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【フローニンゲンからの便り】17007-17011:2025年7月21日(月)


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タイトル一覧

17007

非決定論と自由意志に関する唯識の観点

17008

今朝方の夢

17009

今朝方の夢の振り返り

17010

ミカエル・メンスキーの量子論とその思想

17011

トレーニングを終えて/ジョン・アーチボルド・ウィーラーの量子論とその思想

17007. 非決定論と自由意志に関する唯識の観点

  

時刻は午前6時半を迎えた。昨夜就寝前に、雷を伴う激しい雨が降った。一夜明けると、辺りはとても静かな様相を呈している。今日は1日を通して曇りのようで、最高気温は24度とのことである。今日から10日間は、20度前半の気温が続くこともあり、大変過ごしやすい日々となるだろう。8月を迎えても、できるだけ今のような気温であってほしいと思う。今年の夏は少し暑いかもしれないと思ったが、その心配は杞憂に終わり、今の所大変涼しい夏となっている。


唯識における阿頼耶識縁起の教理は、非決定論的な世界観および自由意志の可能性を精緻に支える枠組みとして解釈することができる。阿頼耶識とは、いかなる時点においても識流の最深部において不断に活動している根本的心相であり、過去に経験された行為や認識が「種子」としてこの識に保存され、因縁によって現行として表面化するという構造を取っている。種子の現行は単なる機械的因果ではなく、種子と縁の相互作用によって決定されるという点で、そこには生成の偶発性と不確定性が織り込まれている。すなわち、阿頼耶識が内蔵する「含蔵種子」は、定まった結果を必ず導くような宿命的構造ではなく、むしろ多様な縁と結びつくことによって多岐にわたる現行を可能にする潜勢的構造体である。この潜勢性は、量子論における確率的波動関数にも似て、絶対的決定性を排除しつつ可能性の場を開くものである。唯識の見地に立てば、個人の行為(カルマ)もまた種子として阿頼耶識に刻印され、それが未来の経験や傾向性を形成するが、しかしそれがいかなるタイミングで、いかなる形で現行するかは、個人の現在の行為・意志・環境といった縁の総合的条件によって変化するため、因果の必然性においても常に余地が残されている。したがって、自由意志とは絶対的な自己決定の力ではなく、無限に変化する縁の網の目の中で、過去の種子に対して意識的に新たな縁を結び直すことのできる能動的契機として理解されるべきである。すなわち、意志とは因果律を超越するものではなく、むしろ因果律の中に開かれた構造的余白において、主体が応答的かつ創発的に「選び取る」力に他ならない。この選び取りの契機こそが、唯識における修行論的核心であり、業報のメカニズムが単なる報いではなく、変革可能な認識構造の産物として開示されている根拠でもある。非決定論はここで単なる偶然性や無秩序ではなく、縁起によって生成される多様な可能性の開かれとして現れ、それを受け取る主体の自由意志は、その縁をどう選び取り、どう結び直していくかという倫理的・実践的自由に他ならない。このように、唯識思想における阿頼耶識縁起は、自由意志の成立を認めつつも、それを絶対的自我の特権としてではなく、因縁の網の目の中で絶えず選び直されていく生成的自由として描き出しているのであり、ここには決定論的世界観を超えた動的構造のうちに人間の行為と責任を位置づける高度な非還元的認識論が示されていると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/21(月)06:39


17008. 今朝方の夢

 

今朝方は夢の中で、見慣れない講演会場にいた。そこには日本人の方々が多く集まっていて、どうやら自分もそこで講演をすることになっていた。というよりも、その日は自分と知人の2人の講演がメインであり、その場にいた人々はそれを心待ちにしているようだった。参加者の表情を見ると、とても活き活きとしていて、これから始まる講演の話に好奇心を強く持っているようだった。いざ自分の講演が始まろうとしている時に、司会者がまず知人の方を登壇させ、その方の言葉で私のことを紹介してもらうことになった。その方とは長い付き合いで、その方は幾分はにかみながらも私のことをユーモアを交えて見事に紹介し始めた。私はトイレで一瞬その場を抜け、戻ってくると、私の紹介は終わっていて、その方の講演に移っていた。その中でその方は、レクティカの取り組みについて紹介し、レクティカの共同設立者であるザカリー・スタインの発達思想を引き合いに出し、彼の思想がいかにその方に大きな影響を与えたのかについて語っていた。その話は大変共感するもので、レクティカの取り組みとスタインの思想は自分にも絶大な影響を与えていることを改めて思っていた。その方は講演の際にPPTを使うことはなく、紙芝居のような手作りの資料を準備し、それを大きなホワイトボードいっぱいに貼り付けて説明をしていた。PPTではない手作りのその資料はとても温かみがあり、聴衆を惹きつける力を持っていた。その方の話によって場が見事に温められた後、自分の講演の番となった。壇上に登壇すると、知人のその方と少しその場で掛け合いをすることになり、そこで思わず私はその方に「なんでやねん」と笑いながら突っ込む場面があった。その時に聴衆の方から、「最近は関西でももう『なんでやねん』は使いませんよ」と笑いながらの指摘があり、会場全体がドッと笑いに包まれた。そこから私は気分よく楽しげに講演をし始めた。


次に覚えているのは、京都を舞台にした場面だった。そこで外国人たちが多数参加するカンファレンスが2箇所で開催されることになっていた。どちらも共におしゃれなカフェでの開催で、最初のカンファレンスが行われるカフェに私はいた。集まっている外国人たちは何かしらの学問分野の専門家で、多様な分野の専門家が一堂に介してカフェで話をしている様子は圧巻だった。全員楽しげに話をしており、その中で多様な分野の知の交流が行われており、新たな知の創発が起こっていることを身をもって感じていた。自分も自らの専門分野を通して会話に加わっており、始終刺激的な対話の渦の中に身を置くことの有り難さを思った。明日の2箇所目でのカンファレンスもとても楽しみな気分でその場を後にし、バスに乗ると、そこで見知らぬ2人の女性が、東京の電車の不便さについて述べていた。私は東京の電車は本数も多く、基本的に時間通りにやってくるので便利だと思っていたが、どうやら彼女のたちの意見としては、線路の配置に問題があるようだった。すなわち、本来は一直線に迎えるはずのところを、三角形の2辺を通る形で乗り換えをしなければいけなかったり、四角形の3辺を通らないといけなかったりと、非効率的な路線があることを問題視しているようだった。であれば車で移動すればいいのにと思ったら、気づけば自分は車を運転していて、右側通行でいいのか、それとも左側通行でいいのか迷い、ここは日本だから右側通行で大丈夫のはずだと思って右側通行で走行することにした。向こうから車がやって来た時に、右側通行で大丈夫だということがはっきりして、そこからは安心して車の運転ができたが、車の運転など普段全くしていないので、早めに車を止めて車から降りようと思った。


その他に覚えているのは、おそらく東京の郊外の街にある自分の一軒家にある女性が訪問しに来た場面である。どうやら彼女とは付き合いが長いらしく、彼女はとても優しく、どうやら自分に癒しをもたらしに来てくれたようだった。2階のテラスで寛いでいると、彼女がそこにやって来て、そばに座り、静かに話を始めた。彼女がそばにいるだけで、不思議と自分のエネルギーが充電されていく感じがあり、それをもって彼女は自分にとってかけがえのない存在だと改めて思った。夕暮れ時の涼しい時間帯に、そこからも彼女としばらく落ち着いた雰囲気の中で会話をし、それを通じて癒しを得ている自分がいた。フローニンゲン:2025/7/21(月)07:02


17009. 今朝方の夢の振り返り 


今朝方の夢は多層的な舞台装置と登場人物の配置を通じて、自己の発達過程と他者との創発的な関係性を照射する劇として立ち現れている。まず第一場面――見慣れない講演会場――は、自己がまだ十分に馴染みきっていない内的空間、すなわち新たなアイデンティティの「試用版」のような領域を象徴している。そこに集う日本人の聴衆は、日常的自己を形成してきた文化的背景と過去の体験の総体であり、その眼差しが期待と好奇心に満ちていることは、自己が自らの潜在力を外化し、共同体に寄与する準備を整えていることを示唆する。司会による段取りの入れ替えは、コントロールの一部を手放し、他者の声を媒介にして自身が紹介されるという、自己像の再構築プロセスである。トイレに立つ一瞬の離席は、自我が無意識の深層に潜り、再び意識の舞台へ戻ってくる儀式的行為である。その不在の間に語られた紹介は、自己が直接関与しないままに形成される「他者から見た私」の輪郭を暗示し、続く知人のレクティカとザカリー・スタインの話題は、知的発達理論を介したメタ認知的まなざしへの誘いである。PPTではなく紙芝居というアナログ媒体の選択は、情報の量よりも温度と触覚性を重んじる姿勢を示し、知の伝達を「手渡し」の行為へ回帰させることで聴衆の身体知を喚起する。ここで温められた場に自我が登壇し、関西的ツッコミ「なんでやねん」を放つと、聴衆との相互作用が笑いとして結晶する。それは言語ゲームの共有地平を再確認しつつ、古い慣習を相対化する自己批評の瞬間であり、その指摘を契機に会場が沸くことで、自己と集団が共振するリズムが確立される。第二場面――京都のカフェでの国際カンファレンス――は、一国一文化の枠を超えた知の遊動空間であり、多様性の坩堝(るつぼ)としての自己の拡張を示す。カフェという日常的・非権威的な場に専門家が集う構図は、専門知と生活世界の垣根を溶かし、新たな知的生態系を醸成する「サードプレイス」の寓意である。自己がその対話に積極的に関与し、「知の渦」の中心に身を置く感覚は、自己が単一の専門アイデンティティを脱ぎ、多元的・流動的なポジションを獲得しつつある証左である。バスでの移動は、異文化交流から日常への回帰を示す典型的な場面遷移装置だが、そこで耳にする鉄道路線の非効率談義は、既存のインフラ――すなわち旧来の思考回路――がもはや複雑化した現実に適合しきれていないことへの批判として聞こえる。主体が「車に乗り換える」決断をし、右側通行を選ぶ逡巡は、慣習的規範を一時的に相対化しながらも、最終的に「ここは日本だから」という内的法則に還るプロセスである。これは、従来の枠を破りつつも、自らの文化的根を再確認する――創造と帰属の弁証法――を象徴する。第三場面――郊外の自宅テラスでの女性との静かな邂逅――は、日中の公共的・知的な活動とは対照的に、私的領域での情緒的再充電を描く。長い付き合いの優しい女性は、アニマ的側面、あるいは内的ケアテイカーとしての自己の一部であり、夕暮れの涼風と共にもたらされる癒しは、過剰な外向・活動性を鎮め、自己の深部を滋養する働きを担う。テラスという建物と空の間の半外部空間は、内界と外界を媒介する閾であり、そこに座す2人の静かな対話は、内的統合と秩序回復の象徴的儀式である。これら三場面を貫く基調は、「自己の多層的展開」と「他者との共創的インタラクション」を巡る動的バランスである。第一場面では自己イメージの刷新がユーモアと共同体を媒介に進行し、第二場面では専門知と生活世界の混淆による知の再組織化が試みられ、第三場面では情緒と静寂を通じた内的統合が果たされる。それらは時間軸としても、朝の講演(始動)、日中のカンファレンス(活性)、夕暮れのテラス(鎮静)へと巡る「1日の循環」をなぞり、主体の生命リズムそのものをメタファーとしている。総じて、本夢は自己が個人的・共同体的・国際的次元を往還しつつ、知的成長と情緒的成熟を同時に追究する過程を示すワークスケッチである。そして各場面で垣間見える笑い、驚き、癒しは、発達の階梯を登る際の潤滑油として配置されている。未踏の舞台で講演を行うこと、異文化混交の場で対話を紡ぐこと、親密な他者と静かに過ごすこと――これらはすべて、自己が自らの可能性を多角的に展開し、世界と共振するためのレッスンであると解釈できる。夢はそのレッスンの青写真を示し、覚醒時の行動選択に示唆を与える羅針盤となっているのである。今日もまた実に示唆深い夢を見たものだ。フローニンゲン:2025/7/21(月)07:22


17010. ミカエル・メンスキーの量子論とその思想

                          

ミカエル・メンスキー(Michael B. Mensky)は、ロシアの理論物理学者であり、特に量子測定問題と多世界解釈(Many-Worlds Interpretation, MWI)に関する独自の哲学的展開によって知られている人物である。彼の理論は「量子世界の意識的アクセス」あるいは「量子不完全性に基づく意識理論(Quantum Concept of Consciousness, QCC)」と呼ばれるもので、エヴェレットの多世界解釈を土台にしつつも、それを唯物論的に閉じるのではなく、意識の構造と役割を中心に据えた斬新な哲学的視点を導入している。メンスキーの中心的主張は、意識は単なる観測者ではなく、「選択する主体」であると同時に、「複数の量子的可能性のうち、1つを現象界として経験する場」であるという点にある。すなわち、彼はエヴェレット解釈のもとで分岐する無数の量子的世界(ブランチ)が同時に存在することを認めつつも、その全体性を「意識」は超越的に把握できると考える。ここにおいて、意識とは単なる脳の副産物ではなく、むしろ「多世界全体にアクセスする窓口」であり、クラシカルな世界像を構成するフィルターでもあるとみなされる。この思想は、従来の還元主義的な意識の神経科学的説明を越え、量子論と心の哲学を架橋しようとする壮大な試みである。メンスキーは特に、「量子不完全性(quantum incompleteness)」という概念を用いて、人間の自由意志と精神現象を量子的レベルに位置づける。量子論は、あらゆる物理的現象が波動関数によって確率的に記述されることを示すが、その波動関数の「収縮」あるいは「選択」は、測定という行為を通して確定される。彼の理論では、この「選択」のプロセスこそが、意識による構成的行為であると考えられる。したがって、意識は「1つの世界を選び取る」というよりは、「多数の可能性の重なりの中に住まうが、そのうちの1つを現象世界として確定的に経験する」というダイナミズムを担っている。この立場は、単に物理的世界の多重性を肯定するのではなく、「心的現象は量子的現実の反映である」とする一種の量子唯心論的立場へと接続される。メンスキーはこの点で、カール・プリブラムのホログラフィック脳モデルや、ロジャー・ペンローズとスチュアート・ハメロフによる統合された客観収縮理論(Orchestrated Objective Reduction Theory)、あるいはヴェルナー・ハイゼンベルクやニールス・ボーアの哲学的量子論にも通底する視座を提供しているが、彼の理論はそれらよりもさらに明確に「意識とは全世界の統一的把握に関与する根源的実在である」とみなす傾向が強い。メンスキーはまた、死後の意識や霊的体験といった非科学的とされがちなテーマにも積極的に量子的枠組みからアプローチしようとする点でも特異であり、彼にとって量子論とは、単なる自然科学的理論ではなく、「意識とは何か」「自由意志とは何か」「世界とは何か」という根源的問いに対する統一的応答の鍵として機能している。彼の哲学はしたがって、唯物論と観念論、物理学と精神哲学、科学と霊性といった二元のいずれかに単純に還元されるものではなく、それらを横断し、多世界の全体性の中に意識の位置を再定義する試みとして読むことができる。要するに、ミカエル・メンスキーは、量子論の非決定的かつ多世界的な構造を、意識の根本性と結びつけることによって、科学と人間存在の統合的理解を模索する思想家であり、そのアプローチは単なる量子物理学の解釈を超えて、哲学的・存在論的・霊的次元にまで射程を持った「量子的意識論」の提唱に他ならないのである。メンスキーの量子論はそのように興味深いものなので、今度の書籍の一括注文の際に、英訳されている書籍は全て購入したいと思う。フローニンゲン:2025/7/21(月)07:36


17011. トレーニングを終えて/ジョン・アーチボルド・ウィーラーの量子論とその思想                        

時刻は午後4時半を迎えた。今日は結局25度まで気温が上がっており、昨夜の雷雨もあって湿度が高かった。そのせいもあってか、ジムではかなり良い汗をかいた。先日のパーソナルトレーニングでの筋肉痛がまだ取れていない箇所もあったので、無理をせず、とは言えそれら以外の箇所は随分と追い込んでトレーニングに励んだ。ここ最近は、インターバル中の瞑想実践も板について来ている。呼吸に意識を当てたり、心臓の声に耳を傾けるかのように、心臓に手を当てて心臓の鼓動に意識を集中させることを行なっている。今日は午前中からジムに行くまでの時間を使って翻訳書の翻訳を進めていった。研ぎ澄まされた集中力のおかげもあって一気に翻訳が進み、2章の終わりまで翻訳を完了した。この調子で毎日1章ずつか2章ずつ進めていけば、8月末までには十分に最初の翻訳作業が仕上がりそうである。ちょうど7月と8月は翻訳や書籍の執筆に集中しやすい時期なので、この時期を逃さずに一気呵成に仕事を進めてしまおう。


ジョン・アーチボルド・ウィーラー(John Archibald Wheeler, 1911–2008)は、アメリカの理論物理学者であり、ブラックホールや一般相対性理論、そして量子論における深遠な思索によって20世紀の物理学に大きな影響を与えた人物である。ウィーラーは純粋な科学的貢献者にとどまらず、後年は物理的宇宙の根源に「情報(information)」を据える独創的な哲学的構想を打ち立て、それを「It from Bit(“モノ”は“ビット”から)」という一言で表現した。この構想は、物質的実在が情報的構造に還元されうるという意味であり、後の量子情報理論やポスト物質主義的宇宙論に大きな示唆を与えている。ウィーラーの量子論に対する関心は、アインシュタインとの共同研究や量子重力理論の構築から始まり、量子測定問題、観測者の役割、そして宇宙論的スケールでの量子現象の意味へと深化していった。彼が提唱した最も象徴的なアイデアの1つが「遅延選択実験(Delayed-Choice Experiment)」である。これは、量子粒子(例えば光子)の行動が、観測のタイミングによって過去にさかのぼって決定されるかのような振る舞いを示す実験構想であり、過去・現在・未来の因果的区分が量子的世界においては崩壊していることを示唆する。この遅延選択のアイデアを通じてウィーラーは、「現実とは観測を通じて初めて確定される出来事である」という量子観測論的立場を強調し、クラシカルな客観世界像の限界を浮き彫りにした。この考えをさらに宇宙論へと拡張したのが、彼の「参加型宇宙(Participatory Universe)」というビジョンである。ウィーラーにとって、宇宙は物理的にあらかじめ出来上がった客体ではなく、観測者の問いかけや情報の作用を通じて、逐次的に「創発される」存在であった。観測者は単なる外部の傍観者ではなく、宇宙の実在そのものの形成に参与する「問いかける存在(observer-participant)」である。この立場は、ニールス・ボーアのコペンハーゲン解釈に近い部分を持ちつつも、それを越えて、宇宙論的スケールでの自己言及的構造(宇宙が自らを観測する)を含む壮大なメタ物理的思索へと発展している。「It from Bit」という彼の哲学的スローガンは、「宇宙のあらゆる物理的存在(It)は、根源的には情報的選択(Bit)から生じている」という意味であり、ここで言う「Bit」とは単なるコンピュータ的ビットではなく、「はい/いいえ」という問いへの回答可能性、すなわち観測可能性としての情報の単位である。したがって、現実とは情報の累積的選択によって形成される意味的構造体であり、主体の関与が不可避なプロセス的実在であるという理解が提示される。これにより、ウィーラーの世界像は、量子的非決定論と情報理論を媒介として、実在の情報的・相互構成的性格を強調する哲学的パラダイムへと至っている。彼の思索の中でとりわけ注目されるのは、物理的記述と言語・意味・観測の構造との関係性であり、これはしばしば「自然の自己記述性」や「存在の意味論的生成」といった、現代形而上学の核心的問いと接続される。また、彼の思想は量子脳理論、構成主義的宇宙論、情報哲学、さらには仏教的空観や縁起説にすら通底する可能性を持ち、「世界は他者との関係の中で生まれ、意味を帯びる」という観点から見ると、東洋哲学との橋渡しすら可能な構造を備えている。要するに、ジョン・ウィーラーは量子論と宇宙論という二大領域を貫いて、「実在とは情報の選択であり、観測者の関与を通じて初めて成立するものである」という観測論的・意味論的宇宙像を構築した思想家であり、そのビジョンは単なる科学理論にとどまらず、「宇宙と意識の相互生成」という現代の最も根本的な問題系へと切り込む深遠な哲学的構想を提供するものである。フローニンゲン:2025/7/21(月)16:40


Today’s Letter

Each dream gives me a tremendous amount of profound insight. These insights nourish me. Without dreamwork, I would not be able to bring harmony to my life or attain further development. Groningen, 07/21/2025

 
 
 

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