【フローニンゲンからの便り】17012-17016:2025年7月22日(火)
- yoheikatowwp
- 7月24日
- 読了時間: 14分

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タイトル一覧
17012 | 時間の姿 |
17013 | 今朝方の夢 |
17014 | 今朝方の夢の振り返り |
17015 | 仏教思想における時間観 |
17016 | 良きオランダを実感して |
17012. 時間の姿
時刻は午前6時半を迎えた。今、激しい雨が降っている。早朝の時間に激しい雨が降っているというのはとても珍しく、最後にそのような光景を目の当たりにしたのがいつだったか覚えていないほどである。今の気温は16度で、雨の影響もあって今日の最高気温は22度と限定的である。雨は午前中には止むようなので、午後に髪を切ってもらいにメルヴィンの店に行くことには支障はなさそうである。今日も昨日と同様に、朝から集中して翻訳作業に取り掛かりたい。
時間とは、私たちが日常的に信じ込んでいるような、過去から現在を経て未来へと一方向に進んでいく直線的で普遍的な流れとしての存在では必ずしもなく、実際にはその概念は物理学的・宇宙論的・量子論的な観点から大きく揺らぎを含んだ、極めて複雑で多層的な構造を持つ現象であることが明らかになってきている。例えばアインシュタインの特殊相対性理論や一般相対性理論においては、時間は空間と不可分の「時空」として扱われ、その中で時間の進み方は観測者の運動状態や重力場の強さに応じて変化することが示されており、これはすなわち時間が絶対的に均等に流れるものではなく、相対的に「伸び縮み」しうるもの、すなわち幾何学的に言えば曲線的に「歪む」ものであるということである。また、ブラックホールの事象の地平面近傍では時間は極端に遅れ、あるいは観測者によってはほとんど停止するかのように感じられるため、時間とは本質的に観測者に依存する現象であるとすら言える。さらに、物理学におけるブロック宇宙モデル、すなわち過去・現在・未来がすべて等しく「存在している」とする四次元的世界観によれば、時間は流れるのではなく、むしろ私たちの意識が時空の中の特定の位置を知覚することによって「今」という感覚が生じているに過ぎず、時間はむしろ全体としての構造物=「固まり(block)」として存在していると解される。これに対して量子論の領域では、粒子が空間的に離れていても即座に影響を及ぼしあう量子もつれの現象や、ウィーラーの遅延選択実験に見られるような、未来の観測が過去の粒子の振る舞いに影響を与えるかのような現象が観測されており、このような事例は時間の因果的直線性を根本から揺るがすものである。加えて、量子重力理論の一部では時間という概念自体が基本方程式から消えてしまうような構造も示唆されており、それによれば時間は宇宙の本質的構成要素ではなく、あくまでマクロなスケールで意識が秩序を経験する際に生じる副次的な「現象」に過ぎない可能性がある。さらに、私たちが日常的に感じる時間の一方向性、すなわち「時間の矢」は、熱力学第二法則に基づくエントロピー増大の現象に依拠しているに過ぎず、この一方向性もまた、統計的な事象の偏りによって生まれる経験的な秩序であって、宇宙の基本法則の多くは時間反転対称であることからすれば、時間の流れの一方向性は決して本質的な属性ではないということになる。これらすべてを踏まえると、時間とは固定された絶対的な「直線」ではなく、観測者の運動状態や位置、重力場、量子的相互作用、意識の構造、統計的秩序など、さまざまな要素によってその姿を変える、曲線的で、可逆的で、紆余曲折的な、そして場合によっては存在そのものがあやふやであるような、多層的かつ関係的な現象として捉えることが、現代物理学と哲学の双方における最も妥当な理解であると言えるのではないだろうか。フローニンゲン:2025/7/22(火)06:37
17013. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、量子論の哲学に関する大学のコースの準備に向けて色々と作業をしていた。カリキュラムを策定することはとても楽しく、きっと充実したコースになるだろうという確信があった。その大学は優秀な学生が多いこともあって、彼らと学びを共にすることは、こちらとしても大いに学びがあるだろうし、それを通じて研究がさらに進むだろうという期待感があった。すると静かに次の場面に誘われた。
次の場面では、見慣れない学校の教室にいた。学校の教室にしては少し空間が広く、生徒たちは教室の四方に飾り付けをしていた。すると、小中高時代のある女性友達(MH)が少し離れたところにいて、自分の隣にいた別の女性友達と自分の飾り付けの方法にケチをつけ始めた。どうやらその場の飾り付けは彼女が仕切っているようで、彼女の言い分を聞く形で、その場では彼女が述べた通りに飾り付けをしたが、自分たちは独自な形で飾り付けがしたかったので、隣にいた女性友達に声をかけて、別の場所に移動することにした。そこでは自分たちがしたいように飾り付けが自由にできたので大変心地良く、また彼女と話しながらの飾り付けはとても楽しかった。
最後の場面では、おそらくイギリスと思われる町にいた。そこがイギリスのように感じられたのは、そこにいる人たちの英語がイギリス英語だったからである。幾分上品なイギリス英語だったがゆえに、イギリス英語と言えども聞き取りやすく、自分としてはその町にすぐに順応した。私は大学院の見学に来ていて、知り合いのイギリス人のイアンの姿を通り過ぎていくバスの中に見つけた。ちょうどイアンには、目の前に見えてきている大学の日本語学科の建物が知りたかったのでちょうど良かったと思い、バス停に向ってゆっくり進んでいくバスを追いかけることにした。おそらくイアンもそのバス停で降りて日本語学科の建物に行くはずだと思った。幸いにもバス停までの距離は目と鼻の先で、バスに追いつき、バス停に停まったバスからイアンと思われる人が降りたので、「イアン!!」と大きな声で声をかけた。するとその人はイアンではなく、どうやらイアンは引き続きバスに乗ってさらに先に行ってしまったのだと思った。イアンにメッセージを送ろうかと思ったが、自分は午後1時のバスに乗ってまた元の場所に戻らなければならず、あと20分しかここに滞在できなかったので、すぐさま日本語学科の建物だけを探すことにした。どちらにせよ、明日改めて大学を訪問することになっていたので、もちろんその時に建物を見つけ、教授に会いにいくことをしてもいいのだが、せっかくなので建物の位置だけは特定しておこうと思った。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2025/7/22(火)06:51
17014. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の第一幕は、量子論の哲学という高度に抽象的で不確定性を宿すテーマに対し、自覚的に「カリキュラム」という秩序を与えようとしている場面である。量子現象の揺らぎを思考の網で掬い取り、学生と共に探究の旅へ漕ぎ出す胸躍る期待感は、自身の知的冒険への渇望を象徴する。同時に、優秀な学生たちに刺激されて研究が深化するであろうという確信は、外界のフィードバックを通じて自己を生成し直すプロセスへの信頼を映している。量子哲学が示す「観測者と観測対象の相互生成」は、夢の中で自分と学生たちの関係に重ねられ、学び手と教え手の境界が溶け合う場を暗示している。第二幕は空間的に広がった教室で展開する。ここでの飾り付けは、個人の表現と共同体の規範が交差する儀式的行為である。かつての友人MHが飾り付けの権威を自認し、自分の方法にケチをつける場面は、過去に根差す評価軸が現在の創造を拘束しようとする力学を象徴する。自分が批判を一旦受け入れながらも、志を同じくする友人と共に別の場所へ移り自由に装飾を楽しむ展開は、外部からの規制を超えて自己決定の空間を立ち上げるレジリエンスの発露である。広い教室は潜在的可能性の拡がりを示し、そこに施す飾りは自分の価値観や美的感覚の投影に他ならない。MHの存在は、過去の共同体規範を媒介しつつも、最終的には自分に自律的創造への一歩を踏み出させる導火線として作用している。第三幕で舞台はイギリスへと転じる。異国の町並みにもかかわらず、上品なイギリス英語を容易に聞き取り順応する自分の姿は、未知の環境でも自己同一性を保ちつつ適応できる柔軟性を示す。バスの中に見つけた友人イアンを追いかける行為は、他者との再会を通じて目的地(日本語学科の建物)への地図を得ようとする依存的契機を表すが、結果的にイアンは捕まえられず、自分は限られた時間の中で単独行動へと舵を切る。ここには「頼りにしていた外部の道標が消えたとき、自らの足で道を定めよ」というメッセージが潜む。午後1時発のバスというタイムリミットは、人生における機会と制約のリアルな枠組みを象徴し、明日改めて訪れる予定があるにもかかわらず今ここで位置を特定しようとする姿勢は、未来への備えと現在の好奇心のせめぎ合いを映している。全体を通して見ると、この夢は「外的秩序と内的自由のダイナミックな往還」を主題としている。量子哲学の講座設計、批評を受けながらの飾り付け、自立的な探索へと変容する英国の旅路──いずれの場面も、他者や制度の枠組みを踏まえつつ、それらを乗り越えて自己の創造性を解放するプロセスを段階的に描写している。最初の幕では知的計画がもたらす高揚感が示され、第二幕では美的・社会的協働の葛藤が表れ、第三幕では時間と空間を跨ぐ実践的行動が焦点化する。量子論的揺らぎ、教室という共同体、旅という流動体──これらが重層的に構成する夢世界は、自分の内面で進行する「不確定性の肯定と主体的秩序化」の物語である。ゆえに、この夢が象徴するのは次のような心理的運動である。すなわち、未知と遭遇することで生じる不安を、知的好奇心と創造的自由への悦びへと転化し、外部評価を内在化した上で主体的指針を再構築する過程である。量子哲学の講義準備は未来志向のプロジェクト化であり、飾り付けの移動は価値観の選択と場の切り替えであり、イギリスの街での探索は実践的自律の試みである。それぞれが連鎖し、自分の内的世界に新たなコヒーレンスを与えることで、夢の終わりには「自分の道を自分で見出す」という決意が静かに輪郭を得るのである。フローニンゲン:2025/7/22(火)07:15
17015. 仏教思想における時間観
仏教思想における時間観は、西洋的な直線的時間の概念、すなわち過去から現在、未来へと一直線に流れる時間という理解とは根本的に異なっており、むしろ一切の存在は縁起によって生起し、刹那刹那に変化していくという無常観に基づいて、時間そのものも実体としては存在しないという非実体的な理解に貫かれている。特にアビダルマや中観思想においては、時間は実体的に存在するものではなく、ただ諸法の生滅変化に対して私たちが「前後」や「持続」といった概念を投影しているに過ぎないとされ、時間それ自体は依他起的な概念である。例えば、アビダルマにおいては、過去・現在・未来という時間の三区分が認められるが、それらは現象の相(様相)を表しているに過ぎず、いずれも固定的に実在するものとは見なされない。また中観派、特にナーガールジュナ(龍樹)は『中論』において、「過去はすでに滅し、未来は未だ来たらず、現在は刹那にして流転する」という論理に基づき、時間のいずれの側面も実体を有しないと徹底的に論破する。これは「空」の思想、すなわちあらゆる存在は自性を持たず、関係性と条件によってのみ成立するという考え方と深く結びついており、時間もまた他の一切の存在と同様に「空」であるという結論に至るのである。さらに唯識思想においては、時間というものは外界に客観的に存在するのではなく、識(ヴィジュニャーナ)の連続、すなわち八識(特に阿頼耶識)の流転によって主観的に経験されるものであるとされ、時間は自己の心の変化の相として現れる主観的構成物であるとみなされる。すなわち、時間は実体としてではなく、心の連続的働きが「時間的流れ」のように見せているだけであり、真に実在するのはただ現在の刹那のみにして、その刹那もまた絶え間なく変化しているというのが仏教的な時間観の核心である。これにより、仏教においては未来は未確定の可能性として開かれた場であると同時に、現在の因縁によってすでに方向づけられている側面を持ち、過去もまた記憶という作用によって現在の認識に依存して構成されるという、極めて現象学的かつ実践的な時間理解が展開される。さらに、禅においては「只今(ただいま)」の瞬間、すなわち「今ここ」における気づきと没入が最も重要とされ、過去や未来に心を奪われることは妄念とされる。「一即一切、一切即一」の思想に照らせば、現在という刹那の中に過去も未来も含まれ、逆に過去と未来も現在という意識の中にしか存在しえないという相即的な理解に至る。したがって、仏教思想における時間観は、時間を実在とみなすことを退け、その代わりに、縁起・無常・空・識の流れといった観点から、時間とは存在の流動性を示す仮の概念であり、私たちの執着や無明によって固定化される対象ではないという洞察に根ざしており、この理解は、時間の本質に対する深い解体と同時に、悟りへの実践的道筋をも照らし出すものとなっていると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/22(火)07:22
17016. 良きオランダを実感して
時刻は午後7時半に近づいている。今日はとても涼しい1日だった。早朝こそ小雨が降っていたが、午前中の早い段階で雨は止み、午後からは涼しい風が吹いていて、大変過ごしやすかった。今日は5週間に1度の散髪の日で、親友のメルヴィンの店に行き、髪を切ってもらった。いつもメルヴィンは、自分だけ特別に1時間ほどの枠を取ってくれ、最初の10分ぐらいは散髪台ではなく、お互い対角線上にソファに腰掛けて、コーヒーを飲みながら近況を語り合うことが日課になっている。何やらメルヴィンは、10日間ほど休みを取っており、ちょうど今日から仕事始めだったそうだ。有意義な休暇を過ごせたようで、確かにメルヴィンは常にエネルギーに満ちているが、いつも以上に活き活きとしていた。そこからいつものように色々な話をした。今日はどういうわけか日本とオランダの出生率の話が出てきて、いつもより社会的な話題についても話し合った。今度の休暇では、メルヴィンは彼女のアンジェリカと一緒にパプアニューギニアに行くらしく、パプアニューギニアの地理的な位置と歴史などをメルヴィンに教えてもらった。また、その翌年はかねてから訪問したいと思っていた日本に満を持して訪れるとのことで、日本に関しても色々と話をした。その他にも、かつてメルヴィンがシロシビン・トリュフを2パック一気に摂取したことがあるという話を聞き、来月日本から知人が来る際に、3パックを2人で分ける形で高服用量のセッションをしようとしていたこともあり、大変有意義な話を聞くことができたと思った。メルヴィンの店を後にして、今日は夏用の服を購入しに2店ほどアパレルショップに足を運んだ。この間の冬の際に見つけて良質な衣服を購入できて満足した店に足を運んだところ、冬用に関してはSサイズがフィットしたのだが、夏用に関してSサイズだと丈が長くて困った。購入予定ではなかったが、冬用のものがセールとなっていたので、一着冬用にセーターを購入した。次に訪れたのは、これまたこの間の冬に訪れた店で、そこではパジャマ用のTシャツを以前購入していた。そこではXSサイズを見つけたが、結局丈はSサイズと変わらずとても大きく、女性用のフロアに降りて、女性の店員に尋ねたところ、別に男性が女性用の服を購入してもおかしくはないとのことで励まされ、女性用のSサイズがちょうどいいサイズだったので、無地の黒と白のTシャツをそれぞれ1枚ずつ購入した。良い買い物ができたと満足気に家に向かって歩いていると、自転車に乗ったオランダ人の中年女性がいきなり自分の前で止まって、「あなた日本人ね」と笑顔で声をかけてきた。欧米で生活していると結構中国人と間違われるのだが、その女性は自分が日本人であることを一目で見極めたので驚いた。その理由を尋ねてみたところ、髪型、服装の洗練さ、姿勢、オーラなどを挙げてくれた。これは日本人であるかどうかは関係ないと思うが、「何より楽しそうに歩いているのが印象的だったわ」と述べてくれたのは嬉しいフィードバックであった。どうやら自分は良いオーラを発して歩いていることがわかったのは収穫だった。ちょうどメルヴィンともお互いが良い気を発していることについて話し合っていたところだったので、その偶然に驚いた。その中年女性とは数分ほど道端で立ち止まって話をしていて、話し終えて反対側の通りのバーを見ると、バーの屋外で飲み物を飲んでいた男性がこちらを見て微笑んでいたので、手で合図を送って挨拶をした。オランダではこうした形で見知らぬ人同士が気兼ねなく話をするという交流が自然と起こることが自分には嬉しい。常に自分はどんな人にも開かれた心の在り方を持ち、その在り方をこれからますます磨いていきたいと思う。フローニンゲン:2025/7/22(火)19:42
Today’s Letter
It is true that there are various interpretations of quantum phenomena. Yet, in essence, they all derive from the same non-dual wholeness of reality. Groningen, 07/22/2025

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