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【フローニンゲンからの便り】17089-17103:2025年7月29日(火)


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タイトル一覧

17089

量子トンネル効果と唯識

17090

今朝方の夢

17091

今朝方の夢の振り返り

17092

ベルの定理と唯識

17093

波と海/量子状態と唯識

17094

実体化をしてしまう人間の心

17095

量子測定問題と唯識

17096

阿頼耶識と似た概念群:心の科学としての唯識

17097

パイロット波理論と唯識

17098

波動関数の収縮/デコヒーレンスと唯識

17099

唯識と響き合う観測問題

17100

測定問題と唯識

17101

量子測定問題測定とは何か:唯識の観点より

17102

陳那の九句因

17103

夢の中の視覚現象について


17089. 量子トンネル効果と唯識 


時刻は午前7時半を迎えた。空には晴れ間が広がっているが、先ほど通り雨が降った。今の気温は15度と涼しく、今日もまた日中の最高気温は20度までしか上がらない。8月を目前に控えているが、まだこうした涼しい気候であることに感謝したい。少なくともここから10日間は20度前後の最高気温の日が続く。今日は午前中に監修書の理論解説の部分を執筆し、そこからは良遍の作品に対する註釈論文の執筆を行なっていきたい。翻訳の原稿もとりあえずドラフトが完成したので、ここからは午前中は基本的に論文の執筆に力を入れ、午後から読書をしていくというリズムを構築してみたいと思う。やはり書くことが一番理解を促すため、論文を書きながら知識のインプットを進めていくという方針を採用することにした。


量子トンネル効果とは、古典物理学では絶対に越えることができないとされるエネルギー障壁を、粒子があたかも“すり抜ける”かのように通過してしまう現象を指す。例えば、ボールを手で投げて丘の上を越えさせる場合、ボールの持つ運動エネルギーが丘の高さに満たなければ、当然ボールは坂を上りきれず、跳ね返される。しかし、量子の世界では事情が異なる。仮に丘を越えるだけのエネルギーが粒子に無くても、その粒子には「波動性」があるため、確率的に丘の向こう側に“現れる”ことがある。これがトンネル効果である。粒子は「丘を越える」のではなく、「確率的に丘の向こうに出現する」のである。つまり、物質的粒子は一様な直線的移動ではなく、波のように拡がる可能性を持ち、その波の一部が障壁の向こう側に“しみ出す”ことで、粒子が実際にその場に現れるというわけだ。この現象は電子や陽子の運動、半導体技術、核融合のプロセスなど、現代物理学と工学の基盤を支えている。この直観に反する現象を唯識の観点から読み解くとき、重要なのは「物質とは実体的に存在する固定的なものではなく、識の働きとして現象的に現れる」という思想である。唯識では、外界の物体や運動は「識所変」、すなわち心の変化が像として現れたものであり、実体を持った対象が「そこにある」わけではない。この点において、トンネル効果もまた「粒子が客観的に存在して障壁を越える」というよりも、「粒子がどこに現れるかは、私たちの認識構造の中で確率的に構成される」という事実として理解される。つまり、粒子が障壁を通り抜けたのではなく、「識において障壁の向こうに粒子が現れた」というべきなのである。唯識における「縁起」や「無自性」という原理は、量子トンネル効果における「決定的な運動」ではなく「確率的な存在」という観念と響き合う。なぜなら、粒子が通るか否かはエネルギーの大小ではなく、観測条件や場の状態といった「縁」によって変化するため、それはまさに「依他起性」――自己に固有の本質を持たず、他との関係に依ってのみ成り立つ存在の在り方――を物理的に表しているように見える。粒子の存在そのものが他と切り離された独立存在ではなく、周囲の環境、観測行為、場の構造などとの相互依存関係の中で“浮かび上がる”というこの振る舞いは、「すべての現象は識の相依的構造によって現れる」という唯識の根本原理と一致している。また、トンネル効果のように「本来なら存在できないはずの場所に、粒子が突如として現れる」という現象は、「実体がないからこそ、現象として現れうる」という空の思想と深く通じている。唯識においては、現象が空であるからこそ、それは自由に変化し、出現したり消滅したりできるのであり、もし粒子が固定不動の実体であるならば、トンネル効果のような非連続的な現れは理論的に許容されない。したがって、量子トンネル効果は、「粒子が空であるがゆえに、その振る舞いが空間的・時間的制約を超えて成り立つ」ということの、現代物理学における観測的証左であると唯識は読むことができる。さらに、トンネル効果の背後には「観測行為が粒子の位置を確定する」という量子論の大原則がある。これは唯識における「能取所取」――すなわち主観と客観が分かたれず、識の中で共に成立するという理論と驚くほど似ている。粒子が障壁を通り抜けたか否かは、観測が行われるまで確定せず、観測によってようやく「事実」が現れる。この構造は、現象が心から独立して存在するという実在論的前提を否定し、認識と現象の不可分性を前提とする唯識的世界観と重なる。つまり、トンネル効果とは、唯識が古来から主張してきた「世界は実体的に“そこにある”のではなく、識の働きによって縁起的に“そう見えている”」という真理を、量子スケールで再確認させる科学的エピソードである。このように、量子トンネル効果は単なる物理的現象ではなく、「世界は固体的実在ではなく、相関的・認識依存的な現象である」という深層的直観を喚起するものであり、それは唯識の「一切唯識」「無自性」「縁起」「空」といった教理と見事に共鳴する。まるで障壁の向こうに“粒子”が出現するように、私たちの世界もまた、識の場において仮現されているにすぎないということを、この量子的トンネルは静かに物語っているのである。フローニンゲン:2025/7/29(火)07:46


17090. 今朝方の夢 

                         

今朝方は夢の中で、実際に通っていた高校のグラウンドでサッカーをしていた。そこにはサッカー部の友人がたくさんいて、紅白戦をする前に、センタリングを合わせる練習をしていた。通常センタリングは浮き玉で蹴ることが多いが、どういうわけかライナーのゴロを合わせる練習をしていた。あまり試合ではそのようなシチュエーションはなく、ゴロを合わせることは簡単でも合ったので、副キャプテンの友人が中にいて自分がボールを出す番になった時には、あえて浮き玉で出すことにした。ボールは見事な軌道を描いたが、彼はボール1個分頭が前に届かずにボールは向こう側に飛んでいった。自分が蹴ったボールの高さは完璧だったが、彼が走り込む位置があまり良くなく、彼の顔の前をボールが通り抜けていった感じである。彼は私に対して責めることはせず、自分がボールを合わせられなかったことを少し怒っているようだった。ゴロでセンタリングする練習はあまり実践的ではないので、この練習は切り上げてそろそろ紅白戦をしようと自分から提案すると、そこで夢の場面が変わった。


次の夢もまたサッカーに関するものだった。今度は、途轍もない距離からフリーキックの練習をしていた。あるマンションのベランダから別のマンションの部屋に向かってボールを蹴るということをしようとしており、両者の距離は直線でも1km以上はあった。本当であればそのような距離は無謀であるが、自分はその距離は十分に飛ばせる自信があった。脳内にはゴールに向かうまでの縮小模型が描かれていた。つまり、自分の位置からゴールまでの距離が短縮された形のイメージがあったのである。その縮小イメージの中には、自分とゴールの間に、壁として小中学校時代のある友人(MK)が1人だけいた。彼の頭を越して、ものすごいカーブがかかったボールが右上隅のゴールポストに当たってゴールに入る鮮明なイメージがあった。いざ助走を始めて大きくボールを蹴ると、想像よりも空高くボールが舞い上がり、一気にゴールに向かって飛んでいった。その弾道はきっとゴールに入るだろうという確信に満ちていた。


今朝方は何かその他にも夢を見ていたような気がする。小中高時代の2人の友人(YU & NK)が登場し、彼らと何か大切な話をしていたように思う。それは別に深刻な話ではないが、幾分真面目な表情でお互いに話し合っていたことを覚えている。そのテーマは何だっただろうか。フローニンゲン:2025/7/29(火)07:58


17091. 今朝方の夢の振り返り

                        

今朝方の夢の第一の場面は、高校時代という「既知の過去」の舞台で展開する。そこは自己形成の原点であり、現在の価値観や行動原理を決定づけた土壌である。センタリング練習は、本来ならば空中戦という「定められたルール」に従うはずが、なぜか低いゴロを合わせるという非日常に置き換えられている。この不可解な設定は、「慣習への順応」と「創意への欲求」とがせめぎ合う心理状況の象徴である。自分はその窮屈さを感じ取り、あえて浮き玉という正統派のパスを選択する。完璧な軌道を描きながら、わずかに届かなかったという結果は、「己の役割は果たした」という達成感と同時に、「共同体が受け取る用意を整えていなかった」という齟齬を示す。副キャプテンが自責的に沈黙する姿は、外界からの露骨な非難ではなく、仲間の内面に潜む葛藤を映し出す鏡である。つまり、自分は自己の創造性を提示したが、環境側のタイミングが合わず、それでも責任転嫁は起こらない。ここには「異質な提案をする者」と「それを受け取る者」の協働関係が成立寸前で停滞する構造がある。練習を切り上げ紅白戦へ移行しようと提案する場面は、停滞の打開を図る主体的決断であり、「形式より実戦を」と叫ぶ無意識の声である。第二の場面は、その主体性が極端に拡大される。舞台はもはや高校のグラウンドを離れ、都市空間をまたぐ1km超の距離という荒唐無稽な設定へ飛翔する。常識外の挑戦は「現実検討能力」を一旦解除し、純粋な自己効力感を誇示する幻想舞台を用意する。前景化されるのは「脳内に縮小模型が存在する」というメタ認知的映像であり、自分は自らの空間把握や技術を意識上で可視化している。唯一の壁として立つ友人MKは、過去の学齢期における競争相手または批評家として機能し、その頭上を越えるカーブは「古い評価基準の超克」を示唆する。右上隅という狭隘な目標を選ぶ点は、達成基準が量ではなく質、すなわち「精度」にあることを告げる。助走ののち実際に蹴り出された弾道が想像を上回り空高く舞う場面は、「イメージが現実を凌駕する」という夢的論理の発動であり、自己の潜在能力への絶対的信頼を示す。ここでは外部の評価者は存在せず、自身の確信が唯一の審級となる。第一の場面で露呈した「他者との擦れ違い」は、第二の場面で「他者を越えて自己の軌道を描く」という形式へ昇華されている。第三の場面は、前二場面ほど具体的に再生されないが、その曖昧さこそが象徴的である。小中高時代の友人YUとNKが登場し「幾分真面目な表情で語り合う」様は、過去の多層的時間軸が折り重なり、自分自身の内的コミュニティが議論を交わす様相を示す。テーマを思い出せないという空白は、現在まだ言語化されていない課題が潜伏していることを匂わせる。彼らは批判者でも敵対者でもなく、真剣な協議者として現れるため、この場面は「自己統合のための内的会議」に相当する。そこでは球技や競争のメタファーを離れ、対話そのものが主要な営みとなる。したがって、夢全体は「創造的挑戦→障壁突破→内省的協議」という三幕構成を取り、行動、技術、対話という3つのレイヤーで自己が再帰的に検証される物語である。総じて、本夢は「自己効力感と協働関係の再調整」を主題とする。現実の自己は周囲との呼吸を合わせようとしつつ、同時に自らが設定した高い基準で技を完成させたいという二重の欲求を抱える。第一幕で噛み合わなかったタイミングは、第二幕で大胆な自己信頼へと転化し、そして第三幕で「どのような共同体を編み直すか」という静かな対話に帰着する。このダイナミクスは、目下の生活で直面しているプロジェクトや人間関係、あるいは将来的な大目標の設計において、「独創性と協調、理想射程と現実軌道」を再評価せよとの無意識からの助言である、と解釈できるだろう。フローニンゲン:2025/7/29(火)08:11


17092. ベルの定理と唯識      

       

ベルの定理とは、量子力学の最も深い部分に潜む非直観的な性質――すなわち「局所実在論」の否定――を明示的に証明する命題である。局所実在論とは、「物理的対象はそれ自体に固有の性質(実在)を持ち、それは観測によらずとも存在し、かつ、空間的に隔たった場所の出来事には影響を与えない(局所性)」という、古典的世界観の基礎となる信念である。1964年、物理学者ジョン・ベルは、もし自然が局所的な実在論に従っているならば、粒子対の測定結果にある種の数学的不等式(ベル不等式)が成り立つはずだと導いた。しかし、実験的検証(特に1980年代以降のアラン・アスペや2010年代のループホールフリー実験)では、量子力学の予測が正しく、ベル不等式は破られることが確認された。つまり、粒子はたとえ宇宙の両端に分かれていても、その間に即時的な「非局所的相関」が存在しうるということである。例えば、双子のコインを宇宙の果てまで分離して投げたにもかかわらず、一方が表なら他方も必ず裏になるような、瞬時の連携がなされるという現象である。この驚くべき結果は、古典的因果律と客観的実在への信頼を根底から揺るがす。そしてこの「非局所性」と「実在性の喪失」は、唯識思想における「能取所取の相依性」および「一切唯識」の立場と極めて親和的である。唯識においては、世界のあらゆる現象は「識」によって構成されたものであり、外在する物質的実体というものは、認識と無関係に客観的に存在するわけではない。さらに、認識主体(能取)と認識対象(所取)は別々に独立して存在しているのではなく、識の働きの中で同時的に生起する「相依共存」の関係にあると説かれる。ベルの定理が示す「非局所的相関」は、まさにこの唯識の構造的認識論と重なり合う。つまり、観測行為が物理的事象を「創り出す」のではなく、「認識構造の中で同時に現れる」ものとして理解されるのである。双子の粒子が互いに即時的な相関を持つという現象も、時間的・空間的な因果性によって説明するのではなく、「識における共時的な現れ」として捉えるならば、非局所性は不思議な魔術ではなく、「識の運動における共時的表象」として自然なものとなる。例えば、夢の中で2つの出来事が離れた場所で同時に起こるとき、それらは夢の空間内では分離して見えていても、実際には夢者の識の1つの働きとして生じている。同様に、唯識的視座では、空間的に隔たった量子粒子の相関も、認識の深層、すなわち阿頼耶識のレベルにおいて、ひとつの識のうちなる表現として同時的に発現しているにすぎない。つまり、宇宙の果てにあっても、そこに現れる現象は「私の識」と縁によってつながっているのである。ベルの定理が否定したのは、独立した実体的世界の存在であり、唯識が説いてきたように、現象は心の働きの仮の相としてのみ現れるという原理を、科学的形式のもとに確認したとも言えるのである。また、ベルの定理は「観測されるまで粒子の状態は決定されない」という量子論の特徴とも深く結びついている。これは、唯識における「遍計所執性」――すなわち無明に基づく虚妄分別――が、認識されることによって「依他起性」として見直され、最終的には「円成実性」へと転じていくという認識の転換構造と一致する。つまり、粒子の状態が観測によって確定するというのは、観測主体の識の構造によって現象が意味づけられるということに他ならない。現象は実体的に「そこにある」のではなく、縁と識の交差点において「そこに見えてくる」のである。このように、ベルの定理は、物理的実在が独立して存在するという前提を揺るがし、認識と現象の相互依存性を明らかにした点において、唯識の核心と深く呼応するものである。非局所的な量子相関は、宇宙が1つの識の場であり、現象はその識において共時的に表出するという唯識的世界観を、現代科学の言語によって裏付ける証左ともなりうる。ベルが切り開いたのは、物理法則の再構築というよりも、私たちの「現実観」そのものを再定義する哲学的地平であり、その地平はすでに千年以上前に唯識が見据えていた場所でもあったのである。フローニンゲン:2025/7/29(火)08:16


17093. 波と海/量子状態と唯識

                       

全てがまるで波のように現れることに驚いている。自分を含め、全ての現象が波の形を取っていることに畏怖心を持つ。しかしそれ以上に驚かされるのは、波を生むリアリティの基底がまるで海のようであることだ。私たちは同じ海の中に生じている波なのである。


量子状態とは、量子力学において粒子や系がどのような性質を持ち、どのように振る舞うかを表す、最も基本的かつ包括的な記述である。例えば、クラシック音楽の楽譜が演奏者の手に委ねられる前の「可能性の束」であるように、量子状態もまた、まだ測定されていない粒子のすべての可能な振る舞いを包み込む「波動関数」として表される。この状態は、確率振幅という複素数の波として記述され、位置や運動量、スピンなどの複数の性質を同時に持ちうるという特徴がある。しかし、量子状態は測定されるまでは決して一意に定まったものではなく、いわゆる「重ね合わせ状態(superposition)」として存在している。例えば、シュレーディンガーの猫の思考実験では、猫は生きている状態と死んでいる状態が重ね合わさった1つの量子状態にあるとされ、箱を開けて観測するまで、そのいずれとも断定できない。このように、量子状態とは、確定した現実ではなく、観測や関係性に応じて確率的に変化する「潜在的な可能性の場」である。この量子状態の本質は、唯識の観点から見ると驚くほど親和性をもって理解されうる。唯識思想においては、あらゆる現象は「識」の働きによって成立し、外界の事物はそれ自体で実在するのではなく、識の縁起によって仮に現れた「仮の相」であるとされる。世界は実体的に「そこにある」のではなく、識がある条件のもとでその姿を映し出しているにすぎない。これは、量子状態が「測定されることによって初めて確定する」という構造と極めてよく似ている。すなわち、量子状態が観測という「縁」によって1つの確定状態へと収束するのと同様に、唯識においても現象は因と縁と識の交錯によって「そう見える」のであり、それ以前にはいかなる実体も固定されたままでは存在しない。さらに、量子状態の「重ね合わせ」や「不確定性」といった性質は、唯識における「遍計所執性」との相似を持って説明できる。遍計所執性とは、無明や執着によって現象を固定的に捉え、あたかもそれが確かな実体であるかのように錯覚する心の働きを指す。量子状態においても、私たちはつい「粒子はここにある」と決めつけたくなるが、実際にはそのような確定的把握は測定前には存在しない。つまり、粒子が「ある」と信じる心こそが、無意識に「そう見える」だけであり、本質的には多様な可能性が共存する非決定的な状態にすぎない。唯識は、このような「実体視の錯覚」から脱し、「依他起性」――縁によってのみ成立する現象性――を認識し、「円成実性」――空性に基づく正しい理解――に至ることを目指すが、量子状態もまた、観測によって1つの結果に収束するまでは、あらゆる結果が可能であるという「無自性」の原理に従っているのである。例えば、心に思い浮かべた「未来の可能性」は、それがまだ現実になっていないからといって「存在しない」とは言えない。それは、状況や行為、選択の連なりの中で、いずれかの現実に「顕現」してくる潜在的状態である。量子状態もまた、測定という「行為」によって1つの形を取るまで、多様な未来の可能性を内包した状態として存在している。この「可能性が現実に先立つ」という構造は、唯識において「識の中にすでに未来の相が種子として宿っている」という発想と重なる。阿頼耶識には過去の行為が「種子」として蓄積されており、それが縁によって現行化し、現実となる。量子状態もまた、いわば「未来の姿の種子」であり、それが観測(縁)によって特定の現実として顕現するのである。唯識における「識所変」という言葉は、「世界は識が変じて現れたものである」という意味を持つが、量子状態の非決定性や観測依存性は、この「変現性」を物理学的に示唆しているとも言える。すなわち、観測者の関与がなければ、世界は確定された形で「存在する」のではなく、むしろ関係性の中で「生成される」のであり、それこそが唯識が古来より説いてきた「世界は心の反映である」という智慧と響き合う。量子状態という現代物理学の最も深い記述は、実は唯識の教えが何世紀も前に示していた「空なる世界」「認識によって形作られる現象宇宙」というビジョンを、異なる言語で言い直しているにすぎないのかもしれない。ゆえに、量子状態とは物理的現実の説明であると同時に、「心が世界をどう映し出しているか」を問い直すための、現代の鏡でもあるのである。フローニンゲン:2025/7/29(火)08:32


17094. 実体化をしてしまう人間の心

                 

私たちは日常の中で、目に映るもの、耳にするもの、あるいは思考や感情までもを、あたかもそれ自体が「そこにある」「変わらない本質を持っている」かのように捉えてしまう。例えば、怒っている上司の顔を見たとき、私たちは即座に「この人は怖い」「この状況は最悪だ」と判断し、それを確固たる「事実」として受け取る。しかし実際には、上司の表情は瞬間的なものであり、背景にはその人自身の体調や感情の波、職場の状況など無数の要因が交差しているにもかかわらず、私たちはそれらを「この人の性格」という固定的な像に押し込めてしまう。これはちょうど、雲がたまたま龍の形に見えたときに、「そこに龍がいる」と思い込んでしまうようなものである。視覚的にはそれらしく見えるかもしれないが、雲は絶えず変化しており、どこにも実体としての龍は存在しない。にもかかわらず、私たちはこの「像(かたち)」に飛びつき、「それが本質である」としてしまうのである。このように、私たちが事物を実体化してしまうのは、心が持つ「安定化」への欲望、すなわち流動する現象の中に確固たる「意味」や「本質」を見出そうとする無意識的な傾向に由来する。世界が流転しているという事実は、本来、心にとっては不安であり、把握しきれない不確定性をはらんでいる。だからこそ、私たちは現象を「意味づけ」「カテゴライズ」し、「これがこうである」という確定的な構図に閉じ込めることで、心理的な安心を得ようとする。まるで、波立つ水面に鏡を落とし、「ここに真実が映っている」と言い張るようなものである。だが、その鏡が映すものは、たまたまの光と影、見る角度、そして水面の揺れによって絶えず変化する映像にすぎず、そこにはいかなる固定的な本質も宿ってはいない。この実体化の傾向を、唯識の観点から見ると、それは「遍計所執性」という根深い認識作用の現れであるとされる。遍計所執性とは、もともと空であり、縁によって仮に生じたものを、無明によって「自性を持つもの」、つまり「それ自体として確固たる実体を持つもの」と誤認してしまう心の働きである。唯識においては、すべての現象は「識の変現」であり、外界に独立して存在する実体があるのではなく、心の深層――すなわち阿頼耶識――に蓄えられた過去の経験の「種子」が、因縁と環境の交錯に応じて表層に現れているにすぎない。にもかかわらず、末那識という自己執着を生む識は、この流動的な現象を「我の世界」として固定化し、そこに意味や価値を貼りつけようとする。つまり、私たちが事物を実体化してしまうのは、心の深層にある「我執」――自己に対する固執と、「我所執」――自己が持つと信じる対象への執着――が織りなす心理構造によるものである。私たちは無意識のうちに、「この人はこういう人だ」「この状況は最悪だ」「この感情は耐えられない」といったラベルを貼り、それを実在として信じ込む。しかし、そのような認識はあくまでも「識が映し出した仮の像」であり、その像は常に縁に応じて変化しうるものである。唯識は、このような錯覚を乗り越える道として、「依他起性」――あらゆる存在は他に依って起こるという真理――を観じ、さらに「円成実性」――現象が空であることを体得し、執着を離れた智慧によって世界を観るあり方――に至ることを目指す。ゆえに、事物を実体化してしまうという私たちの認識傾向は、単なる認知の誤りではなく、心の深層に根差した「意味への執着」「安定への欲望」として理解される。そしてその執着こそが、苦を生む根本原因でもある。唯識はこの構造を詳細に分析し、「世界とは、識が種子をもとに縁によって構成した映像である」と見抜くことで、実体への執着を手放し、世界と自己をより自由で透明な形で受け取ることを可能にする。まるで、雲が一瞬龍に見えても、それに驚かず、「それもまた空である」と静かに眺めるように、事物を実体と見なさず、ただの縁起の現れとして観じること――それが、唯識が示す「見る目の転換」なのである。フローニンゲン:2025/7/29(火)09:06


17095. 量子測定問題と唯識 

                     

量子測定問題とは、量子力学における最も根本的かつ哲学的な問題の1つであり、「観測されるまでは未確定であった粒子の状態が、なぜ観測とともに特定の結果へと収束するのか?」という問いである。量子理論では、粒子の状態は「波動関数」によって表され、この波動関数は複数の可能性が重ね合わさった「重ね合わせ状態」として存在する。例えば、ある電子が箱の左側にも右側にも同時に存在する状態として記述されているとしよう。ところが、観測を行うと、電子は突然どちらか一方の側に「確定」し、観測結果として現れる。この「測定による状態の収縮」は、自然な時間発展(シュレーディンガー方程式)では説明できず、「なぜ観測するだけで確率的な可能性が1つの現実に収束するのか」という謎を生む。これはまるで、シャボン玉がたくさん浮かんでいる状態から、指で1つを突いた瞬間に残りすべてが消え去り、ただ1つの玉だけが「選ばれた」ような現象であり、物理学者や哲学者の間で深い議論を呼んできた。この量子測定問題に対して、唯識思想は独自の角度から解釈を与えることができる。唯識においては、外界の現象は独立に存在しているのではなく、すべては「識」の変現として成立しており、見る者(能取)と見られるもの(所取)は識の中で相依相成の関係として同時に成立する。つまり、世界は「そこにあるもの」ではなく、「そう見えるもの」として現れる。量子測定問題において、観測が状態を決定してしまうという奇妙な現象は、この唯識的世界観においてはむしろ当然の帰結となる。観測者が何かを測定するという行為は、物理的操作であると同時に、識の中で「ある相を構成する」働きであり、測定とは単に既に存在していた状態を明らかにするものではなく、識の作用によって「現象が生成される」瞬間でもある。例えば夢の中で、ある部屋に入ったとき、最初はそこに何があるのか分からない。しかし視線を向けた瞬間、そこに椅子や机、窓が「現れる」。それは夢の世界に「もともとあった」ものではなく、夢者の意識の焦点がそこに向いた瞬間に構成された光景である。量子測定における波動関数の収縮もまた、夢における「現象の出現」と似ており、観測行為によって無数の可能性の中から、特定の現象が「浮かび上がる」プロセスに他ならない。このとき重要なのは、「未観測の状態が実在していた」のではなく、「観測によってしかるべき関係性が識の中で成立した」という点である。つまり、量子測定は「識の働きにおける縁起の発現」として理解される。唯識の三性説において、量子状態の重ね合わせは「依他起性」、つまり因縁によって成立する現象の潜在的可能性であり、観測によって現れる特定の結果は、遍計所執性――すなわち「これが現実である」という虚妄なる固着――として識に映し出される。そして、この両者を貫く正しい理解こそが「円成実性」であり、これは現象が空であること、すなわちいかなる固定的本質にも依存しないことを深く体得することによってのみ得られる認識である。量子測定において、「なぜこの結果が選ばれたのか」は物理法則によって完全には説明されないが、唯識的には「過去の種子」――すなわち阿頼耶識に蓄積された行為と経験の痕跡――が縁によって転起した結果として、特定の現象が現前したと理解することができる。また、観測者と観測対象が切り離せないという点において、量子測定問題は「主客未分」の構造を示している。これはまさに唯識が説く「能取所取の不二」の真理に他ならない。観測者は世界の外に立って客体的に対象を眺める存在ではなく、識の流れの中で対象と同時に成立する存在である。したがって、測定によって状態が確定するという不思議な現象は、世界が本質的に「識の構成物」であるという事実を、物理学的な形式で語っているにすぎないとも言える。結論として、量子測定問題は、古典的実在論や決定論的宇宙観に基づいた理解の限界を露呈させると同時に、「現象とは識の働きの中で構成される」という唯識的世界観との親和性を浮かび上がらせるものである。観測とは「真実を発見する」行為ではなく、「識の縁起の中で世界が生成される」出来事なのであり、それを理解することは、物理学の問題を超えて、私たちの「見る目」そのものを問い直す哲学的契機となるのである。量子測定の謎は、唯識がすでに千年以上前に照らし出していた、「世界は心に映る一枚の幻」であるという直観を、現代科学の言語で再発見しているとも言えるのだ。フローニンゲン:2025/7/29(火)09:30


17096. 阿頼耶識と似た概念群:心の科学としての唯識

     

阿頼耶識は、唯識思想において「一切の現象を支える根底の識」であり、個々の経験や行為の痕跡(業や習気)を種子として蓄え、未来の認識や出来事の現行化を導く、いわば「潜在的現象宇宙の母胎」である。この阿頼耶識とほぼ同じ働きや意味を持つ概念は、東西を問わず宗教・哲学・心理学・物理学などの領域に広がっており、それぞれが異なる言語で同一の深層構造を指し示しているとも言える。まず仏教内部では、「種子識」や「根本識」も阿頼耶識の異名であり、前者は特に行為や認識の痕跡(種子)を貯蔵し、それが縁によって発現する性質を強調し、後者は「表層的な八識の根底にある識」であるという意味を強めている。また『大乗荘厳経論』では阿頼耶識を「無覆無記」とし、善でも悪でもない無色透明な潜在的基盤として描き出している点で、他の宗教的深層構造との比較の糸口を与えてくれる。次に、インドのウパニシャッド哲学における「プラジャーナ」や「ヒリヤニヤガルバ(金胎)」は、宇宙の根底にある知性原理としての「意識の母体」を表しており、個と宇宙が分かれる以前の潜在的統一場とされる。とりわけアートマンとブラフマンの一致を説くアドヴァイタ・ヴェーダーンタでは、アートマンが「すべての経験の観照者であり記録者」であるとされる点において、阿頼耶識と構造的に類似している。ただし、アートマンが実在の核心として絶対的であるのに対し、阿頼耶識はなお「空」であり、縁起によって成立する非実体的な流動場であるという点に、仏教思想の無我性が色濃く現れている。西洋思想においては、ユング心理学の「集合的無意識(collective unconscious)」が、阿頼耶識に非常に近い位置にある。これは個人の経験を超えて人類に共通する元型(archetype)を内包し、夢や神話、宗教儀礼の中に象徴として顕現する無意識の深層層である。集合的無意識は、因果的・時間的秩序を超えた情報の源泉として機能しており、意識的自己が認識する現象の背景に横たわる「深層の場」として、阿頼耶識の「種子を蓄えて縁に応じて現行化させる機能」と照応する。現代物理学、特に量子論においては、デヴィッド・ボームの「量子的内在秩序(implicate order)」がそれに該当する。ボームは、私たちが見る現象世界(外在秩序)は、より深い秩序(内在秩序)が展開される過程にすぎず、すべての現象はこの潜在的場から「巻き出され」「折りたたまれて」現れると考えた。阿頼耶識もまた、個々の現象が現れる以前にそれらの種子を蓄えている場であり、現象の展開はその因果的熟成の結果であるとされる点において、ボームの理論と驚くほど親和性を持つ。また、現代の認知科学や脳科学の文脈においては、カール・フリストンの「自由エネルギー原理(free energy principle)」における生成モデル(generative model)も、ある種の阿頼耶識的構造を持つとされる。生成モデルは、過去の経験から統計的構造を内部に保持し、予測と修正を繰り返すことで世界を構成的に認識するが、これはまさに阿頼耶識における「種子の習気」が識に働きかけ、経験世界を形成するという枠組みに重なる。このように、阿頼耶識と類似する概念は、宗教、哲学、心理学、物理学、脳科学といった多領域にわたって存在しており、それぞれの文脈において「現象の背後にある潜在的場」や「構成的認識の根源」への直観を表現している。だが唯識は、それらのいずれよりも精緻に「観察者の内的構造」を分析し、識の多層性、識と世界の共依存性、そしてその空性を説いたという点で、最も徹底した「心の科学」であるとも言える。そして、阿頼耶識を中心に据えることによって、私たちが見る世界は「すでに心によって構成された結果」であり、それを理解することが、実在に対する執着と錯覚を超え、現象と心の関係性そのものに目覚める鍵となるだろう。フローニンゲン:2025/7/29(火)10:55


17097. パイロット波理論と唯識 

             

パイロット波理論とは、量子力学の奇妙な確率的振る舞いを、古典的実在論の枠組みの中で理解しようとする試みによって提唱された理論であり、その代表者はフランスの物理学者ルイ・ド・ブロイと、後にそれを再構成したデイヴィッド・ボームである。この理論では、電子や光子といった粒子は現実に空間内を移動する「実体としての粒子」であり、その粒子の動きを導く「パイロット波」が同時に存在しているとされる。つまり、量子的粒子はあたかも霧の中を進む船のように、見えない波によって進路を決められており、その波が干渉や重ね合わせといった量子的現象の原因となる。例えば二重スリット実験において、粒子がスリットを通過する際、自らが発するパイロット波が両方のスリットを通り、その干渉の結果として粒子は干渉縞を形成するような位置に導かれるというのである。このような描像は、直感的で決定論的な物理観を保持しつつ、量子の奇妙さに説明を与える魅力的な提案であったが、主流派からは長らく黙殺されてきた。その主な理由の1つが、ジョン・ベルによって提示された「ベルの定理」にある。ベルは、いかなる隠れた変数理論(つまり、粒子があらかじめ持っている属性によって観測結果が決まるという理論)も、量子力学の統計的予測と完全に一致することはできないことを数学的に証明し、実験的にもその不等式が破られることが確かめられた。つまり、自然界には局所的に定まった実体的属性では説明できない「非局所的な関連性」が存在しているということが示されたのである。これは、パイロット波理論が目指した「粒子の実在と因果的な運動」という枠組みそのものに反証を与えたと解釈された。だが、このとき問われるべきは、私たちが「粒子が実在し、因果的に動く世界」を無意識のうちに「当然のもの」としている前提そのものである。ここで、唯識思想の観点から光を当ててみると、事態の見え方が一変する。唯識によれば、すべての現象は「識の変現」であり、「実体としてそこにあるもの」が存在するのではなく、「見ること」と「見られること」が同時に起こる識の構成的活動にすぎない。例えば夢の中で空を飛ぶ自分を見たとき、そこには「飛んでいる実体としての身体」があるわけではなく、「飛んでいると感じられる経験」が識の中に立ち現れているだけである。このように考えると、パイロット波理論が想定する「粒子があって、それを導く波がある」という二元的な構図自体が、そもそも唯識的世界観とは整合しない。むしろ、ベルの定理が示すように、観測結果はあらかじめ定まっているものではなく、「観測という縁起的条件」が成立することで、無数の可能性の中から1つの現象が顕れるという点で、まさに唯識の「依他起性」の論理に近づく。そして、その「顕れ」を「これが実在である」と錯覚し、粒子があらかじめ存在していたかのように思い込むことが、「遍計所執性」である。唯識では、あらゆる経験世界は阿頼耶識に蓄えられた種子が、縁に応じて現行化されたものにすぎないとされる。つまり、粒子や波動といった物理的対象ですら、「心の深層にある可能性の種」が、実験や観測といった縁によって「顕在化」しているのであり、そこに固定的な「実体」を見出す必要はない。それはちょうど、万華鏡を回したときに現れる模様のようなものであり、どの模様が現れるかは、内在する構造(種子)と回転(縁)の関係性によって決まり、それが「現実」として私たちの前に現れる。ゆえに、パイロット波理論が目指した「粒子と導波という実体的構造」にこだわるのではなく、観測そのものが識の縁起によって世界を構成するという非実体的な視座に立つならば、ベルの定理もまた、「世界とはすでに主観と客観の未分化な識の場である」ということを物理学的に裏づけているとも解釈できる。唯識は、あらゆる実在を否定するものではなく、実在の見方そのものを転換する教えであり、その意味で量子論の最前線と深い対話が可能なのである。パイロット波理論の限界は、唯識がすでに見抜いていた「実体視の罠」を再確認させるものであり、その失敗からこそ、「心が世界を創る」という根本命題への回帰が始まるのではないだろうか。フローニンゲン:2025/7/29(火)11:00


17098. 波動関数の収縮/デコヒーレンスと唯識

                   

量子力学における「波動関数の収縮(collapse)」とは、観測されるまでは複数の状態が重ね合わされて存在していた粒子の状態が、観測という行為によってただ1つの状態に決定されるという現象を指す。このとき、波動関数という数学的記述は、観測の瞬間に突如として1つの特定状態に「収束」する。これは直観的な因果律や物体の連続的運動といった古典的世界観からは大きく逸脱しており、量子力学の「観測問題」として長らく議論されてきた。加えて、近年では「デコヒーレンス(量子の干渉の失われ)」という理論が提案され、量子系が環境と相互作用することによって、重ね合わせ状態が古典的確率のように見える状態へと変化する過程が説明されるようになった。しかし、デコヒーレンスはあくまで「なぜある特定の1つの現象が観測されるのか」という問いに決定的な答えを与えるものではなく、むしろ「観測者とは誰か」「観測とは何か」という本質的な問いを浮かび上がらせる。この問題に対し、唯識思想は極めて示唆的な観点を提供する。唯識においては、外界の対象も、自己という主観も、すべては「識」の変現にすぎず、いかなる現象も「識の構成作用」によって成立するとされる。したがって、「観測とは何か」という問い自体が、「識がどのように対象を構成し、把握するか」という問題に還元されることになる。波動関数が表している重ね合わせ状態とは、唯識で言えば「依他起性」に該当し、それは現象が成立するための潜在的可能態、すなわち縁起的な諸因縁が整う前の状態である。そして、観測がなされ、特定の結果が現前するとき、それは「遍計所執性」の世界、すなわち「これが現実である」という心の構成によって確定された「相」に他ならない。デコヒーレンスの仕組みを唯識的に捉えるなら、それは阿頼耶識において蓄積された「種子」が、環境との縁、すなわち外縁的条件との相互作用を通じて「現行化」される過程に等しい。このとき、阿頼耶識に眠っていた多様な潜在的可能性の中から、1つの「見られる世界」が識の流れの中に立ち現れる。この現象の成就は、単なる物理的相互作用の結果ではなく、識の選択的働き、すなわち過去の業や認識の傾向によって構造化された「縁」の働きとして理解される。言い換えれば、波動関数の収縮とは、外在的な力によるランダムな決定ではなく、深層意識における因果的流れの中で「今、これが見えるにふさわしい」という識の展開なのである。また、観測者の意識が測定という行為を通じて1つの現象を確定させるという量子力学的構図は、唯識の「能取所取」、すなわち主観と客観が識の中で同時に生じるという原理と合致する。観測者と観測対象が切り離された2つの実体ではなく、「観測」という1つの識の出来事の中で同時に現れるという見方である。この見方に立つと、波動関数の収縮やデコヒーレンスは、「世界の外にいる観測者が対象世界を把握する」というモデルではなく、「世界と観測者が未分化の識の場において共に生成される」という唯識的構造として理解される。さらに深く見るならば、波動関数というもの自体が、「現象が現れる以前の可能性の海」として捉えられる。これは、阿頼耶識が保持する未現行の種子が、ある条件において顕在化し、経験的現象を生起させる仕組みと極めて近い構造を持つ。現代物理学の言語においては、波動関数がヒルベルト空間という抽象的構造の中で定義されているように、唯識における阿頼耶識もまた、現象を支える非顕在的な基層構造として位置づけられる。ただし、唯識はあくまでその基層すらも「空」であるとする。つまり、それは固定的な実体ではなく、縁に応じて変化し、生成される非本質的な場である。このように、波動関数の収縮やデコヒーレンスの理論を唯識の枠組みで読み解くならば、それは「心が世界を見ている」のではなく、「心が世界を作り、見ている」という構成的現実観への深い洞察となる。量子力学が提示した「観測の不可避性」は、唯識が千年以上前から説いてきた「心が現象を構成する」という真理を、現代的な科学言語で再確認する試みとも言える。ゆえに、波動関数の収縮とは、物理的作用の終点ではなく、識の作用が展開される縁起的瞬間のことを指しており、それは「現実がいかにして成り立つか」という問いに対して、唯識が古くから与えてきた答えの、最も現代的な現れに他ならないのである。フローニンゲン:2025/7/29(火)13:43


17099. 唯識と響き合う観測問題

           

量子論の中にある数々の重要な考え方――例えば波動関数の重ね合わせ、測定による波動関数の収縮、非局所性、デコヒーレンス、観測問題、そして多世界解釈など――はいずれも、古典物理学的な実在観を大きく揺るがす特徴を備えているが、その中でも特に唯識思想が説く世界観と最も深く響き合うのは、「観測によって現実が確定する」という観測問題における観測者の役割である。この観測問題とは、量子系が観測される前は複数の状態が重ね合わされたままで存在しており、観測という行為によってそのうちの1つが確定する、という量子力学の根本的な問題であり、私たちが「現実とは何か」という問いに対し、単なる物理的実体の存在以上の深い哲学的思索を促す契機となっている。この観測問題は、唯識における「能取所取の未分化性」、すなわち「見る主体」と「見られる対象」が本来的には識の中において分かちがたく共に生起するという思想と極めて親和性が高い。唯識では、私たちが知覚し経験している世界は、外界に実在する物質が心に映っているのではなく、むしろ心(識)が種子として潜在的に保持していた情報が、縁によって顕在化し、対象として構成されていると説かれる。これは、量子力学における観測者が、客観的現実を「ただ見る者」ではなく、「世界の状態を確定させる者」として能動的に位置づけられる構図とよく似ている。つまり、唯識における「識によって世界が顕れる」という原理と、量子論における「観測によって現象が確定する」という構造は、互いに深い対応関係を持っているのである。この相似性をより直感的に理解するために、夢の例を用いてみる。夢の中で私たちは、空を飛ぶ自分や、話しかけてくる人物、風景、物体をリアルに経験するが、それらはすべて「外にある対象」ではなく、実際には「心の中で起こっている経験」にすぎない。夢の登場人物に触れることができても、それは自らの識が構成した対象であり、外界の実体ではない。同様に、量子論の立場から見ると、観測者が観測する前には対象は確定しておらず、観測が起こるという事実によってはじめて1つの状態が現前する。唯識の立場からすれば、これは「心の働きによって世界が立ち上がる」という識の現起作用に他ならない。このように、観測が現実を成立させるという量子論の中心的な命題は、「世界の背後に物質的実体がある」という近代科学的実在論を根本から問い直すと同時に、唯識が説く「唯だ識のみが現象の根源である」という教理を、現代の科学的言語において再発見する手がかりとなる。実際、デイヴィッド・ボームやユージン・ウィグナー、ヘンリー・スタップなどの理論物理学者たちは、観測者の意識が世界の構造に深く関与しているという認識を共有しており、その思索の先に、東洋的な意識中心の宇宙観との対話の可能性を見いだしていた。さらに、唯識は「三性説」によって、現象界の構造を三層的に捉えている。すなわち、誤った実体視である「遍計所執性」、縁起によって成立する「依他起性」、そして実体のなさを見極めた「円成実性」である。これを量子論に当てはめれば、観測される前の量子的可能状態が「依他起性」、観測者の固定的な実在視が「遍計所執性」、そして観測者と観測対象の未分化な場において、世界が経験として立ち上がる構造そのものが「円成実性」と対応づけられる。観測問題は、この三性を横断しながら、私たちの「世界の見方」を問い直すきっかけを与えるのである。ゆえに、量子論の中で唯識と最も深く結びつくのは、「観測によって現実が確定する」という観測問題であり、それは現代物理学の最先端においても、意識とは何か、現実とは何かという哲学的問いに対する根本的な挑戦であると同時に、仏教的な「識が世界を構成する」という古代の叡智が、再び脚光を浴びる場でもあるのである。フローニンゲン:2025/7/29(火)13:51


17100. 測定問題と唯識

 

量子力学における「測定問題(measurement problem)」は、この理論の核心に位置する哲学的かつ物理的な難問である。量子力学によれば、ある物理系(例えば電子)は観測されるまでは、複数の状態が重ね合わさった「重ね合わせ状態(superposition)」として存在しており、それは波動関数によって記述される。この波動関数は、確率的な振幅を持つ数式的対象であり、それ自体がどの状態になるかは定まっていない。しかし、いざ観測されると、波動関数は突然ある1つの状態に「収縮(collapse)」し、その瞬間に初めて、物理的な現象として定まった測定値が得られる。問題は、この「観測された瞬間に世界が決まる」という過程が、量子力学の公式の中には記述されておらず、何が測定であり、なぜ収縮が起こるのかが説明されていない点にある。すなわち、「測定とは何か?」という問いは、単なる技術的操作の問題ではなく、世界の成り立ちと主体の関係そのものを問う根本的な問いとなる。この問いは「なぜ観測が現実を確定させるのか?」「観測者とは誰なのか?」「観測されるまでの状態は何だったのか?」といった問いへと連鎖し、古典的な客観的実在観とは矛盾する結果を生み出してしまう。この矛盾を回避するために、多世界解釈や隠れた変数理論、デコヒーレンス理論などさまざまなアプローチが考案されたが、「なぜ現象が1つに定まるのか」「なぜ意識がそこに関与するように見えるのか」という問いへの決定的な答えは得られていない。このような測定問題に対して、仏教唯識思想は独自の、そして深く共鳴する洞察を提供する。唯識においては、世界は実体的な外界として存在しているのではなく、すべては「識」の作用によって現れている。つまり、私たちが「見ているもの」「測っているもの」「経験しているもの」はすべて、識の中で構成された現象に他ならない。測定という行為は、あたかも外界の状態を中立的に把握するかのように理解されがちだが、唯識においては、主体(能取)と客体(所取)は分かたれておらず、同時に識の中に立ち現れる「構成的な出来事」にすぎない。ここでの「測定」とは、まさに識の働きにおいて、1つの現象が「これとして見える」ようになる過程である。唯識では、阿頼耶識という深層の意識に、無数の「種子」が蓄えられており、それらが因縁に応じて「現行」し、経験世界を構成する。量子力学における波動関数の重ね合わせとは、この阿頼耶識における無限の可能性の潜在的状態に相当し、測定とはその種子がある縁によって「1つの現象」として顕在化することに等しい。すなわち、量子的な測定とは、識の深層における可能性が「縁」によって1つの経験として立ち現れる瞬間に他ならず、それはあらかじめ外界に存在していたものを「知覚する」行為ではなく、「識が世界を作り出す」構成的行為なのである。さらに、観測者の役割が量子測定問題において重視されるのも、唯識の視点と親和性が高い。なぜなら、唯識では、現象が成立するには「見られるもの(所取)」だけでなく、「見るもの(能取)」が不可欠であり、その両者が識の中で同時に成り立つことで、はじめて「世界」が経験されるとされるからである。この観点に立つと、観測者がいなければ波動関数は収縮しないという量子力学の問題も、むしろ当然のこととして理解される。世界は主体と客体の未分化な識の場として成立しており、その構成過程が「測定」という形で顕在化するにすぎない。したがって、測定問題における「収縮」や「確定」は、物理的対象の動きではなく、「いま、ある識が1つの像(相)を取った」という構成的変化にすぎず、そこに実体的な転移や移動が起きているわけではない。これは、唯識が「遍計所執性(実体視)」を否定し、「依他起性(縁起)」と「円成実性(空としての成立)」によって世界を捉える視座と深く重なる。量子測定問題は、現代物理学が無意識のうちに保持していた実在論的パラダイムの限界を露わにし、同時に唯識が説く「世界とは識の展開である」という洞察を、科学的に裏づけるものとなっているのである。フローニンゲン:2025/7/29(火)14:41


17101. 量子測定問題測定とは何か:唯識の観点より


量子測定問題において、「測定とは何か」という問いは、古典的実在論と量子論の根本的な矛盾を浮き彫りにする哲学的難題である。従来の解釈では、量子系は観測されるまでは複数の状態が重ね合わさった「波動関数」の状態にあり、観測がなされるとその波動関数は1つの状態に「収縮」して現実が確定する、とされてきた。ここで問題となるのは、「観測者」とは誰か、あるいは「観測」とは何か、という定義である。初期の解釈(例えばコペンハーゲン解釈)では、観測者の意識の関与が重要視され、人間の意識が波動関数の収縮に関与するという仮説すら提示された。しかし、その後の実験的進展により、「人間が関与しなくとも測定は起こる」ことが明らかにされてきた。例えば、量子デコヒーレンス理論に基づく実験では、量子系が環境と相互作用するだけで、重ね合わせ状態が消失し、あたかも古典的な状態へと遷移したかのようなふるまいを見せることが確認されている。また、量子ビットを用いた量子コンピュータの制御実験においても、人間が直接的に観測しなくても、データ処理装置や検出器などの装置による「情報の抽出」によって、波動関数の収縮と同様の効果が見られている。これらの事実は、「意識ある観測者」が必ずしも測定に必要でないことを示唆しているが、同時に「測定とは単なる情報の取得なのか、それとも構造的な関係の変化なのか」という問題を新たに浮上させることになった。このような状況を、唯識の観点から再考するならば、「人間の意識」が物理的な現象を引き起こす主体であるか否かという問い自体が、実は見当違いである可能性がある。なぜなら、唯識においては、世界の現象はすべて「識」によって構成されているのであり、「人間の意識」や「機械による観測」といった分類は、識の働きの中で後天的に区別された概念にすぎないからである。つまり、測定とは「誰が行うか」ではなく、「どのように現象が構成されるか」という識の構造的な働きの問題なのである。唯識における「阿頼耶識」は、いかなる経験現象の背後にも存在する深層の識であり、そこにはあらゆる過去の経験や行為によって蓄積された「種子」が宿っている。これらの種子は、縁が整ったときに「現行」となり、経験世界を成立させる。量子測定における「波動関数の収縮」は、この阿頼耶識に眠る多数の潜在可能性の中から、ある1つの経験が発現する過程と解釈することができる。人間の意識が関与しようとしまいと、環境との関係が「縁」として成熟すれば、ある種子が現行化されて1つの現象が確定するのである。これが「測定」と呼ばれている出来事の本質であるとすれば、測定は決して「人間の観測行為」に限られたものではなく、識の内的流動の中で常に生起している構成作用に他ならない。例えば、夢の中に現れる景色や出来事は、誰かが「観測」したわけではなく、自らの心の奥底にある種子が、自他の区別のない識の場で縁によって立ち上がってきたものである。夢の中で見える山や空、他人の声は、主観と客観の未分化な識が「現象」として形を取ったにすぎない。同様に、量子系の測定も、ある物理的条件が揃った時点で、波動関数という抽象的可能態が「像」として成立するという識の構成作用に等しい。したがって、ここで重要なのは「誰が測定したか」ではなく、「識がいかに世界を立ち上げるか」というプロセスの理解である。また、唯識では「能取所取の未分化性」として、観測者と観測対象は識の中で同時に構成されると説かれる。この見方に立てば、人間による意識的観測であろうと、機械による自動的な測定であろうと、そこには必ず「観測者=世界を成り立たせる構造」としての識が関与しており、それが環境や対象と相互に依存して1つの現象を現前させる。このとき、観測とは「意識ある主体の働き」ではなく、「縁起によって顕れ出る識の動き」そのものであり、したがって、測定問題の解釈もまた、「誰が見るか」ではなく「いかにして識が対象を成り立たせるか」へと根本的に転換されるべきなのである。ゆえに、唯識は量子測定問題に対して、人間中心的な解釈を超えて、より普遍的かつ構成的な視座を提供する。波動関数の収縮とは、物理世界の中で起こる不思議な出来事ではなく、識という深層的な活動の一断面であり、縁によって種子が像を取る瞬間である。そしてこの構造は、人間の意識という限定された主体の介入を待つまでもなく、宇宙のあらゆる場所で識の運動として起きている。測定問題の解決は、実体的観測者の有無ではなく、観測という出来事そのものが「識の縁起的構成」であることへの洞察によって開かれていくのである。フローニンゲン:2025/7/29(火)15:14


17102. 陳那の九句因

     

陳那(ディグナーガ)が体系化した「九句因(くくいん)」は、インド論理学(因明)において推論の妥当性を検討するための分類であり、推論に用いられる「因(推論の根拠となる理由)」と「宗(結論)」との関係の取り方に応じて9つの型に分けられる。これは現代の論理学で言えば、前提と結論との包含関係を明示的に分類し、それぞれの妥当性を論じるものに近い。以下に、この九句因を1つずつ、わかりやすい比喩や例を用いながら見ていきたい。例えば、ある旅人が遠くの山を見て「あの山には火があるに違いない」と言うとき、彼は「煙が見える」という観察に基づいて「火がある」という推論をしている。これは「宗=あの山に火がある」「因=煙がある」という形であり、因明においてもっとも典型的な「正因」に相当する。この正因は九句因のうちの第1に当たり、因(煙)が宗(火)と常に共に存在する性質を持っている、すなわち「遍充因」とされる。これは、どこに火があっても必ず煙があるという経験的な観察に支えられており、最も適切な推論である。第2は「不遍充因」で、例えば「水があるから火がある」と言うと、これはおかしい。なぜなら水のあるところには火がない場合もあるからだ。このように因(この場合は水)が宗(火)に常に伴うわけではなく、一部の事例では成り立たないため、この因は不完全なものである。第3の「相違因」は、因と宗がまったく無関係なものである場合を指す。例えば「その場所には声がある、だから光がある」と言ったとすれば、声と光に必然的な関係はなく、推論としては成立しない。これは推論において因が宗と無関係なため、論理的に無効である。第4は「同品有・異品無」で、つまり、因と宗が常に完全に一致する例である。例えば「ものが壊れるのは無常であるからだ」と言うとき、無常であるという性質は壊れるものすべてにあてはまり、壊れないものにはあてはまらない。このように、因と宗が完全に一致する場合、それは定義同義的であり、説得力はあるが、説明としての新規性には欠ける。第5は「同品有・異品有」で、つまり、因と宗が同じ対象に見られることもあれば、異なる対象にも見られるという中途半端な関係である。例えば「風があるから寒い」というが、寒い場所でも風のないところはあり、風があっても寒くない日もある。このような場合、因は宗の一部にしか対応しておらず、信頼できる推論とは言えない。第6は「同品無・異品有」で、例えば「月は水でできている、なぜなら光っているから」と言った場合、他の光るもの(火や電球)は水ではなく、月と同じく光るが性質が異なる。つまり、異なる対象にも因が見られ、同じ対象に因が見られないため、推論の正当性が崩れる。第7は「同品無・異品無」で、因が宗とまったく関係ないだけでなく、他のどこにも見られないような性質である。例えば「これは龍である、なぜなら未来から来たからだ」と言われても、未来から来た存在という前提自体が観察不可能で、他の例も挙げられない。こうした推論は空理空論になりやすい。第8は「同品無・異品有」だが、宗とは関係ないが異品に見られる因を使う推論。例えば「石は考える、なぜなら重いからだ」という場合、「重さ」は「考える」という性質と無関係であり、他の重いもの(山、岩など)も考えない。このような推論は成り立たない。最後の第9、「同品有・異品無」の場合は、因が宗の成立する対象にだけ見られ、成立しない対象には見られない。これは第1の正因と同様に見えるが、実は推論の精度が高すぎて定義と同じになる場合もあり、厳密には「同義反復」になりやすいとされる。例えば「火のある場所には必ず煙がある」という命題が、すでに定義上そうであるなら、それは説得ではなく確認にとどまる。このように九句因は、あらゆる推論がその因と宗の関係において分類可能であることを示しており、それは仏教論理学において「妥当な知(量)」と「誤った知」を峻別する強力な道具である。そしてこの構造的思考は、唯識思想が説くように「現象は心によって構成される」という前提のもと、いかにして妥当な理解が成立するかを吟味する知的実践でもある。フローニンゲン:2025/7/29(火)15:30


17103. 夢の中の視覚現象について

   

夢における知覚体験、特に視覚的な景色の知覚が、眼識によってなされているように感じられるという現象は、唯識の観点から見れば、実際には前五識──とりわけ眼識──が外的対象と接触して機能しているわけではなく、第六識である意識が阿頼耶識に潜在する種子を因として、過去の視覚経験に基づいた像(イメージ)を自らの内部に再構成して知覚しているのであり、眼識のように見える意識現象はあくまで第六識の模倣作用の一形態に過ぎないと理解される。唯識思想では、通常の覚醒状態においては、眼・耳・鼻・舌・身という感覚器官に対応する前五識が、それぞれ色・声・香・味・触という五境と接触し、その接縁を条件として識が生起するという縁起構造があるが、夢の中ではこのような外界との接触が遮断されているため、物理的な感覚刺激を受けることなく意識的経験が展開されることになる。では、なぜ私たちは夢の中でまるで「見て」「聞いて」「触れて」いるかのような生々しい体験をするのか。その根拠は、唯識が説く「識所変」の理論、すなわち意識が変化して自らの対象を構成するという認識論的構造にある。『解深密経』や『唯識三十頌』において示されるように、第六識は阿頼耶識に蓄えられた種子(過去の経験の痕跡)を引き出して、自らの内的イメージとして対象化する能力を持つ。これは『観心覚夢鈔』の比喩において、夢が「心の現行が心に映じたもの」であり、まるで夜の闇に光を照らして自らの影を見ているような状態であると説かれていることにも符合する。夢の中で景色を見ていると感じるとき、私たちはそれを無自覚に「眼識」と誤認しているが、実際には第六識が阿頼耶識から喚起した「色」の種子を対象として、自らの内に映像を再構成し、あたかもそれが外界の風景を眼で見ているかのように錯覚しているのである。このとき第六識は、通常覚醒時に眼識が果たしている機能──すなわち「色境を捉える作用」──を代理し、その像を知覚の対象として設定する。このことを唯識では「似五識」と呼ぶことがあり、つまり夢の中では前五識が実際に機能しているのではなく、第六識が前五識のような形式を模倣して作用しているということである。夢の視覚体験はそのもっとも顕著な例であり、「見ているもの」は外界の色境ではなく、第六識が構成した主観的イメージに過ぎない。これは『瑜伽師地論』に説かれるように、「外境なし、唯識の所現」として夢や幻影が説明される所以でもある。すなわち、夢においては「見ている」主体も「見られる」対象も、さらには「見る」という作用そのものも、すべてが意識の自作自演的な戯れであり、そこには客観的対象も実体的主観も存在しない。この唯識の見地からすれば、夢の中で眼識が機能しているように感じられるのは、あくまで第六識の変化として顕れた似眼識であり、現実における感覚認識とは異なる純粋な心的構造である。したがって、夢における景色の知覚は、前五識の休止と第六識の投影という二重の構造を持って理解されるべきであり、それは唯識思想が説く「心が世界を構成する」という認識論的唯心論の実例であり、「夢と覚醒との境界を超えて、あらゆる知覚は唯識の顕現に他ならない」という深遠な洞察を象徴しているのである。フローニンゲン:2025/7/29(火)16:32


Today’s Letter

I am amazed by the fact that everything manifests as a wave, but I am even more astonished that the ground of reality from which the waves arise is like the sea. Groningen, 07/29/2025

 
 
 

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