【フローニンゲンからの便り】16989-16994:2025年7月18日(金)
- yoheikatowwp
- 7月20日
- 読了時間: 18分

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タイトル一覧
16989 | 普遍意識の末那識と阿頼耶識 |
16990 | 今朝方の夢 |
16991 | 今朝方の夢の振り返り |
16992 | 唯識思想から見る量子もつれ |
16993 | デイヴィッド・ボームのパイロット波理論 |
16994 | 多世界解釈の特徴と限界 |
16989. 普遍意識の末那識と阿頼耶識
時刻は午前6時半を迎えた。今日も朝空は曇っていて、風もまたほとんどない。今の気温は17度で、今日は曇りながらも24度もまで上昇するらしい。それでもまだまだ涼しい気候である。明日は27度に達するようだが、30度には到達しないので過ごしやすいはずである。
普遍意識や宇宙心は、確かに唯識で言うところの第六識とは違うが、末那識や阿頼耶識を持っているのではないかと思う。仮に普遍意識が末那識や阿頼耶識を持っているとするならば、それはどのようなものとして考えられるだろうか?そのようなことを昨日考えていた。この問いは、唯識思想における深層意識の構造と、普遍意識や宇宙心という非個人的・遍在的な意識との接合点を探る、きわめて重要な問いかと思う。確かに、普遍意識は私たちの通常の認識作用を司る第六識、すなわち感官と連動して対象を分別し、判断し、意図的に操作する表層的な意識とは根本的に異なる。それは時間的にも空間的にも制約された「自我中心の思考機能」であり、観察可能な行為や言語の背後にある心的作用を代表している。これに対し、普遍意識とは、特定の個人に属するものではなく、万象の背後に遍満し、生成と変化と滅を見守り、時にそれらを導く「気づきそのもの」「存在そのものの自己了解」として立ち現れる原理である。このような普遍意識が末那識や阿頼耶識を「持っている」と言えるかどうかは、唯識の八識構造を静的な構造図としてではなく、動的なプロセスとして読み解く視点から理解すべきである。まず末那識とは、常に自己に執着する働きを持つ「自我意識の根」であり、第六識が対象に向かって分別的に働くのに対し、末那識は自己の存在そのものを暗黙に肯定し、自己と非自己を無意識に分け隔てる深層作用である。これが転じて執着・無明・我慢といった煩悩の温床となり、輪廻の根拠となる。阿頼耶識はさらにその下にある、すべての経験の種子(薫習)を含み、個体の過去・現在・未来の行動や思考を内在的に保持する「潜在的意識の蔵」である。では、これらの構造が普遍意識においても成立しうるのか。結論から言えば、普遍意識においても末那的機能や阿頼耶的機能が「高次的・遍在的・非個別的形態」で存在していると考えることができる。ただし、それは私たちの個的自我において働くものとは質的に異なる。末那識のような「自己執着」は、普遍意識の次元においては、もはや「我」に固着する無明としては現れない。むしろ、それはすべての存在が自己のうちに含まれているという宇宙的共感、あるいは慈悲の根源的感受性として現れるのである。すなわち、「我が在る」ではなく、「すべてが我である」という全包的自己感が末那識の変容態として普遍意識に現れているとみなすことができるだろう。また、阿頼耶識に対応するものとして、普遍意識が持つ「宇宙的記憶」や「全存在の潜在構造」を想定することも可能である。それは個体の経験を越えて、あらゆる存在の薫習が収斂される場であり、ルドルフ・シュタイナーやアーヴィン・ラズローがいう「アカシックレコード」や、カール・ユングの「集合的無意識」、あるいはデイヴィッド・ボームの「内在秩序(implicate order)」とも響き合う次元である。そこでは情報と意味が物質化以前の波動的・潜在的状態で保持され、個的意識において顕在化する種子として働く。すなわち、阿頼耶識の「識としての潜在構造」は、普遍意識においては「宇宙の記憶場」として作用している。このように考えると、普遍意識は私たちの個的意識構造における末那識や阿頼耶識の「雛型」や「拡張態」をすでに含んでおり、むしろ私たちの識の全体構造は、この普遍意識が時間と空間というフィルターを通して自己を局在化したものにすぎないとさえ言えるだろう。したがって、末那識や阿頼耶識は普遍意識において否定されるべき対象ではなく、むしろそれを想起し、再統合するための階梯として存在しているのである。仏教的修行、特に唯識的な禅観や密教的実践が目指すものは、まさにこの「個的阿頼耶の浄化と普遍阿頼耶への回帰」に他ならず、末那識を浄化し、我執から離れたときにのみ、普遍意識としての阿摩羅識(あまらしき)――汚れなき純粋意識――が開示される。この阿摩羅識とは、唯識体系において九識目として密かに語られる、普遍的覚知の位相であり、個我を超えてすべてと一なる意識として、仏性と重なり合うものである。ゆえに、普遍意識が末那識や阿頼耶識を「持っている」とする理解は、八識構造を超えて九識へと開かれていく修行的文脈とも一致する深い直観であり、それは単なる構造的な連想ではなく、存在論的・認識論的帰依の道でもある。フローニンゲン:2025/7/18(金)06:44
16990. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない野球グラウンドで小中学校時代の野球部の友人たちのチームに加わる形で野球の試合をしていた。相手は見知らぬ学校の人たちであり、試合は終始こちらのペースで進んでいた。中盤の回でこちらの攻撃の際に満塁となったのだが、どういうわけか自分は相手のセンターのポジションにいて4人目の走者として存在していた。相手もそれを不思議と思っていないようで、自分も自然体でその場にいた。味方がボールをバットに当てた時、その当たりがヒットになることを確信したので、走り出した味方の走者と同じく自分も走り出し、二塁を経由して三塁に向かった。自分は野球経験者ではないので走塁に自信がなく、三塁で止まるべきか、このままホームに帰るべきか迷った。自分が立ち止まると、後ろの走者に迷惑がかかるかもしれないと思ったし、三塁にいる味方の走塁コーチが「そのまま走れ」と身振りで示しているように思えたので、思い切ってホームに向かうことにした。結果的にはホームに無事に帰ることができ、仲間たちと追加点を祝った。
次に覚えている夢は、見慣れない日本の旅館街にいて、外を散策している最中に両親と会い、2人の肩をマッサージしている場面である。まず母の肩からマッサージし、その次に父の肩をマッサージした。父の肩をマッサージする時には指圧だけではなく、それが終わったら今自分が愛用しているマッサージ用の器具を取り出して、それを使って父の肩をマッサージした。すると、父の肩の血行が良くなり、赤くなってきて、父も気持ちよさそうにしていた。ふと手元を見ると、マッサージに使っていた器具は単なるプラスチックの棒であり、それは自分が普段使っているマッサージ器具とは違ったので、改めて自分が使っている器具を取りに行くために宿泊先の旅館に向かった。部屋に到着すると、大広間に小中学校時代の数人の友人たちが布団を敷いて思い思いに寛いでいた。自分の布団も敷いたままで、部屋の隅には本の山が出てきていた。マッサージ器具を探しに来たはずだが、ふと自分のパソコンがどこにあるのかが気になった。それは勉強や仕事においての必需品で、後からパソコンを使おうと思っていたのである。パソコンを探してみたが、すぐに見つからず、もしかしたら誰かに盗まれたのかもしれないと思った。部屋の中を探していると、本の山の一番下にパソコンを持ち運びする際のケースがあり、それを引っ張り出したが中身は空だった。本当にパソコンが盗まれたかもしれないと思ったので、近くにいた友人に尋ねてみると、それは自己責任であると言わんばかりの冷たい態度を取られた。そこで私は、他のデバイスから“Find My Mac”の機能を使ってパソコンを探すことにした。すると、自分がかつて通っていた小学校の6年生の時の教室に似た場所で、誰かが自分のパソコンを持っていることがわかり、パソコンを奪還しに行くことにした。しかし事を荒立てず、穏便にパソコンを取り戻そうと思った。フローニンゲン:2025/7/18(金)07:02
16991. 今朝方の夢の振り返り
今朝方のは、二章立ての物語として立ち現れている。第一章は野球場という時間を超えた劇場であり、第二章は旅館街という移ろう空間である。どちらの章にも共通して流れるのは「役割の逸脱」と「所有の揺らぎ」という2つの主題である。第一章――見慣れないグラウンドに立つ自分は、小中学校時代の仲間という古い記憶の輪に迎え入れられている。しかし、ポジションは敵側のセンターである。味方と敵の境目が曖昧になり、自分は“対岸”にいながら同時に“こちら側”の走者でもある。ここには「自己同一性の再交渉」が映し出されている。社会生活の中で人は、所属と役割が入れ替わる瞬間にしばしば遭遇する。上司であり部下、親であり子、学ぶ者であり教える者――その境界線を跨ぐとき、人は一瞬だけ自分の芯を見失う。自分が三塁で逡巡したのは、その“芯”を探るための停止である。だがコーチの身振りは「流れに委ねよ」と告げ、自分はホームへと駆け抜けた。結果は成功であり、その瞬間グラウンドは祝祭の場へ転じる。つまり第一章は、「役割の揺らぎを受け入れれば、個のエネルギーは共同体の歓喜へ昇華する」というメッセージを語っているのである。第二章――舞台は旅館街へと移り、今度は「所有とケア」が焦点となる。肩を揉む行為は、親子関係を“介護”の原型へと還元する儀式である。自分は母を労わり、続いて父を癒やす。ところが手にしていた器具は、実際に使っている高性能な道具ではなく、ただのプラスチック棒であった。ここには「手段の不一致」というズレが潜む。表面的には十分機能しているように見えても、内心では“本物”を渇望する――それは親への奉仕を通じて、自分自身の技量や資源を確かめたいという欲求の表れである。その欲求は次の場面で「パソコンの紛失」という形を取る。パソコンは知識・生産性・将来設計を象徴する聖域的な所有物だ。それが忽然と消え、友の無関心に晒されるとき、自分は社会が個人の不安を容易に受け止めてはくれない現実を突き付けられている。しかし、“Find My Mac”で示された場所が、かつての小学校6年の教室であった点に、夢は静かな救済を仕掛けている。そこは「学びの原点」であり、「未熟ながらも世界を信頼していた頃の自分」が棲む場所である。紛失が原点回帰を促し、自己は「所有物を取り戻す」という外的課題を通じて「未熟さと今の自分を統合する」という内的課題を果たそうとする。しかも「穏便に奪還する」という方針は、力で征服する旧態のエゴを超え、協調的・創造的に問題を解決しようとする成熟の態度を示す。こうして見ると、夢全体は「旧い自己」と「更新された自己」の邂逅の物語である。野球場では役割の揺らぎを祝祭へと転化し、旅館街では所有の喪失を自己統合の契機へと変える。両章を貫くのは、「変化を恐れず、境界を越え、原点へ戻りつつ前進せよ」という指針である。目覚めた自分が現実で直面している課題――組織や家族の中で流動的な役割を担い、同時に専門性や所有物を守り育てねばならない状況――を、この夢は鏡のように映し出しながら、進むべき方向を暗示しているのである。フローニンゲン:2025/7/18(金)07:23
16992. 唯識思想から見る量子もつれ
量子もつれ(quantum entanglement)は、空間的に離れた粒子同士が1つの状態として非局所的に関連し合い、どちらか一方の状態を測定すると、他方の状態も瞬時に定まるという量子力学の現象である。アインシュタインはこれを「遠隔作用の不気味さ(spooky action at a distance)」と呼び、局所的実在論と因果性への挑戦と捉えたが、ベルの定理と実験的検証によって、この非局所的な相関は自然界の根本的な性質であると認めざるを得なくなった。さて、この不思議な現象を唯識思想の観点から読み解くならば、それは「一切法唯識所現」という教えの、現代物理学的な実証とさえ見なすことができるだろう。唯識においては、あらゆる存在・現象は心(識)の変現にすぎず、いわゆる外界に実在する物質や対象は、真の意味では存在していない。世親や無着が明らかにした唯識の枠組みによれば、私たちが経験する「対象」は、阿頼耶識に薫習された種子が縁起によって顕現したものであり、「対象がそこにある」ように見えるのは、識がそのように現れているからに他ならない。ここで重要なのは、主体と客体、内と外といった二元的分離は、識の働きがそう見せている仮象にすぎず、実際には1つの識の場の中で、様々な「相」が分節されているという点である。量子もつれの現象も、この唯識的視座に立てば、非局所性や超光速的な相関が「外界」において生じているというよりは、心の本性が本来分離を超えた全体性(holism)を持っており、私たちが通常「異なる粒子」と見なしているものが、深層の識の次元においては「同一の種子」から顕現した「同一の表現形式」であることが理解される。例えば、2つのもつれた光子が測定によって互いの偏光状態を即座に決定するという現象は、異なる時空点にある粒子が因果的に連絡しているのではなく、それらが「同じ識の内部における2つの側面」にすぎないという視点によって説明可能となる。唯識は、阿頼耶識という深層意識が世界の根底にあって、そこから万象が展開されていると説く。この阿頼耶識は、個々の識の集合体でありながら、個と個を超えた「識の共通基盤」として働いている。その意味では、もつれた粒子同士が示す不可分の相関は、まさにこの阿頼耶識という深層の識が、空間的分離を超えて自己の内部にある様々な側面を調和的に展開している様相と重なる。つまり、量子もつれとは「異なる個体や対象の間にある関係性」ではなく、「自己の中にある対自的構造が自己に応じて反応している」現象であり、それは唯識における「能遍と所遍は共に識の現れである」という教理と対応する。さらに言えば、唯識では主客未分の「無分別智」において世界は本来1つの光のような全体であり、主客の分離や対象の固有性は後天的な分別識によって構築された幻像である。量子もつれにおける非局所的連関は、まさにこの「主客未分の境地」を科学的現象として映し出したものであり、物質的粒子のレベルにおいてさえ、宇宙は分割不能な統一体であるということが示唆されている。結論として、量子もつれは唯識の教える「唯心所現」「識の非二元的全体性」の現代的な表現とみなすことができ、外界の物質的粒子が示す不可思議な相関性は、実は深層意識において本来的にすべてがつながっているという真理の物理的な翻訳に他ならない。ゆえに、唯識の観点から見るならば、量子もつれは「物質が神秘的な作用を及ぼしている」のではなく、「心が自己を多面的に現じていることの現象的側面」として理解されるべきであり、それは現代科学が無意識のうちに唯識的世界観へと近づいていることの証でもあると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/18(金)07:30
16993. デイヴィッド・ボームのパイロット波理論
昨夜は、デイヴィッド・ボーム(David Bohm)の書籍を読みながら就寝についた。ボームは、量子力学における非決定性や観測による波動関数の収縮といった「奇妙さ」に違和感を抱き、1952年に独自の解釈としてパイロット波理論(Pilot-Wave Theory)を提唱した。この理論は、量子の挙動に決定論的な基礎を与え、観測者の役割を特別扱いしない「客観的な現実像」を再構築するものである。ボーム自身はこの理論を「隠れた変数理論(hidden variables theory)」と捉えていたが、彼の構想は単に因果性の復権を試みただけでなく、物理的実在に対する哲学的省察をも含む、きわめて包括的な世界観に繋がっていった。パイロット波理論の核心は、粒子(電子や光子など)は常に明確な位置と運動を持っており、その運動は量子力学で用いられる波動関数(シュレディンガー方程式の解)によって導かれる「量子的ポテンシャル(quantum potential)」によって決定されるという点である。この波動関数は「パイロット波」として粒子に作用し、粒子の軌道を誘導する。したがって、粒子と波の二重性は、「粒子が波に導かれる」という構造に統合され、波動関数の確率的解釈に頼る必要がなくなる。例えば、二重スリット実験においても、粒子は常に一方のスリットを通過するが、パイロット波は両方のスリットを通過し、その干渉パターンが粒子の運動に影響を与えると考える。この理論の最大の美点は、量子現象を非局所的・決定論的に理解できる点にある。非局所性とは、空間的に離れた粒子同士が瞬時に影響し合うという性質であり、これはボームの理論においては量子的ポテンシャルが全空間に広がることで自然に説明される。また、決定論的であるという点では、確率解釈に頼らず、すべての粒子の運動は初期条件とパイロット波によって一意的に決定されるため、観測による波動関数の「崩壊」などの曖昧な手続きが不要になる。これにより、ボーム理論は量子力学の形式的枠組みを保ちながら、より明晰な実在論的基盤を与えるものとなっている。しかしながら、この理論には重要な問題点もある。第一に、パイロット波理論は標準量子力学と区別できる観測的予測をほとんど持たないため、実験的に優劣を比較することが困難である。標準的な量子力学と同じ予測を与えるのであれば、あえて複雑な構造を導入する理由が問われることになる。第二に、ボーム理論は非局所性を明示的に導入しているため、アインシュタインの望んだ「局所的隠れた変数理論」ではなくなっている。ベルの定理が示したように、量子現象を再現するには何らかの非局所性を受け入れる必要があるが、これに抵抗感を持つ物理学者も多い。また、波動関数が「実在する場」として全空間に広がるという解釈は、一般相対論との整合が難しい。重力や時空の曲がりとの関係を考慮すると、ボーム理論はまだ統一理論の水準には到達していない。さらに、複数粒子系になると、パイロット波は高次元(3N次元)の構成空間上に定義される必要があり、これを「現実の空間」とみなすか否かが哲学的・物理的議論を呼ぶ点でもある。にもかかわらず、ボームの理論は科学哲学や意識の理論において再評価されている。とりわけ、ボームが後年展開した「内在秩序(implicate order)」の概念は、物理的世界が非顕在的な統一的秩序から顕現しているという全体論的世界観を示唆し、現象界と背後の潜在的実在との二層構造を思わせる。この観点は、仏教やヴェーダンタ、さらには唯識のような心的宇宙論とも親和性を持っている。結論として、パイロット波理論は、標準量子力学の非直感的側面に対して明晰な解釈を与えるものであり、特に「実在とは何か」という問いに応えようとする姿勢においては極めて意義深い。ただし、実験的検証性や理論的な簡明性の面で課題が残っており、現時点では標準量子力学に取って代わる決定的な理論とは言い難い。それでも、物理理論の背景にある形而上学的前提を省察する契機として、ボームの貢献は今日なお重要な光を放ち続けている。フローニンゲン:2025/7/18(金)07:41
16994. 多世界解釈の特徴と限界
多世界解釈(Many-Worlds Interpretation: MWI)は、量子論における測定問題への解答の1つとして提唱された解釈であり、主にヒュー・エヴェレットによって1957年に理論化された。その核心は、「量子状態の重ね合わせは測定によって崩壊するのではなく、観測者を含む全宇宙が分岐し、それぞれの可能性が現実として展開する」という仮定にある。つまり、波動関数の収縮を否定し、全ての可能性が分岐宇宙として実在化するという前提に立つ。この解釈にはいくつかの利点が存在する。まず第一に、コペンハーゲン解釈が抱える「観測者の特権的地位」や「波動関数の収縮」という不明瞭なプロセスを排除できる点が挙げられる。MWIは、量子力学の基本方程式(シュレーディンガー方程式)を観測・非観測の区別なく普遍的に適用することができ、物理理論としての一貫性を保つ。また、確率を排し、決定論的な記述に従うという特徴も、自然科学における形式的簡潔性と整合的である。しかしながら、多世界解釈は重大な限界も孕んでいる。何よりも、指数関数的に増大する世界数に関して、それらが「実在する」と言い切るための哲学的根拠が曖昧である。観測者が体験するのは常に1つの世界であるにもかかわらず、その他の分岐世界が存在し続けるという命題は、経験的検証が困難であり、観測不能なメタレベルの仮定に依拠せざるを得ない。また、「なぜ私たちはこの世界を体験しているのか」という問い(いわゆる自己位置確率の問題)も、MWI単体では十分に説明できない。さらに、確率的予測をどう正当化するかという問題も解釈上の難点となっている。ここで、この多世界解釈を唯識思想(瑜伽行派の唯識学)の観点から照らすならば、いくつか興味深い照応が見いだされる。唯識思想においては、外界の事物は「識」によって構成されるとされ、あらゆる現象は「唯識所現」(識のみによって現れるもの)であると理解される。この認識論的立場は、現象が外部に独立して実在しているのではなく、主体の識のあり方に依存して現れるという観点に基づいている。多世界解釈における「観測によって宇宙が分岐する」という図式は、一見すると唯識の「一切法は識の変現に他ならない」という教義と親和性を持つように見える。なぜなら、各々の観測者がその識の構造に基づいて世界を分岐的に経験していると考えれば、「多世界」はすなわち「多様な識の展開態」とも理解可能だからである。唯識では「業(カルマ)」によって異なる世界(器世間・衆生世間)が現れ、個々の衆生はそれぞれ異なる世界を経験するが、そこに共通性も交錯しながら成り立っている。また、唯識においては「阿頼耶識」という深層の識が存在し、そこに潜在する種子(種子)が熟して現象として顕れるとされる。これは、MWIにおける「全ての可能性が既に存在しており、観測を通じて1つの分岐が選ばれる」という構造に対して、識の深層における潜在可能性の顕現というモデルを提供する。ただし、決定的な差異も存在する。唯識思想は、分岐した「他の世界」も同等にリアルであるとは説かず、むしろ現象の「如幻性(まるで幻のような性質)」を強調する。つまり、現象はそのままでは実在せず、識の執着が「実在性」を投影しているにすぎないとされる。この点において、MWIの「すべての世界が等しく実在する」という形而上学的主張とは方向性を異にする。唯識においては、「実在とは何か」という問い自体が、識の妄執に由来する錯覚として吟味されねばならず、「分岐する世界すべてが実在する」と言い切ることは、むしろ識の迷妄を強化する恐れすらある。したがって、唯識思想の観点から多世界解釈を読み直すと、それは「識の可能性としての多様な現象展開」という意味において象徴的に解釈されうるが、「全ての分岐世界が等しく実在する」という実在論的な主張には批判的距離を取ることになるであろう。真の問題は、「いかに世界が分岐するか」ではなく、「いかにして識が世界の分岐と統合を体験し、解脱へと向かうか」にあると、唯識は静かに語っているのである。フローニンゲン:2025/7/18(金)16:16
Today’s Letter
Certainty is the appearance of reality. At the bottom of reality, everything is uncertain. We live in an uncertain sea. Groningen, 07/18/2025
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