top of page

【フローニンゲンからの便り】17021-17026:2025年7月24日(木)


ree

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

17021

ホロムーブメントと唯識

17022

今朝方の夢

17023

今朝方の夢の振り返り

17024

夢を書き出すことと振り返ることがもたらす心の治癒と発達効果

17025

阿頼耶識の種子相続説と量子論

17026

ジムでのトレーニングを楽しんで/インターバルの過ごし方

17021. ホロムーブメントと唯識


時刻は午前6時半を迎えた。今日もまた大変爽やかな朝の世界が広がっている。ほのかな朝日が地上に降り注いでおり、気温も16度と非常に涼しい。今日の日中の最高気温は23度とのことで、大変過ごしやすい1日になりそうだが、午後には小雨が降るかもしれないので、午後にジムに行く際には折り畳み傘を持っていこうと思う。


デイヴィッド・ボームが提唱した「ホロムーブメント(Holomovement)」の概念は、彼の全体論的物理観の核心に位置するものであり、量子力学と意識の関係、さらには宇宙の本質的構造を探究する上で画期的な視座を提供する。ボームによれば、現象世界に見られる個々の対象や出来事は、根底にあるより深い秩序の顕現にすぎず、その秩序は「内在秩序」と呼ばれる。これは、私たちが通常知覚する「外在秩序」に対して、物事が未分化かつ潜在的に折りたたまれて存在する次元である。この折りたたまれた秩序が動的に展開され、知覚可能な世界を生み出す運動こそが「ホロムーブメント」である。ホロムーブメントは、宇宙のすべての存在と現象が互いに分かちがたく関係し合い、全体として絶えず変化し続ける過程的な運動であり、それ自体が実在の最も根本的な層をなすとされる。このホロムーブメントの理解を、仏教唯識思想の枠組みと重ねてみると、両者には驚くほど深い親和性が見出される。唯識は、現象世界のあらゆる存在は「識」すなわち心の作用によって構成されていると説き、眼前の物的対象は実体として存在するのではなく、識の流れの中における一時的な構成体、すなわち「仮有」にすぎないと捉える。とりわけ唯識思想の中核にある「阿頼耶識」の概念は、あらゆる経験と現象の種子を潜在的に蔵する無意識的基盤として機能し、そこから様々な現象が顕現する点で、ボームの内在秩序と機能的に対応すると見ることができる。阿頼耶識もまた、絶えず流動し、縁起によって展開されるダイナミックな場であり、そこでは過去の経験が種子として蓄積され、それが条件に応じて表面化するという意味で、外在秩序への展開を担う運動的な基盤である。このように見ると、ホロムーブメントとは唯識の言うところの「識の転変」すなわち「識の変化と展開」を宇宙的スケールにおいて捉え直したものであり、両者は「個別的な経験の流れ」と「宇宙的な全体運動」が互いに貫通し合う非二元的な実在観を共有していると言える。さらに、ボームが強調するホログラフィックな全体性――すなわち、部分の中に全体が折りたたまれて存在し、どの一部を取っても全体的情報が内在しているという見方は、唯識における「一即一切、一切即一(ひとつがすべてであり、すべてがひとつである)」という華厳的相互依存の理論とも響き合う。唯識思想が展開する「唯識無境(外境なし)」の立場は、あらゆる経験世界が心(識)の内的投影であることを意味し、その構造がホロムーブメントの中における「折りたたみと展開(enfolding/unfolding)」のリズムと一致している。すなわち、現象は心の奥底から立ち現れてくるが、それは独立した実体として存在しているのではなく、動的な展開の一モーメントにすぎず、再び折りたたまれ、次の展開へと流れていく。この循環的な流れはまさにホロムーブメントの特性そのものであり、識の運動と宇宙の運動とが本質的に一体であることを示唆する。したがって、ボームのホロムーブメントと唯識の識の流転という思想は、異なる文化的背景と表現形式を持ちながらも、現象の背後にある不可視の生成的運動を直観し、そこにこそ実在の根源を見出そうとする点で一致している。両者を統合的に捉えるならば、世界とは自己完結した物質的機構ではなく、深層意識的な運動の表現であり、私たちの認識もまたその運動の一部であるという認識が浮かび上がってくる。こうした視点は、物質と心、自己と世界という近代的二元論を超え、相互浸透的で創発的な実在理解へと私たちを誘うものであり、そこにはボームと唯識の間に横たわる深遠な共鳴の可能性が秘められていると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/24(木)06:41


17022. 今朝方の夢 

 

今朝方は夢の中で、見慣れない大学の食堂にいた。そこで大学時代の数人の友人と席に座ってある話題について盛り上がっていた。それは、開示した入試の点数についてである。ちょうど食堂の机の一角には、それぞれの科目の上位10人の名前と姿が1枚のトレーディングカードのようになったものとして置かれていた。実際の入試科目は国数英社の4科目のはずだが、どういうわけか音楽・芸術に関する実技科目もあり、それらの科目の優秀者もカードとなってその場に置かれていた。それらのカードを眺めながら、友人たちは盛り上がっていて、私もその輪に入っていたが、自分だけ成績の開示をしていなかった。というのも、自分は自らの入試の点数がどうであったかについて全く無関心で、それを知ったところで何になるのだろうという考えがあったからである。しかし、友人たちが盛り上がっているのを見て、自分も点数を開示してみようかとも思った。点数を開示した方が自分も話に加わりやすいように感じたのである。話が落ち着いたところで、昼食を食べることにした。昼食はビュッフェ形式にすることにし、私はヘルシーな料理の小鉢を中心に取っていった。普段はあまり食べない魚もこの際にいただこうと思い、鯖の味噌煮も取ることにした。一通り料理を取り終えたので会計に向かっていると、途中で食器の返却口が目に入り、先ほど取った小鉢のうち、いくつかは小鉢から大皿に移しており、いらなくなった小鉢を先に返却しておこうと思った。返却口に行くと、中で働いている中年の女性が間違って大皿も取ってしまい、再び料理を取り直すことになってしまった。今度はもう小鉢は小鉢のままにして、また先ほど食べたいと思っていたが悩んで取るのをやめた料理もあったので、この際にその料理を取ることにした。


今朝方はそれ以外にも夢を見ていたように思う。前述の入試の試験を開示するときに、友人たちと単に話が盛り上がるだけではなく、入試から今にかけての自分たちの学力についてお互いにフィードバックしながら建設的な批判を加えて議論していたことも印象的だった。単に点数を開示して、その結果を見て盛り上がるのではなく、入試から現在を見つめ、今の自分たちの学力や学び方を批判的に検証するあたりがうちの大学の学生らしいし、そうしたことを一緒に行える友の存在を改めて有り難く思った。夢から目覚める前に、「付け替え可能な肉体」という言葉が脳裏に浮かび、微風にたなびく青々とした木々の葉を純粋意識の状態で、すなわち心の目をとしてぼんやりと眺めていたこともまた印象的である。フローニンゲン:2025/7/24(木)06:53


17023. 今朝方の夢の振り返り 

 

今朝方の夢は、自己評価の枠組みから純粋意識へと至る内的道程を、多層的な象徴で編み上げた一夜の曼荼羅である。舞台となる「見慣れない大学の食堂」は、既知と未知の狭間に位置する中間的空間であり、かつての学習コミュニティを想起させつつ、いまここに更新された価値観と向き合う実験場として現れる。そこに置かれた科目別上位者のトレーディングカードは、点数という数値を通じて可視化された社会的ペルソナの縮図であり、ゲームの戦闘力カードのように自己を比較する娯楽的な装置でもある。しかも本来なかったはずの音楽・芸術の実技科目までもが並んでいる点は、評価の対象が学力という狭義を越え、人間の創造性や感性にまで拡張されつつあることを示唆する。これは自己の価値尺度が「国数英社」という論理的・制度的次元だけでなく、美的・身体的次元にも再編されつつあるという無意識の気付きである。一方、自分が自らの点数開示に無関心であったのは、外的評価体系から距離を取り、内的基準で歩もうとする自律性の表現である。しかし友人たちの熱狂に触れ、「輪に入りたい」という感情が芽生える瞬間は、個別化の過程における二重の欲求――すなわち独自性と帰属欲――のせめぎ合いを映し出す。夢内での逡巡は、自己の核に忠実でありながら共同体と響き合う道を模索する主体の心理的揺らぎである。次に、ビュッフェ形式の昼食選択は、人生の可能性を往来しながら自らの滋養となる要素を選り分ける能動的プロセスを象徴する。普段口にしない鯖の味噌煮を敢えて取った行為は、これまで忌避してきた側面――例えば身体的ケアや伝統的知恵――を取り込もうとする自己刷新の表れである。取った小鉢を大皿に移し替え、小鉢を返却口へ運ぶという行動は、旧来の容器(行動様式・思考枠)を脱ぎ捨て、大きな器(拡張された自己)に内容を移す象徴的な「器替え」の儀式である。そこで中年女性が誤って大皿ごと回収してしまう出来事は、外部環境や他者の介入により計画が崩れ、再構成を余儀なくされる人生のリセットを暗示する。再び料理を取り直す場面で、先ほど逡巡して見送った料理を今度こそ手に取るという展開は、失われた機会を取り戻し、選択を更新するレジリエンスを示している。友人たちとの建設的な批評と学力の再検証は、入試という過去の定点を基軸にしながらも「いま」を再定義し合う知的コミュニオンの象徴である。そこでは点数が単なる競争の指標ではなく、学びのプロセスを映す鏡として扱われている。これは自己と他者が相互にメタ認知し、高次の視座から自己教育を続ける「学びの共同体」への志向を示すものであり、大学という場の理想像を再演する無意識の願望でもある。そして夢の終盤に突如浮上した「付け替え可能な肉体」という語は、肉体を仮初の義肢のごとく見立てる脱身体化のイメージである。ここには、アイデンティティを肉体的制約から解放し、流動的かつ再配置可能な存在様式へとシフトさせる未来的ヴィジョンが潜む。その直後に訪れる、微風にそよぐ青葉を純粋意識のまなざしで眺める静謐なシークエンスは、個体的境界を超えた「見る者=見られるもの」の合一体験、すなわち小我の溶解と大いなる自己の開示を告げる。こうして夢全体は、序盤に社会的比較と数値化された自己像を提示し、中盤で選択・再構成・他者との対話を経て、終盤で身体をも超えた純粋意識へ至る三段構成を取る。これは、人格の外縁を規定するペルソナの脱皮から、自己の中心であるセルフとの一致を目指すユング的個別化の旅を象徴している。未知の大学食堂という生成空間で、数値や器や肉体といった「形」を次々に取り替えながら、本質へと遡行する自己の深層心理は、評価に囚われぬ自由を志向しつつ、仲間との共鳴、身体的健康、精神的超越を統合しようとしているのだろう。フローニンゲン:2025/7/24(木)07:12


17024. 夢を書き出すことと振り返ることがもたらす心の治癒と発達効果

  

ふと改めて、夢を書き出すことと振り返ることがもたらす心の治癒と発達効果について考えていた。夢を書き出し、それを振り返るという営みは、心の奥深くに沈潜する無意識の声を言語という光に照らし出す、きわめて繊細かつ根源的な自己探究の方法である。この行為は単なる記録や回想にとどまらず、心の治癒と発達を促す創造的なプロセスとして多重の心理的効用を持つ。まず第一に、夢の内容を言葉にするという行為それ自体が、断片的で曖昧なイメージの流れを構造化し、意識の秩序へと統合していく象徴的作業である。夢はしばしば日常の理性の枠組みでは捉えきれない象徴や矛盾、空間的・時間的な歪みを含んでいるが、それを文章に落とし込むことで、私たちは自分の内面に対して新たな視座を獲得し、それまで気づかれなかった感情や欲求、葛藤の存在に目を向けることができるようになる。このプロセスには、ユング心理学でいう「個性化」の契機が含まれている。すなわち、夢に現れる人物や風景、出来事はしばしば自己の断片化された側面を象徴しており、それらを文章化し、読み返すことによって、私たちは分断されていた自己の諸部分を見出し、それらを調和的に再統合していくことができる。この意味で夢の振り返りは、分裂的な自己を統合へと導く自己治癒的プロセスの一環である。また、夢はしばしば心の傷や未解決のトラウマを婉曲的に表現する場でもある。抑圧された記憶や表現されなかった感情は、夢の象徴として登場し、それを意識化することによって心の中で言葉にならなかった痛みが浄化される機会が訪れる。つまり、夢を書き出すという行為は、潜在的な心の疼きを、意味ある物語として再構築し直す「ナラティヴな癒し」の機能を担っているのである。さらに、夢の記述と振り返りは、創造性と自己理解を高める手段としても働く。夢の中では、私たちは普段の思考の枠を超え、直観や感性、身体感覚に導かれながら未知のイメージ世界を旅している。この内的探究の記録は、自己の潜在的可能性や未開拓の資質と出会う契機となる。そこには、まだ言語化されていない未来の自己の萌芽が宿っており、それらを読み返すことで、人は自らの変容の予兆に気づき、方向づけられていく。夢は過去の記憶と現在の葛藤、未来の予感を同時に孕んだ時空の交差点であり、夢日記はその交差点に架けられた架橋として、人生の意味づけを深める装置となる。加えて、夢の振り返りには、自己と他者の境界を問い直す作用もある。夢に登場する他者や風景、状況はしばしば自分の心の投影であり、それを客観的に記述し、後から再読することで、私たちは「自分とは何者か」「他者とはどのように自己の鏡像として機能しているのか」という問いに向き合うことになる。このようにして夢の省察は、単なる内省を超えて、存在論的な自己探究の道となりうる。しかもそれは、特定の理論や診断に依存せず、まさに一人ひとりの生きた経験から湧き出る内的対話のプロセスであるという点で、極めてユニークでパーソナルな治癒と発達の道となる。したがって、夢を書き出し、それを丁寧に振り返るという行為は、心の深層にある未分化の素材を意識の光にさらし、それを統合・癒し・変容へと導くための自然発生的なセラピーの一形式であり、また、内的世界を旅するための道しるべとして、自己の進化的発達を促す創造的営みでもあるのだ。フローニンゲン:2025/7/24(木)07:21


17025. 阿頼耶識の種子相続説と量子論

     

阿頼耶識における「種子の相続」は、個人の経験や行為が潜在的な痕跡として識の深層に蓄えられ、因縁に応じて未来の経験や行動として顕現するという構造を指すが、この構造は、近代物理学が提示する古典的決定論的な因果律では捉えきれない、非局所性・非決定性・潜在性を内包した運動である。そのため、この唯識的種子観を現代物理学の言語で説明しようとする場合、古典物理学ではなく、量子論、特に量子場理論(Quantum Field Theory)、量子ポテンシャリティに基づくボーム的力学(Bohmian Mechanics)、および量子測定理論における「デコヒーレンス理論」や「エピオンティック(epiontic)」理論などの枠組みが最も適していると言える。まず、阿頼耶識が内包する「種子の保存と展開」というモデルは、ボームの提唱する「内在秩序」と「ホロムーブメント」の理論と極めて近似している。ボームにおいて、物質的現象はすべて「外在秩序」として表出するが、その根底にはより深い、折りたたまれた情報場である「内在秩序」が存在し、そこから情報が展開され、また折りたたまれていく。この「折りたたみと展開(enfolding/unfolding)」の運動は、阿頼耶識における種子の「薫習」――すなわち経験によって識に痕跡が刻まれ、それが縁によって現行(manifest phenomena)へと顕現するプロセス――と本質的に同型である。ボーム的視点からすれば、種子とは内在秩序に折りたたまれた情報の「潜在的形式」であり、それが因縁(観測・意志・環境)によって現象へと展開される際、ある種の「非局所的な因果性」が作動する。ここで重要なのは、現象の発現が単なる機械的再現ではなく、全体場との相互浸透的な関係のもとで創発されるという点であり、これは種子が決して固定的なものではなく、常に薫習と変化によって変容するという唯識の理解と見事に重なる。さらに、量子場理論の観点からは、「粒子」は実体として独立に存在しているのではなく、場の励起状態として瞬間的に顕現するものである。この理論において「真に実在するもの」は場(field)であり、粒子は場の局所的な変動にすぎない。唯識における種子とは、まさにこの場の中に蓄えられた「潜勢的可能性」として捉えうる。場は空間的に遍在し、時間的に持続する非局所的な構造であり、個々の種子はこの全体場のうちに埋め込まれていると言える。この意味で、阿頼耶識は量子場のような構造を持つ非局所的情報場であり、その場の中において、個々の経験や行為の痕跡が種子として保存される。そして特定の因縁が揃うことで、その種子が「顕現する現象(果)」として立ち上がるのである。また、近年発展した「量子測定理論」や「エピオンティック(epiontic)」理論、すなわち観測行為そのものがリアリティを選び取るという立場に立てば、阿頼耶識に蓄えられた種子が顕現することもまた、主体的な意識の関与や縁による選択的実現として説明可能である。例えば、ズレクが提唱した「量子ダーヴィニズム」では、環境との相互作用によって一部の情報が選択的に顕在化する(すなわち観測可能となる)過程が「自然淘汰的に」進むとされている。これを唯識的に解釈するならば、無数にある阿頼耶識の種子の中から、どの種子が現行化されるかは、単に因果的な法則ではなく、主体の意志、環境、他者の意識などとの「相互依存」によって決定されるという、まさに「縁起」の論理が量子スケールでも成立していることを意味する。総じて、阿頼耶識における種子の相続とは、単なる個人内の記憶の保持というレベルを超えた、時空を超えて広がる非局所的情報場における潜在性の運動と見なすことができ、その運動はボーム的量子力学や量子場理論、さらには量子測定のコペンハーゲン的・エピオンティック的理解において、物理学的にも説明しうる。そのような視点に立てば、唯識の種子相続という深い形而上学的構造は、現代の量子科学においても再記述可能な深層リアリティの動態であり、心と物質、過去と未来、主体と世界を分かつ境界を越えて、すべてが潜在的に響き合う宇宙的共時性の一断面をなしているのである。フローニンゲン:2025/7/24(木)11:37


17026. ジムでのトレーニングを楽しんで/インターバルの過ごし方

                                

時刻は午後4時半を迎えた。今日のジムでのトレーニングも非常に充実していた。最高気温は23度と限定的だったが、ジムで思いっきり体を動かしたこともあり、随分と良い汗をかいた。秋が深まってくると、ハードなトレーニングをしても汗をかかないような状態になるので、今のうちにしっかりと汗をかき、汗腺を鍛えておきたい。冬の時代では確かに汗をかかなくなるが、ジムでのトレーニングと入浴は汗腺を開く上で非常に重要な役割を果たしているように思う。今日もジムには知り合いのキャロルがいて、まずロッカールームで少し話をした。彼はもう優に70歳を超えているが、週に2回はジムに来て体を鍛えている。ジムだけではなく、バレーボールやスカッシュなどもしているとのことで、こうして週に何回かスポーツを楽しんだり、体を鍛えたりしていることが彼の健康の源にあるように思う。自分もキャロルを見習って、生涯筋力トレーニングやスポーツを楽しみたいと思う。


筋力トレーニングのインターバル、すなわちセット間の休息時間において、呼吸に意識を向けたり短時間の瞑想を行ったりすることは、身体的な回復を促進するのみならず、精神的な明晰さや統合感を高める重要な実践だと思う。一般に筋トレは身体的強化に焦点を当てた活動として理解されているが、その合間にマインドフルネスの要素を組み込むことにより、より全人的なウェルビーイングを志向することが可能となるだろう。まず第一に、インターバル中に呼吸に注意を向けることで、自律神経系のバランスが整えられ、副交感神経が優位になる傾向がある。これにより心拍数や血圧が安定し、筋緊張が緩和され、身体の回復が効果的に進む。過度な興奮状態はフォームの乱れや過剰な負荷につながる危険性があるが、呼吸を意識的に整えることは、集中力と冷静さの維持を助け、トレーニングの質を高めることに寄与するだろう。次に、数分間の瞑想や内観的静寂を取り入れることは、思考のリセットと注意の再構築に有効である。筋トレ中には自己評価や達成への焦燥感といった思考の偏りが生じやすく、それが逆に集中を妨げる要因となる。瞑想的な間(ま)を持つことによって、自己との静かな対話が可能となり、心的なノイズを除去しつつ、現在の身体的・情緒的状態を観察する機会が得られる。これは特に、常に外的刺激に晒されがちな現代人にとって、自己調整力と内的安定性を育む貴重な時間となるだろう。さらに、呼吸や瞑想を通じて身体と心の連関が強まることで、トレーニングの体験そのものが深化する。ただ力を込めて重りを上げ下げするという運動が、自身の存在感を覚知しつつ「今ここ」での生を体現する行為へと昇華されるのである。このような体験はアスリートに限らず、日常的に健康を意識するすべての人々にとって、トレーニングを長期的に継続する上での動機づけとなりうるのではないだろうか。結論として、筋トレのインターバル中における呼吸や瞑想の実践は、身体の回復を助けるのみならず、精神的な集中力や統合感を高める統合的実践である。フィジカルとメンタルの両側面に作用するこのアプローチは、真の意味でのウェルビーイングを志向する現代のトレーニングスタイルにおいて、極めて価値の高い習慣であると位置づけられるのではないかと思う。フローニンゲン:2025/7/24(木)16:39


Today’s Letter

Silence and presence nurture the depth of my being. They encourage me to let go of my ego. Once I do, reality emerges differently. Groningen, 07/24/2025

 
 
 

Commentaires


過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page