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【フローニンゲンからの便り】16974-16979:2025年7月16日(水)


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タイトル一覧

16974

0と1から成る情報

16975

今朝方の夢

16976

今朝方の夢の振り返り

16977

仏教的情報観

16978

朝のインターバル短距離を終えて/色に関する連続性と離散性

16979

量子脳仮説に対する唯識と中観による建設的な批判

16974. 0と1から成る情報  

                   

時刻は午前6時半を迎えた。今、うっすらと曇った空に朝日が浮かび、雲間から朝日が地上に降り注いでいる。その様子はとても神々しい。今の気温は14度と低く、今日の日中の最高気温は20度までしか上がらないようなので大変涼しい。ここ最近は毎日願っているように思うが、引き続き涼しい気温であってほしいと思う。


昨夜ふと、情報が0と1に分けられるのはどう意味で、それはなぜなのかについて考えていた。情報が0と1に分けられるとは、すべての情報が二進法(二進数)という最も単純な数の体系に還元可能であることを意味する。この構造は、情報の物理的実装と論理的処理において極めて合理的であるがゆえに、コンピューターを含む現代の情報技術の基盤となっている。まず、0と1という2つの状態は、ビット(bit)と呼ばれる情報の最小単位を形成する。ビットとは、”binary digit”(二進の数字)の略であり、「ある」か「ない」、「オン」か「オフ」、「高電圧」か「低電圧」といった、2つの識別可能な状態を用いて情報を記述する。この二項的な構造は、物理的な実装においても極めて扱いやすい。例えば、電気信号の有無、磁気の極性、光の有無など、明確に区別可能な二状態をもとに安定した情報処理が可能となる。情報を0と1で表す理由は、抽象的な論理構造と物理的制御性の両立にある。論理的には、任意のデータ(数値、文字、画像、音声など)は、二進数の並びとして一意に符号化できる。数学的には、任意の自然数や文字コードは、2の累乗を用いた加算によって表現可能であるため、すべての情報が0と1の系列として記述できる。さらに、記号論的な観点から見ても、0と1という純粋に形式的な記号の対立は、記号体系としての普遍性を持つ。なぜ「0と1」でなければならないのかという問いに対しては、「それ以上単純にはできないからである」という回答が本質に近い。三進法や十進法でも理論的には可能であるが、物理的実装の難易度や安定性、故障率の観点から、二値論理(二値ブール代数)を基本単位とした方式が最も合理的である。さらに深い哲学的観点から見るならば、この0と1の構造は、区別・分離・関係性の原型を象徴するものでもある。存在と非存在、肯定と否定、光と闇、問いと答え――こうしたあらゆる差異の構造が、最も根源的な形で0と1に収束しているとも解釈できる。ゆえに、情報が0と1に分けられるとは、単なる技術的選択を超えて、世界を区別し記述し再構成するための最小限の論理的単位が、あらゆる情報を支えているということである。それは、存在の秩序と知の構造を形作る、形式的だが力強いデジタル的世界観の表れでもある。フローニンゲン:2025/7/16(水)06:41


16975. 今朝方の夢

                  

今朝方は夢の中で、知人の中竹竜二さんと物理学の書籍を共著で執筆していた。ちょうど昨日、現在竜二さんと共著で執筆している人の器に関する書籍の原稿を書き終えたことと何か関係しているかもしれない。しかし、夢の中で執筆していたのは、私たちが専門とはしていない物理学である。確かに、今の自分は量子論哲学に関心を持っているので、そうした深層的な関心が夢の中に現れたのかもしれない。いずれにせよ、夢の中の自分は竜二さんと楽しく対話しながら、執筆をどんどんと前に進めていた。気がつけばもう原稿は完成しており、今回の成功体験を経て、今後も量子論を中心として物理学の書籍を多数出版していきたいと思った。特に、量子論哲学に関しては翻訳したい専門書が多数あり、今回の共著はその実現に向けた足がかりになったように思う。そのような場面があった。


次に見ていたのは、オックスフォード大学のヤン・ウェスターホフ教授に師事し、ウェスターホフ教授が自分の研究の指導教官になってくださり、教授のオフィスで話をしていた場面である。オフィスの四隅にはびっしり貴重な書物が詰まった本棚で埋め尽くされていて、非常に厳かな雰囲気を発している部屋の中で、楽しい気分で教授と対話をしていた。毎回のミーティングでは、いつも自分が教授と議論したいお題をいくつか考えており、それをその場に出して教授と議論するのがとても楽しみだった。ウェスターホフ教授は中観派の専門家であり、広く大乗仏教に精通している。自分の関心の唯識派についてももちろん造詣が深く、また仏教の専門家であるだけではなく、西洋の形而上学思想の専門家でもあるため、ウェスターホフ教授との対話はいつも盛り上がった。教授は自分と同じく、物質主義や物理主義のような実在論を否定しており、同時に未熟な観念論も否定している非実在論者である。それは中観や唯識を学んでいたら当然至る思想的帰結であり、お互いその点は共通事項として共有しながら議論をしていた。ウェスターホフ教授の指導のおかげで論文の執筆は捗り、教授も驚くほどのペースと量で論文を書き続けている自分がそこにいた。その自分はまるで少年のように探究心に満ちており、輝いていた。


今朝方の夢の最後の場面は、実際に通っていた小学校のグラウンドでサッカーをしていた場面である。空には雨雲があったが、雨は降っておらず、すでに雨は上がっていた。しかし、グラウンドは雨でぬかるんでいて、泥だらけになりながら友人たちとサッカーを楽しんでいた。私は近くにいたある友人(YU)にサッカーに関する助言をしていた。特に、ゴール前で足が出るか出ないかのところで足を出すことの大切さを説き、実際に自分はそれを実行して彼に見せた。すると彼は自分のプレーに触発され、より積極的で、最後まで粘り強く諦めないプレーをするように変貌した。こうして1人でも本気でプレーするようになる人が増えることが自分の願いであり、気持ちの籠ったプレーをする人と一緒にサッカーをするのは、それが相手が敵であろうが関係なく、とても楽しいものだと思った。フローニンゲン:2025/7/16(水)06:55


16976. 今朝方の夢の振り返り 

                   

今朝方の夢は三幕構成を取り、知的創造―精神的陶冶―身体的実践という連続的な自己変容の軌跡を演劇的に示している。第一幕の共同執筆場面は、「専門外の物理学」という異領域に敢然と踏み込むことで、既存の自己像を越境しようとする主体の拡張衝動を象徴している。量子論哲学への関心が潜在的動機となり、夢は〈未知の知〉を取り込む行為を「共著」という協働的フォーマットに託す。具体的な知人の存在は、外部との対話を媒介にして自己革新を進める姿勢の写像であり、楽しげな対話のリズムは知の生成が本来持つ遊戯性を際立たせる。原稿が瞬時に完成する描写は、覚醒時の執筆完了体験を鏡像的に肥大化させ、欲望としての「さらなる出版」の未来像を即時的に実現することで、願望充足の機能を果たしている。第二幕、ウェスターホフ教授の書斎における対話は、知的越境が深まり、権威ある師と接続されることで自己の学問的アイデンティティが再編される過程を示す。書棚に隙間なく詰まった稀覯書は、累積された文化遺産の重量を象徴し、その厳粛な空気の中で交わされる歓談は、重厚な伝統と遊戯的探究心の弁証法的融和を語る。教授と共有する「非実在論」という立場は、物質主義と観念論の両極を超克しようとする中動態的思考の選択であり、自己の哲学的立脚点を明確に表象する。論文が驚異的速度で生産される場面は、自己の潜勢力が師の承認によって解放されることのメタファーであり、少年のように輝く探究心は、学而清新なる心性の回復を示す。第三幕の小学校グラウンドは、原初的な遊びの場としての「土」に回帰し、知の高空飛行を支える根源的身体経験を再接続する舞台である。雨上がりのぬかるみは、情動の湿り気と混沌を孕む潜在意識の象徴であり、その泥の中でサッカーを楽しむ行為は、混乱を恐れず身体ごと巻き込みながら自己表現を行う活力を示す。友人YUへの助言と彼の変貌は、他者を触発し得る指導者的側面、ひいては未来の読者・学生への影響力を寓意する。足を出すタイミングの指摘は、「最後の一押し」で潜在力を顕在化させる叡智の象徴であり、精神的洞察を身体技法として定着させる営みの縮図でもある。敵味方を問わず本気で向き合うプレーヤーとの共創的な歓びは、第一幕の共著的協働と呼応し、夢全体を貫く「対話的生成」の主題を強調する。以上を総合すると、この夢は知的冒険、精神的師弟関係、身体的遊戯という三層を通じて、自己の可能性を拡張し、他者との共振によって現実化していくプロセスを象徴的に描出している。量子論という最先端科学と中観・唯識という形而上学的伝統が重層することで、「存在/非存在」「主体/客体」といった二項対立を再編成しようとする深層動機が明らかになる。そしてその最終的帰結として、泥と汗にまみれた原初的遊びへ回帰する姿は、抽象的思考が肉体的活力によって初めて地に足をつけ、他者との共生的実践へと昇華されることを示唆している。ゆえに本夢は、知・魂・身の三位一体的統合へ向かう存在論的イニシエーションの叙事詩である。フローニンゲン:2025/7/16(水)07:22


16977. 仏教的情報観

     

情報が「0か1か」に分けられるという構造は、一見すると合理的で単純明快に思えるが、仏教の視座から照らすとき、そこには深い哲学的問題が横たわっている。コンピューターの情報処理において、0と1という二値は、物理的には電圧の有無や磁気の向きといった明確に区別可能な状態として実装され、論理的には任意のデータを記述する最小単位として機能する。しかし、この構造は、世界を「あるか/ないか」という二元的な対立項の連鎖として捉えることを前提にしており、仏教的には極めて限定的な世界認識である。仏教は、まさにこのような二元分別の超克をその核心に据えている。中観派において龍樹が説く「空」とは、存在(1)と非存在(0)のいずれにも執着しない、有無を超えた中道的な真理を指す。唯識派においても、主客、善悪、存在と非存在といったあらゆる二項対立は「遍計所執性」と呼ばれる虚妄の分別であり、真実在ではない。つまり、「0か1か」という情報の根本単位は、仏教的認識論においては無明の構造の一形態とも言えるだろう。では、仏教的に情報を記述する別の可能性は存在しないのだろうか。ここには少なくとも3つの方向性が見出される。第一に、情報を固定的な値ではなく、縁起的なネットワークとして捉える視点である。すなわち、Aという情報は独立して存在するのではなく、BやCとの因縁的関係性の中で意味と機能を持つ。これは、情報の相互依存性と無自性を強調するものであり、「孤立したビット」ではなく「関係の場」としての情報観を導入する。第二に、「0か1」という二値に代えて、「有・無・空」の三値的表現を採用する可能性がある。例えば、ある現象は、有(1)とも無(0)とも言えず、むしろそのいずれにも偏らない「空」(空性)の位相を持つ。この構造は、中道的真理の情報的表現とも言え、量子論における重ね合わせ状態や非決定性とも響き合うものである。第三に、唯識思想の枠組みにおける阿頼耶識的情報モデルが考えられる。阿頼耶識は、あらゆる現象の種子(bīja)を潜在的に含む深層意識であり、そこにおいて情報は「0か1か」という確定された出力ではなく、無限の可能性を含んだ未分化の種子として存在している。情報とは、条件が整ったときに顕現する縁起的・流動的存在であり、決して静的・固定的なものではない。この見方は、情報を潜在的プロセスとしての「心の運動」と捉えることにつながる。このように仏教的観点から再考するならば、「情報」はもはや単なる二進法的な数列ではなく、空性・縁起・種子・中道といった核心的概念によって再構成される存在論的現象である。情報とは、存在と非存在のあわいに生まれ、分別を超えて変化し続ける動的な法(ダルマ)なのである。ゆえに、仏教的情報観とは、0か1かではなく、空なる情報としての世界の全体性を観る智慧のあり方に他ならない。これは、現代のデジタル的世界観に対して、深い人間的・霊的次元からの転回をもたらす視座だと言えるのではないだろうか。フローニンゲン:2025/7/16(水)07:26


16978. 朝のインターバル短距離を終えて/色に関する連続性と離散性

               

これがアクティブレストなのかわからないが、今日もまた朝のランニングに出かけ、インターバル短距離を楽しんだ。およそ4回ほど85%ぐらいの力で息が切れるまで走るほど繰り返して心肺機能を強化するようなトレーニングをした。今の家に住み始めてから今年で5年目なのだが、5年目にして初めて、昨日散歩に出かけた時に、近所に芝生の公園があることに気づいた。今日インターバル走をして思ったが、おそらくアスファルトの上を走るよりも芝生の上を走る方が膝に負担がないだろうし、何よりも大地のエネルギーを直接足の裏から汲み取れると思ったので、明日からは近所のその公園でインターバル短距離走を楽しむことにしたい。


ランニングから帰ってきて、色のように本来は連続的で無限に変化しうる現象が、コンピューターの中で0と1という離散的な情報として表現されているという事実は、一見すると直観に反するように思われる点について考えていた。しかし、この仕組みは情報理論と人間の知覚の特性を踏まえた上で、極めて合理的かつ精緻に構築されていると言える。自然界における色とは、可視光の波長、すなわち380~780ナノメートル程度の連続する光のスペクトルによって決定されるものであり、物理的には無限の段階を持つアナログ情報である。それに対し、コンピューターは本質的に0と1、すなわち「ある/ない」「オン/オフ」という二値しか扱えないデジタル装置であるため、この連続的情報をそのまま処理することはできない。そこで採用されているのが、「サンプリング」と「量子化(quantization)」という手法である。サンプリングとは、連続的な情報の中から一定間隔で値を取り出す操作であり、量子化とはその取り出した値を有限の段階に丸めることである。色の情報はこの2段階のプロセスを経て、例えば、赤・緑・青(RGB)の3つの成分それぞれを256段階、すなわち8ビット(2の8乗)で表現する。このようにして得られる24ビットの色情報は、約1677万色を区別することが可能であり、一般的な人間の視覚にとっては、十分に滑らかなグラデーションとして知覚される。つまり、連続する世界の精妙な変化は、コンピューターの中では小さな階段状の段差として再構成され、それが人間の知覚の限界を超えない範囲であれば、私たちの眼には「滑らか」に見えるのである。このような仕組みによって、色に限らず音や動き、光と影といった現象までもが、離散的な情報単位、すなわち0と1の組み合わせで近似的に再現されている。そしてこの構造は、連続性を離散性に変換するという技術的工夫であると同時に、存在論的な転回でもある。すなわち、無限の可能性を持つアナログな世界を、有限の情報として捉え、制御し、保存・再生可能なものへと変容させる近代科学と情報技術の思考構造が、そこにある。しかしながら、この離散的な情報処理の背後には、仏教的視点から見れば興味深い問題が浮かび上がる。唯識思想や中観思想においては、世界を固定的な実体として捉えること自体が無明に他ならず、すべての現象は縁起によって相互依存的に現れるとされる。色もまた、私たちの識によって構成された対象であり、独立した本質を持たない「空」の現れに過ぎない。そのような世界において、0か1かという切断的な情報単位は、分別心による1つの虚構であり、現象の流動性や中道的な実相を覆い隠すものである。すなわち、私たちがコンピューターの中に「滑らかさ」を見出しているとすれば、それは真に滑らかだからではなく、私たちの知覚がある程度の分解能以下の段差を認識できず、それを連続だと「錯覚」しているに過ぎないのである。結局のところ、連続的な現象を0と1で表現できるのは、人間の知覚の限界と、情報処理技術の工夫が折り合った結果である。だがその背後には、「情報とは何か」「知覚とは何か」「実在とは何か」という、より根源的な哲学的問いが横たわっている。色のグラデーションを0と1で記述することが可能であるという事実は、同時に、私たちが見ている世界そのものが、どれほど主観的な構成物であるかをも示しているのである。フローニンゲン:2025/7/16(水)10:13


16979. 量子脳仮説に対する唯識と中観による建設的な批判

                  

今日の午後に行われたオンラインセミナーの中で、量子脳仮説(Quantum Brain Hypothesis)という言葉が出てきた。この仮説は、脳の認知機能や意識の生成に量子力学的プロセスが関与しているとする理論である。その代表例として、ロジャー・ペンローズとスチュアート・ハメロフによる「Orchestrated Objective Reduction(Orch-OR)理論」がある。この理論では、脳内の微小管(microtubules)という細胞構造が量子コヒーレンス(量子的な重ね合わせやもつれの状態)を保持しうる場であり、そこでの量子的崩壊(objective reduction)が意識の瞬間的生成に関与しているとされる。これにより、意識は単なる古典的情報処理の結果ではなく、非決定的で非局所的な量子イベントと深く結びついていると論じられる。この仮説は、物理主義的還元論の限界(例えば、クオリアの問題や意識の統一性)を越える試みとして一定の注目を浴びているが、神経科学、量子物理学、そして哲学の各領域から多様な批判が寄せられている。ここでは、仏教哲学の中でも特に唯識(瑜伽行派)と中観(特に龍樹以降の空の哲学)の立場から、量子脳仮説に対する建設的な批判を試みる。唯識思想においては、意識は脳の産物ではなく、より根源的な「阿頼耶識」という潜在的・根本的心相続の流れによって支えられていると考える。すなわち、物質的な脳活動(微細な神経過程や、仮に量子レベルの活動であっても)は「末那識」や「第六意識」といった表層的意識現象の依り代に過ぎず、その背景にはより深層において「阿頼耶識」が絶えず識の流れを形成しているとされる。この観点からすると、量子脳仮説は「量子脳」を新たな実体と見なす物質中心主義の延命措置に過ぎないと映る。例えば、脳内の量子現象が意識を生むのだとすれば、それは「意識=脳の物理的活動」という前提の枠内に留まっており、「識が世界を構成する」という唯識の根本的視座を欠いている。また、唯識における「遍計所執性(誤った対象把握)」という概念から見ると、量子脳仮説が「脳内のある場所に意識の源泉がある」と信じる時点で、認識主体と対象を二元的に固定化する認識の錯誤を脱していないとも言える。したがって、唯識からの建設的批判はこう要約される――量子脳仮説は、意識の根源性を物質の特異性(量子的な微細構造)に還元しているにすぎず、阿頼耶識という非時間的・非空間的な識の流れを捉え損ねている。その意味で、意識の本質に関する洞察としては不十分であり、むしろ識を物質よりも先行するものとして捉える方向に転換すべきである。中観派の中心的思想である「空(śūnyatā)」とは、あらゆる事象は独立自存する実体を持たず、縁起(相互依存)の関係性の中にのみ存在するという立場である。これに照らせば、量子脳仮説は、たとえ古典物理学の決定論を超えたとしても、「脳内の量子構造が意識を生む」という因果的一方向性を前提にしている点で、やはり実体論的な世界観から脱しきれていないと考えられる。特に重要なのは、量子論の根本的な非局所性や非決定性を、「意識の原因」として扱うとき、それが再び一種の実体視(svabhāva)に回帰してしまうことである。中観からすれば、真に非実在的で空なるものは、実体としての地位を持たないがゆえに機能的であり、あらゆる認識と存在は仮の名(prajñapti)によってしか成立しない。このような徹底した非実体論の視点からは、「量子的なプロセスが意識を生む」と語る時点で、それを「自性有」と見なしてしまっており、中観が目指す「無自性」とは本質的に矛盾する。中観の立場は、むしろ「意識」や「脳」や「量子現象」といった一切のカテゴリーが、それ自体として自存しているのではなく、相互に依存しながら、仮に機能しているにすぎないという構造的理解を重視する。ゆえに、量子脳仮説においても、脳の量子的プロセスが意識を「生む」のではなく、意識という概念が脳と量子と観察者との関係性の中で仮に構成されているという認識への転換が必要だろう。唯識と中観はいずれも、意識の本質を物質に還元する立場に対して根源的な懐疑を呈する。唯識は識の流れを第一義とし、中観はあらゆる事象の無自性と縁起性を説く。両者に共通するのは、意識を脳の構造や物理的過程によって説明しようとする限り、真に意識そのものの存在論的・認識論的深みには到達できないという洞察である。したがって、量子脳仮説に対する仏教哲学からの建設的批判とは、こう要約できる――量子論の最前線を用いて意識の神秘を解こうとする努力は評価に値するが、それが「脳」という物質的実体を中心に据えている限り、最も深い次元の「識」や「空」の実相には届かない。むしろ、物理的説明を超えて、主体と対象、観察と存在の関係性自体を再構成する存在論が必要である。それは、量子論においても仏教哲学においても共通する課題であり、今後の対話的進化の余地を残す。フローニンゲン:2025/7/16(水)17:01


Today’s Letter

According to Buddhist perspectives, information cannot be categorized simply as 0 or 1. At the very least, information involves existence, non-existence, and emptiness. Modern information science lacks this middle way. Groningen, 07/16/2025

 
 
 

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