【フローニンゲンからの便り】16995-17000:2025年7月19日(土)
- yoheikatowwp
- 7月21日
- 読了時間: 18分

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タイトル一覧
16995 | 非実在論の発想に近い物理学者たち |
16996 | 今朝方の夢 |
16997 | 今朝方の夢の振り返り |
16998 | 量子物理学者ヴォイチェフ・ズレクの形而上学思想の特徴 |
16999 | ダイナミックスキル理論の適任者選定の応用 |
17000 | ダイナミックスキル理論の適任者選定の際の注意点 |
16995. 非実在論の発想に近い物理学者たち
時刻は午前6時半を迎えた。今日は朝空に朝日が浮かんでいる。うっすらとした雲が空を覆っているが、ほのかに朝日が地上に降り注いでいる。昨日は気温の割にとても肌寒く、午後からは上に羽織るものが必要だった。今の気温は16度で、今日は夕方以降に27度まで気温が上がるようなので、半袖で過ごせそうである。明日からはまた気温が下がり、来週からは23度以下の日が続く。
アインシュタインは実在論を保持しようとした物理学者だったが、非実在論の発想に近い物理学者には誰がいて、どのようなことを考えていたのだろうか?そのようなことを昨日考えていた。アインシュタインは、自然界には観測者の存在とは無関係に独立した「客観的実在」が存在するという信念を生涯保持した物理学者であった。彼は物理学とは、自然の内奥にある秩序と法則を発見し、数学的に記述する営みであると考え、観測行為によって世界が変化するという量子力学の解釈に強い抵抗を示した。「神はサイコロを振らない」という彼の有名な言葉は、世界は決定論的であり、根底に確固たる実在があるはずだという彼の哲学的確信を表している。こうした実在論的な立場に対して、20世紀の量子物理学の展開は、それとは異なる観点から「実在」そのものを問い直す動きを生み出した。アインシュタインと最も対照的な立場を取ったのが、ニールス・ボーアである。ボーアは量子力学の「コペンハーゲン解釈」を提唱し、量子理論は自然そのものを記述するものではなく、観測という条件下で得られる情報の構造を記述するものであると主張した。つまり、電子がどこにあるかという問いには、それを測定するまでは意味がないという考えである。この立場においては、観測によって世界が定義されるという「観測者中心的」な視座が採用されており、客観的実在の存在を物理学の前提としない。ボーアと共にこの立場を支持したハイゼンベルクも、物理理論は「知識の体系」であり、「自然そのものの反映」ではないと述べている。彼の不確定性原理は、粒子の運動量と位置を同時に正確に知ることができないという理論的限界を示し、それゆえに実在の客観的な構造という概念が揺らぐ契機となった。さらに時代が進むと、アメリカの理論物理学者ジョン・アーチボルド・ウィーラーは、「Participatory Universe(参与的宇宙)」という概念を提唱し、実在とは観測者の関与によって成立するものであると主張した。彼は「It from bit(存在はビットから生まれる)」というフレーズを用いて、物理的世界の根源が情報であるとする視座を打ち出した。これは、観測者の行為によって宇宙が「実在するようになる」という立場であり、極めて非実在論的、あるいは理想主義的な方向性を持っている。また、フランスの物理学者バーナード・デスパーニャは、「隠れた実在(veiled reality)」という概念を導入し、量子理論は現象を記述するものであって、実在そのものには決して到達できないと論じた。彼の立場は、カント的な不可知論に近く、物理学は現象界の秩序を記述するにすぎず、「実在とは何か」という問いには沈黙するしかないという態度を示している。さらに、デイヴィッド・ボームとカール・プリブラムは、宇宙と意識の構造を「ホログラフィックモデル」として提示し、通常の三次元的世界は「外在秩序(explicate order)」にすぎず、その背後には非局所的な「内在秩序(implicate order)」が存在するという、非二元的な宇宙観を示した。ここでは、物質と意識の分離はもはや前提とされず、両者は同根的な情報的構造の異なる表現であるとされる。こうした非実在論的または関係論的な世界観は、仏教哲学、特に瑜伽行派の唯識思想と驚くほどの親和性を持っている。唯識においては、「一切法唯識所変」とされ、私たちが経験する世界は識(vijñāna)の働きによって現れたものであり、観測対象としての「外境」は、実在としての独立性を持たないとされる。阿頼耶識に蓄積された種子の成熟によって、個別の世界が現れるという思想は、多世界的な宇宙の可能性を内包しながらも、それが主体的識との関係性の中でのみ意味を持つという点で、ウィーラーやボームの考え方と共鳴する。このように、アインシュタインが追求した観測者とは無関係な絶対的実在という理念が、量子力学の登場によって大きく揺らぎ、それに代わるものとして「関係としての実在」や「情報としての世界」が浮上してきた背景には、実在という概念自体の再定義が求められていたことがある。その意味において、唯識思想が持つ非実在論的、非二元的な世界観は、現代物理学がたどり着きつつある哲学的境地と深い対話を成し得るものであり、「実在とは何か」「私たちはいかにして世界を経験するのか」という根源的な問いに対して、新たな認識の地平を開く鍵となるだろう。フローニンゲン:2025/7/19(土)06:47
16996. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見知らぬ女性と話をしていた。おそらくその女性は日本人で、幾分小柄で可愛らしい容姿をしていた。しばらくその女性と話をしていると、いつの間にかその女性が見知らぬ男性に変わり、今度はその男性と話をしていた。すると場面が移り変わり、かつて通った日本の大学に入学することになった場面となった。入学に際して下宿先を決める必要があり、私はあえて大学に歩いていける場所ではなく、電車に乗って通える場所の学生マンションを契約することにした。すると、それはかつて住んでいた町と似ていることに気づき、そこから大学の最寄り駅までは乗り換えなしで電車で数駅のはずだったが、一度乗り換える必要があった。大学に最初に登校する日は、朝早く起きて、始発の電車に乗っていくことにした。すると駅で小学校時代のある友人(TM)と出会い、彼もまた大学は違えど同じ方向の大学に向かっているとのことだった。初登校の日にお互い始発に乗るというのは随分と気合が入っているなと思い、微笑ましく思った。東京の中心に向かう列車であれば、始発であっても通勤する人たちがちらほらいそうだが、私は中心とは逆の方向に向かう電車だったので、電車はがら空きであった。幸いにも座ることができそうで、ふとある考えがよぎった。毎日電車で大学に通っていると電車代がばかにならず、仮に定期を発行したとしても、電車で通学する時間がもったいないように思えた。また電車は見知らぬ数多くの人と接することになり、それによる見えないストレスがあるだろうと思ったので、やはり歩いて通える距離の場所に引っ越そうと考えた。その考えが芽生えたところで夢の場面が変わった。
次に覚えているのは、自分が色々な生き物に変化できる能力を持っていた場面である。変化する際に自分の意思で何の生き物に変化するかをコントロールできたが、私はあえてそれを手放して、刻一刻と移りゆくリアリティの様相に導かれるようにして色々な生き物に変化していくことを楽しんでいた。毎回生き物が変わるたびに、自分はその生き物に固有の気持ちになれた。また、彼がどのように世界を見て、世界を感じているのかも彼らの目線を通じて理解することができた。それは人間としての自分の内面世界を豊かにする上で非常に有益だった。そのよう場面を受けて最後に見ていたのは、歯磨きをしており、流し台が巨大なプールになっている場面である。そこは自分の家ではなく、友人の家で、流し台がまさかプールにつながっているとは思ってもみなかった。普段アルコール飲料を飲まない自分は、どうやらお酒に酔っていて、酔っていながらも寝る前にはちゃんと歯磨きをしておこうと思った。歯磨きをし始めると、流し台と大きなプールがつながっていることに気づいたのである。口からは歯磨き粉によって発生した泡が大量にこぼれ落ち、それはプールに流れていき、すぐさま大きくて広いプールに消えていった。フローニンゲン:2025/7/19(土)07:02
16997. 今朝方の夢の振り返り
見知らぬ女性との対話から幕を開ける今朝方の夢は、自己内部に潜む「他者性」との出会いを示唆している。姿の定まらぬ女性は、日常の意識がまだ十分に言語化し得ていない感受性や直観の象徴である。やがて彼女が何の予兆もなく男性へと転じる瞬間、自己の中に潜むアニマとアニムス、すなわち女性性と男性性のエネルギーが流動的に入れ替わるさまが露わとなる。対話の相手が変貌しても会話それ自体は継続する点は、内的対話の焦点が変質しても、内省という営みそのものは途切れないという心的プロセスを映し出しているであろう。場面は次いで大学への入学へと移る。学び舎はしばしば人生の新章を示す舞台であり、かつて通った大学に再び入学するという設定は、過去に蒔いた種をいま一度掘り起こし、新たな理解へ昇華しようとする回帰的衝動を物語る。歩いて通える距離をあえて避け、電車通学を選択する決断は、目的地に直線的に到達するよりも、あえて「移動」という余白を取り込むことで、自己をより広い社会的文脈へと投げ込みたい無意識の欲求を示す。だが電車賃や時間の浪費、さらには他者との接触によるストレスを懸念する思考の流れは、その欲求と慎重な自己防衛本能とが拮抗している証左である。それはすなわち、外界との交歓によって得られる刺激と、自我の静謐を守ろうとする衝動とのせめぎ合いが現在進行形で起きていることを指し示す。始発列車で出会った小学校時代の友人TMは、過去から現在へと橋を架ける存在である。黎明の車内という静寂の空間で偶然旧友と邂逅する構図は、人生の新たな旅立ちに際し、幼年期の純粋さや原初的な仲間意識を呼び戻す必要性を示唆している。通勤客で満たされる都心方面とは逆向きのがら空き列車は、一般的な競争社会の流れにあえて背を向け、自らのペースで歩む決意の暗喩とも読める。だが座席に腰掛けた刹那、「時間と費用の損失」を悟り歩行圏内への転居を検討する思考の転換は、外部条件よりも内的合理性を優先する覚醒が芽生えた兆しである。この気づきが生じたところで場面が断ち切られるのは、判断の最終的帰結をまだ保留しているという無意識からのメッセージであろう。舞台は突如、変幻自在に生き物へと姿を変える超越的体験へ跳躍する。ここで自分は「自己コントロールを手放す」ことを自発的に選び、流れに身を委ねながら多様な存在形態を遍歴する。これは自我境界を希薄化させ、世界を複数の視座で体験する心理的タントラの実践に等しいと言えるだろう。各生物固有の感覚や情動を内から味わう経験は、通常の人間的枠組みでは得難い情緒的・感覚的データベースを自己に導入し、結果として内面世界を豊饒化する。ここには「コントロールの放棄こそが最深の自己拡張をもたらす」という逆説的真理が凝縮されている。終幕を飾るのは、友人宅の歯磨き場が巨大なプールへ接続しているというシュルレアリスム的光景である。歯磨きという日常的行為は口腔=言語装置の清浄化儀礼であり、加えてアルコール酩酊という一時的な自我の拡散状態から睡眠へ至る前の「ケジメ」を象徴する。泡が流し台を越えて広大なプールへ拡散し、瞬時に溶け消えてゆくさまは、日々の些細な浄化行為が無意識の奥底に広がる巨大な感情の水域へ静かに波紋を投げかける様子を示す。プールは集合的無意識あるいは広大な感情の貯水池として機能し、泡は言語化し切れぬ思念や感情の残渣である。それが瞬時に希薄化して消える様子は、自己の内外で生じる感情のノイズを受け入れ、大海のごとき心的空間へ無害化していくプロセスの可視化と言えるだろう。総体としてこの夢は、自己同一性の流動化、過去と未来の交錯、外部世界との距離の再設定、そしてコントロールを手放すことによる多層的な自己拡張という4つのテーマを多重露光のごとく重ねながら進行している。その結びに現れた浄化の儀式と泡の拡散は、前段で獲得した多彩な感覚体験を統合し、静かな大いなるものへと還元していく統合の萌芽である。ゆえにこの夢は、自己が次なる成長段階へ向け、過去の自己像や行動様式を一度流動化させ、新たな感受性を取り込んだ上で、洗練された統合を志向するダイナミックな過渡期に立っていることを雄弁に物語っている。フローニンゲン:2025/7/19(土)07:26
16998. 量子物理学者ヴォイチェフ・ズレクの形而上学思想の特徴
ヴォイチェフ・ズレク(Wojciech Zurek)の量子論的枠組みは、「環境による選択(environment-induced superselection=エインデコヒーレンス)」と「量子ダーウィニズム(Quantum Darwinism)」という2つの中心概念を軸に展開されており、それは一見、物理的記述の技術的延長にすぎないように思われるかもしれない。しかし、その深層には、現象と観測、情報と実在との関係を問い直す、独自の形而上学的構図が内在している。ズレクの理論は、古典世界の出現を説明しようとする物理学的要請から出発するが、結果として私たちが「実在」と呼ぶものの哲学的基盤を再構築することにつながっている。まず、ズレクは量子力学の「測定問題」において、従来の波動関数の「収縮」という非物理的・恣意的な操作に強い疑問を呈し、それに代わる理論としてデコヒーレンス理論を展開した。この理論では、観測者が対象を測定する以前に、その量子系が環境と不可避的に相互作用することで、干渉項(コヒーレンス)が急速に消失し、あたかも古典的な状態に遷移したかのように振る舞うことが説明される。この過程は決して「収縮」ではなく、量子的な可能性が環境によって「選択」され、観測可能な現実が安定化される過程である。ここにズレク独自の哲学的含意が表れている。つまり、「実在とは観測者の意識によって決定されるものではなく、環境との相互作用という物理的プロセスによって“浮上”してくるものだ」という考え方である。これは従来の観測者中心のコペンハーゲン解釈に対して、より客観的な現実観の回復を志向する姿勢であると言えるが、その「客観性」はあくまで「情報の共有可能性」に根ざしている。ここでズレクが導入するのが量子ダーウィニズムの考え方である。量子ダーウィニズムとは、量子系の状態が環境を通じて複数の観測者に対して「複製」されることで、「誰が見ても同じ現実」が成立するという仕組みを示す理論である。ここで重要なのは、「実在とは何か」という問いに対し、「多くの観測者に安定して観測され得る情報である」という定義が与えられている点である。つまり、ズレクにとって実在とは、情報的安定性と環境との相互作用によって選ばれた“冗長な情報構造”に他ならない。この視点は、物理的存在を究極的に情報として理解しようとする「情報論的存在論(informational ontology)」と深く共鳴している。このようなズレクの立場は、一見して実在論的でありながら、伝統的な実体的実在論とは異なる。従来の実在論では、世界は人間の認識とは無関係に、独立した存在者として「そこにある」とされる。しかし、ズレクの理論では、実在は情報の複製可能性と観測の共有性を通じて「構成」されるものであり、これはある種の構成的実在論(constructive realism)あるいは関係的実在論(relational realism)とも言えるだろう。また、「環境が何を観測者に伝えるかによって実在が形作られる」というモデルは、観測者の認識能力と環境の情報的働きの相互構造によって世界が成立するという点で、関係論的な形而上学へと接続される。さらに、ズレクの「選択」「複製」「安定化」という語彙の選び方には、生物学的進化論との深い類比が込められている。彼は量子情報の中で「適応的に安定な状態(pointer states)」が環境との相互作用を通じて選ばれ、それがあたかも自然選択のように進化するプロセスを描き出す。このことから、ズレクの理論は単なる量子論的記述にとどまらず、形而上学的に「情報進化論」としての世界観を提供しているとも言える。したがって、ズレクの量子論に基づく形而上学思想は、物質的実体を基礎とする古典的形而上学とは異なり、「情報」「関係」「観測」「選択」といったプロセス概念を中心とした動的・生成的な存在論に属する。これは固定的な存在の把握ではなく、「いかにして現象が現れるか」「いかにして情報が現実性を帯びるか」という問いを中心に据えた、関係論的かつ情報論的形而上学である。ズレクの理論は、実在を“そこにあるもの”としてではなく、“選ばれて共有されるもの”として再定義し、現代物理学と哲学とを架橋する深い思索の地平を切り拓いているのである。フローニンゲン:2025/7/19(土)07:31
16999. ダイナミックスキル理論の適任者選定の応用
時刻は午前9時を迎え、今、近くの教会から時を告げる鐘の音が聞こえてきた。まだ7月の中旬だが、朝日はもう秋のそれのような優しさを持っている。先ほど、ゼミのシステムを確認すると、「例えば『誰を店長にするか?』という問いに対して、ダイナミックスキル理論はどのように活用できるのか?」という議題がある受講生から挙がっていた。これはとても重要なトピックかと思う。すでにレクティカでは、この問いに対する答えとなる実践を行っている。それを踏まえて、この問いに対して考えてみたい。
「誰を店長にするか?」という問いに対して、ダイナミックスキル理論は極めて有効な理論的枠組みを提供するものである。この理論は、人間のスキルを静的・固定的な属性としてではなく、時間的・文脈的プロセスの中で構築される動的構造として捉える。すなわち、ある人物が現在何をどの程度できるかだけでなく、どのような条件下でどのようなスキルを発揮できるか、また将来的にどのように成長していく可能性があるかといった、発達的観点から多面的に評価することが可能となる。第一に、この理論ではスキルを階層的に分類する。具体的には、感覚運動的スキル、表象的スキル、抽象的スキル、そして原理原則的スキルという順に発達していく。店長という役割に必要とされるのは、売上データの分析、人員配置の最適化、チーム運営における理念の具現化など、高度に抽象的かつ体系的なスキルである。ゆえに、候補者がこの水準のスキルを安定して発揮できるか否かを見極めることが、適任者選定の基礎となる。第二に注目すべきは「発達的範囲(developmental range)」である。これは、支援の有無によってどの程度スキル遂行に差異が生じるかを示す概念である。例えば、単独では十分に判断できない者が、上司の助言や同僚の協力を受けることで適切な判断を下せるようになる場合、その人物は適切な支援環境下において店長として機能する潜在力を有していると考えられる。反対に、支援があっても遂行が向上しない場合、その人物の成長可能性には限界があると判断されうる。したがって、現在の遂行能力のみならず、支援によってどこまで能力が拡張されうるかを評価することが不可欠である。第三に、ダイナミックスキル理論では、スキルを「ストランド(strands)」という領域ごとの連続体として捉え、それらが絡み合って形成される「ウェブ(web)」として個人のスキル構造を理解する。店長には業務運営スキル、対人関係スキル、意思決定スキルなど、複数のストランドが求められる。候補者がどのストランドを強く持ち、どの領域に課題があるかを可視化することで、総合的な適性と今後の育成方針を明確にすることが可能である。さらに、ダイナミックスキル理論は、スキルの成長を「構成的プロセス(constructive process)」と見なす。すなわち、人間は既存のスキルを土台として、それらを統合・洗練させることで新たな高次スキルを構築していく。この点において、過去にどのような構成を経て現在のスキルに至っているか、そして今後どのような支援と経験を通して成長する可能性があるかを評価することは、非常に実践的意義を持つ。結論として、「誰を店長にするか」という問いに対しては、以下のような多面的観点からの評価が必要となる──現在のスキル水準、支援によるスキルの可変範囲、複数のスキル領域の構成的バランス、そして過去から未来への成長可能性である。ダイナミックスキル理論は、これらを統合的に評価することを可能にする発達科学的アプローチであり、単なる人材選抜にとどまらず、人材育成や組織開発にとっても極めて有用な道具立てとなる。フローニンゲン:2025/7/19(土)09:06
17000. ダイナミックスキル理論の適任者選定の際の注意点
ダイナミックスキル理論を「誰を店長にするか」という実践的問いに適用する際には、いくつかの注意点が存在する。まず第一に、この理論は個人のスキルを階層的・構成的・文脈依存的に捉えるため、評価者自身が理論に関する深い理解と運用スキルを有していなければ、正確な適用は困難である。つまり、候補者のスキルが「どの段階にあるか」や「どのような文脈で発揮されるか」といった情報を的確に把握するには、観察、対話、場合によっては課題ベースの測定を通じた多角的な評価が必要となる。第二に、発達的範囲(developmental range)という概念を用いることで候補者の潜在的成長可能性を把握できるが、これは同時に「今はできないが支援があればできる」という予測に基づく判断を伴うため、実践現場における支援体制の有無や質を無視した理想的判断に陥りやすいというリスクがある。すなわち、候補者の潜在力を正しく見積もったとしても、それを発揮させるだけの組織的・人的支援が存在しなければ、その人の成長は想定通りに進まない可能性がある。第三に、スキルを「ストランド(領域)」で捉える理論構造上、ある領域における高いスキル遂行が別の領域でも同様に発揮されるとは限らないため、リーダーシップ判断においてはストランド間のバランスを見誤らないことが肝要である。例えば、店舗運営において極めて優秀な能力を示す者が、必ずしも人間関係の調整やチーム育成においても同様の水準を発揮するとは限らない。理論的には複数ストランドの「ウェブ(web)」として理解されるべきであり、部分的な強みをもって全体的な適性を過大評価することは避けるべきである。最後に、ダイナミックスキル理論が強調する「構成性(constructiveness)」、すなわちスキルは過去の構成の蓄積として築かれ、将来に向けてさらに発展するという性質に関しても、実際の業務では短期間で成果が求められる場面が多いため、構成過程に十分な時間的猶予が与えられない現場状況とのギャップが生じる可能性がある。この理論を実務に適用するには、候補者の能力を発揮させるための時間的・環境的条件を、組織側がどこまで許容できるかを明確にしておかねばならない。以上のように、ダイナミックスキル理論は非常に強力な評価と育成の理論的枠組みを提供する一方で、その適用にあたっては、理論の複雑性、組織的文脈、評価の実務的制約を十分に踏まえた慎重な運用が求められるのである。フローニンゲン:2025/7/19(土)09:10
Today’s Letter
Today, I was reminded again how crucial it is to be my authentic self at any moment. I also realized the importance of integration through conflict. Our development can be actualized and realized through facing and embracing conflicts. Once we integrate these conflicts, true development is attained. Groningen, 07/19/2025
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