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【フローニンゲンからの便り】17001-17006:2025年7月20日(日)


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タイトル一覧

17001

構成的実在論と関係的実在論

17002

今朝方の夢

17003

今朝方の夢の振り返り

17004

在り方(being)に関するカート・フィッシャーの思想について

17005

依他起性的量子論の台頭と円成実性の待望

17006

非決定論と自由意志

17001. 構成的実在論と関係的実在論


時刻は午前7時半を迎えた。早朝に少し小雨が降る瞬間があり、今もうっすらと曇っていて、午前9時頃までは小雨がまた降る可能性があるようだ。今の気温は19度で、今日の日中の最高気温は25度である。明日から迎える新たな週は、とても涼しい週になるようだ。20度前半の気温がずっと続き、来週の初旬は20度を下回る少し肌寒い気温となる。8月を間近に控えているが、まだまだフローニンゲンは涼しくて何よりである。


昨日、改めて構成的実在論(constructive realism)と関係的実在論(relational realism)について考えていた。両者は、20世紀以降の科学哲学や認識論の展開の中で提唱・発展してきた、伝統的な実在論を再構成するための哲学的立場である。これらは、古典的な「素朴実在論(naive realism)」――すなわち、世界は観測者の認識とは無関係に独立して存在し、その性質も観測者の介在なしに確定しているという考え方――に対する批判と反省から生まれたものである。まず、構成的実在論(constructive realism)は、イギリスの科学哲学者 ロイ・バスカー(Roy Bhaskar) の「批判的実在論(critical realism)」と親和性を持ちつつ、より明確に「知識の構築性」と「実在の非構築性」のバランスを取ろうとする立場である。この立場の代表的提唱者の中に、ローレンス・スカーラム(Lorraine Daston)やフリードリヒ・シュタッフェル(Friedrich Stadler)、さらには科学的知識の構成過程を重視したエルンスト・フォン・グラースフェルト(Ernst von Glasersfeld)らが挙げられる。構成的実在論は、私たちの科学的知識は、観測や理論、実験、記号体系、歴史的文脈といった多様な要因によって「構成されたもの」であると認める一方で、しかしそれが何らかの「実在に基づいている」とする。つまり、科学的理論は完全な鏡ではなくモデルであり、世界を構成的に「切り取る」仕方によってしか記述され得ないが、それでもなお、その切り取りの背後には「説明すべき実在」があるという主張である。これは極端な構成主義(すべては社会的に構築されている)や、極端な実在論(理論は世界の正確な鏡である)のいずれとも一線を画す中道的立場と言える。一方、関係的実在論(relational realism)は、特に量子力学の哲学的含意の文脈で注目されてきた立場であり、その代表的提唱者はイタリアの物理学者で哲学者でもあるカルロ・ロヴェッリ(Carlo Rovelli)である。彼の「関係的量子力学(relational quantum mechanics)」は、関係的実在論の最も明確な物理的モデルの1つとされる。ロヴェッリは、量子状態や物理的属性は「絶対的に存在するもの」ではなく、「他の物理系との関係の中でのみ定義される」と主張する。例えば、ある粒子のスピンが上向きであるという性質も、それを観測する他の系との関係の中でしか意味を持たない。このように、あらゆる物理的事実は、特定の関係の中でのみ確定され、絶対的・観測者非依存的な性質は存在しないという見解である。関係的実在論の哲学的意義は、主客の二元論的区分を相対化し、「存在とは関係である」という存在論的転換を提示するところにある。これはアリストテレス的な「実体」概念や、デカルト的な「主観—客観」二分法を超えて、世界を根本的に「関係の網の目」として捉える視座を開く。この見解は、ホワイトヘッドのプロセス哲学や、仏教的縁起思想、唯識や中観の哲学とも親和性が高く、物理学と形而上学の新しい架橋の試みと言えるだろう。また、ヴォイチェフ・ズレクの「量子ダーウィニズム」や「デコヒーレンス理論」も、観測者と環境との相互作用の中で物理的現象が成立するという点で、関係的実在論の一形態と見なすことができる。そこでは「実在」はあらかじめ与えられたものではなく、情報の共有と環境との結合の中で「現象的に安定化される」ものであり、それ自体が関係的生成過程とされる。このように、構成的実在論は「知識は構成されるが、構成の背後には非構成的実在がある」という認識論と存在論の両立を志向し、関係的実在論は「実在とは関係性そのものである」という根本的な形而上学的転換を提案する。それぞれが、近代的実在論の限界を克服しつつ、新たな知の地平を切り開こうとしており、量子論、情報論、科学技術論、さらには仏教哲学とも交差しうる、きわめて多面的かつ現代的な思想潮流を形成しているのである。フローニンゲン:2025/7/20(日)07:54


17002. 今朝方の夢 

 

今朝方の夢は知っている人が登場することは皆無であった。これは自分の夢としては珍しい。普段の夢は、友人や知人が必ず出てくるのだが、今朝方の夢は一切そのようなことがなかった。最初の夢は、どこか外国の見慣れない町の市民図書館を舞台に展開された。私はその夢の目撃者として最初存在していた。しかし、ある車の後部座席に座っている妊婦の若く綺麗な外国人女性を見た瞬間に、自分は彼女の隣にいた。彼女は今にも出産をしそうな状態になっており、止まっている車を走らせて病院に向かうか、誰が運転をしてくれる人を見つけて、その人に運転してもらって、自分は彼女の横で励まし続けるかを考えた。とりあえず窓を開けて、新鮮な空気を車内に取り入れることによって、彼女の気分を和らげるようにした。すると夢の場面が突然巻き戻り、彼女が妊娠が発覚した瞬間の場面となった。彼女は微笑みながら妊娠の連絡を私に告げた。そしてどうやらその赤ちゃんは彼女と自分の間に生まれたものであることがわかった。どうやら私たちは付き合っていたようで、彼女の妊娠の連絡を受けて私はとても嬉しくなり、2人でそれを祝った。そこから私は彼女のお腹を撫でて、彼女の身体を労った。そのような場面が脳裏に浮かぶと、再び車の中の場面に戻ってきた。すると驚いたことに、彼女のお腹がへっこんでいて、赤ちゃんが無事に出産されたようだった。しかし、赤ちゃんの姿はどこにも見えず、また彼女も出産をしたことに気づいていないようだった。さらに驚いたのは、あれほど優しい性格だった彼女の性格が、出産を終えると突然厳しい性格となり、表情も非常に険しかった。その瞬間に、出産前は彼女と自分は付き合っていることになっていたが、出産後はもう完全に他人同士であることに気づいた。彼女は車から降りてどこかに消え、それと同時に大雨が降ってきた。私は傘もなく、自宅に帰る移動手段もなかったので、市民図書館の下に行って雨宿りすることにした。


もう1つ覚えている場面は、おそらく日本と思われる国の見知らぬ町を歩いていたことである。その町は地方都市で、人口密度はそれほど高くなかった。歩道も車道もそれほど混んではおらず、人が通ることも車が通ることもまばらであった。そんな町をふらふらと歩いていると、見知らぬ男性と遭遇し、彼は私のことを知っているようだったが、自分は彼のことを知らなかった。その場で少し立ち止まって話をしたところ、彼は私の何かに対して不満を持っているようだった。いやそれは自分に対してというよりも、社会に対する不満だったのかもしれない。いずれにせよ、彼は心の中の何かしらのシャドーを投影する形で自分や社会を見ていることは確かであった。その他にも何か夢を見ていたように思うが、今朝方の夢は総じて少し苦い後味を残すものだった。夢の中で爽快感は一切なく、何か抑圧された向き合うべき事柄が滲み出しているような印象を受けた。フローニンゲン:2025/7/20(日)08:13


17003. 今朝方の夢の振り返り

 

今朝方の夢は、まず既知の人物が完全に姿を消していたという異例の状況によって、現実の日常的な連鎖をいったん断ち切り、意識がまだ名づけられていない領域――いわば「外部」に向かって開かれたことを示唆している。心理学的に言えば、普段は友人や家族といった「顔のある他者」を介して均衡を保っている自我が、その媒介を失ったまま無名の空間へ投げ出され、未知の側面――集合無意識の深層に沈む元型や、個人的無意識に潜む影に対面せざるを得なくなったのである。冒頭の舞台となった外国の市民図書館は、書物という象徴を通して知識の蓄積、歴史の堆積、ひいては「記憶の保管庫」としての無意識を体現している。そこで自分は当初「目撃者」にとどまっていたが、妊婦の存在を契機に一挙に「当事者」へと転じる。この視点の転移は、心的エネルギーが観察的態度を離れ、情動的・創造的な関与へ向かって流れ込む瞬間である。妊娠とは生命の潜勢力が形を取り始める過程であり、無意識下で芽生えつつある新しい人格契機、あるいは価値観の胚胎を示す。しかも相手が見知らぬ外国人女性――「異文化のアニマ」である点は、自分がこれまでの自己像では捉えきれない異質な感性や直観を取り込みつつあることを暗示する。時間が巻き戻り、妊娠判明の場面へ跳躍する非線形構造は、客観的歴史時間から解放された「夢時間」の特権的運動であり、まだ定着しきらない内的現象が多方向へ試行錯誤しながら語り直されている証左である。幸福感と祝福のやり取りは、新しい可能性を歓迎する自我の側の肯定である一方、直後に示される出産の不在と胎児の消失は、その可能性が現実化する前に蒸発する恐れ、すなわち創造への不安や責任の重圧を映す。出産後、女性の性格が激変し、関係が断絶する場面は、アニマが「優しい母」から「苛烈な裁定者」へ転化する古典的モチーフであり、理想化が反転して否定的投影へ変わる瞬間を描く。要するに、自分が抱く創造的衝動は、実現直前において自己否定的な力――「超自我的な批判」を呼び込み、自らその芽を摘もうとする。赤子の行方不明は、未分化の可能性が「形を得る前」に宙吊りとなった象徴である。妊婦が去った直後に降りだす大雨は、抑圧が解かれて噴出した情動の奔流であると同時に、祝祭の失敗を洗い流す浄化の契機でもある。傘も交通手段も失った自己が図書館のひさしに逃げ込む様子には、感情の奔流を一旦外化しながらも、結局は知的防衛――言語化・概念化という安全地帯へ立て籠もろうとする傾向がうかがえる。つまり、情緒的体験を頭脳で処理し直す「脱身的な転位」がここで再演されるのである。次に現れる日本の無名の町は、先の「異国」から一転して文化的ホームグラウンドに戻ったかに見えるが、人通りの希薄さが示すように、そこでも社会的連結は希薄である。そこで遭遇した「自分を知り、自分は知らぬ男」は、ユング心理学でいうシャドーの典型的外化であり、自分が意識の光から遠ざけてきた否定的感情や対社会的攻撃性が、見知らぬ他者の姿を取って現れている。彼の不満が個人とも社会とも取れる両義性は、その影の内容が個人的罪悪感と集団的閉塞感の双方に跨っていることを示す。言い換えれば、自分は自らの内なる批判精神を外部の社会悪へ投射し、その反射として自己への違和感を抱いているのである。全体として、この一連の夢は「新しい自己の誕生」をめぐるダイナミックな攻防を描き出している。図書館という知の場から始まり、妊娠・出産という生命の場へ躍り込み、再び知の庇護へ戻る循環は、思考(ロゴス)と情動(エロス)との間を揺れ動く心的リズムを映す。そのリズムが最後、シャドーの登場によって「苦い後味」として残るのは、未だ統合されていない分裂が露呈したからである。創造的契機(赤子)は姿を見せず、アニマとシャドーはいずれも厳しい形相を帯び、自己を促す。――感情を知性で覆い隠すばかりではなく、苛烈な批判をも内在化して引き受け、未知の外部を自己の内部へ招き入れよ、と。したがってこの夢が象徴的に示すのは、安定した対人関係や慣れ親しんだ自己像をいったん手放し、流動的な無意識のエネルギーを直視して、そこに宿る新しい価値や行動原理を実際の生活へ産み落とす必要性である。産み落としを先送りにすればするほど、アニマは冷酷な裁定者へ、シャドーは攻撃的な批判者へと変貌し、自我を雨の中に取り残すだろう。逆に言えば、図書館の軒下から再び歩み出し、その雨を身をもって浴びる覚悟こそが、失われた赤子――未形の創造性――を現実世界へ連れ戻す道程の第一歩なのである。フローニンゲン:2025/7/20(日)08:39


17004. 在り方(being)に関するカート・フィッシャーの思想について  


朝食を摂り終え、これから翻訳書の翻訳に取り組んでいきたいと思っていたのだが、ふと昨日のゼミナールの第141回のクラスで取り上げられた話題を思い出した。そのトピックは以前から自分も考えていたものであり、良い機会かと思ったので、少し考察を書き留めておきたい。トピックは、「在り方(being)」に関するカート・フィッシャーの思想に関してである。


カート・フィッシャーはおそらく、日本語でいう「在り方(being)」という非常に多義的かつ曖昧なものに対しても、それは人間(human “being”)が特定の状況で特定の対象に対して発揮するものであり、タスクや環境との相互作用によって発現の仕方が変化するという点において、きっと彼が定義するところのスキル(skill)とみなすであろう。フィッシャーであれば、日本語でいう「在り方」をどのように語るであろうか。きっとフィッシャーは、科学者ゆえに、神秘化されて放置されている「在り方」というものについても、スキル理論の観点で脱神秘化を図ることを通じて、最後に残る語り切れないものを残すであろう。彼の一連の論文を読み、実際に彼の研究室を訪問した際に彼と話をした経験をもとにすると、フィッシャーがもし「在り方(being)」という語を正面から取り扱う機会を得たとすれば、彼のスキル理論の枠組みにおいて、神秘を棚上げするのではなく、構築可能な諸過程として吟味する姿勢を取って上で、それでもなお、「スキルの基盤として残る変化不可能な何か(あるいは変化し続けることそれ自体)」を、静かに尊重する態度を取ったに違いないのではないかと思う。フィッシャーにとって「在り方」とは、固定的で形而上的な実体ではなく、人が特定の状況・関係・課題においてどのように存在し、振る舞い、意味を生成するかという、プロセス的な現象であると考えられる。その意味で、彼の理論における「スキル(skill)」とは、単に外面的な遂行能力ではなく、存在の様式(modes of being)を具現化する構造的・文脈的な発現形式に等しい。言い換えれば、「在り方」はskillの中に内在し、「doing」の連鎖の中に浮かび上がる「being」なのである。例えば、ある青年が「他者に共感する」能力を発揮しているとする。その共感は、状況・相手・目的・文化的文脈によって異なる複雑な次元を持つ。だが、フィッシャーはそれを抽象的な「共感的存在者の在り方(compassionate being)」としてではなく、「構成された共感スキルのレベル」や「文脈依存的な展開」として記述するであろう。すなわち、「在り方」は発達範囲(developmental range)を持ち、タスク × 文脈 × 支援の交点で特定の様態を取る。しかも、その「在り方」には常に可変性が内在する。自閉症スペクトラムの子どもであれ、芸術家であれ、成人であれ、誰もが複数のレベルで「ある」ことができ、そのときどきに応じて「skillとしてのbeing」を発揮している。これは、「beingはskillである」というよりも、「beingはskillの文法で語られる関係的(relational)な現象である」と言うべきであろう。しかし、彼の理論の洗練された謙虚さは、すべてをスキルに還元する還元主義には堕しない。なぜなら、彼のスキル理論はそもそも「構造が状況で決まる(structure is context-dependent)」という相対化を本質に含んでおり、人間存在の不確定性・可逆性・未完性を強調する立場だからである。その意味で、「在り方」という語が指す、言語で縁取りきれない存在のリズムや、状況に対する開かれた応答性――つまりは「現前の質」――のようなものが、最後には静かに残される。その残余を、彼は「構築されうるスキル体系の外側にある未構築領域」として位置づけるかもしれない。したがって、フィッシャーであれば、おそらくこう語るであろう。「『在り方』とは、人間が関係性の中で絶えず創発し、可変的に構成し直しているプロセスであり、それは認知や感情、運動、関係性などあらゆるスキルの形で具体化される。しかし同時に、そのスキルの編成を可能にしている基底的な開かれ――その未定義な地平そのもの――もまた、発達の対象である。」このようにして、「在り方」は脱神秘化されながらも、決して枯渇しない何かとして、彼の理論の中に生き続けるのではないだろうか。フローニンゲン:2025/7/20(日)09:23


17005. 依他起性的量子論の台頭と円成実性的量子論の待望

    

ゼミのある受講生の方から、「すべての「物」は、contextualに存在して、「私」というcontextによって認知される。Contexはつまるところ、「縁起」であり、「物」とされるものは「仮有」でしかない。という、「パンニャー」を量子論は語り始めたという理解であってますでしょうか?」という大変興味深い質問を受けた。


まず結論から言えば、「量子論の一部の解釈は、般若的な縁起の哲学と深く響き合う方向へ進みつつある」と言えるが、「すべての量子物理学者がそのような見解を共有しているわけではない」ことも明記しなければならないだろう。すなわち、量子論は多様な解釈を内包する理論であり、「物の実在性」をめぐる議論は今も多元的で揺れている。カルロ・ロヴェッリの「関係的量子力学(Relational Quantum Mechanics)」は、まさに「すべての物理的事象は関係の中でのみ定義され、絶対的な状態というものは存在しない」と主張するものである。そこにおいて、例えば電子の「スピンが上である」という性質も、それが観測者または他の物理系との関係においてのみ成り立つ――つまり、「関係によってのみ存在が定まる」という立場が取られている。この関係的存在論は、縁起の思想ときわめて類似しており、「物」が固有の自性(svabhāva)を持たず、むしろ他との関係性によってのみ成立するという「仮有」の立場と重なり合う。実際にロヴェッリは、"Helgoland: The Strange and Beautiful Story of Quantum Physics(『世界は「関係」でできている: 美しくも過激な量子論』)”の書籍の中で龍樹の思想に触れて、関係的量子力学の思想を展開させている(ロヴェッリの龍樹思想に対する理解に対しては、専門家からはいくつか建設的な批判が投げかけられているが)。また、現在自分が強い関心を持っている理論物理学者ヴォイチェフ・ズレクの「量子ダーウィニズム」も重要である。彼は「環境による選択(環境選択)」を通して、特定の状態が「観測可能」な形で安定して出現するメカニズムを解明しようとする。ここでは「観測される世界(クラシカルな現象)」は、環境との相互作用によって「選ばれる」というプロセスに依存しており、「観測される対象の実在性」よりも、「情報の安定的な複製と共有可能性」に重きが置かれている。この視点からは、「物とは何か」という問い自体が、客観的存在の前提ではなく、「相互作用によって選択され、相互主観的に共有可能となった情報の束」として語られる。つまり、「私(観測者)」が「物」を見ること、それ自体が1つの関係的コンテクストを構成し、「物」の姿はその文脈においてのみ確定される。これは仏教的な「識と色」の縁起的関係に極めて近い。もっと言えば、量子論の解釈の一部では、「独立した世界があり、それを私たちが観測する」という古典的構図はもはや維持されていない。むしろ、「観測行為」「情報のやりとり」「関係性の構築」こそが、世界の構造を作り出していると考える。これは、般若経に見られる「色即是空、空即是色」の構造と重なるものであり、現象(色)が実体的にあるのではなく、それが空(関係性・依存性)として成立しているからこそ、現象として認識されるのだという洞察に近い。ただし注意すべきは、これはあくまで「量子論のある解釈」の側面であるということだ。例えば、ヒュー・エヴェレットの「多世界解釈」では、「物理状態はすべて実在し、それらが分岐することで全ての可能性が現実化する」と考えるため、そこにはある種の「物の実在」への固執が残る。また、実験物理学者の中には、観測と理論の一致だけに関心を持ち、「解釈問題」にはあえて深入りしない者も多い。結論として、いただいた質問に対してはこう答えることができるだろう。量子論の中でも、とりわけロヴェッリの関係的量子力学やズレクの量子ダーウィニズムのような立場は、「物」を絶対的な実在としてではなく、関係と情報、相互作用のネットワークにおいて定まるものとして捉えており、これは仏教の縁起や仮有の理解と深く共振している。この意味で、量子論はまさに「パンニャー(般若)」が示す智慧に接近しつつある。ただし、量子論自体が単一の哲学的立場を持たない多義的な理論体系であることにも注意が必要であり、すべての物理学者がこの「縁起的存在論」を共有しているわけではないという点も、理解に含めるべきであろう。ただ個人的に自分は、ロヴェッリやズレクの考えを中観・唯識の観点から強く支持している。しかし、彼らとてまだ「関係性が有る」という関係の有性を実在化させる点において、まだまだ非実在論的量子論とは言い難く、自分はそうした非実在論的量子論の誕生を待っているし、その創出に何か貢献したいと考えている。フローニンゲン:2025/7/20(日)09:52


17006. 量子的非決定論と自由意志 

                               

振り返ってみると、今日もまた非常に充実した1日だった。2冊の書籍の原稿の執筆も一旦自分のパートの執筆が終わった。そしてここ数日間かけて、翻訳書籍の翻訳作業に向けた下準備を色々と進めており、明日から満を持して一気に翻訳作業に従事しようと思う。編集者の方にも原著の原稿をせがんでいたぐらいだったので、翻訳を開始することに飢えていた自分としては、明日から集中して一挙に、しかし丁寧に翻訳を進めていきたいと思う。それ以外にも今日は、ゼミナールの次回の講座に向けてのカリキュラムを作成していた。論文を吟味し、合計7本ほどの論文を選定し、無事にカリキュラムを作り終えた。一旦カリキュラムも寝かせておいて、また後日内容を確認し、それから講座の告知を開始したい。


それでは、そこから考えていた事柄を書き留めておきたい。量子論の登場以降、自然界における現象が根本的に確率的であること、すなわち観測前の量子状態が「未確定(未定義)」な重ね合わせの状態にあることが広く認識されるようになった。これにより、古典物理学が前提としていた決定論的宇宙観、すなわちすべての出来事が物理法則に従って完全に因果的に決定されるという見方は大きな修正を迫られることとなった。この文脈において、一部の論者は、「世界が決定論的でないならば、私たちには自由意志があるはずだ」と主張する。しかしながら、この論理的接続には注意深い検証が必要であり、単純な飛躍が含まれている可能性も否定できない。まず第一に確認すべきは、確率的な物理現象と自由意志の概念とは本質的に異なるカテゴリーに属するという点である。量子論における非決定性(不確定性)は、例えば電子の位置や運動量といった物理量が観測されるまでは明確に定まっておらず、観測の瞬間に確率的に「選ばれる」という意味である。これは、物理系が外的要因によって統計的に振る舞うことを示しているにすぎず、そこに「主体的選択」や「意図性」といった自由意志の核心的要素は含まれていない。言い換えれば、非決定性は「ランダムである」ということであり、「自由である」ということではない。ランダムな振る舞いは、自由意志の存在を証明するどころか、むしろその否定とすら解されうる。なぜなら、もし私たちの選択が純粋に量子的なランダム性によって生じているのであれば、そこには理由も目的も介在せず、主体的判断の余地も存在しないことになるからである。この点において、「自由意思=非決定性」という連想には論理的飛躍がある。しかし一方で、量子論が提供する「リアリティの根源的未確定性」は、自由意志の可能性を排除しない空間を開いているとも言える。決定論的世界観のもとでは、あらゆる未来は過去と現在の完全な帰結であるため、「自ら選ぶ」という概念そのものが錯覚とされてきた。これに対して量子論の非決定性は、「未来が固定されていない」という条件を提供することで、自由意志の哲学的可能性を温存するものとなる。ここで重要なのは、自由意志の成立には「選択の余地(オープンな未来)」と「選択する主体(意識的意図性)」の双方が必要であるという点である。量子論は前者、すなわち「未来があらかじめ決定されていない」ことを保証するが、後者の「誰がどのように選ぶのか」という問いに対しては沈黙している。したがって、量子論だけでは自由意志を導くには不十分であり、意識や主体性の哲学的探究と結びつけなければならない。この文脈において注目されるのが、ペンローズ=ハメロフ仮説やヘンリー・スタップのように、量子効果が脳内における意思決定プロセスと結びついている可能性を探る立場である。彼らは、量子論的非決定性が単なる「物理的な偶然」ではなく、意識的プロセスと共鳴する「選択の場」となりうるのではないかと考える。この視点に立てば、自由意志は「ランダム性と意図性の接点」において立ち現れるものと解釈できる。また、近年の神経科学においても、「リベット実験」などが自由意志の存在を疑問視してきた一方で、より精緻なモデルでは意識と無意識の複雑な相互作用の中で、自由な意思決定の構造が再評価されつつある。このような動向を踏まえるならば、自由意志の問題は単なる物理的基盤の有無ではなく、自己、意識、価値判断、行為の理由付けといった多層的プロセス全体の理解を必要とする、極めて複雑な問いであると言える。結論として、量子論が明らかにしたリアリティの非決定性は、自由意志の存在を直接証明するものではなく、それ自体はただ「世界が完全には決まっていない」ことを意味するにすぎない。しかし、その非決定性が「選択の余地」を可能にする前提条件であることは確かであり、自由意志の可能性を完全に閉ざすものでもない。したがって、量子論は自由意志を論じる上での必要条件の一部を提供するが、十分条件ではない。自由意志の存在を哲学的に肯定するためには、意識・主体性・倫理的責任といった、より深い人間存在論的次元への接続が不可欠なのである。フローニンゲン:2025/7/20(日)16:42


Today’s Letter

After chaos, harmony inevitably follows. It happened between yesterday and today. The cycle from chaos to cosmos is constant and inevitable. I fully accept it. Groningen, 07/20/2025

 
 
 

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