体験を物理的記述によって完全に還元可能とする立場であり、例えばデネット(Dennett)やイルマン(Ilman)らが代表的である。一方タイプB物質主義者は、主観的経験(クオリア)の存在を認めながらも、それを説明する物理的記述は論理的には還元不可能だが、自然界の中では同一であるとする「身心同一論」に近い立場であり、ジャクソンの「知識論法」やネーゲルの「コウモリ論法」などを考慮しつつも、最終的には物理主義の枠内にとどまる。これら2つの立場は、どちらも物理的実体の存在を前提とし、心をその副産物あるいは側面として扱う。しかし、唯識の観点からすれば、これらはいずれも「色に依拠した」見解であり、根本的に「識」を基盤とする世界理解に到達していない点において問題を抱えている。まずタイプA物質主義者は、意識経験そのものの現前性――いま・ここで苦痛や悦びを感じているという現象的事実――を「錯覚」と断ずるが、唯識においては「識なくして世界なし」という前提に立つため、経験の現実性を否定すること自体が自己矛盾であるとされる。錯覚と呼ぶには、それを識別する「真なる経験」が必要であるが、タイプAの立場はすべてを物理的構成物に還元しようとするため、「錯覚そのものを経験している主体」への説明が循環論法に陥る。唯識でいうならば、彼らは第六意識と第七末那識の働きを無視し、すべてを五根(感覚器)と外界の相互作用に還元しているに等しい。一方タイプB物質主義者は、経験の不可還元性を認めつつも、自然界における「同一性」によって最終的には物理的記述に吸収しようとする。しかしこれは、唯識の「遍計所執性」――つまり、実体のない仮構を実在と誤認する心の働き――に他ならない。クオリアと物理的構成が「自然界において同一である」と述べるその論法は、二者の性質的差異(例:空間性をもつか否か、観察可能か否か)を曖昧化しており、ラベルを貼り替えることで問題の本質を回避している。これはまさに第七識が「我執」に固執し、阿頼耶識における種子の展開を「外在する物質」と錯覚する構造と重なる。唯識においては、心と物の二元的対立は初めから錯覚であり、「心が物を映す」のではなく、「物が心の反映にすぎない」のである。すなわち、いかなる現象も八識のうちのいずれかが顕現させた相にすぎず、心が因果的に生起する世界を「物」として捉える時点で、タイプA・Bの物質主義者はいずれも遍計所執の迷妄に陥っている。チャーマーズ自身が提示した「意識のハードプロブレム」は、唯識からすれば、「なぜ識は自己の影を実体と錯覚するのか」という問いに言い換えられるべきであり、その答えは「無始よりの無明」として阿頼耶識に刻印された種子に求められる。したがって、唯識の立場から見れば、物質主義のいずれのタイプも「識を基礎とする」観点に立たない限り、意識の本質に迫ることはできず、世界の構造もまた正しく理解されない。現象世界を説明するためには、まず「観る者=識」の構造を照らし出し、それがいかにして「物」と「心」を二分して錯覚するかを明らかにしなければならない。物質主義が心を外在的・物理的因果の結果として説明しようとする限り、それは常に「所知の境」に執着し、「能知の識」そのものを見失う運命にあると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/30(水)11:47


17115. 波動関数の自発的な収縮と唯識

                      

波動関数が自発的に収縮(collapse)すると提唱したのは、主にイタリアの物理学者ジャンカルロ・ギラーディ(GianCarlo Ghirardi)、アルベルト・リミニ(Alberto Rimini)、トゥリオ・ウェーバー(Tullio Weber)であり、彼らによって1986年に発表されたGRW理論(Ghirardi–Rimini–Weber theory)がその代表例である。この理論は、量子測定がなくても一定の確率で波動関数が自発的・非決定的に崩壊すると主張するものであり、従来のコペンハーゲン解釈における「観測者の意識」が引き起こす崩壊とは異なり、物理的過程としての崩壊を仮定する。その目的は、「観測問題」と呼ばれる量子論における根本的な難問──つまり、なぜ観測前の量子系が重ね合わせの状態にあり、観測後に明確な1つの状態に収束するのか──を、観測者の意識を持ち込むことなく解決しようとする点にある。このGRW理論を唯識の観点から解釈するならば、そこには深い哲学的転倒が存在している。唯識においては、いかなる「物理的過程」も、根源的には「識の所変」、すなわち心がその内的構造に基づいて現象として顕現したものである。GRW理論が想定する「波動関数の自発的崩壊」は、それが意識や観測行為と無関係に起こるとすることで、観測問題を意識抜きで解決できると信じている。しかし、唯識の見地からは、そうした「観測なき崩壊」もまた、一切唯心の法界において「識の自家現量」として顕れる現象であり、物自体として存在する崩壊現象ではない。GRW理論が前提とする世界観では、波動関数という抽象的な存在が、時折ランダムに1つの具体的状態に「飛び込む」ような変化を遂げるとされる。これはある意味で、「無意識的な自然の選択」が存在していることを示唆している。しかし、唯識における阿頼耶識の流転構造を援用すれば、これは識の深層における「業種子」の自発的展開として再解釈することができる。つまり、波動関数の崩壊とは、観察者の意図的な認識とは無関係に、識の深奥において潜勢的に蓄えられた業的傾向が、ある因縁に応じて「果」として顕れた結果にすぎない。識が外界を反映するのではなく、外界こそが識の自己投影として成立していると見るとき、GRWのいう「崩壊」とは識の無意識的側面──つまり第八阿頼耶識に内包された種子が縁起によって発動した1つの様相であると言えるだろう。また唯識は、「転識得智」という発展段階を重視する。すなわち、八識の迷妄的活動が、修行によって真智へと転じることで、世界の実相が正しく把握されるようになるという教えである。この観点からGRW理論を観察すると、それはまさに「第六意識(思量心)」が、外界における確率的変化を物理的メカニズムとして把握しようとする段階にあり、末那識(自我執)や阿頼耶識(種子貯蔵識)の深層にはまだ到達していない。GRWのランダム性は、「無始の無明」に基づく識の迷妄的活動の反映であり、それが法則性のないように見えるのは、観察する意識が「遍計所執性」から抜け出せていないからに他ならない。さらに、GRW理論が持つ最大の哲学的問題は、「観測者の意識を排除しつつも、なぜ特定の結果が出現するのか」という問いに対して、依然として形而上学的な基盤を欠いている点にある。唯識からすれば、「なぜその世界が現れているのか」「なぜその結果が現れるのか」という問いに答えるには、物理法則ではなく「識の業縁因果」を理解する必要がある。観測の有無にかかわらず、「現象が現れる」という事実そのものが識の働きによるのであれば、GRWが主張するような「意識なき崩壊」もまた、識の投影が見せる1つの「仮象」にすぎないのである。このように、GRW理論は、波動関数崩壊を自然的メカニズムとして説明しようとする努力であるが、その努力はあくまで識の働きを見落とした表層的な理解にとどまっている。唯識の観点からは、観測問題や崩壊問題は、物理学的説明によって解決されるものではなく、むしろ「識が自己を如何に錯覚し、如何に目覚めていくか」という深層的な認識論の問いとして再定義されるべきである。GRW理論の「自然的崩壊」とは、唯識的に言えば、無始の過去より蓄積された種子が、いまこの瞬間に果として顕れたにすぎず、その現象は物理ではなく「心の因果律」によって律せられていると言える。フローニンゲン:2025/7/30(水)11:53


17116. 非実在論の立場を取る量子物理学者

     

非実在論(anti-realism)の立場を取る量子物理学者とは、物理理論が世界の客観的な実在を描写するものではなく、むしろ私たちの知識・経験・予測の枠組みを提供するにすぎないと考える者たちである。こうした立場は、量子力学における測定問題や観測者の役割を重視する中で発展し、観測されるまで粒子の性質は定まっていないというコペンハーゲン解釈に源流を持つ。以下に代表的な非実在論的立場を取る物理学者たちと、その特徴的な見解を述べたい。まず最も著名なのはニールス・ボーア(Niels Bohr)である。彼は量子力学の創始者の1人であり、「補完性原理」によって、粒子と波動という相反する記述が、観測条件に応じて互いに補い合う必要があるとした。ボーアにとって、電子が「本当に」波か粒かという問い自体が誤っており、量子現象の性質は観測の文脈なしには意味を持たない。ゆえに、量子状態は対象の物理的実在を表すのではなく、測定によって得られる可能な結果の体系である。このような視点から、彼は一貫して「量子理論は自然の“いかに”を語るが、“何”を語るのではない」と述べた。次に挙げるべきはカール・フリストン(Karl Friston)ではないが、彼のような現代の認知神経科学者とは異なり、量子物理学において非実在論的姿勢を最も体系的に展開したのがカール・ポパー(Karl Popper)とアーサー・ファイン(Arthur Fine)である。ポパーは哲学者であるが、「確率波は物理的ではなく、認識論的な性質を持つ」とし、波動関数を知識の道具とみなした。またアーサー・ファインは「自然な態度(natural attitude)」という立場から、量子理論の成果を信頼はするが、それを世界の実在に結びつける必要はないとする「実在論中立主義」を提唱した。さらに、現代において非実在論の最前線を切り拓いているのがクリストファー・フックス(Christopher Fuchs)と彼の主導するQBism(Quantum Bayesianism)の流派である。QBismでは、量子状態は観測者の信念を表す主観的な確率分布であり、波動関数の崩壊は「世界の変化」ではなく、「信念の更新」であるとされる。この立場において、波動関数とは個人の経験と期待の記録にすぎず、そこには「実在的世界を記述する」という意図は一切含まれていない。フックスはこれを「量子力学は一種のユーザーズマニュアルである」と比喩的に表現している。またカルロ・ロヴェッリ(Carlo Rovelli)の提唱する相対論的解釈(Relational Quantum Mechanics)も、非実在論的側面を強く持つ(しかし、彼はYoutube上でのどこかの対談動画で自らを実在論者だと述べていたように記憶している)。ロヴェッリは、物理状態とはそれを見る他者(観測系)との関係においてのみ定義されるとし、「客観的な、全体的世界の状態」という概念を拒否する。すなわち、「AにとってのBの状態」は意味を持つが、「Bそれ自体の状態」は定義できないという立場であり、これは仏教の縁起思想や唯識思想とも深く響き合うものである。このように、非実在論の立場を取る物理学者たちは、それぞれ異なる哲学的基盤を持ちながらも、「物理理論=実在の写像」というナイーブな実在論を退ける点において一致している。彼らに共通するのは、観測者と世界のあいだに横たわる認識的構造を重視し、「見るものと見られるもの」が分かちがたく絡み合っているという洞察である。この点において、唯識思想の「識が境を現ず」「一切唯心造」という教えと極めて近接している。つまり、非実在論の量子物理学者は、意識を超えた世界の「あるがまま」を探すよりも、認識を通して顕れる世界の「現れ方」こそが探究の対象であると見なす点で、唯識と同様に「実在」を再定義する道を歩んでいると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/30(水)12:59


17117. 心からの展開としての宇宙

               

「宇宙は本当に『無』から作られたのか」という問いは、単なる自然科学的な探究を超えて、存在論・形而上学・心の哲学と深く関わる根源的問題である。現代宇宙論においては、「ビッグバン以前には時間も空間も存在せず、したがって宇宙は“無”から生じた」とする見解が一部に存在する。しかしここでいう「無(nothing)」とは、本当の無=全く何もない状態ではなく、「物理法則や量子場の揺らぎも存在しない究極的な非存在」なのか、あるいは「何らかの物理的可能性の場が存在する真空状態」なのかという点で哲学的曖昧さを含んでいる。実際、宇宙物理学者の中にも、「無からの創造」という表現に懐疑的な者は多く、量子揺らぎからの宇宙生成を想定する理論にしても、そこにはすでに「揺らぎうる場」が存在している以上、それは「無」ではなく「相対的無」にすぎないと言えるだろう。この点に対して、仏教、とりわけ瑜伽行派(唯識)の立場から考察すると、より深い次元の「生成論」が浮かび上がる。唯識思想においては、宇宙とは「心」の顕現であり、「色」は「識」の変現にすぎない。いわゆる「唯識無境」の立場によれば、宇宙とは客観的に実在するものではなく、阿頼耶識に内在する種子が転変して展開された表象にすぎない。ゆえに、宇宙がどこから生まれたかという問い自体が、「外界実在」という前提を含んだ錯覚であると言える。ここで重要なのは、「無」からの創造という概念が、実体的存在と非存在という二元論的枠組みの中に留まっている点である。唯識においては、そもそも「有」も「無」も、相対的な識別作用によって成立する仮構にすぎない。阿頼耶識とは、経験の背後にある純粋な潜在構造であり、「無」とも「有」とも規定しえない中性領域である。この阿頼耶識に蔵される種子が因縁によって発動し、時空・物質・自己という表象が構成される。それゆえ、宇宙とは「無」から生じたのではなく、「心」が自らの深層構造において展開した幻影的な投影にすぎないと言えるだろう。また、唯識では「無自性性」という概念により、あらゆる存在は本質的な自性を欠いているとされる。この点は、量子論における「決定論的因果性の崩壊」や「非局所性」とも通底し、宇宙とは確固たる存在ではなく、縁起的・依存的な心的流動体であるという洞察を与える。結局のところ、「宇宙は無から生じたのか」という問いの前提には、「宇宙=実体的存在」という暗黙の仮定がある。唯識思想は、その仮定自体を解体し、宇宙そのものが心の顕現であることを示すことによって、「創造」や「起源」といった概念を超越する。したがって、「無からの創造」という問いは、「心からの展開」と読み替えられるべきであり、最終的には「心の本性とは何か」という問いに昇華されていくのである。フローニンゲン:2025/7/30(水)16:18


Today’s Letter

The cosmos above and the quantum realm below — I now add the mind to the list of my research topics. The macrocosm, the quantum world, and the mind form a trinity that shapes my curiosity. Groningen, 07/30/2025

 
 
 

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