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【フローニンゲンからの便り】17027-17037:2025年7月25日(金)


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タイトル一覧

17027

ピアジェの発達理論と人工知能(AI)研究

17028

今朝方の夢

17029

今朝方の夢の振り返り

17030

随伴現象説と二元論に対する唯識からの批判的応答

17031

不確定性原理と唯識

17032

コペンハーゲン解釈と唯識

17033

量子ゼノン効果・逆ゼノン効果と唯識

17034

参加型宇宙と唯識

17035

量子遅延選択実験と唯識

17036

QBismと唯識

17037

質量を持つ/持たない素粒子と唯識

17027. ピアジェの発達理論と人工知能(AI)研究  


時刻は午前7時半を迎えた。今日は朝から曇っている。今の気温は18度で、日中の最高気温は22度とのことであるから、今日もまた非常に涼しい1日となる。8月を目前に控えているが、まだまだフローニンゲンは涼しくて何よりである。こうした環境の恩恵を受けて、今日もまた翻訳作業が生産的に進んでいくだろう。


発達心理学とAI研究との架橋は、20世紀後半から盛んに論じられてきたが、とりわけピアジェの発達理論と人工知能(AI)研究との接続はその先駆的事例の1つである。ピアジェの「遺伝的認識論(Genetic Epistemology)」は、知識の起源と発展を発達段階という枠組みで理論化したものであり、それは単なる人間の発達理論にとどまらず、知性一般の構造と進化の理論でもある。この点において、自然知能の解明を前提とするAI研究とピアジェ理論は本質的に共鳴する領域を持つのである。昨日目を通したJarrett Rosenberg(1980)の論文“Piaget and Artificial Intelligence”では、AIとピアジェ理論が互いに補完し合える関係であることが明示されている。AIは記号操作や情報処理といった具体的で手続き的なモデルに長けている一方で、知性とは何かという哲学的・生物学的根拠には乏しい。対してピアジェ理論は、空間・時間・因果性などの概念の発達を、論理的・進化的に説明する包括的理論であり、知性の形成そのものを説明しうるフレームワークを提供するが、手続き的詳細には乏しい。この相補性により、AIはピアジェ理論を基盤とすることで、単なる記号処理以上の「発達する知能」モデルへと飛躍できる可能性を秘めている。実際、ピアジェの「スキーマ」概念はAIにおける「スキーマ」や「フレーム」「スクリプト」といった知識表現モデルの先駆でもあり、ピアジェ理論に基づいて設計されたAIモデルは、人間の知性の獲得過程に類似した発達的プロセスを模倣することが可能である。Rosenbergが提案するように、AIモデルが仮説の構築と検証、部分と全体の統合的理解、手続きの柔軟な切り替えといった段階的能力を自己組織的に獲得するならば、それは真に発達的なAIとなる。このような視点は、今世紀に入り、人工汎用知能(AGI)や発達型ロボティクス、自己成長型アルゴリズムなどの研究領域で再注目されている。例えば、メタ認知能力や自己調整的学習能力といった高次認知スキルの実装は、ピアジェ理論でいう形式的操作段階以降の発達をAIに実装する試みに等しい。この文脈において、「AI発達心理学」という新たな研究領域の必要性と意義が明らかとなる。AI発達心理学とは、人間の認知発達理論に基づいて、AIの成長的・段階的発達モデルを設計・検証する学際的枠組みであり、それはAIを「設計するもの」から「育てるもの」へと転換する視座を提供する。従来のAIが提示してきた静的・即時的な知能のモデルに対し、発達心理学の知見は、時間と経験を通じて変化し続ける知能のモデルを提供しうる。この観点は、教育AI、対話AI、さらには倫理的判断や価値形成を担うAIの設計においても、不可欠な哲学的・技術的基盤となるであろう。ゆえに、AI発達心理学は、知能の本質に迫りつつ、それを人工的に構築するという人類最大の知的挑戦に対する、理論的かつ実践的な橋渡しとして決定的に重要であると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/25(金)07:36


17028. 今朝方の夢  


今朝方は夢の中で、見慣れない体育館で行われている小学生のバスケの全国大会の試合を目撃する者として存在していた。自分は片方のチームを応援しており、そちらのチームにはアフリカ系のハーフの子供がいて、彼は他の子供に比べて突出して大きかった。高身長の利を生かして、そのチームは決勝まで進んだ。その子はまだ小学校5年生だったが、全国の6年生の選手たちよりも身長だけではなく、技術も圧倒的に高かった。決勝もそのままそのチームが勝つかと思いきや、相手のチームの結束力は非常に高く、また全員がそれぞれ個性を持って能力も高かったので、結局相手チームが優勝をした。応援していたチームのメンバーたちは、決勝まで楽勝で勝ち抜いてきただけに、決勝の相手に終始リードされるというのが初めての体験だったため、後半は焦りが見え、その焦りが空回りを起こしていた。試合終了のブザーが鳴った瞬間に、相手チームのベンチを含めたメンバー全員と監督やコーチが飛び跳ねるようにしてコートに入ってきて、優勝を大いに祝っていた。その陰で、負けたチームの選手たちの落胆は激しかった。片方は嬉し泣きを、もう片方は悔し泣きをしていた。そこから場面は変わり、今度は翌年の全国大会となった。昨年決勝で負けたそのチームは1年間、一から基礎を鍛え直し、精神的にも一回り逞しくなって全国大会の舞台に帰ってきた。技術的にもさらに洗練され、何より精神が鍛えられた彼らにはもう相手となるチームはおらず、彼らは彼岸の優勝を果たした。特に応援していたアフリカ系のハーフの彼が今年は嬉し涙を浮かべている姿にはこちらも感動し、思わず自分も涙ぐんでいた。


もう1つ覚えている夢もまたスポーツに関するもので、今度は目撃者の意識ではなく、実際に自分もその舞台にいた。そこでは中学校のバスケの全国大会が行われていたのだが、会場はどういうわけか巨大なサッカースタジアムの中心にあった。そこにバスケコートが2面ほどあって、大観客に見守られる中で試合が行われていた。通常の体育館よりも遥かに大きい収容人数のため、最初私は驚いてしまったが、そうした大観客に見てもらえることの喜びが現れてきて、最終的にはその場でプレーすることに快楽を覚えた。初戦はまずベンチスターとなったが、それは実力的な意味でそうなったのではなく、まだ自分がウォーミングアップをしているうちに試合が始まったからだった。監督は自分に焦らずウォーミングアップすることを勧めてくれており、試合を楽しく観戦しながら自分のペースでウォーミングアップをしていった。それが終わる頃、自分の内側から不思議な力が湧いてきて、その力があればコート上で大活躍できると確信していた。実際にコートに立つと、まさにその確信が現実に変わった。その不思議な力は、全国大会に向けて毎日食事・睡眠・適切なトレーニングを積み上げていったから生まれたものなのではないかと考えていた。フローニンゲン:2025/7/25(金)07:48


17029. 今朝方の夢の振り返り

 

第一の夢において舞台となった「見慣れない体育館」は、自己の内奥にある未知の領域、すなわち無意識のアリーナである。そこでは小学生という「まだ未分化で柔軟な可能性を秘めた自己の諸側面」が競い合っている。アフリカ系のハーフで突出した体格と技術を持つ少年は、外界の既存の枠には収まり切らない異質性と潜在力を象徴している。個の才能が圧倒的であるがゆえに、序盤から決勝まで障害なく突き進む様は「自己の中で未だ試練を知らぬ能力の無垢なる伸長」を示唆する。しかし決勝でそのチームが敗北を喫する構図は、個の才覚のみでは到達し得ぬ壁、すなわち「共同体的結束力や多様な資質の協働」という試練の存在を告げている。ここで味わう悔しさと焦燥は、自己が真に成熟するために不可欠な痛覚である。涙は浄化の水であり、「成功体験によって覆い隠されていた脆弱性」を洗い出す役割を果たす。翌年の全国大会という時間的飛躍は、「サイクルを経て自己が再統合される過程」である。1年間の基礎鍛錬は、表面的な技能ではなく根底にある精神性と身体性の再構築を意味する。再登場するハーフの少年は、もはや孤立した突出ではなく、チーム全体を牽引する核として位置づけられている。ここでの優勝は、個と集団、潜在力と規律が統合され、自己の中で対立していた諸要素が和解した結果として訪れる歓喜である。前年には悔し涙を流した少年が今度は嬉し涙を流し、それを目撃する自己も涙ぐむ場面は、「過去の痛みを包み込む慈愛と共感性」の芽生えを指し示す。敗北と勝利という双極の体験が連続することで、夢は「人間的成長の弁証法」を描き出しているのである。第二の夢では、視点が観客から当事者へと移行する。巨大サッカースタジアムという場違いな空間にバスケットコートが据えられている情景は、「自己が慣れ親しんだ文脈を超えて拡大された社会的舞台」に直面する象徴である。観衆の圧倒的な存在感に一瞬ひるみながらも、やがてそれが悦びへ転化する過程は、「注視されることへの恐怖と承認への欲求」が統合される道程を示す。ウォーミングアップが遅れたためにベンチスタートとなるエピソードは、「準備不足のまま機会を逸する恐れ」を映し出す一方で、監督の助言は「内なる導師としての超自我」が焦燥を鎮め、リズムを取り戻させる役目を担っている。ウォーミングアップの完了とともに湧き上がる「不思議な力」は、合理的訓練——適切な食事・睡眠・トレーニング——の積み重ねによって醸成された身体―精神一体のエネルギーである。この力は、単なる偶発的な賜物ではなく、「意図的な自己管理とルーティンが生む持続的フロー状態」の象徴である。巨大スタジアムの中心でプレーする快楽は、「自己の潜勢力が公的空間で解放される歓喜」であり、自己が現実世界で担いつつある、あるいは担おうと欲している新たな役割の予兆である。両夢を貫く中心モチーフは「競技」と「成長」である。前者が個と集団の葛藤と統合という縦方向の発達を描くのに対し、後者は自己の内外にわたる舞台拡張という横方向の拡大を描写する。いずれも涙、焦り、歓喜といった情動が鮮烈に刻まれ、それらが「試練→反省→鍛錬→開花」という漸進的サイクルの潤滑油として作用している点が顕著である。全体として夢は、「未熟な才能が社会的連帯を学び、自己規律を獲得し、大舞台で自己実現を果たす」という筋書きを持つ英雄譚であり、それはまさに自分自身の覚醒を予兆する物語である。フローニンゲンの朝に綴られた記録は、現実と夢の時間軸を結び、来るべき飛躍の現実化を静かに告げている。フローニンゲン:2025/7/25(金)08:11


17030. 随伴現象説と二元論に対する唯識からの批判的応答  

                       

唯識思想(瑜伽行派)は、随伴現象説(epiphenomenalism)二元論(dualism)といった西洋近代哲学における心身関係論に対して、独自かつ包括的な批判と代替モデルを提供する思想体系である。随伴現象説とは、心的現象は物理的過程の副産物にすぎず、因果的効力を持たないという立場であり、二元論は心と物質を本質的に異なる実体とみなす立場である。いずれも心と身体、意識と物質との関係を断絶的、あるいは非対称的に捉えるが、唯識思想はこのような立場に対して、因果と相互依存に基づく非二元的かつ生成的な世界観から批判的応答を行う。まず、唯識は「唯識無境(ただ識のみであって境はなし)」と説くように、あらゆる経験世界は「識」すなわち意識の顕現であると見る。この立場は一見、心的なもののみを実在とする観念論的に見えるが、唯識の特徴は、心と世界の関係を「心が世界を投影する」という構図だけでなく、阿頼耶識の深層において「種子」が因果的に成熟し、現象としての世界が展開するという動的過程として捉えている点にある。すなわち、意識が世界を構成すると同時に、その世界との関わりによって意識の構造が変化し、次なる認識を形づくるという双方向的因果論である。こうした考えは、個人的にヴォイチェフ・ズレクの量子論思想と強く響き合っていると思う。いずれにせよ、このような視点からすれば、随伴現象説のように、意識を物質的過程の単なる随伴物として因果的に無効とみなす立場は、唯識の「識能変現(意識が世界を変化・現前させる)」という根本的把握と相容れない。むしろ唯識においては、意識は現象界の根源であり、かつ変革可能な存在として、倫理的・修行的実践によってその在り方を根本的に変容し得るものとされる。心は決して物理現象に従属するだけの受動的存在ではなく、逆に五蘊(色・受・想・行・識)に対して能動的に作用しうる力として位置づけられる。また、二元論に対しても、唯識は明確な非二元論をもって応答する。すなわち、「心=世界」という公準において、主観と客観、主体と対象、心と物との二元的区別は、根源的なレベルでは虚構であるとされる。『成唯識論』や『瑜伽師地論』では、分別という認識作用によって主客の分離が生じるが、これは「遍計所執性」として虚妄であると説かれる。他方、相依性に基づく「依他起性」と、空性としての「円成実性」によって、心と世界の区別は解体され、非二元的な経験構造が示される。このように唯識は、心と物のどちらかに基盤を置くのではなく、「識」によって構成され、かつ縁起的に変化する経験世界を中心に据えることで、随伴現象説の還元主義的・決定論的立場も、二元論の静的な二項対立モデルも超えるダイナミックな世界理解を提供する。しかもこの理解は、認識論・存在論にとどまらず、倫理的実践や救済論的転回にも直結している点で、単なる哲学理論にとどまらない。したがって、唯識思想は、心を単なる影や副産物と見る還元主義的立場に抗し、また心と物を分断的に捉える二元論的見方を超克する、非二元的でかつ実践的な世界理解を可能とする強力な理論的パラダイムであると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/25(金)08:22


17031. 不確定性原理と唯識

                        

ハイゼンベルグの不確定性原理とは、量子力学における根本的な原理であり、ある粒子の「位置」と「運動量(速度×質量)」の両方を同時に、無限に正確に測定することは不可能であるというものである。数学的には、位置の不確定性Δxと運動量の不確定性Δpの積が、一定値(ℏ/2)以上になるという関係式で表される(Δx・Δp ≥ ℏ/2)。これは単に測定技術の限界ではなく、自然界の根源的な構造そのものであるとされる。つまり、物理的世界の究極の姿は、客観的に固定された状態ではなく、観測行為そのものによって変化しうる流動的なものだということである。具体例を挙げれば、電子の位置を非常に正確に知ろうとすればするほど、その運動量(どの方向に、どれくらいの速度で動いているか)についての情報は失われていく。逆に、運動量を非常に正確に測定すれば、位置が曖昧になる。顕微鏡で電子を観測する場合、位置を知るためには高エネルギーの光(短波長の光)を使う必要があるが、そうすると光子が電子に衝突して運動量を変えてしまい、観測の瞬間にその運動の情報が乱れてしまう。これは、観測行為が物理的対象に不可避に介入し、現実そのものを変化させてしまうという、古典物理学では想定されなかった現象である。この不確定性原理は、唯識思想の視点からみると、極めて親和的な構造を示している。唯識においては、世界は外在的な「客観的実在」ではなく、「識」によって顕現された経験の流れであるとされる。とりわけ、「能取所取の妄分別(主客の虚妄なる分離)」という概念により、主観(認識主体)と客観(対象)は本来的に分離しているのではなく、分別作用によって構成されていると説かれる。ハイゼンベルグの原理が示すように、観測(=主観的行為)は観測対象(=客観的存在)に影響を与えるという事実は、唯識が指摘する「認識が対象世界を構成する」という命題と一致する。この関係は例えば「夢」の例えによって説明できる。夢の中で人は確かに世界を体験し、場所を移動し、他者と出会う。しかし夢の世界において、見る者と見られるもの、心と物とは、いずれも同じ1つの意識活動(=識)から生じている。夢の中で現れた対象は、観察されることによって定まっており、観察がなければ対象もまた定かではない。同様に、量子世界では、粒子の性質は観測によって初めて「決定」され、それ以前は「波動関数」として曖昧な可能性の重ね合わせの中にある。これを唯識的に読み替えるなら、阿頼耶識という深層意識に含まれる「種子」が、因縁と観察によって発現し、事象としての「現量(pratyakṣa)」が立ち現れると解釈することができる。さらに、不確定性原理は「確定的・客観的世界観」への執着を崩すという点でも、唯識の「遍計所執性(誤った投影)」の脱構築と一致する。私たちは、対象が明確に「そこにある」と信じることで安心を得ようとするが、量子力学はその「そこにある」という確かさが幻想にすぎないことを示している。唯識はそのような執着(我執)を捨て、すべての経験が「識の変現」によるものであり、相互依存的かつ無自性であることの自覚へと導く。結論として、不確定性原理は、唯識の核心的教えである「識能変現」「主客不二」「縁起的現実」と深く響き合っており、西洋近代科学の中に芽生えた非二元的な認識論的転回として位置づけられる。すなわち、唯識と量子論は、観測と現象の共構成性という洞察を共有し、物質的実在論を超える新たな世界理解への橋渡しを提供すると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/25(金)11:46


17032. コペンハーゲン解釈と唯識

              

コペンハーゲン解釈とは、量子力学におけるもっとも広く知られた解釈の一つであり、ニールス・ボーアやヴェルナー・ハイゼンベルクらによって提唱されたものである。その中核的な主張は、量子システムは観測されるまでは「現実的な状態」にあるのではなく、可能性の重ね合わせ(superposition)として存在しており、観測が行われた瞬間に初めて1つの状態に「収束(collapse)」するというものである。すなわち、世界の基本的構造は観測者による関与なしには確定的には存在せず、物理的現実は観測によって初めて成立するという立場である。具体例としては、シュレーディンガーの猫の思考実験がしばしば用いられる。この実験では、箱の中に放射性物質、ガイガーカウンター、毒ガス装置、そして猫が入れられている。放射性物質が崩壊すればガスが放出され猫は死に、崩壊しなければ猫は生きている。量子力学的には、放射性崩壊の可能性は重ね合わさっており、したがって猫も「死んでいる状態」と「生きている状態」の重ね合わせにある。だが観測者が箱を開けて初めて猫の状態は決定される。これは、観測行為が物理的現実の成り立ちに決定的な役割を果たしているということを示している。このようなコペンハーゲン解釈の考え方は、唯識思想ときわめて深く共鳴している。唯識においては、現象世界は「心(識)」によって構成されるものであり、観察主体と対象物とが本来的に分離された実体ではなく、「能取所取(観る者と観られる者)」の分別が縁起的に生起しているとされる。つまり、対象が独立して実在するのではなく、識の作用により対象として認識されているに過ぎない。これはまさに、量子力学における「観測によって現実が決まる」というコペンハーゲン的な洞察と符合する。例えて言えば、夢の中で私たちは場所を移動し、人物と会話を交わし、喜怒哀楽を経験する。しかしそれらの世界や出来事は夢見る者の心が生み出したものであり、夢の中では対象も空間も時間も、すべては「識」の投影である。同様に、唯識の立場では、目覚めた現実においても、「外界の物」が客観的に存在していると考えるのは遍計所執性(錯誤的分別)であり、実際には阿頼耶識に蓄積された「種子」が縁に応じて現象として顕現しているにすぎない。この意味で、コペンハーゲン解釈の観測者効果は、唯識における「識が現象を顕す」という理論の現代的な物理学的証左とみなすことができる。唯識は、観測者(能観)と観測対象(所観)が相依相待の関係にあることを説き、「外的な物自体(thing-in-itself)」は決して認識され得ないと主張する。これはコペンハーゲン解釈が、波動関数の崩壊という非物質的な作用によって物理状態が決定されるとする点と、本質的に一致している。さらに、コペンハーゲン解釈が主張する「可能性の重ね合わせ」は、唯識における「一念三千」あるいは「無尽縁起」の思想とも接続しうる。すなわち、無数の可能的世界が縁起的に重なり合い、ある因縁においてある経験が顕現するという唯識の立場は、量子系が測定されるまで無数の状態の重ね合わせにあるという量子力学的描像と相通じる。結論として、コペンハーゲン解釈が明らかにした「観測と現実の不可分性」は、唯識が説く「主客未分の識による世界構成」と極めてよく一致する。どちらも、世界とは外在的に「ある」のではなく、主体との関係性の中で「現れる」のである。そしてこの見方こそが、私たちの「存在」や「現実」に対する執着を解きほぐし、非二元的な智慧への扉を開くのである。フローニンゲン:2025/7/25(金)11:53


17033. 量子ゼノン効果・逆ゼノン効果と唯識 

                     

今日は特に涼しさを感じられる1日で、その気候のおかげで翻訳作業が捗り、残すところあと数章となった。この調子だと今週末中には全ての翻訳が完成しそうである。それに加えて学術探究も順調に進んでおり、それもまた恵まれた気候によるところが大きいように思う。今年もこのままの涼しい夏であってほしい。


量子ゼノン効果(Quantum Zeno Effect)とは、量子系において、非常に頻繁に観測を繰り返すことで、状態の変化が抑制され、系が元の状態にとどまり続けるという現象を指す。ギリシャの哲学者ゼノンが提示した「矢は常に静止している」という逆説を踏まえて命名されたこの効果は、「見続けることで変化が止まる」という性質を持つ。逆に、逆ゼノン効果(Anti-Zeno Effect)は、観測の介入によって量子状態の遷移がむしろ促進される現象を意味し、「見られることで変化が早まる」という逆方向の力学を示す。この両者は、観測と存在の関係性を考える上で極めて示唆的である。例えば、量子ゼノン効果の例えとして、火をつけたろうそくに絶えず息を吹きかけると、炎が消えるのではなく、火がついたまま保たれるような状況を思い浮かべるとよいだろう。観測という行為が干渉となって変化を阻み、「現在」に留め置く働きを果たす。一方、逆ゼノン効果の例えとしては、熟成中の果物に時おり刺激を加えると早く熟れるように、注意や観察が系の「加速装置」として働くような現象である。これらの量子現象を唯識の観点から捉えると、観測とはすなわち「識」による対境(対象)への関与であり、現象界は常に能取所取(主観と客観)の相互依存によって成立する。唯識においては、「万法唯識」「境は識より現ず」と説かれるように、外的対象が独立して存在するのではなく、識の作用によって縁起的に顕現する。このとき、「観測=識の方向性」であり、その頻度や質が現象の在り方に直接的な影響を与えるという理解は、量子ゼノン効果および逆ゼノン効果と根本的に通じ合うものである。具体的に言えば、量子ゼノン効果とは、識が執着や凝視によって「ある状態」を固定化している働きである。これは唯識が「遍計所執性」として批判するような、ある認識内容に固着し、そこに実体性を投影してしまう心の癖とも言える。「私はダメだ」「世界は危険だ」といった観念を絶えず意識に上らせるならば、その観念は強化され、状態は変わらず持続し続ける。これは心的な量子ゼノン効果である。一方、逆ゼノン効果は、識が変化の兆しや新しい可能性に対して柔軟に応答する場合に対応する。例えば、瞑想中に浮かぶ思念を静かに観察することで、それが自然に変容し、より深い認識へと移行するような場合である。ここでは識の作用が変化を阻害するのではなく、むしろ促進する役割を果たしている。唯識的には、これは「依他起性(縁起的構成性)」が強調される場面であり、識がどのように働くかによって世界の様態そのものが変わることを意味する。さらに、これらの効果は阿頼耶識における「種子」の成熟という教義にも関連する。観測(識の関与)の頻度や性質は、どのような種子がどのような果として顕現するかに影響を与える。つまり、同じ種子であっても、識のあり方によってそれが顕在化するタイミングや形式は変化するということであり、これはまさに量子効果における遷移速度の変化と類比的に考えることができる。結論として、量子ゼノン効果と逆ゼノン効果は、唯識が説く「識が世界を構成する」という洞察の現代物理学的表現であると捉えることができる。変化を止める観察と、変化を促す観察。そのいずれにおいても、世界は独立して存在しているのではなく、私たちの識のあり方がその姿を決定的に規定しているという非二元的な理解が、仏教的視点と量子力学的洞察との間に深い橋を架けているのである。フローニンゲン:2025/7/25(金)15:55


17034. 参加型宇宙と唯識 

                 

ジョン・アーチボルド・ウィーラーが提唱した「参加型宇宙(Participatory Universe)」とは、宇宙はあらかじめ独立して存在するものではなく、観察者の参与によってその存在が確定され、意味を持つという理論である。これは彼の有名な言葉「It from bit(存在は情報から)」に象徴されるように、物理的現実は情報の処理と観察行為によって構築されるとする立場であり、観察者の意識が宇宙の在り方に本質的に関わっているという革新的な宇宙論である。この理論の核心を理解するための具体例として、量子力学における「二重スリット実験」が挙げられる。この実験では、電子や光子が観測されない場合は干渉縞を描いて波動的な振る舞いを見せるが、観測されると粒子的振る舞いに変わる。つまり、「見る」という行為が物理現象そのものの性質を変えてしまうのである。ウィーラーはこの実験の拡張版「遅延選択実験(delayed-choice experiment)」を通して、観察が過去の事象にまで影響を与える可能性を示し、観察者の関与が宇宙の歴史の確定にまで及ぶという驚くべき含意を提示した。例えとして、絵本の「ぬりえ」を思い浮かべるとわかりやすい。ぬりえ帳には線画だけが印刷されており、それ自体は未完成で意味を持たない。そこに人が色を塗ることで、絵に生命が与えられ、意味ある全体像が立ち上がる。ウィーラーの「参加型宇宙」における観察者とは、この「色を塗る者」にあたる。すなわち、宇宙という「可能性の場」に、観察という行為を通じて現実が「色づけ」されていくのである。このような宇宙観は、仏教の唯識思想と驚くほど共鳴している。唯識では、「一切は識にして、識が万法を現ず」と説かれ、現象界は外在する客観的実在ではなく、阿頼耶識という深層の識が内在的に「種子」を持ち、それが因縁によって展開し、自己の内奥に「見られる」世界を立ち上げているとされる。つまり、現象界とは主体と客体の相互依存的な共顕であり、観察者の心的構造が世界の構造を決定する。唯識のこの見解に照らすと、ウィーラーの「参加型宇宙」とは、唯識における「能取所取」の相対的二元性が成り立つ縁起的世界の現代科学的表現と見ることができるだろう。識は常に対象を構成しており、外界は「あるがままに存在する」のではなく、「あるように認識される」ものとしてのみ成立する。この意味で、唯識は「観測者が宇宙に参加している」というウィーラーの主張を、さらに深化させて「宇宙とはそもそも識が顕現させた投影の網なのだ」と論じる。さらに、ウィーラーの立場には、個々の観察者がいかにして宇宙的意味に参与するのかという倫理的次元も含まれている。これは唯識における「業(karma)」と「種子成熟」の関係にも通じており、観察者の内的態度や意識の方向性が、世界の生成に関わるという因果的理解に近い。例えば、「恐怖」に満ちた識が展開する世界と、「慈悲」に基づく識が開く世界では、その現れ方に根本的な違いがある。これは科学的実験というよりも、存在論的・倫理的実践としての「観察」の意義を示している。結論として、ウィーラーの「参加型宇宙」は、唯識の核心的洞察である「一切は識の顕現である」との一致を見せており、観察者が単なる外的世界の目撃者ではなく、世界そのものの共同創造者であるという理解を共有している。宇宙の構造は外から与えられるのではなく、観察という内的関与によって初めて意味と形を持ち、顕現する。ゆえに、私たち1人1人の「見る」という行為こそが、この宇宙の成立において決定的に重要な働きを果たしているのである。フローニンゲン:2025/7/25(金)16:01


17035. 量子遅延選択実験と唯識 

                   

ジョン・アーチボルド・ウィーラーが提唱した「量子遅延選択実験(quantum delayed-choice experiment)」は、観測という行為が量子系の過去の状態にまで影響を及ぼす可能性を示す実験的枠組みであり、古典的な因果律や客観的実在の観念に根本的な疑問を投げかけるものである。この実験の基本的構造は、二重スリット実験を拡張したもので、光子や電子などの量子粒子が装置を通過した「後」に、干渉パターンを見るか粒子的パターンを見るかを決定するという点にある。つまり、粒子がどの経路を通ったのかを示す「どちらの道情報(which-path information)」を取得するか否かが、粒子が通過した過去の振る舞い(波動的か粒子的か)に影響を与えるのである。具体的な実験例としては、分割器(ビームスプリッター)を使ったマッハ・ツェンダー干渉計がある。粒子が装置に入った後、最終的に干渉計の設定を変えることで、「どの道を通ったか」あるいは「どのように干渉したか」という性質が後から決まる。このとき、設定変更のタイミングが、粒子がすでに通過したとされる時点よりも後に行われることが肝要である。すると、粒子が過去にどのように振る舞ったのかは、未来に行われた観測の有無によって決定されるという結果が得られる。これは「観測が過去の現実を構成する」という直観に反する結論を導く。これをわかりやすい比喩で表すと、「あなたが振り返って写真アルバムを見たとき、そこに写っている過去の風景が、あなたが写真を開いた瞬間に初めて決まる」というようなものである。すなわち、出来事はあらかじめ存在していたのではなく、観察という行為によってその「過去の事実」が確定されるのだ。このような理解は、仏教の唯識思想と深い親和性を持つ。唯識では、外界は客観的に独立して存在するものではなく、阿頼耶識に蓄えられた種子が因縁に応じて現象を構成するとされる。すなわち、世界は「存在する」から知覚されるのではなく、「識」によって知覚されたときに初めて存在として立ち現れる。ウィーラーの遅延選択実験は、まさにこの唯識の「所現唯識」の視点、すなわち万法は識によって構成された所現であるという立場を、量子力学の枠組みの中で示していると考えられる。さらに唯識は、因果とは固定的な直線的構造ではなく、「相依相縁」のダイナミズムによって成り立つと説く。過去・現在・未来の区分も、相対的・概念的な構成にすぎず、「観察の行為(了別)」そのものが縁起の一因となりうる。この観点からすれば、ウィーラーの遅延選択実験において「未来の観測」が「過去の状態」に影響するというのは、時間の直線性が実体視されたものである限りにおいての錯覚であり、実際には識の働きが時間・空間を超えて現象を織りなしているのである。また、唯識における八識論の観点では、観察行為は第六意識による了別であり、観察された対象は第七末那識の執着を通して「我」として定位され、第八阿頼耶識の深層に種子が蓄えられる。すなわち、「過去の出来事」はこの深層識における潜在構造の展開として、観察の瞬間に意味と形を与えられる。この構造は、遅延選択実験で示唆される「観察によって過去が決まる」という現象に対応している。結論として、ジョン・ウィーラーの量子遅延選択実験は、唯識が説く「心による世界の構成性」や「観察=生成」という哲学的洞察を現代物理学的に裏づけるものであり、過去・現在・未来という時間の枠組みさえも「識」によって縁起的に構成されるという唯識の教義を、量子スケールの現象において鮮やかに可視化したものと理解できるのである。フローニンゲン:2025/7/25(金)16:21


17036. QBismと唯識

     

QBism(Quantum Bayesianism)は、量子力学を「観察者にとっての意思決定理論」として再解釈する現代的なアプローチであり、従来の客観的実在論に基づく見方とは一線を画す。QBismの立場によれば、量子状態とは物理的対象の実在的な属性ではなく、むしろ「観察者が経験に基づいて持つ信念や期待」の表現である。つまり、波動関数は自然の客観的記述ではなく、主体(観察者)が将来の経験をどのように予測するかという主観的な確率表現に過ぎない。ここで用いられる確率は、古典的な頻度論的確率ではなく、ベイズ主義的な主観確率であり、観察者の信念の強さを数値化したものである。具体的に言えば、ある量子システムに対して観察者Aが特定の測定(例えばスピンの向き)を行うとする。このとき、Aはその測定結果が「上向き」になる確率を0.7、「下向き」になる確率を0.3とする波動関数を設定する。この波動関数は、Aの主観的な期待であり、別の観察者Bが同じ状況で異なる過去の経験を持っていれば、異なる波動関数と確率を設定するかもしれない。したがって、量子力学の枠内における「現実」は、一意的かつ客観的なものではなく、「観察者がどのように世界を経験し、意味づけるか」に依存している。この状況は、例えば「料理人がレシピに従って料理をする」行為に例えることができる。同じレシピを与えられても、料理人の経験、道具、味覚、調理環境によって、実際にできあがる料理には違いが生じる。レシピ自体は完全な決定因ではなく、それをどう「解釈し、期待し、実行するか」によって結果が変わるのである。QBismにおける波動関数もこれに似ており、「観察者が持つレシピ(期待)に基づく未来の経験」が、量子論における現実なのである。このようなアプローチは、仏教の唯識思想と極めて高い親和性を持つ。唯識においては、あらゆる現象は「識」によって構成されるとされ、現象界(色法)は実体的に独立して存在するものではない。とりわけ、対象と主体との分離を否定する「能所一体」の教えは、QBismの「波動関数は観察者の信念である」という立場と通底する。つまり、量子状態とは世界における「ものそのもの」ではなく、「識」が未来の経験をどう予測し、行動するかという構えの表現である。唯識では、私たちは常に「阿頼耶識」において蓄えられた種子を基盤として、五感や第六意識の認識活動によって「見分」を作り出す。これらの現象は、外界にある実在が反映されたものではなく、主体の内なる潜在的傾向(種子)と条件(縁)の相互作用として現れる。QBismの見地からすれば、量子測定の「結果」は、物理的対象の本性を暴露するものではなく、「観察者の信念と行為」が経験を通して自己更新していく過程である。唯識もまた、「識」こそが経験世界を構成する主体であるとするため、現実とは一種の「観察者中心的生成過程」である。さらに、QBismでは「測定」という行為が主体の自己変容的プロセスであるとされる。これは唯識における「観察=了別=薫習」の動きと酷似している。つまり、一度の経験は観察者の識に痕跡(種子)を残し、それが将来の期待(波動関数)を更新し、未来の行動(測定)に影響を与える。この循環的構造は、阿頼耶識の種子と現行(活動)との相依的関係、いわゆる「薫習と種子の循環論」に通じる。結論として、QBismは「観察者の信念が量子世界を構成する」という意味で、唯識が説く「万法唯識」すなわち「すべての経験世界は識の働きによって現れる」という哲学を、量子論的に再解釈したものとも言える。物理学と仏教哲学の交差点において、QBismは近代科学における主客二元論を脱構築し、「主体中心的現実観」=「唯識的現実観」への扉を開く重要な一歩であると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/25(金)16:36


17037. 質量を持つ/持たない素粒子と唯識

               

素粒子とは、物質や力の根源をなす最も基本的な構成要素であり、現代物理学では標準模型において、質量を持つ素粒子と持たない素粒子とに分類される。質量を持つ素粒子には、クォーク、レプトン(電子やミューオン、タウ粒子)、およびそれらに質量を与えるヒッグス粒子が含まれる。例えば、電子は負の電荷と明確な静止質量(ある物体が運動していない(静止している)ときに測定される質量)を持ち、物質世界の安定性を支えている。クォークは陽子や中性子を構成する粒子で、6種類(アップ、ダウン、チャーム、ストレンジ、トップ、ボトム)が知られ、それぞれ異なる質量を持つ。一方、ヒッグス粒子は他の素粒子に質量を与える役割を担うとされ、2012年に実験的に確認された。一方、質量を持たない素粒子には、光子(フォトン)、グルーオン(強い力を媒介する粒子)、そして理論上の重力子(グラビトン)がある。光子は電磁波の担い手であり、質量を持たないために真空中で常に光速で移動する。グルーオンもまた質量を持たず、クォーク間に強い核力を伝達する。なお、ニュートリノはかつて質量を持たないとされたが、近年の観測によりわずかな質量があることが確認されており、「質量を持つが極めて軽い」粒子に再分類されつつある。このように、物理学は素粒子を質量の有無によって区別し、その性質や相互作用のメカニズムを明らかにしてきたが、これを唯識の観点から見ると、より深い次元での現象理解が得られるだろう。唯識思想では、あらゆる現象は「識」、すなわち認識の作用によって構成され、存在とは実体ではなく「見分」すなわち識に映じた相に過ぎないとされる。質量とは、物理学的には「エネルギーの凝集度」や「慣性・重力に対する応答性」として定義されるが、唯識からすればそれもまた認識が構成する「相」であり、「識の業習によって安立された属性」に過ぎない。例えば、質量を持つ素粒子が「物質性」「重さ」「存在感」を伴って知覚されるのは、それが五蘊のうちの色蘊(ルーパ)の現れとして識に映った結果である。つまり、私たちの意識構造(八識、特に阿頼耶識)が、特定の種子に基づいて「重さのあるもの」として経験を構成するのであり、その背後には普遍的な「質量のある実体」があるわけではない。これは『成唯識論』における「唯識所変、無有実法」という命題と一致する。一方で、質量を持たない素粒子、例えば光子は、「物質的手応え」はないが、視覚や熱などの感覚を通じて経験される。これは、物質として把握されずとも、識の構成によって「作用としての現象」が浮かび上がる例である。唯識的に言えば、これは「触」や「受」として顕現する事象であり、対象と主体の相互依存によってのみ生起する。「光」は外在するエネルギーではなく、「見分」すなわち視覚識における相としてのみ成立している。つまり、質量の有無にかかわらず、素粒子という存在は唯識的には「識によって構成された経験世界の相」に過ぎないのだ。この観点から、質量のある素粒子とない素粒子の区別も、実体的な本質の違いではなく、識の業習と因縁によって構成された異なる「経験のパターン」と見ることができる。質量とは、識が自己の相続構造の中で、「変化への抵抗」として構成した属性であり、それがない粒子(光子等)は「即応的な顕現」として経験されるに過ぎない。したがって、唯識は素粒子の質量問題に対して、「実体的属性ではなく、識の構成による方便的現象」として応答するのである。結論として、現代物理学における素粒子の分類や質量の理論的把握も、唯識においては「識の所変」として理解され、外在実体を仮定することなく、あくまで経験の構造として内在的に説明可能である。質量とは外的性質ではなく、経験としての意味の構造に過ぎない。すなわち、「質量あるもの」と「質量なきもの」の両者とも、「唯識無境」の原理のもとでは、「無自性の現れ」に他ならないと言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/25(金)18:16


Today’s Letter

My being constantly hovers between existence and nonexistence, indicating the aspect of dependent nature. The more I deepen this awareness, the more I become liberated. Groningen, 07/25/2025

 
 
 

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