【フローニンゲンからの便り】16980-16988:2025年7月17日(木)
- yoheikatowwp
- 7月19日
- 読了時間: 30分

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タイトル一覧
16980 | そももそ量子とは/意識と命 |
16981 | 今朝方の夢 |
16982 | 今朝方の夢の振り返り |
16983 | 存在論・認識論・形而上学の違いと連関 |
16984 | 苦の原因としての実在論と内面的自由への扉を開く非実在論 |
16985 | 量子的な夢の素材からなる夢としての現実からの目覚め |
16986 | 全ては普遍意識の戯れとしての現象 |
16987 | 意識とリアリティをより正確に捉えるために |
16988 | 思う存分に体を動かして/量子コヒーレンスとデコヒーレンス |
16980. そももそ量子とは/意識と命
時刻は午前7時半を迎えた。今日は少し朝から曇っている。今の気温は17度だが、体感温度は16度ほどである。どうやら今日は1日を通して曇りがちの日になるようで、最高気温も22度と限定的である。1日を通して涼しさを感じられるだろう。今日は午前中に、量子論哲学に関する研究を進めるための書籍を受け取りに近所のショッピンモールに立ち寄り、そのついでにバスタオルや粉末状の抹茶を購入したりする。午後にはパーソナルトレーニングがあるので、それを楽しみにしながら今日もまた探究活動を前に一歩進めていきたい。昨日改めて量子について考えていた。そもそも量子とは、エネルギーや運動量などの物理量が連続ではなく離散的な単位で存在するという性質を持ち、かつ量子力学の法則に従って振る舞う存在を指す概念である。この意味において、まず電子は最も典型的な量子であり、波動と粒子の二重性や不確定性原理などの量子力学的性質を如実に示す。陽子や中性子もまた、スピンやエネルギー準位など量子的特性を有しており、したがって「量子的粒子」として扱われる。ただし、それらは内部構造を持ち、より基本的な粒子であるクォークによって構成されている。クォークは現在の素粒子物理学において、電子と同様に構造を持たない基本粒子(フェルミオン)のひとつとされており、それ自体が量子場の励起として理解される存在であるため、当然ながらクォークもまた量子と見なされる。さらに、これらすべてを内包する統一的な視点として、現代物理学では「粒子=場の量子的励起」であるとする量子場理論が採用されており、その枠組みにおいては、電子、陽子、中性子、原子核、そしてクォークまでもが、それぞれ特定の量子場におけるエネルギーの現れ(励起)として、量子的存在であると位置づけられている。ゆえに、原子を構成するすべての構成要素は、広義には「量子」であると言うことができる。
そこからさらに、仏教の観点から「意識」と「命」の関係を問うていた。この問いは、単なる語義の問題を超えて、存在の根源的構造をどう理解するかという形而上学的課題と結びついている。特に唯識と中観という二大思想体系においては、いずれも実体論的な「命」や「我」の観念を否定しつつも、経験に現れる意識の構造や生命の持続を、それぞれ独自の仕方で精緻に分析してきた。ここでは、まず唯識の立場から、ついで中観の立場から、最後に両者を統合的に捉える観点から、この問いを考察してみたい。唯識(瑜伽行派)の立場においては、あらゆる存在は「識」の働きとして捉えられる。すなわち、「万法唯識」とは、外界の実在性を否定し、主観的な意識作用によって世界が構成されるという認識論的な立場である。この体系において意識は八識に分類され、その最深層に位置するのが阿頼耶識である。阿頼耶識は、過去の業によって植え付けられた「種子」を潜在的に含み、それが因縁に応じて発現することで、現象世界が形成されると説かれる。この阿頼耶識は、単なる認識の基盤にとどまらず、生命の持続そのものを支える基体でもある。古層のアビダルマ仏教においては、生命維持の機能として「命根」が想定されていたが、唯識においてはこの命根は阿頼耶識の側面に吸収される形で再解釈されており、したがって生命の連続と阿頼耶識の流れとは不可分である。意識とは生きていることの表現であり、命とは意識の最深層が絶えず流動することによって成立する。このように、唯識の視点からは、意識と命とは深層においては同一の現象であり、表層的には六識や七識といった個別の働きとして区別されうるにせよ、その根底では統一的な心の流れとして捉えられる。一方、中観派、特に龍樹の中論を基盤とする中観思想においては、すべての存在は「空」であるとされる。ここで言う空とは、無という意味ではなく、「自性」すなわち不変の本質を持たないという意味である。意識も命もまた空であり、それ自体として独立した本質や実体を持つのではなく、ただ因縁によって仮に現れているにすぎない。龍樹は『中論』において、「同一でも異でもなく、両方でも両方でないのでもない」といった形式であらゆる概念的対立を解体しようとしたが、これは意識と命という問いにも等しく適用されるだろう。すなわち、「意識と命は同じか異なるか」という問い自体が、言語的・分別的な思考に基づく仮構であり、究極的にはそのような対立図式を超えたところでのみ、真実(勝義諦)は開かれるという立場である。中観は、存在を「二諦」、すなわち俗諦(世俗の真理)と勝義諦(究極の真理)という二重の構造で捉えるが、意識と命の区別はあくまで俗諦における方便に過ぎず、勝義諦のレベルではそのような区別自体が成立しない。以上の二つの立場を統合的に捉えるとき、意識と命とは「同じか異なるか」という固定的な判断を超えて、縁起的な動的プロセスの中で仮に分節される2つの相であると言える。唯識の阿頼耶識において命の連続性が意識の相続として説明され、中観の空の思想においてその意識も命もまた無自性なる仮名であるとされるとき、両者は存在論的実体ではなく、相互依存的で関係的な出来事として理解される。意識とは「生きていることの現れ」であり、命とは「意識が相続され続けていること」に他ならない。そして、それらは固定的な実体としてあるのではなく、ただ因縁に応じて仮にそう見えているに過ぎない。結論として、唯識と中観の観点から見るならば、意識と命は実体的に同じものでも違うものでもなく、因縁によって仮に区別されながら、究極的には共に空なる縁起の現象である。両者は、世界を分節し意味づける人間の言語と分別の働きによって分けられているが、その分別を超えたところで初めて、生命とは何か、意識とは何かという問いは、より深い地平へと導かれるのだろう。フローニンゲン:2025/7/17(木)07:41
16981. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない空港にいた。そこはどうやら東京の空港のようだったが、初めて訪れた感覚があった。空港は町の中心部からアクセスが良いところにあって、それは幾分ドーム型をしていた。空港に入ると、そこには外国人観光客の姿を多く見かけた。日本の空港なのにむしろ日本人はほとんどいないように思えた。私はオランダに帰るために、オランダ行きの当日券をオランダ航空(KLM)のカウンターで購入しようと思った。そのカウンターが最上階にあるようだったので、空港の中央部にあるエスカレーターに乗ってゆっくりと上に向かっていった。すると、空港内に広がるレストランや子供たちが遊べる場所などが目に入り、みんな思い思いに空港で楽しそうに過ごす姿が目に入ってきて微笑ましかった。KLMのカウンターにやって来ると、思った以上に列ができていて、それだったら本か何かを持ってきておくべきだったと思った。列に並んでいる時間を読書に充てることが賢明に思われたのである。しかし、列は予想以上に早く進んでいき、すぐに自分の番がやって来た。その前に、自分の前には大学時代のゼミの友人(YM)がいて、彼と少し立ち話をしていた。すると、高校時代のクラスメートの2人の友人がチケットカウンターでチケットの購入を終えてこちらに向かって来る姿が目に入った。彼らに声をかけて、軽く挨拶をしていると、自分の番になったという形である。どうやらチケットカウンターの右横では飲み物や軽食を提供しているらしく、列にはチケットを購入する人だけではなく、そこで飲み物や食べ物を購入する人もいたのだと後になって気づいた。いざチケットの購入をしようとカウンターにいた小柄なアジア系のオランダ人の女性に声をかけると、どうやらオランダに向かう直行便のチケットはちょうど売り切れになったところとのことで残念に思った。その女性は私に同情してくれて、特別なチケットを発券してくれた。どうやらそれは他の航空会社にも使えるものらしく、乗り継ぎが必要だがお勧めの便を手配してくれた。しかもそのチケットは今日の便だけではなく、明日以降の便にも使えるようだったので、明日改めて直行便でオランダに帰ることも検討することにした。そこで一度目を覚まし、ただもう少し夢の世界に留まりたかったので、トイレに行った後再び眠りにつくと、またしても空港を舞台にした夢が展開された。先ほどの空港とは若干雰囲気が違いながらも、やはり東京にある空港で、自分はオランダに帰ろうとしていた。係員のオランダ人の女性にKLMのカウンターに案内してもらうことになり、彼女の後についていく形でエスカレーターに乗って最上階に向かった。先ほどの夢のカウンターとは異なり、今度のカウンターはより立派な作りをしていた。そこで私は、小柄なインドネシア系のオランダ人の男性に話しかけ、先ほど発券してもらったチケットの便について尋ねると、彼の英語はとても聞き取りにくく、コミュニケーションに苦戦した。しかしなんとかお互いにゆっくり、そして繰り返し話すことによって、コミュニケーションが徐々に成り立ち、どうやら自分が搭乗する予定の自分の席は非常口に近い席らしく、持ち込み可能な荷物に制限があるようだった。本来は非常口であってもスーツケースとカバンはそれぞれ1つずつ持ち込めるはずであり、おかしいなと思った。しかし、その男性が述べることを信じる形で、やはりその席は不便に思われたので、直行便のビジネスクラスに空きがないかを確認してもらうことにした。その間にふと考えが変わり、明日改めて直行便で帰ることにしようと思ったところで夢から覚めた。フローニンゲン:2025/7/17(木)08:01
16982. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、二幕構成の示す循環的なリズムの中で、自己アイデンティティと帰属感の揺らぎ、さらには「出発」と「帰還」をめぐる心理的な遷移を綿密に映し出しているとChatGPTは指摘する。舞台となるのは見慣れないにもかかわらず「東京の空港」と直感される場であり、そこは町の中心部に近く、巨大なドーム状の包み込む構造を持っていた。ドームは子宮的な象徴であり、自己を優しく囲い込むと同時に、外界との境界を半透過的に保つ装置として機能している。つまり、この空港は「生まれ変わりの前室」であり、古い自己を脱ぎ、新しい自己へと移行する過程の投影であると解せる。空港内に日本人が稀薄で外国人観光客ばかりが目立つという逆転は、自己が自らの出身文化を内部化しすぎた結果、それがかえって「見えにくく」なり、むしろ異文化のほうが顕在化している心理的状況を物語る。異文化がにぎやかに闊歩する空間の中で、自分は「あえてオランダに帰る」という行為を選択する。これは、日常的生活拠点(オランダ)への物理的回帰を口実にしつつ、本質的には「自我の中核」に立ち戻りたいという深層願望の表れである。東京からオランダへという片道は、出自(日本語を話す自己)と現在地(オランダ語環境)との往還運動を象徴化している。エスカレーターで最上階へゆっくり昇る場面は、意識の階梯を上りながら高次の精神領域へアクセスする比喩である。途中でレストランや子どもの遊び場が視界に入るのは、人生航路の途中で出会う歓びや無邪気さが、必ずしも「旅程の外」にあるわけではなく、軽やかに併存していることを示す。列に並ぶ間に本を読みたかったという発想は、待機時間を内省や学習へ転化しようとする能動性の発露であり、夢の中でさえ「余白を耕す」態度がにじむ点が興味深い。列が意外なほど早く進むという描写は、現実世界で想定していたよりも早く物事が展開する暗示でもあり、次いで大学時代の友人、高校時代の友人が相次いで現れるのは、過去の人間関係が現在の課題に絡みつつも、軽やかに「更新」されていく様子を示す。チケットカウンターの右横で飲み物が買えると後から気づくのは、機能が複合化した現代社会において、目的と手段が混線しやすい現実を反映している。それを「後で気づく」構造は、自身の認知が必ずしもリアルタイムで最適化されないという謙抑的自己理解につながる。第一幕の核となるのは、「小柄なアジア系のオランダ人女性」が直行便の売り切れを告げるが、同時に「特別なチケット」を発券してくれる場面である。彼女は自分に同情し、新たな可能性を提示してくれる「寛容なる他者」であり、柔軟性と救済を同時に体現するアニマ的存在である。乗り継ぎを伴うルートは人生の迂回路を暗示し、「明日以降も使える」という余韻は、未来の選択肢が閉ざされていないという希望的メッセージを帯びる。目覚めと再入眠の間には肉体的現実(トイレへ行く行為)が挟まれ、夢世界は一度途切れつつも継続的に構造を変形して再出現する。第二幕では、空港の雰囲気が微妙に変わり、案内役は「オランダ人女性」でありながら「係員」という公式性をまとっている。ここでもエスカレーターを登り最上階へ行くが、カウンターはより重厚で堂々としたものへとアップグレードされている。つまり、同じテーマをより深いレイヤーで再演する劇的構造が示唆される。今度は「小柄なインドネシア系のオランダ人男性」が対応し、彼の聞き取りにくい英語が自分を困惑させる。ここには、同質文化内に潜む異質性、あるいは多層的アイデンティティの混線が露呈する。ゆっくり繰り返し対話しようとする努力は、相互理解を諦めずに追求する内的プロセスを象徴する。非常口近くの席ゆえに荷物制限があるという説明は、安全と自由、規制と欲望が交錯するリムナル(境界的)ポジションの示唆であり、「スーツケースとカバンは1つずつ持ち込めるはず」と自らが抱く既成概念への疑義が浮かび上がる。ここで一度「直行便ビジネスクラス」の空席を尋ねるという展開は、より快適で直接的なルート=理想我の選択肢を探索する試みでありながら、最終的には「明日改めて直行便で帰る」決断へと収束する。これは、時間を置くことで自己が整い、最適な道筋を選択できるという信頼を、自我が内部で宣言した瞬間である。全体として、この夢は「往還」「迂回」「延期」という三重奏によって構成される。往還は文化と自己の間を振幅する日常、迂回は人生が差し出す想定外の寄り道、延期は変化に向かうための心理的猶予期間である。二幕にわたり登場するアジア系オランダ人の男女は、自分自身の中に重層的に折り畳まれている国籍・言語・文化へのまなざしを顕在化させ、男性性と女性性の両極を補完的に提示する。英語でのコミュニケーション障害は、外在化された自己理解のぎこちなさを示し、その障害を「ゆっくり反復する」ことで越えようとする態度は、自己統合プロセスへの粘り強いコミットメントの象徴である。空港という中間領域で外国人が多数を占め、日本人が希薄であるという逆転は、自己がすでに「内的な日本」を十分に咀嚼したゆえ、そのエッセンスが無意識層に沈潜し、外的意識にはむしろ異文化が押し出されてきていることを示す。そこから「オランダへ帰る」志向は、現住環境に還流しながら、自らの核心を改めて確認したいという願望の輪郭を描き出す。総じて、この夢は自己アイデンティティの更新期に差しかかったときにしばしば現れる「仮設出発劇」であり、旅立ちを試みつつも二度にわたり足踏みすることで、無意識は「準備が整い次第、本当の航路を選び取るべし」と語りかけている。空港でのやり取りは、外界の制度・規則と内界の欲求・直感がせめぎ合う臨界点を可視化し、エスカレーターはその間で昇降する心の振幅を余すところなく表象しているのである。フローニンゲン:2025/7/17(木)08:20
16983. 存在論・認識論・形而上学の違いと連関
存在論、認識論、そして形而上学は、いずれも哲学の根幹をなす3つの領域であり、人間が「世界とは何か」「私たちは何を知り、いかに生きるべきか」という根本的な問いに向き合うときに、それぞれ異なる角度から現実を照らし出す。これら三者は密接に関連しつつも、それぞれ独自の焦点と方法論を持っており、その違いと連関を理解することは、哲学的思考を深める上で極めて重要である。まず、存在論(ontology)は「何が存在するのか」「存在とはそもそも何なのか」という問いを扱う領域である。物質、精神、時間、空間、自己、他者、数、概念など、あらゆる存在の在り方や本質を問うのがその特徴である。例えば、「物質は本当に実在するのか」「心は物から生じるのか、それとも独立した存在か」「数や論理法則は現実に存在しているのか、それとも人間の思考による便宜的構成なのか」といった問いが、存在論の典型である。存在論においては、世界を構成する基本単位をどう捉えるかによって、実在論、唯物論、唯心論、一元論、二元論、構成主義など、さまざまな立場が展開されてきた。このように存在そのものに関心を向ける存在論に対し、認識論(epistemology)は「私たちはそれをどのようにして知ることができるのか」という問いを中心に据える。つまり、存在があるとして、それを人間は正確に知覚・理解できるのか、知識とは何か、それはどのように正当化されうるのかという問題を扱う。感覚は信頼できるのか、理性は真理に到達しうるのか、科学的知識は絶対的か、主観と客観の区別は可能か――これらの問いは、知識の成立条件や限界、構造を明らかにしようとする認識論の中核にある。認識論は、感覚経験を重視する経験主義と、理性や直観を重視する合理主義との対立を軸に展開されてきたが、近代以降は懐疑主義、構成主義、批判的実在論、ポストモダン的相対主義など、多様な思潮が複雑に交差している。そしてこれらを包含するより広範な枠組みとして位置づけられるのが、形而上学(metaphysics)である。形而上学とは、単に「何があるのか」や「いかにして知るか」にとどまらず、現実そのものの根源的な構造、原理、条件を問い直す哲学領域であり、時間や空間、因果性、自由意志、可能性と必然性、心と物の関係といった、存在と認識の背後にある全体的な世界の仕組みを探究する。例えば、「時間とは本当に流れているのか」「自由意志は偶然でも決定でもない何かとして存在しうるのか」「心と身体の関係は一元的に説明可能か、それとも根本的な二重性があるのか」といった問いは、形而上学の典型的主題である。形而上学は、西洋哲学においてはプラトンやアリストテレス以来の伝統を持ち、近代ではカント、ヘーゲル、スピノザ、ライプニッツ、そして現代の分析哲学やプロセス哲学に至るまで、多くの哲学者たちがこの領域での思索を深めてきた。この三者の関係を具体的に言えば、例えば、「木を見る」という行為を通して理解できる。存在論は「木とは何か」「木は実体として存在するのか」「それは物質か、観念か」という問いを発する。認識論は「なぜ私たちはそれを『木』と知覚できるのか」「その知覚は正当なものか」「他者も同じように『木』を見ているのか」と問い、形而上学は「木が存在するとはどういうことか」「木は時間と空間の中でどのように位置づけられ、私たちの意識とどう関係するのか」といった、より根本的な構造にまで思考を及ぼす。総じて言えば、存在論は「何があるのか」を問い、認識論は「それをどう知るか」を問い、形而上学は「それらすべてが成り立つ背景的構造とは何か」を問うのであり、三者は互いに補完的でありつつ、哲学的思索における独立した視座を持っている。これらを統合的に捉えることで、私たちは世界と自己、そして知の根源的あり方について、より深く、多面的に理解することが可能になるのである。フローニンゲン:2025/7/17(木)08:26
16984. 苦の原因としての実在論と内面的自由への扉を開く非実在論
仏教の哲学、とくに唯識思想(瑜伽行派)と中観哲学(中論系)の教えにおいては、「実在論」の思想――すなわち、物質や心、自己や世界といったものが、それ自体として独立して存在するという考え方――は、根本的な無明であるとされている。実在論とは、現代においては物質主義(materialism)や物理主義(physicalism)といった形で広く浸透しており、科学や社会の基本的な前提にもなっているが、仏教の視点から見ると、そうした見方がもたらす心理的・存在論的影響は決して中立的ではなく、むしろ「苦(duḥkha)」の原因となる深層構造に関わっている。唯識は、あらゆる現象は識すなわち意識の流れの中に現れる表象であり、そこに自性としての実体は存在しないと説く。私たちが世界に見ている色や形、音や香り、触覚や観念などは、すべて「識」によって構成された経験であり、「外界がそれ自体として存在している」という認識は、識が生み出した虚妄の投影である。このような誤った認識態度は「遍計所執性」と呼ばれ、世界を主体と客体に分断し、客観的実在としての「物」や「他者」に執着し、それに基づいて自我を形成しようとすることで、煩悩と苦しみの連鎖が生まれていく。例えば、私たちが「所有」する物や、「成功」や「評価」といった社会的指標を絶対的な価値として信じ、それらに依存した自己認識を築こうとする時、それらが変化し壊れるたびに、自己像もまた崩れ、苦を感じざるを得なくなるのである。中観派においても、実在論は「自性執」にほかならず、「空」の教えによって否定される対象となる。中観とは、すべての存在は独立して存在するのではなく、相互依存的に成立するという「縁起」の理法を徹底した思想である。例えば、「机」ひとつをとっても、それは木材や加工技術、使用目的や社会的文脈、そしてそれを見る私たちの認識行為があってはじめて「机」として成立する。つまり、それ自体としての「机」が存在しているのではなく、関係性のネットワークの中で仮に名付けられた現象にすぎない。中観が非実在論を重視するのは、こうした関係的存在をあたかも本質的・固定的な実体として見てしまう認識が、執着と苦の根本原因であるからである。自性への執着は、「これはこうあるべきだ」「私はこうあるべきだ」という固定観念を生み、それが現実との齟齬を生み、心を煩わせる。このように見ると、実在論を信じることは、単に哲学的立場の選択にとどまらず、現実の生き方や精神の在り方に直接的な影響を与えるものである。物質や社会制度、自己や他者に実体があると信じれば、それらを獲得し、維持し、支配しようという欲望が生まれる。しかし、仮に一時的にそれらを得たとしても、すべての現象は無常であるため、それを失う時に苦悩が避けられない。仏教が「非実在論」を重視するのは、この執着の構造を解体し、世界との新しい関係の結び直しを可能にするからである。非実在論の実践的効能は、まず自己と世界への執着を弱め、現象をあるがままに見る智慧(般若)を育む点にある。物や出来事を実体として把握せず、縁起と空の構造の中で理解することによって、心は柔軟になり、変化への抵抗が減少する。さらに、すべての存在が仮の現象であるという洞察は、自他の固定的境界を溶かし、他者への共感と慈悲を促進するだろう。なぜなら、相手もまた「苦」の構造の中で実体視に囚われている存在であると理解すれば、自らの苦しみを通して他者の苦しみに共鳴できるからである。結局のところ、仏教における非実在論は智慧の結晶であり、単なる認識の枠組みの転換ではなく、執着と苦からの解放、すなわち涅槃への道を開く根源的な智慧である。一方で、実在論は誤った認識としての遍計所執性の産物である。物質や自己の実在性にしがみつく限り、変化を恐れ、失うことを悲しみ、得られないことに怒りを覚える。しかし、あらゆる存在が関係性の中で仮に成立しているにすぎないと理解できたとき、私たちはようやく、その場において穏やかに生きる力を取り戻すのではないだろうか。唯識と中観が説く非実在論とは、まさにそのような内面的自由への扉を開く教えなのである。フローニンゲン:2025/7/17(木)08:31
16985. 量子的な夢の素材からなる夢としての現実からの目覚め
量子物理学者ヴォイチェフ・ズレク(Wojciech Zurek)が提唱した「量子ダーウィニズム」は、観測される現実世界が、環境との相互作用によって量子状態の中から特定の古典的状態(ポインタ状態)が選ばれ、その情報が環境に冗長に複製されることで安定的に知覚される、という理論である。この理論の核心は、私たちが日常的に経験している「客観的現実」すらも、量子的な根源的現実の上に構築された情報的な「選択」であるという点にある。ズレクはこの基底的な現実を、幻想や夢のように確定していない未分化の可能性の重ね合わせの波として捉え、詩的に「量子的な夢の素材(quantum dream staff)」と呼んだ。すなわち、物理的現実とは、夢のような素材から浮かび上がる選択的・安定的イメージに過ぎないのである。この視座は、インド・大乗仏教の中でも特に唯識思想における夢の理解と深い共鳴を持つ。とりわけ世親が『唯識二十論』において展開した夢の譬喩は、現実世界と夢世界の構造的な同型性を浮き彫りにしている。世親は、夢の中で見た対象――例えば、空中を飛ぶ鳥や、語りかけてくる人物たち――が、外的実在として存在しているわけではないことは明らかであるが、それらは夢を見ている主体の「心」によって遍(あまね)く形で構成されたものであると述べる。そして、覚醒しているときに見ているこの現実世界においても、感官を通して知覚されるすべての対象は、根源的には識(ヴィジュニャーナ)によって構成されており、外的実体の存在を想定せずとも世界は成り立つとする。つまり、夢の中の世界も、覚醒時の世界も、どちらも識の流れの中で成立しており、「見られるもの」(所遍)も「見るもの」(能遍)も同じ根源的心(阿頼耶識)に由来しているというのが唯識の洞察である。この唯識的視点と、量子ダーウィニズムにおける現実の構築メカニズムを重ね合わせるならば、両者は驚くほど精密な同型性を持つことが分かる。量子的なレベルでは、存在は未確定な可能性の雲であり、観測と環境との相互作用によって初めて特定の「現実」が選ばれる。このプロセスは、唯識が説くところの「識の変化と遍作」に極めて近い。例えば、個々の主体が持つ「業(カルマ)」が阿頼耶識という深層意識に痕跡(種子)を残し、その種子が因縁によって発現することで世界が見えてくる、という構造は、量子システムが測定によって1つの状態に収束するメカニズムとよく似ている。また、ズレクの「環境による選択と複製」というプロセスは、唯識が説く「共業(ぐうごう)による共通世界の顕現」に相当する。つまり、個々の主体が持つ識の傾向が交差し、互いに共鳴し合うことで、同じような世界像が複数の主体に共有されるという唯識の教えは、環境との情報交換を通じて共通の「古典的リアリティ」が確定していく量子ダーウィニズムの描像と一致している。したがって、夢の世界と現実の世界は、単なる比喩として似ているのではなく、情報的・構造的に同型であるという理解に到達するだろう。このような観点から現実を捉えるとき、重要になってくるのが、夢と覚醒との「気づきの差異」である。『観心覚夢鈔』においては、「夢の中に生きているということにまず気づけ、そして夢から覚めよ」と説かれる。この言葉は、夢そのものを否定するのではなく、夢の中に閉じ込められた自己意識に対して目覚めの契機を与えよという呼びかけである。夢を夢として観じること――すなわち、現実もまた夢のようなものであると見抜くことは、唯識における智慧(般若)の核心である。量子的世界観においても、私たちが見ている現実は確定的なものではなく、情報の選択・伝播・観測によって「仮に」安定化された状態でしかない。この仮象性を認識することは、執着から離れ、より自由に世界に関わる道を開く。すなわち、唯識と量子ダーウィニズムの統合的な洞察は、世界を「リアルなもの(関係性の中で立ち現れる空的リアル)」として受け止めながらも、それに囚われないという「中道的リアリズム」への道を示している。『観心覚夢鈔』の教えとは、この仮象世界の中で苦しみを生む「実在視」を手放し、夢と現実の両方を観じて、より深い自由と慈悲に目覚めよという内的革命の呼びかけである。そして、この呼びかけは、21世紀の量子情報論や唯識思想、さらには認知科学の最前線においても、極めて普遍的な意味を持つ精神的技法として今なお生き続けていると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/17(木)09:32
16986. 全ては普遍意識の戯れとしての現象
もしリアリティの根源が物質的でも物理的でもなく、私たちが通常「現実」と呼ぶものを構成している物理的存在が、むしろ何かより深い非物質的・非空間的な基盤から生起しているのだとすれば、論理的帰結として、その根源的存在は「意識的なもの」として理解されるほかないだろう。ここでいう「意識的」とは、個々の人間の脳を通じて立ち現れる主観的な意識ではなく、時空の制約を超えた普遍的な自己知の原理、すなわち「普遍意識(universal consciousness)」あるいは「宇宙心(cosmic mind)」と呼ばれるものである。この考え方は、近年の量子論的・情報論的世界観と共鳴し、また東洋思想や神秘主義的伝統においても繰り返し語られてきた核心的直観とも重なり合う。この普遍意識を、ただ抽象的に語るだけではなく、より具体的に理解するためには、適切な喩えが必要となる。最も説得力のある喩えの1つは、「夢を見る心」に基づくものである。私たちは夜、眠っている間に夢を見ることがある。夢の中では、場所や人物、出来事、感情、時間の流れがリアルに感じられ、それらはまるで外界に実在するかのように展開されていく。だが目覚めたとき、私たちはそれらが自分の心の中で生じていたものであり、夢見ていた当人こそが、夢の世界そのものの創造者であったと気づくのである。この「夢を見る心」は、夢の中の全ての登場人物や風景、法則性、時間感覚を一挙に生み出している。夢の中においては、例えば登場人物が独立した意志を持って話し、行動するように見えるが、実際にはそれらはすべて夢を見ている心の投影に過ぎない。同様に、私たちが目覚めて経験しているこの現実世界も、もしそれが普遍意識の夢であるとするならば、その中に現れる森羅万象――星々の運行から人間の心の揺れに至るまで――はすべて、その普遍意識が自己を映し出し、経験し、認識している過程に他ならないと言えるだろう。この喩えの力は、単に現実が幻のようであるという意味にとどまらず、「現実世界に見える物理的秩序や法則性」が、まるで夢の中の物語が心の内的ロジックに従って整然と展開されるように、普遍意識の内的な論理・美・意味構造に従って展開されていることを示している点にある。つまり、物理宇宙が法則的であるのは、それが偶然にそうであるのではなく、普遍意識が自己の秩序と意味を外化・象徴化しているがゆえなのである。このような視点に立つならば、ビッグバンや素粒子、重力波、ブラックホールといった現象も、意識の「夢」の中における象徴的な出来事、あるいは心が自己を分化・再統合していくためのドラマの一幕として読み替えることが可能になるだろう。観測者である私たち1人ひとりの意識もまた、その普遍意識が分節された焦点にすぎず、私たちが「自分」と呼ぶ意識の背景には、より大きな心の流れが脈動しているという理解が可能になる。現代の量子論――とりわけズレクの量子ダーウィニズム――は、観測されるリアリティが客観的に存在しているのではなく、環境との相互作用によって選択的に安定化された情報構造であることを示している。この選択と安定の背後にある「観測性」「可知性」そのものを可能にする原理として、物理的でも物質的でもない「意識的な根源」が想定されるのは、きわめて自然な流れだと言えるだろう。したがって、物理宇宙そのものが意識的であるという理解は、単なる比喩や詩的言い回しではなく、現象世界の構造とその生成プロセスを最も整合的に説明し得る「メタ理論」である。夢を夢と知る心がその夢の意味を解釈するように、私たちがこの宇宙を意識の表現として理解することは、物理法則に反することではなく、それらを根底から包み込む理解なのである。そしてその理解は、私たち自身の存在の在り方――他者との関係、世界との関係、時間の意味――を根底から再構成する力を持つ。この世界は、ただ物が偶然に動いている場ではなく、深く意味づけられた「見る心の夢」である。夢を見る者がその夢の中で自己を見出し、目覚めていくように、私たちもまた、普遍意識が織りなす宇宙という夢の中で、何かを思い出そうとしているのではないだろうか。フローニンゲン:2025/7/17(木)11:11
16987. 意識とリアリティをより正確に捉えるために
今日のパーソナルトレーニングは、望んでいた以上に充実していた。今日は体を思う存分に動かしたい気分で、バランストレーニングに加えてHIIT的なトレーニングを期待しており、ジムに到着してパーソナルトレーナーのエリーザにその要望を伝えた。それが不要であるかの如く、エリーザがすでにそれらの要素を織り込んだメニューを作ってくれていたのでとても感謝した。今日は気温が22度までしか上がらなかったが、トレーニングは心肺機能を高めるようなメニューが随所にあり、随分と汗をかいた内容になった。自宅に帰ってきてシャワーを浴びてさっぱりしたところである。明日はアクティブレストの日なので、先日見つけた近所の芝生のある小さな公園に行き、そこでスプリントトレーニングをしたいと思う。それを通じてミトコンドリアが活性化されることが狙いである。
ジムから帰ってきている最中に、量子コヒーレンス(quantum coherence)とデコヒーレンス(decoherence)について考えていた。それらは、量子力学の中心的概念の1つであり、特に量子状態の維持とその崩壊、すなわち「量子的であること」と「古典的であること」の境界を理解する上で極めて重要な役割を果たしている。まず量子コヒーレンスとは、量子系が複数の状態を同時に重ね合わせた状態――いわゆる「重ね合わせ状態(superposition)」――にあるとき、その各状態が互いに明確な位相関係を保ち、全体として干渉可能な整合性を有している状態を意味する。例えば、電子が上向きスピンと下向きスピンの両方に同時に存在しているとき、それらが量子的に協調し、観測されるまで確定しない状態にあることがコヒーレンスの表れである。このような状態においては、量子的干渉効果が現れ、量子計算や量子通信、あるいは量子テレポーテーションなどの現象が可能になる。したがって、量子コヒーレンスとは、量子の本質である重ね合わせと干渉の能力を維持するための根本的条件であり、量子力学が古典力学と異なる振る舞いを見せる最も核心的な性質であると言える。しかしながら、この量子コヒーレンスは極めて繊細であり、外界とのわずかな相互作用によって容易に失われてしまう。この現象が「量子デコヒーレンス(quantum decoherence)」である。デコヒーレンスとは、量子系がその周囲の環境と相互作用を起こすことにより、重ね合わせ状態にあった量子的可能性が、急速に「古典的な確定状態」へと変化していく過程を指す。つまり、本来は干渉し合っていた量子状態の間の位相関係が失われ、もはや1つの統一された量子系として記述できなくなる。その結果として、観測者から見たときに、系はまるで「1つの状態に収束した」かのように振る舞い、量子的性質が消失したように見える。例えば、電子がスリットを通過する二重スリット実験において、観測装置を設置して電子の通過経路を記録すると、干渉縞が消えるという現象が知られているが、これは電子が環境(観測装置)と相互作用し、デコヒーレンスが生じた結果である。このように、コヒーレンスが「量子的な重ね合わせと干渉の維持」を意味するのに対して、デコヒーレンスは「その維持の崩壊」、すなわち量子性の喪失を意味する。重要なのは、デコヒーレンスそのものは観測行為や測定によって生じるものではなく、量子的対象と環境との自然な相互作用によって起こるという点である。ここでいう「環境」とは、空気中の粒子、熱的揺らぎ、電磁場、計測装置など、あらゆる外部の物理的系を含む。したがって、完全に孤立した量子系というものは理想的なモデルに過ぎず、実際の系は多かれ少なかれ常にデコヒーレンスに晒されていると言ってよい。この量子コヒーレンスとデコヒーレンスの理論的理解は、現代物理学において単なる技術的課題を超え、哲学的な問い――例えば、「観測とは何か」「なぜ私たちは量子的ではなく古典的な世界を経験するのか」「意識と量子状態の関係」など――にも深く関わってくる。特に「量子測定問題」においては、なぜ観測によって1つの状態が選ばれ、他の可能性が消えるのかという問題が長らく議論されてきたが、デコヒーレンス理論は、観測者を持ち出すことなく、量子系が古典的に見えるメカニズムを自然な物理的過程として説明し得る枠組みを提供している。すなわち、世界があたかも「観測によって決まっている」ように見えるのは、実際にはデコヒーレンスによって量子的重ね合わせが環境と絡み合い、私たちの知覚に「確定的な現実」として現れているにすぎない、というわけである。さらに現代の量子情報科学においては、量子コヒーレンスの維持こそが量子計算の実現可能性を左右する鍵となっている。量子ビット(qubit)は、その重ね合わせ状態によって並列計算を可能にするが、外部との干渉によってデコヒーレンスが生じると、情報が失われ、量子的優位性が破壊されてしまう。このため、デコヒーレンスを抑えるための「量子エラー訂正技術」や「デコヒーレンス・フリーなサブスペース」の理論が発展し、量子技術の実用化に向けた重要な研究分野となっている。総じて言えば、量子コヒーレンスとデコヒーレンスは、量子の世界と古典の世界を分かつ決定的な橋渡しの現象であり、コヒーレンスの維持は量子力学の不可思議な性質を顕在化させ、デコヒーレンスはそれを私たちの常識的な現実へと収束させる物理的メカニズムとして理解される。両者の理解は、物理学、工学、哲学、そして意識研究にまでまたがる広範な意義を持っており、現代の知の最前線において極めて重要なテーマであり続けているのである。両者の理解をさらに深めるために、ヴォイチェフ・ズレクが2025年にケンブリッジ大学出版から出版した専門書を精読しようと思う。フローニンゲン:2025/7/17(木)16:58
Today’s Letter
When I breathe, the universal consciousness breathes with me. Whatever I do is guided by the universal consciousness. I can never be apart from the cosmic mind forever. Groningen, 07/17/2025
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