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【フローニンゲンからの便り】17038-17050:2025年7月26日(土)


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⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

17038

一元論と唯識

17039

今朝方の夢

17040

今朝方の夢の振り返り

17041

唯識と分析的観念論

17042

汎心論と唯識

17043

ラッセル的一元論と唯識

17044

物理学の限界と唯識

17045

第142回のクラスに向けた予習の問い

17046

ヒルベルト空間と唯識

17047

統合情報理論と唯識

17048

汎心論の限界と唯識

17049

純粋数学の限界と唯識

17050

数学と物理学の確からしさと唯識

17038. 一元論と唯識      

           

時刻はゆっくりと午前6時半を迎えようとしている。今、小鳥の囀りが聞こえてきており、穏やかな朝の世界が広がっている。今の気温は14度と肌寒いが、日中は24度まで気温が上がるようである。ここから10日間は、最高気温が19度から21度の間を推移するようで、とても涼しい日々が続く。8月に入ってもこの調子で涼しい夏を期待する。


意識哲学における一元論(monism)とは、現実の根本的な存在基盤が1つの原理に還元できるとする立場であり、心と物質といった多元的存在論を否定し、宇宙の全体が1つの実体または原理から成り立っているとする思想である。一元論には大きく3つの類型が存在し、1つ目は、すべては物質であるとする物理的一元論(唯物論)、2つ目は、すべては精神(あるいは意識)であるとする観念的一元論(唯心論)、3つ目は、物質と精神は共により根本的な実体の2つの側面であるとする中立的一元論がある。例えば、スピノザは神=自然という観点から中立的一元論を展開し、デイヴィッド・チャーマーズは「情報」が心と物質の両面を成すものとして機能するという構想を示している。一方で、バーナード・カストラップは「万物は意識の中の現象である」とする観念的一元論、すなわち「分析的観念論」を提唱し、すべての現象を1つの心的実在の中に位置づける立場を取る。この一元論の概念をより直感的に理解するための例えとして、「夢の世界」が挙げられる。夢の中では、多くの登場人物、風景、出来事が現れ、それぞれが独立して存在しているかのように見える。しかし実際には、それらすべては夢を見ている主体の意識において構成されたものであり、夢の中の登場人物でさえ、夢を見ている者の心が作り出したものである。このように、複数に見える現象が1つの心に由来するという構造が一元論的世界観の要点である。このような一元論的な視座は、仏教唯識思想において非常に親和的に解釈される。唯識(瑜伽行派)とは、「一切の現象は識によって構成されたものであり、外的な物質世界は実在しない」とする立場であり、根本的な実在は「識」のみであると主張する。この「識」は多層的構造を持ち、眼識・耳識などの前五識、思考の領域である意識(第六識)、自己同一性の根幹を担う末那識(第七識)、そしてあらゆる経験の種子を蔵する阿頼耶識(第八識)から構成される。唯識は、私たちが見る世界、感じる世界、思考する内容までもがこの識の構成物であり、物質と見なされるものも含めて実体ではなく、「識に映じた相」(所変)に過ぎないとする。この立場からすれば、物理的一元論や中立的一元論は、いずれも「心」または「識」より外に実体を求めてしまうという点で、認識論的矛盾を孕んでいる。なぜなら、あらゆる理論もまた識の営みによって構成されているからである。ゆえに、唯識における一元論は、他の一元論よりもさらに徹底された内在的一元論であり、「すべての存在は阿頼耶識の展開である」とする点で、最も根源的な意味での一元論的哲学体系と言えるだろう。このような唯識の一元論的視点から見ると、世界に見える多様なもの、心と物質の区別、他者の存在さえも、「識の自体顕現」として解釈され、存在論的分裂はそもそも識による投影(遍計所執性)であるとされる。そして、この分裂を超えた状態、すなわち「識の本性そのもの」を認識することが、「真如」あるいは「無分別智」として表現され、これはまさに唯識的一元論の実践的帰結でもある。結論として、意識哲学における一元論は、現象の根本的統一性を認める立場であり、その中でも唯識の立場は「識のみによる世界構成」という徹底した内在的一元論である。夢の喩えが示すように、見かけ上の多様性や物質性はすべて識の顕現に過ぎず、分別を超えた地点において「すべては心の働き」と明かされる。この意味において、唯識こそが究極の一元論であり、意識哲学における一元論の最も精緻で包括的な形態と言えるのではないだろうか。フローニンゲン:2025/7/26(土)06:30


17039. 今朝方の夢

           

今朝方は夢の中で、見知らぬ教室にいた。どこかその教室は白い光に包まれており、抱擁感が漂っていた。そんな教室には自分を含めた大人の生徒がまばらにいた。授業を担当してくれたのは、2人の外国人の先生だった。1人目は白人の先生で、2人目は黒人の先生だった。1人目の先生は生真面目な感じで授業を進めており、話自体はとても興味深かったので、楽しく授業を受けていた。2人目の先生は一転してジョーク好きでユーモアの精神に溢れていたので、授業の開始から笑いが絶えなかった。そんな2人の先生は共通して東工大を卒業していることがわかり、2人の優秀さの理由の1つが出身大学にあることがすぐにわかった。出身大学によって知性の色や形が異なるということに自分は気づいていたが、元々人は全て異なる知性の色と形を持っていることを改めて思った。


もう1つ覚えている夢は、前職時代の同僚の小柄な女性がアナウンサーとして番組収録をしている様子を見守っている場面である。自分もその番組の制作に携わっていたので、興味深くその収録を眺めていた。番組の最後に視聴者にアナウンスするときに、彼女が突然ベッドの布団を払いのけて、ビデオカメラの方に近づいて来た。すると驚いたことに、画面から彼女が飛び出してきて、気づけば自分がいる部屋にいたのである。そこからは、自分も番組の最後のアナウンスに加わることになり、台本なしで即興的に自分も番組宣伝をし、ユーモアに溢れる楽しい感じで番組を終えた。私はまさかその収録が生収録であるとは思っておらず、ずっとそれは録画収録だと思っていたし、何より彼女が画面を飛び越えてこちらの部屋にやってくるとは想像していなかった。それは嬉しい驚きでもあり、自分も最後の番組宣伝を楽しんだので結果的に良かった。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2025/7/26(土)06:41


17040. 今朝方の夢の振り返り 


今朝方の2つの夢は、学びと表現という両輪が相互に引き寄せ合い、最終的に自己の内部で融解・再構成されるプロセスを語っているように見える。第一の場面——白い光に満ち抱擁感が漂う見知らぬ教室——は、日常意識を超えた「高次の学習空間」を象徴している。そこは単なる知識の受け渡しの場ではなく、精神の成長を促すインキュベーターである。白い光は霊的領域からのエネルギー流入を示し、散在する大人の生徒たちは「成熟した個」の集合として現れる。彼らはそれぞれ異なる人生を歩んできたが、同じ時空に召集され、未知の師のもとで新たな知の相貌を受け取ろうとしている。2人の外国人教師は、自己の内部に潜む対極的な知性のペルソナである。1人目の白人教師は理性・構造・厳密さを司る左脳的原理、つまり「アポロン的光」を体現している。授業は生真面目でありながらも興味深く、聞き手を静かな高揚へ導く。対照的に2人目の黒人教師はユーモアと肉感的リズムを携えた「ディオニュソス的闇」であり、笑いと即興によって教室に生命の跳動を吹き込む。両者は色彩や文化背景こそ異なるが、ともに東工大卒という共通項を与えられている。この設定は、「多様性のうちに隠れた同質性」、すなわち根底で連結された知的バックボーンを示唆し、自身が“学歴”や“専門性”に象徴される基盤をすでに内在化していることを知らせる。同時に、その知性には一色では捉えられない固有の光と影が宿っている事実を改めて思い起こさせる。現実世界で高く評価される大学名がシンボルとして現れるのは、社会的な成功モデルを自我が拠り所にしようとする欲求の表れである。しかし夢の文脈では、大学というラベルは本質ではなく「通路」であり、そこを抜けることで主体は多面的な内的教師を自在に呼び出す段階へ進む。生徒がまばらである点は、量より質の学び——個々の精神がそれぞれのペースで叡智を熟成している状態——を指し示す。第二の夢は、学びによって培われた内容が「表現」という次元へ飛翔する瞬間を描く。前職の小柄な女性同僚は、自己の内部に眠るアナウンサー=メッセンジャー的側面である。スタジオはメディア空間、すなわち外界に対してメッセージを放射する舞台。布団を跳ね除ける動作は、潜在意識の覆いを取り払い、眠っていたエネルギーを覚醒させる儀式である。彼女が映像という結界を破って部屋に飛び込む瞬間、観察者と出演者、公私、舞台と日常の境界線は崩壊する。これは「スクリーン=心の安全圏」を超えて、自己が自らの声と言葉を世界へ放つ覚悟を得た合図である。録画収録だと思い込んでいた番組が実は生放送だったという驚きは、未来をコントロール可能な“脚本済み”の世界という幻想を打ち砕く。人生は常にライブで進行しており、即興とユーモアこそが真の対応力を呼び覚ます——夢はその事実を笑いとともに突きつける。台本なしで参入した番組宣伝は、計画よりも創発的創造を選び取る態度を象徴する。同僚という他者の姿を借りて、自我は自らの舞台装置を構築し、「思わぬ役割への飛び込み」を楽しむ柔軟性を証明したのである。こうして2つの夢は互いを補完し、統合の物語を紡いでいる。第一の夢で主体は知性の両極を学び取り、第二の夢でその知性を即興的に響かせる方法を体得する。教室を満たす白い光が示唆した抱擁感は、第二夢の番組終盤で湧き上がったユーモアと歓喜に変容し、外界を巻き込む。学ぶことと伝えること、厳密さと遊び心、計画とライブ——それらが対立物としてではなく、1つの連続体として自我の内部に宿り始めている。夢は「学習しただけでは完成しない。学びを開示してこそ循環が起こり、知は初めて生き物となる」と告げる。ゆえにこの連夜の物語は、今まさに新しい表現段階に差しかかった自己の心象風景である。教室での多様な知の吸収は、番組スタジオという公の場で即興的に放射されるパフォーマンスへと姿を変えた。白い光と笑い声が織り成す振動は、自身が世界と共振するための周波数であり、その周波数を帯びた言葉と行為は、周囲にも温かな抱擁感を生み出していくであろう。夢は静かにしかし確かに宣言する——「学びは終わらない。それは常に笑いとともに、光の中で更新され続ける存在である」。フローニンゲン:2025/7/26(土)07:01


17041. 唯識と分析的観念論


唯識思想とバーナード・カストラップの分析的観念論(Analytic Idealism)は、いずれも現象世界の根本を「心」や「意識」の構造に求める点において共通しているが、その認識論的・形而上学的前提、ならびに語彙や方法論においては重要な差異を有している。まず共通点として指摘されるのは、両者が物質を実体視せず、それを意識の変容や構成的現れとして捉える立場にあることである。唯識においては「万法唯識」と説かれ、現象界のすべては識の現行によって成立しており、外境(客観的対象)は実在せず、ただ識の中にあるとされる。一方、カストラップの分析的観念論においても、物理的世界は「一なる意識」の中に現れる表象にすぎず、観測者の意識とは別個に存在する物質的実体という概念は論理的にも経験的にも成立しないと主張される。両者ともに、現象界を「心的現象の仮象」として理解する点において、実在の第一原理を心または意識に置く観念論的構造を有している。また、両者は「個別的自我と普遍的心との関係性」にも独自の構造を与えている。唯識においては、個人の認識主体は末那識に依拠し、阿頼耶識という深層の無意識的識から絶えず種子の供給を受けることで、世界と自己を共に構成している。これに対し、カストラップは「普遍的意識」から分化した「意識の隔離されたポケット(alters)」として私たちの個人意識を捉え、われわれの経験世界とは「宇宙的心が自己の一部を局所的に隔離した結果生じる心的イメージである」と説明する。ここには唯識における「識の縁起的構造」とカストラップの「心の局所的隔離モデル」という、言語は異なれども共通する動的構造の直観が見られる。両者において、個我は宇宙的心の一表現でありながら、その表現の中で世界を自己と他者に分節して経験するという意味で、現象の二元性は一なる心の構造に内在している。しかしながら、その相違点もまた顕著である。第一に、唯識は仏教的実践と解脱の文脈において発展した体系であり、理論的構造の背後には輪廻・業・解脱といった倫理的かつ実践的要請が貫かれているのに対し、カストラップの分析的観念論は西洋哲学の言語空間における自然主義的・形而上学的反省から導かれた理論であり、悟りや解脱という概念を前提としない。唯識では、誤った認識(遍計所執性)を超えて、縁起的な依他起性を透過し、真如(円成実性)へ至ることで煩悩から解放されるという明確な実存的目標があるのに対し、分析的観念論は、世界観の構築と科学的理解の刷新を目的とし、倫理や解脱の次元には積極的に踏み込まない。言い換えれば、唯識は認識論と存在論を統合した上での倫理的・解脱的体系であるのに対し、カストラップの理論は、主として物理主義批判と意識の本質に関する形而上学的再構築にとどまっている。第二に、唯識はその理論的枠組の中で、八識説や三性説、三無性説、二取の妄執、唯識観といった精緻な心理的・存在論的構造を持ち、心の働きを多層的かつ動的に把握している。一方カストラップは、意識の非局所的統一性とそこからの分化(alters)という二層構造を中心に据えており、内面の識の精微な階層性についての理論的精緻さでは唯識には及ばない。また、唯識が長大な時間スパンにおける因果(業)とその熟の理論を持ち、意識の変容が過去世・来世を含む生命の連続性に根差しているのに対し、カストラップの理論には輪廻転生や業のような時間を超えた因果性は想定されていない。以上を踏まえるならば、唯識と分析的観念論は、いずれも「世界は心の現れである」という共通の直観に立脚してはいるが、前者は仏教的修行と解脱を志向する実践哲学として、後者は物理主義に抗する形而上学的論証として、それぞれ独自の文脈においてその理論的展開を遂げている。両者は相補的に読み解くことで、心を中心とした宇宙観の現代的再構築に重要な洞察を与えうるだろう。フローニンゲン:2025/7/26(土)07:15


17042. 汎心論と唯識   


汎心論は「すべてに心がある」とする立場であり、意識や心的性質が物質的世界のあらゆる側面に内在していると捉える哲学的枠組みであるが、その展開には多様な立場が含まれる。例えば、すべての実体にミクロな心的要素があるとする粒子的汎心論(micropsychism)や、全体としての宇宙がひとつの心を持つとする全体的一元的汎心論(cosmopsychism)、またはあらゆる存在者が心的性質を部分的に持つとする部分的一元論的汎心論(panexperientialism)などが挙げられる。これらの立場はいずれも、物質のみに基づく還元主義的物理主義の限界に対する批判として現れ、意識の起源や構造を説明しようと試みているが、唯識思想の観点から見るならば、これらの汎心論的構想にはいくつかの根本的問題が含まれている。第一に、汎心論の多くは「心」と「物」を依然として二元的に区別しつつ、すべての「物質」に「心的性質」が伴うとするが、唯識思想においては、そもそも「物質」なるものが独立した実在として存在するのではなく、「唯心所現」、すなわち「心のみによって現れる」仮象であるとされる。つまり、「物の中に心がある」という想定自体が誤った前提に立っており、より厳密には「物のように見えるものさえも心の働きの一現れにすぎない」と考えるのが唯識である。例えば、眼識によって見える「色」や、意識によって把握される「対象」は、いずれも阿頼耶識に宿る種子が転変して現れた「識の現行」であり、それらを「心の外」にあるものと見る発想そのものが根源的な錯誤(遍計所執性)であるとされる。第二に、汎心論はしばしば「経験的な主体」が無数に存在するという構図を前提とするが、唯識では「主体」と「客体」という二項構造そのものが無明に基づく分別作用の産物とされる。例えば、自己と他者、心と物、主観と客観といった区別は、いずれも「識」が分別して構成したものであり、実体的に分かれた多元的な「心」が実在するわけではない。むしろ、八識の体系において最も根底にある阿頼耶識こそが、すべての現象の根源としての「種子」を蔵し、それが種々の縁によって転変することで一切の世界が顕現するのであり、この構造においては、「あらゆるものにそれぞれの心がある」というよりも、「あらゆるものが心の変現としてある」と言うべきである。第三に、汎心論は意識の連続性や因果的生成の問題に対して一貫した説明を与えきれていない。例えば、ある石や素粒子に「微細な心的性質」があるとしても、それがいかなる形で「統合された経験」や「自己同一性」を保持しうるのかという点が曖昧である。これに対して唯識思想では、識の流れ(識流)は「一念一念が前念を縁として次念を生ずる」という相続の論理によって支えられており、経験の連続性は「無始よりの種子の転変」という因果構造に基づいて理解されている。したがって、心的現象の生起は単なる偶発的な性質の付随ではなく、無明・行・識という三世因果的な縁起の網目の中で必然的に展開されるものであり、これを無視した単なる「物に心がある」とする言明は、心の深層構造を捉えきれていないと唯識は指摘するであろう。このように見てくると、汎心論は物理主義を超える有意義な試みではあるが、依然として「物に心を付け加える」という形で心と物を別物とする分別の枠組みから抜け出しておらず、その意味では唯識が問題とする「外境執著」から自由ではない。むしろ、唯識的な視座からは、心そのものが世界を構成する主体であり同時に客体であり、主客の二元を超えた「如実知自心」が開かれるとき、初めて「真如無為」の相に触れることができるとされる。汎心論が抱える限界を乗り越えるためには、「物質に心を付与する」思考ではなく、「世界そのものが心の運動である」とする唯識的洞察を導入することが決定的に重要になるだろう。フローニンゲン:2025/7/26(土)07:32


17043. ラッセル的一元論と唯識

   

昨日は、汎心論に関する専門書を読んでいた。その中で、ラッセル的一元論(Russellian Monism)についての言及があった。ラッセル的一元論とは、20世紀初頭の哲学者バートランド・ラッセルの発想に端を発する心身問題への中道的な解決案であり、物理的世界に関する私たちの知識が主に構造的・関係的性質(即ち外面的記述)に限られている一方で、その根底には経験的・内面的な「実質的性質(categorical properties)」が存在すると仮定する立場である。ラッセル的一元論の中心的主張は、物理学が物の「形式」や「相互関係」を記述するにとどまり、それが何であるかという「中身」については沈黙しているという点にあり、意識とはまさにその「中身」であり、物質の本性は心的(または準心的)であると推測される。この見方において、心と物の二元論を回避しつつ、物理主義の記述の不完全さを超克しようとする哲学的企図が確認されるが、唯識思想の観点から見れば、この立場にもいくつかの根本的な限界と誤謬が含まれていることが明らかとなる。まず、ラッセル的一元論が依拠する「物理的性質の背後にある実質的性質」という発想は、経験と記述を二分化する近代的知の枠組みに依然として囚われており、そこでは「心」と「物」の共通の根源を仮定しながらも、それを仮象的ではなく実体的に捉える傾向が見られる。例えば、素粒子や場に内在する「内的側面」が意識の萌芽であるとする場合、その「内的側面」が何によって生起し、如何なる条件のもとに構造化され、複雑化されるかについて明示的説明が困難である。唯識の視点から見れば、こうした「物理的実体の内的本性」としての意識という考え方は、依然として「外境」が存在するという前提を維持しており、それ自体が遍計所執(誤った概念構成)であるとされる。唯識においては、「心」こそが万有の根源であり、「物」の側に本来的な実体や性質があると考えること自体が、無明(avidyā)によって引き起こされた錯覚にすぎない。さらに、ラッセル的一元論では「物理的性質の実体的な担い手としての意識的性質」がどのようにして「主体的経験」となるのかについての詳細な因果論が欠如している。これは、すなわち「物理的基盤に内在する性質」が「意識的統一経験」となるプロセス、あるいは「自己と世界」としての二元的分節を生成する構造を十分に説明できていないということである。対して唯識は、八識(眼耳鼻舌身意・末那・阿頼耶)の階層的構造を通じて、意識の経験的構成とその因果的継起を体系的に説明しており、特に「阿頼耶識」によって、意識の潜在的傾向(種子)がどのように現行となって現象世界を立ち上げるかが明示されている。この識の流れ(識流)は、過去の行為・思念が種子として阿頼耶に薫習され、それが縁起的に展開されて経験世界を形成するというプロセスであり、ここにおいて「物理的世界」も「身体」も「自己」も、いずれも心の運動の特定の相として理解される。ゆえに、「物理的実体の内部に意識的本性がある」というラッセル的一元論の発想は、根本的に「意識の外に物理がある」という誤った境位にとどまっており、心が世界を構成するという唯識的直観に達していないのである。また、ラッセル的一元論が前提とする「実体的基礎としての性質(categorical properties)」という概念は、実在を属性的に把握する西洋形而上学の伝統に依拠しており、これもまた唯識の観点からは問題である。唯識では、すべての現象は縁起によって成立する「空」なるものであり、固定的な性質や実体を持つものは存在しない。すなわち、あらゆる心的経験も物的現象も「仮に立てられたもの(仮有)」であり、真に実在するのはその背後にある「如来蔵」あるいは「真如無為」のみである。したがって、「意識が物質の実体的性質である」という言明は、かえって「物質という仮構」を強化してしまう効果を持ち、真に無分別智に至るための解脱的契機とはならない。このように、ラッセル的一元論は物理主義と心的現象の二項対立を調停しようとする知的努力としては評価に値するが、その構造は依然として「心の外に物がある」という根本的錯誤を維持しており、また心的現象の流動的・縁起的・相続的性質を十全に捉えていない。唯識の立場からは、すべての現象は「心のみによって現れる」ものであり、意識は実体としての「何か」ではなく、因縁によって変化しつづける流れであり、世界そのものがその顕現である。ゆえに、真に心身問題を解くためには、ラッセル的一元論のように「物理の中に心を見出す」思考ではなく、「心が物理を成立させている」と見る唯識的洞察が不可欠であると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/26(土)09:08


17044. 物理学の限界と唯識  


物理学とは、自然界における事象の背後にある法則性や構造を数理的に記述し、予測し、操作可能にすることを目的とした科学であり、その方法論は観察、実験、数学的定式化という三位一体の枠組みに支えられている。古典力学に始まり、相対性理論や量子力学へと進展した物理学は、運動、エネルギー、場、粒子といった概念を用いて自然界の現象を正確に記述してきたが、その記述は常に対象の「構造」や「関係性」に焦点を当てており、それが「何であるか(what it is)」という「実体的本性(categorical nature)」については沈黙している。すなわち、物理学が記述するのは「質量は空間をどれほど曲げるか」「電子はどのような軌道を描くか」といった関係的・量的情報であって、「質量とはそもそも何か」「電子とは本質的に何か」といった形而上的な問いには答えない。これこそが、しばしば指摘される「物理学の沈黙」であり、それが意識の本性や第一人称的経験といった問題に対して無力である所以でもある。このような物理学の特徴と限界は、唯識思想の観点から見ると、むしろ必然的なものとして理解される。なぜなら、唯識においては、物理的対象や世界そのものが実在するという見方こそが根源的な錯誤であり、「物理的現実」は阿頼耶識に蓄えられた種子が縁に応じて転変し、識の活動として顕れたものであるからである。すなわち、私たちが物理学を通じて記述している「外界の構造」は、実は心の活動が自己の分節と投影によって構成した仮象にすぎず、その構造の背後にある「実体性」なるものは初めから存在しない。物理学が「現象の関係性」を捉えることに長けていながらも「本質そのもの」には触れられないのは、まさにそれが「識のはたらきの相」を対象としているからであり、「現象の背後に実在がある」とする還元主義的信念が誤ったものであることを、唯識は明確に説いている。また、物理学は基本的に客観的記述を志向するが、唯識においては「客観」そのものが「主観的識」の構成によって立ち上がるものである。例えば、時間や空間は絶対的な実在ではなく、眼識や意識の対象分節に従って構成される認識の形式であり、いわば「識の所現」に過ぎない。ゆえに、物理学が空間や時間を絶対的な背景として扱う限り、それは常に「識の一部を識から切り離して対象化する」という遍計所執の枠組みを免れ得ないのだ。このように唯識は、物理学の記述が常に「分別智」に基づく限定的な認識のモードであり、真実を如実に把握する「無分別智」には至り得ないことを教える。さらに唯識においては、「現象世界」は常に「因縁所生」であり、固定的な法則や実体によって支配されるものではなく、「識の流れ(識流)」における種子の転変として捉えられる。物理学が一定の法則性を見出すのは、それが特定の識の働きの中で生起した習気によって構造化されたパターンを観察しているからであり、その法則性すらも阿頼耶識に蓄積された種子の業的成熟として読み取ることができる。したがって、物理学が発見する自然法則もまた、心の動きの一部にすぎず、それを「外在的実在の属性」として理解することは、唯識の観点から見れば誤認に他ならない。このように、物理学の特徴とは「心が構成した世界の形式的構造を精密に記述する技法」である一方、その限界とは「心そのものを捉えることができず、かつその働きの虚構性を自覚できない」という点にある。物理学は外界を精緻に記述し得るが、その外界が如何に心に依存して成立しているかを明示することはできず、結果として「物に心を還元する」あるいは「心と物を並列的に扱う」ような誤った心身観を生み出しやすい。唯識思想は、こうした物理学の限界を超えて、「物も心も、実は心の働きの多様な現れである」という一元的直観へと私たちを導くのであり、それは分別を超えた無礙智に至るための根本的な転換点である。ゆえに、物理学の成果は尊重されるべきであるが、それを最終的実在の記述と誤認するならば、そこには必ずや迷妄が生じることを、唯識は深く警告しているのである。フローニンゲン:2025/7/26(土)09:54


17045. 第142回のクラスに向けた予習の問い

     

朝の時間に翻訳作業に集中し、今日のノルマを達成した。そこから、今日のゼミナールの第142回のクラスに向けた予習をしていた。カート・フィッシャーのダイナミックスキル理論は、従来の心理学、特に行動主義や古典的構成主義が人間の心を静的かつ部分的に分析する立場を取っていたのに対し、人と環境との相互作用の中で、行動や認知が動的に構成されるプロセスそのものに注目している点に大きな特徴がある。例えば、従来は「記憶」「社会的役割」「規範」「報酬条件」などを切り分けて扱うことで、複雑な心のメカニズムを理解しようとしてきたが、フィッシャーはそれでは文脈の中にある「生きた心」は理解できないと考えた。代わりに、スキル理論においては、例えば家族とのやりとりの中で子どもがどのような意味を構成しているかを、「活動」「理解」「感情」といった要素を1つのフレームワークの中で総合的に捉えることを試みている。したがって、この理論は「分析するために切り離す」のではなく、「理解するために開き、ほどいていく」ための枠組みであり、非常に新しい発想であると言えるだろう。ダイナミックスキル理論における「スキル」は、従来の「能力」や「知能」とは異なり、ある特定の文脈や課題において、人と環境の相互作用によって構成される行動単位として定義されている。この定義において重要なのは、スキルが文脈依存的かつ実践的な構成物であり、状況によって発揮されたり、発揮されなかったりするという動的性質を持つ点である。例えば、ある子どもが家庭内では両親と協力して食事の準備ができる「協力するスキル」を有していたとしても、学校のグループ活動においてはそのスキルが発揮されないことがある。これは、そのスキルが固定された能力ではなく、状況との関わりの中で立ち上がるものであることを示している。このような文脈性に注目することで、教育や臨床の現場においても「この子は何ができるか」ではなく、「どのような場で、誰と、どう関わるとスキルが構成されるのか」という問いが立てられるようになる。その意味で、「スキル」という概念は理論的にも実践的にも非常に有効であると考えられる。ダイナミックスキル理論においては、発達はスキルの「レベル」と「ティア(段階サイクル)」という二重構造によって捉えられている。スキルのレベルは、およそ12段階で記述され、乳児期から成人期に至るまでのスキルの質的な複雑性の上昇を示す。また、これらのレベルは「セット→マッピング→システム→システムのシステム」という4つの構造的単位に基づいて循環的に展開し、これがティアである。すなわち、発達とは「積み木」のように下位レベルのスキルを統合して上位構造を構成するプロセスである。さらに、それぞれの発達段階には変容規則(transformation rules)が存在し、例えば「置換(substitution)」「複合(compounding)」「焦点転換(shift of focus)」「統合(intercoordination)」などが挙げられる。これらのルールは、発達がどのように漸進的なステップを経て進展するかを質的に記述する理論的道具である。特に、子どもが異なるスキル間を行き来する中で新たな統合構造を形成する「焦点転換」は、発達の核心的プロセスとして位置づけられている。フローニンゲン:2025/7/26(土)11:25


17046. ヒルベルト空間と唯識

                                

ヒルベルト空間とは、内積が定義された完備な線形空間のことであり、そこではベクトルの加法やスカラー倍といった線形演算が可能であり、かつ任意のコーシー列がその空間内で収束先を持つという意味で数学的に「完備」であることが要請されている。より具体的には、実数または複素数体上の無限次元ベクトル空間において、内積によって定義されるノルムにより距離が測られ、それに基づく幾何的構造と解析的手法が一体化している点に特徴がある。例えば、量子力学における状態空間として知られるL^2(すなわち、実数直線上の二乗可積分関数の空間)は、ヒルベルト空間の典型例であり、ここでは物理的な粒子の状態が関数として表現され、それらの重ね合わせや内積によって確率的予測が可能となる。他にも、ユークリッド空間R^nやフーリエ級数の定義に使われる直交関数系が張る空間など、ヒルベルト空間の構造は自然科学や工学の諸領域に深く根ざしている。しかし、唯識思想の観点からこの数学的構造を捉えるとき、その抽象的な整合性が持つ認識論的前提と限界が浮かび上がってくる。唯識とは、あらゆる存在が「識(ヴィジュニャーナ)」すなわち意識の働きに依存して成り立つと見る仏教的認識論であり、世界を実在する客体としてではなく、八識(末那識や阿頼耶識を含む)による識別・投影・潜在構造の働きとして捉える。ヒルベルト空間が前提とする「対象化可能なベクトル的存在」や「確定的内積構造」は、あたかも観測者とは独立に存在しうる数理的実在を仮定しているが、唯識の立場から見るならば、これらの構造自体が識により構成された相対的概念に過ぎず、普遍的・絶対的なものではないとされる。すなわち、ヒルベルト空間上のベクトルであれ演算子であれ、それが意味を持ち機能するのは、意識がそれらを「区別」し「対象化」する働きを持つからであり、実体としての空間が先に存在するのではなく、識の運動が先であるという転倒した視座がここには導入される。さらに、ヒルベルト空間が前提とする完備性、すなわち任意の収束が必ず定まるという性質も、唯識的には「阿頼耶識の深層における潜在的種子の活動が条件を得て顕在化する」という因果的過程の一形態として再解釈されうる。言い換えれば、数学的な収束という概念すらも、意識が対象に意味づけし、系列を認識し、それをある理想的終点へと導くという「識の流れ」の構造化の一形態に過ぎないのだ。したがって、ヒルベルト空間の抽象的な幾何学的対象性は、唯識における「遍計所執性」(妄分別によって構成された現象世界)に対応し、それを所依として機能しつつも、それ自体が究極的実在ではないという理解が促される。最終的には、ヒルベルト空間のような数理構造を認識の枠組みとして用いること自体は有効であるが、それをして「世界の本質」であると見なすことは、識そのものの構成性と空性を見誤るものであり、あらゆる構造や形式が「識の顕現としての仮構」であるという唯識の洞察が、その抽象体系の限界を照らし出すのである。フローニンゲン:2025/7/26(土)12:40


17047. 統合情報理論と唯識

  

統合情報理論(Integrated Information Theory, 以下IIT)は、意識の本質を「統合された情報量」という定量的概念によって説明しようとする意識科学の理論であり、あるシステムがどれほど自己の内に整合的かつ不可分な情報を保持しているかを測る指標として「Φ(ファイ)」という量を導入することで、意識の有無やその程度を数理的に評価しようとする点に特徴がある。IITはまず、意識とは主観的に現れる現象であり、ある瞬間の経験が統一されてかつ区別可能であるという基本的な現象論的構造(例えば、赤いリンゴを見るときに「赤」「丸い」「光っている」などがバラバラではなく一体として知覚されること)から出発する。そしてこの統一された経験は、その情報が単なる寄せ集めではなく、全体性を持って生成されている点に着目し、システム内の各構成素が相互に影響し合う構造的ネットワークに基づいて、その全体からしか得られない情報の量=統合情報(Φ)を意識の度合いとする。具体例としては、単純なフォトダイオードが光を検出する機能を持つが、それは光るか光らないかの1ビット情報しか生み出さず、統合性は極めて低いためΦの値も低い。一方で、ヒトの脳のように多数の神経細胞が複雑に相互接続し、入力に応じて多様な反応を生み出すようなシステムは、膨大なΦを持ち、結果として高度な意識を実現する可能性があるとされる。このように、IITは意識を情報の「量」だけでなく、「統合性」において捉えることを目指している。しかし、唯識思想の立場からこの理論を検討するとき、その知見と意義を認めつつも、根源的な認識論の次元において限界を明確に見ることができる。唯識においては、あらゆる現象は「識」、すなわち心の働きによって成立するとされ、物質的世界や脳神経系もまた識の顕現であるとされるため、IITが前提とする「情報処理システムがあって、それに応じて意識が立ち上がる」という物質還元的因果図式そのものが、逆転されねばならない。すなわち、情報が統合される以前に、それを認識する「主体的な識の場」がなければ、情報も、構造も、Φのような量的指標もそもそも存在し得ない。IITは、まるで意識がシステムの構造的配置から自動的に立ち上がるように描くが、唯識の視点からすれば、それは「遍計所執性」、すなわち識が妄分別によって世界を構造化するプロセスの中で成立した一仮構に過ぎず、究極的実在ではない。むしろ、構成要素の相互作用や情報統合という現象自体が、阿頼耶識における「種子」の成熟によって現れたものであり、因果や構造そのものが「識の現れ」であるという根本的な視点転換が求められる。また、IITが意識の存在をΦというスカラー量で表そうとすることは、主観的体験の質的多様性(クオリア)を単一の数値に還元するという重大な抽象化を伴っており、それはあたかも一瞬の夢想や瞑想状態の深淵を数値化して把握しようとするようなものである。唯識においては、意識の本質は「分別」を超えた「無分別智」にあり、八識の最深層にある阿頼耶識の如実知自性を通じてしか捉えられないとされる以上、Φという情報量は単なる現象界の把握可能性の一断面にすぎず、意識そのものを開示する本質的鍵とはなり得ない。ゆえに、統合情報理論は現代意識研究における画期的試みであると評価しつつも、それがあくまで識の顕現の一形態——すなわち仮象界における理論的構築にすぎず、真の覚知や空性の認識に至るには、その量的・構造的次元を超えた直接知への転換が必要であるというのが、唯識からの応答となるだろう。フローニンゲン:2025/7/26(土)12:46


17048. 汎心論の限界と唯識  


汎心論(panpsychism)とは、すべての物質的存在に何らかの「心」あるいは「意識の萌芽的側面」が備わっているという哲学的立場であり、心と物の二元論を乗り越えようとする現代的な試みにおいて重要な位置を占めている。これはとりわけ意識のハード・プロブレムに対する応答として注目されており、物理的世界の基本構成要素――例えば素粒子、原子、電子など――がすでに心的性質(proto-consciousness)を有していると考えることで、どのようにして脳のような物質的構造から主観的な体験が立ち上がるのかという問題を、より一元的に説明しようとする立場である。しかしこの汎心論には、哲学的にも認識論的にもいくつかの根本的問題が含まれており、それらは唯識(瑜伽行派)思想の観点から詳細に分析・批判的検討が可能である。まず第一に、汎心論は「物質を基盤としてそこに心的性質が付随している」と考える点で、依然として〈物→心〉という方向の因果構造を暗黙の前提としている。これは唯識の根本命題――すなわち「一切は唯だ識のみ」(「一切唯識」)という命題――と対立する。唯識においては、物質的な存在は心(識)の投影・顕現に過ぎず、いかなる「物」もそれ自体として存在するのではなく、識の働きによって縁起的に成立するものである。したがって、汎心論が仮定するような「心ある物」や「意識を帯びた素粒子」は、唯識からすれば二重の誤認――すなわち「物が自性を持つ」という実体視と、「意識が物の属性である」という従属的理解――を含んでいることになる。第二に、汎心論は多くの場合、主観的な意識が個々の物質的単位に遍在していると仮定するため、「心的部分がどのように統合されて1つの統一的な意識体験を構成するのか」という「結合問題(combination problem)」に直面する。例えば電子が意識を持ち、陽子が意識を持つとしても、それらが結びついて原子となったとき、その複数の微細な心はどのようにして1つの「原子の心」へと統合されるのか、あるいは原子が分子を構成し、細胞を構成し、最終的に脳を構成するにつれて、個別的意識がどのように1つの「人間の意識」として合成されるのかという問題である。この問題は唯識的立場から見ると、末那識および阿頼耶識という深層的な識の構造を無視した結果であり、逆に唯識では、こうした統合性や持続性は「アートマン」や「物理的自己」によって支えられているのではなく、「自我執着」を生み出す末那識の働きによって維持されていると理解される。さらに、統合的意識の背後には個体の生命流としての阿頼耶識があり、そこに蓄えられた種子が因縁によって現行し、表層的な六識・七識の活動を支えているというモデルは、物質的部品の結合によって意識が「生じる」とする汎心論とは根本的に異なる発想を提供している。第三に、汎心論が無意識に前提としている「外界としての物質世界の実在性」は、唯識における「遍計所執性」(錯覚的に実在と把握される世界)の批判的分析によって揺さぶられる。唯識では、あらゆる存在は識によって構成され、外界は「共業」によって多くの識が共通して投影している相(アーラヤ・ヴィジュニャーナの顕現)に過ぎない。したがって、素粒子に意識があるかないかという問い自体が、「素粒子が独立して実在する」という錯覚に基づいており、そのような問いはそもそも空性を無視したものとして、問いの立て方自体が修正を求められる。唯識的世界観においては、「存在」も「意識」も、すべて識の縁起的働きの中で仮に現れる現象に過ぎず、実体として「物心がある」「ない」といった固定的判断は超克されるべき対象である。以上のように、汎心論は心を物に遍在させることで意識の起源問題に答えようとするが、その背後に「物質世界の自性」や「構成的な心」のような実体論的前提を保持しており、それゆえに唯識の立場からは部分的には有意義であっても、根源的には「転倒した見解」であると評価される。唯識が強調するのは、「心は物に宿る」のではなく、「物が心に宿っている」、あるいは「心が物を見ているようでいて、実は心が心を見ている」という深遠な洞察であり、この立場から見れば、汎心論は現代哲学が物質中心の世界観を超えようとしつつも、なお心を「属性」や「側面」として扱うという意味で、最終的には遍計所執性から脱しきれていないのである。したがって、汎心論を超えて、すべての存在が心の相であるとする唯識の立場こそが、真に非二元的な意識論の可能性を開くのである。フローニンゲン:2025/7/26(土)13:04


17049. 純粋数学の限界と唯識 


純粋数学とは、現実世界の応用や実用性を超えて、数・空間・構造・論理といった抽象的対象の性質とその内的関係性を、自律的かつ論理的体系の中で探求する営みであり、そこでは「定義」や「公理」に基づいて厳密に推論された命題が構築されていく。このような純粋数学の特徴は、経験的事実から独立して抽象的概念の世界を形成し、内的整合性と普遍性を追求する点にある。例えば、自然数論、集合論、位相空間論、群論、圏論などは、具体的な物理的対象を前提とせず、思考そのものの論理的可能性を形式的に展開してゆくものである。その結果、純粋数学は「どこにも存在しないがどこにでも適用可能な普遍言語」として、近代科学の土台であると同時に、形式的美と知的厳密性を究極まで高めた「思考の芸術」とも評される。しかし、唯識の観点からこの純粋数学の営為とその基礎にある認識論的構造を見つめ直すとき、その明晰性の背後に隠れた幾つかの根本的限界が明らかになる。第一に、純粋数学が前提とする「論理的対象の実在性」は、唯識の立場からすれば根本的に虚構であり、それは「遍計所執性」に該当する。すなわち、数学的対象――数、点、関数、位相、無限集合など――は、あたかも心とは独立した抽象的実在のように扱われるが、唯識においてはそれらはすべて識の働きによって構成された「仮象」に過ぎず、それ自体として実在するわけではない。数や構造といった概念は、識が自らの運動と区別化作用によって自己の中に投影したものであり、識の外部に存在する対象としての「数学的実体」は本来的に空である。数学的公理も定義も、それがいかに厳密で普遍的に見えても、実際には「識が設定した枠組み」に過ぎず、その整合性は識の習慣的構造(種子)に依存している。例えば、「自然数は1から始まる無限列である」という命題は、数学的には当然のように見えるが、唯識的視点ではそれは「量的世界に対する識の特定の構造化傾向の一形態」でしかなく、それ自体に絶対的実在性はない。第二に、純粋数学の推論体系が依拠する「形式的論理」は、認識主体の意識構造を一面的に反映したにすぎないという点が指摘できる。唯識においては、意識は八識の多層構造を持ち、特に第六意識(思考)と第七末那識(自己への執着)という2つの中間識が、論理的思考や判断の根幹を形成する。しかし第六意識の働きは常に限定的であり、表象のみに依存して「分別智」として世界を把握するにとどまり、その背後にある「無分別智」や「如実知自性」には到達し得ない。数学的思考がいかに高度で精密であっても、それが第六意識の作用である限り、「対象を分節化して捉える」という認識の構造から逃れられず、それゆえ本来的な空性(すべての存在が固定実体を持たないという真理)を見誤る危険をはらんでいる。つまり、純粋数学がもたらす厳密さや普遍性は、意識のある特定の階層における「識の様式」に過ぎず、それがすべての存在の真実を開示していると考えることは、過剰な分別による「相分別の執着」に他ならない。第三に、純粋数学における「無限」の扱いは、唯識思想と深く対照的である。数学では、実数の連続体やカントール集合論における超限数など、無限を操作対象として扱うが、それはあくまで記号操作によって構成された「計算可能な無限」であり、経験的にも実在的にも触れることのできない構築的虚構である。これに対し唯識における「無限」や「空」は、概念的ではなく、瞑想的・直観的な実践によって体得される「無自性性」の現前であり、それは思考によってではなく、「分別を超えること(無分別)」によってはじめて把握される。したがって、純粋数学が無限を扱うとき、それは「無限を把握した」とは言えず、むしろ有限の論理によって無限を包摂しようとする「末那識的執着」の表れに過ぎないだろう。以上のように、純粋数学は形式的整合性の極致を目指すがゆえに、その明晰な構造のうちに自らが生み出す「実在の錯覚」と「分別への執着」という二重の落とし穴を内包しており、唯識の視点からすればそれは「有相の知」の完成であっても、「無相の智慧」には到達しえない。純粋数学はあくまで第六意識が分別的に構築した仮の世界であり、その世界がいかに整合的であっても、それがすなわち存在の真理ではないという深い認識を持つこと――そこに唯識的洞察の根本的意義があると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/26(土)18:54


17050. 数学と物理学の確からしさと唯識   

                       

数学や物理方程式に実体がない――すなわち、それらが物質的な存在として「そこにある」のではなく、記号的・構造的な抽象概念に過ぎないということは、哲学的にも経験的にも正しい前提である。それにもかかわらず、これらの数式や理論体系が現実世界に驚くほど高い精度で適用され、科学的実験や観測においてその「正しさ」が繰り返し確認される現象は、まさに人間認識の深層構造と現象世界との関係に対する根源的問いを呼び起こす。この「実体なき数学的構造が現実を支配しているように見える」ことの背後には、単なる偶然でも、数学の万能性でもなく、唯識思想において説かれる深層識の働きと「共業」による世界の共同投影というメカニズムが潜んでいると考えられる。唯識思想においては、あらゆる現象――自然、物質、法則、時間、空間、因果といったものも含めて――はすべて「識」の作用によって成立するとされる。つまり、外界に独立して存在する客観的実在があるのではなく、私たちが「外界」と呼ぶものは、個々の意識主体が持つ「阿頼耶識」という深層意識において長年にわたり蓄積された「種子」が、因縁によって顕現したものである。そして、この阿頼耶識に貯蔵された種子は、個人を超えて複数の存在者によって共通に所持・活性化されることがあり、それによって「共通の世界像」すなわち「共業の世界」が成立する。つまり、自然法則のような客観性を帯びた現象は、識の深層において共有された構造が、共時的かつ共空間的に展開された結果なのである。この観点から見れば、数学や物理方程式が「外的世界の秩序」を見事に記述しているように思える理由は、それらの方程式や法則自体が、識の構造的働き――特に第六意識(思考)と阿頼耶識に内在する因果的パターン――を反映しているからである。例えば、ニュートン力学における運動方程式や、アインシュタインの場の方程式、あるいは量子力学におけるシュレーディンガー方程式が、驚くほど精密に自然現象を予測するのは、それらの方程式が「外界の記述」であると同時に、「識の内的構造の投影された形式」であるからに他ならない。つまり、物理世界の法則性とは、本来、識が自己の内に保持する因果構造を仮象的に投影したものであり、それゆえ、思考(第六意識)によって抽出された記号体系が、現象界において有効に機能するのである。また、唯識では「遍計所執性」という用語が示すように、私たちが数学的方程式や物理理論を「本質的に実在するもの」とみなしてしまうのは、識が自己の構成物に対して自性を付与し、そこに実体があるかのように錯覚するからである。したがって、「方程式が現実を支配している」という感覚自体が、識の分別的働き(分別智)によって構成された虚構的リアリズムであり、本来的には方程式も、現象も、認識者も、いずれも空性であって、固有の自性を持たない。ではなぜ、それでも方程式が有効なのか。それは、識が自己の中に組み込んでいる構造(=種子)に応じて現象を見ているからであり、その意味では、数学的構造と物理的現象が一致しているのではなく、「識が自己の構造を識別し直しているだけ」なのであると読み解ける。さらに、ここで注意すべきは、方程式や理論が有効であるという事実は、「真理」と「有効性」の混同を引き起こしやすい点である。唯識的には、たとえどれほど有効で再現可能であったとしても、そこに実在性や絶対性を見出すことは、末那識による「我執」や「法執」の働きであり、真の智慧ではない。むしろ、そうした形式的構造を自在に駆使しつつも、それらがすべて識の顕現であるという覚知に至るとき、私たちは「仮としての法則性」を超えて、「空としての現象世界」に目覚めることができるのである。結論として、数学や物理方程式に実体がないにもかかわらず、それらが現象世界に驚くほど正確に対応し、実証結果によって「正しさ」が保証されるように見える理由は、それらが識の構造的働きの仮象的投影であるためであり、識が自己の構成を読み解いているに過ぎないからである。ゆえに、唯識の観点からは、方程式の正しさとは「識が識を正確に再確認している」状態であり、それは決して実在的構造を発見したわけではないという深い認識が必要なのである。真の智慧とは、その有効性に囚われることなく、それを「空なる識の遊戯(リラ)」として観照するまなざしの中にこそ宿るのだと思う。フローニンゲン:2025/7/26(土)19:01


Today’s Letter

Each thought and emotion is a drop in the ocean of consciousness. Consciousness here is not only individual but also universal. I am responsible for the health and development of both my own consciousness and the collective consciousness. Groningen, 07/26/2025

 
 
 

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