【フローニンゲンからの便り】16969-16973:2025年7月15日(火)
- yoheikatowwp
- 7月17日
- 読了時間: 15分

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タイトル一覧
16969 | 唯識思想の修行方法 |
16970 | 今朝方の夢 |
16971 | 今朝方の夢の振り返り |
16972 | 唯識思想の体系化と後代の思想への影響 |
16973 | 秋を感じて/中観と唯識から見た時間 |
16969. 唯識思想の修行方法
時刻は午前6時半を迎えた。今朝は早朝から曇っていて朝日を拝むことはできない。今の気温は16度と涼しく、日中の最高気温は22度までしか上がらないようなので、とても過ごしやすい1日になるだろう。7月もちょうど折り返しを迎えたが、まだまだ涼しい日が続くことに感謝し、涼しさの恩恵を受けながら、今日もまた書籍の執筆を前に進めていこうと思う。
唯識思想は高度に体系化された心の理論であるが、それは単なる思弁ではなく修行(実践)と深く結びついている。そもそも「唯識」の名が示す通り、私たちが認識する世界はすべて自己の心が生み出した表象に他ならないと知ることが悟りへの第一歩である。そこで修行者は、自分の心の外に実体的な世界があるという誤った思い込みを正すための観法(ヴィパッシャナー、観想修行)を行う。具体的には「あらゆる現象は心の働きが変化したものに過ぎない(一切唯識所変)」という真理を繰り返し観じ、目に映るもの・耳に聞こえるものがすべて心の中のイメージであることを深く体得しようと努める。この実践法は「唯識観」とも呼ばれ、唯識派の教理とヨーガ(瑜伽)の瞑想法が結合した具体的な修行体系としてまとめられている。また一方で、阿頼耶識に積まれた悪い種子を良い種子に置き換えるための倫理的・瞑想的訓練も重視される。唯識では六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)など菩薩の実践徳目を繰り返し実行すること自体が、阿頼耶識に善なる種子を送り込み、心の深層を漸次浄化する作業と位置づけられる。実際、第八識に善種子が充満し悪種子が尽きたときに初めて転識得智(前項)の大転換が起こるとされるように、悟りに至るためには長期間にわたる地道な精神修養が不可欠である。裏を返せば、唯識の教えは「たとえ時間はかかっても着実に心の変容は可能である」という希望を修行者に与えるものでもある。このように唯識思想は、坐禅や観法によって心を見つめ、認識の誤りを正していく実践論としての側面を有している。悟りとは心の在り方そのものが転換することであり、そのためにヨーガ(静慮)の鍛錬と深層意識の変革が必要であることを唯識は教えるのである。
唯識思想を奉じる学派は「法相宗」とも呼ばれるが、自らは瑜伽行派(ゆがぎょうは)と称した。瑜伽行派とはサンスクリット語のヨーガーチャーラ (yogācāra) の漢訳で、「ヨーガ(静慮=瞑想修行)を行ずる者たち」という意味である。つまり唯識思想の提唱者たちが、単なる論理的思索だけでなくヨーガの実践によって心の真理に到達しようとする行者であったことを示す名称である。彼らは坐禅や観法などの瞑想修行(止観=シャマタとヴィパッシャナー)を重んじ、その内的体験を理論的に整理する中で唯識の教説を発展させていった。伝説では、唯識の祖とされる無著(アサンガ)は長年にわたる瞑想の末に弥勒(マイトレーヤ)から直接教えを授かったとも言われる。この逸話は象徴的に、唯識が瞑想による直観的覚知を重視する思想であることを物語っている。学派名に「行(実践)」の字が含まれている点も、唯識思想が机上の哲学ではなく修行を通じて体得すべき真理を説く教えであることを示唆している。なおインドに端を発する瑜伽行派の教えは、玄奘三蔵によって漢訳経典として体系的にまとめられ、彼の帰国後に唐代で法相宗(漢訳唯識学派)として確立された。玄奘やその弟子・慈恩大師(じおんだいし、基〈き〉)らは唯識教学と坐禅修行を融合させ、中国独自の唯識観法を実践・教授したと伝えられる。このように唯識思想は終始一貫して理論と実践の両輪を備えており、教理体系の完成度のみならず、ヨーガ(禅定)実践に裏打ちされた説得力を持つ点がその特徴である。フローニンゲン:2025/7/15(火)06:53
16970. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れないホテルの中にあるレストランの中にいた。そこはとても広いフロアを持っていたが、客はほとんどいなかった。小中学校時代のある親友(KF)と外で運動し、運動を終えて喉がとても渇いた状態でレストランに入った。彼と最初水か何かを飲もうと思ったが、無性にアイスコーヒーが飲みたくなり、それを飲むことにした。アイスコーヒーを探したところ、それを見つけたのだが、それは不思議な場所に置かれていた。自分たちの背ではどう考えても届かないような、高い天井の上の方の棚に置かれていたのである。アイスコーヒーのポットとホットコーヒーのポットの2つを見たときに、アイスコーヒーは氷で味が薄められているように思えたので、急遽考えを変えて、ホットコーヒーを飲むことにした。私は宙に浮かべる能力があったので、友人の彼を後ろから抱き抱える形で押さえて、彼と一緒に宙に浮かんだ。そして彼にコーヒーポットを取ってもらった。ゆっくりと無事に地上に着地した後に席に着いてコーヒーを飲み始めると、若い外国人の店員の女性が笑顔でデザートを持ってきてくれた。それはどうやら無料で提供されているものらしく、容器の中を見ると、ブルーベリーといちごと黒豆をふんだんに使ったデザートでとても美味しそうだった。何より大変ヘルシーに思えたので1つもらうことにした。
次に覚えているのは、目撃者として2人の師弟が魔法の鍛錬をしている場面である。彼らはホテルの周りで各種の魔法の鍛錬に明け暮れていた。例えば、空を飛んで段階的に高度を落としていく訓練や壁に対して直角に足をつけて一気に駆け上がっていく訓練なのである。そうした訓練の様子を眺めていると、自分もそうした能力が開花されていくかのような感覚があった。この場面を受けて、見慣れないサーキットが現れ、そこで大学時代のサークルの先輩がローラースケートを滑りながらタイムを測っていた。私の横には友人がいて、次は彼がチャレンジする番なのだが、先輩はミスなく好タイムを叩き出し、先輩が勝利しそうな予感があった。
最後に覚えているのは、協働者のある知人の方が仕事上の面白話を聞かせてくれている場面である。その方は自分よりも幾分年配で、これまでの仕事を通じて色々と面白い体験をしたり、面白い人に会ったりしてきていたので、話がとても面白かった。その方の話を聞きながら、人は仕事を通じて見えてくる新たな側面があるものなのだなと改めて実感した。今朝方はそのような夢を見ていた。フローニンゲン:2025/7/15(火)07:05
16971. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の最初の場面で現れた見慣れないホテルのレストランは、自己の内部にひっそりと存在する「潜在的な滋養の場」である。広大でありながら客のいないフロアは、まだ十分に踏み入れていない精神領域――知的・情動的資源の豊饒さと、それを活用していない現状――を映し出しているとChatGPTは述べる。小中学校時代の親友と運動を終えて入店した場面は、過去の純粋なエネルギーと現在の自己が交差し、渇きを覚えることで「今こそ内的刷新が必要だ」と告げる序章であった。無性に欲したアイスコーヒーが高い棚に置かれていたという設定は、欲望の対象が「自分の通常の手段では手が届かない高所」に位置づけられていることを表す。氷で薄まった冷たい飲み物を途中で取り下げ、濃度の高いホットコーヒーへ方針転換した選択には、安易な満足ではなく本質的な活力を選び取ろうとする意志がある。宙を舞う力が自然に備わっていた点は、現状ではまだ意識化されていないものの、状況次第で発動しうる「超常的な自己効力感」の萌芽である。友人を抱え共に浮上する姿は、過去の自分(友人)を支えにしながらも、主体がリードして未踏の高さへ到達するプロセスを示す。着地後に差し出されたブルーベリー・いちご・黒豆のデザートは、「甘さ」「瑞々しさ」「滋養」という三位一体の恵みを、他者(若い異邦の給仕)から無償で授かる祝福であり、自己変容のタイミングが正しいことを確認させる象徴的報酬であった。続く師弟の魔法鍛錬は、外界に投影された「自己教育のモデル」である。彼らが高度を調節しながら飛行したり、壁を直角に駆け上がったりする映像は、垂直的(深層・高次)と水平的(現実生活)双方の軸で能力を自在に扱う訓練を示す。見学する自分が自らの潜在力の開花を直感したのは、観察と同一化を通じて「内なる師弟関係」が芽生えつつある徴候である。ここでホテルの外周が舞台になるのは、もはや安全な内的空間だけでなく、現実環境との接続面で鍛錬を試みる段階に移行したことを語る。突如現れたサーキットとローラースケートのタイム計測は、「速度」や「競争」のモチーフを導入する。大学時代の先輩が好タイムを叩き出す場面は、過去に敬意を抱く対象への畏怖と、それを超克したい願望とがせめぎ合う心象である。友人が次に挑むという配置は、かつての仲間を媒介にして自我が競技に身を置くことを暗示するが、勝敗の予感によって「結果への緊張」と「学習機会としての競争」の二面性が浮き彫りになる。最後に登場した年長の協働者との対話は、職業経験を通じた知恵の獲得と物語化を象徴する。仕事という現実の舞台装置を介して、人間は常に未知の側面を顕在化させる――その洞察が「面白話」という形で授けられることで、自分の内面では「生涯をかけた自己探究と社会参加」が有機的に結びつく。夢を締めくくるこの穏やかな場面は、前半で示された超常的飛翔や競技的試練の高揚を、落ち着いた叡智へと統合するエピローグである。こうして全体を貫く構造は、渇きから始まる「滋養の探求」、浮上・飛翔による「潜在力の解放」、競争と時間計測による「自己評価の刷新」、他者の語りに耳を傾ける「叡智の統合」という四層の螺旋である。夢は自分に、過去と現在を抱えながら高みに達し、現実世界でその能力を試行し、成熟した語りによって経験を結晶化させよ、と示唆している。だからこそ今後の日常でも、安易に薄められた刺激よりも濃度の高い関わりを選び、内外の師と弟子を自らのうちに住まわせ、時間を味方につけて試練を楽しむ姿勢を保つべきである。夢のホテルに客が増えるか否かは、自分がその滋養の場を実際に訪れ続け、未知の才能に喉を潤すかどうかにかかっているのだ。フローニンゲン:2025/7/15(火)07:22
16972. 唯識思想の体系化と後代の思想への影響
唯識思想を大成したのは、インド5世紀頃の兄弟仏教者である無著(むじゃく、Asaṅga)と世親(せしん、Vasubandhu)であるとされる。伝承によれば、無著と世親はともにインド北西部ガンダーラ出身の兄弟で、無著が菩薩弥勒から授かった唯識の法を基に思想を築き、その影響で小乗学者であった弟の世親も大乗仏教に転向したという。歴史的事実の裏付けは別としても、無著が先行するさまざまな唯識系の仏典・論書を渉猟し、自らの思索を深めて唯識教理を体系化したことは確かだろう。そして兄から刺激を受けた世親は、大乗仏教の立場で多くの著作を著し、唯識思想をより精緻に磨き上げていった。その意味で無著・世親は「唯識思想の実質的な創始者」と評価される。無著の主著『摂大乗論』(しょうだいじょうろん、Mahāyāna-saṃgraha)は唯識学派の教義を総合的にまとめたものであり、世親はそれに対する注釈を書いている。また世親自身の著作として、唯識思想のエッセンスを30頌の偈頌にまとめた『唯識三十頌』(ゆいしきさんじゅうじゅ、Triṃśikā)や、20章からなる議論形式で唯識を説いた『唯識二十論』(ゆいしきにじゅうろん、Viṃśatikā)が特に有名である。『唯識二十論』において世親は「世界は個人の表象に過ぎない」という唯識の立場を鮮明にしつつも、言語で表現し得ない究極の実体(真如)の存在も認めている。また『唯識三十頌』では八識説が提起され、阿頼耶識による深層心理学的な心のモデルが示された。これら無著・世親の著作によって唯識思想は理論的骨格を与えられ、大乗仏教哲学として完成度の高い体系となった。なお、無著・世親の後もインドでは陳那(じんな、Dignāga)や無性(むしょう、Sthiramati)、護法(ごほう、Dharmapāla)ら多くの論師が唯識思想を継承・発展させ、論争を通じて思想を洗練させていった。その系譜はインド仏教末期まで連なり、やがて中国・日本に伝えられて独自の展開を遂げることになる。
唯識思想はインドから中国・日本に伝播し、法相宗(唯識学派)として教学が伝えられると共に、他の大乗仏教諸宗の思想にも深い影響を与えた。中国では特に華厳宗が唯識の認識論を積極的に取り入れて展開したことで知られる。華厳教学の祖・法蔵は華厳経の哲理を説明する中で唯識の立場を駆使し、「十重唯識」等の独自概念を提唱して唯識説を深化させた。華厳宗における「唯識」とは大乗仏教の基本的認識論のことであり、個人が接する全ての存在は八識によって表されるとの見方が土台にある。華厳はそれをさらに発展させ、あらゆる現象を心の働き(能変の心)とその心に現れる対象(所変の境)の相互関係として捉え、森羅万象が一心に含まれると説いた。この華厳の哲学体系は唯識思想と密接に結びついており、物心一如のネットワーク的宇宙観(いわゆる「法界縁起」)の背景にも唯識の発想が流れていると言える。「華厳の唯識が充実していった」と評されるように、唯識なしには華厳宗の思想構造は語れないほどである。中国天台宗もまた、唯識からの影響を見て取ることができる。天台大師智顗(ちぎ)は中観・唯識など先行諸哲学を包括的に統合して法華一乗の立場を確立したが、その統合の過程で唯識の思想とも対峙しつつ教理を練り上げた。天台宗は誰もが成仏できるとする法華経の立場に立ち、唯識系の「五性各別(ごしょうかくべつ)」(衆生を5種類の根器に分類し一部は成仏不可能とする説)を方便説として退けるなど教理上の論争もあった。しかし一方で、転識得智の思想(迷いの識を転じて仏智を得る考え方)などは天台教学にも受け継がれており、天台の止観修行における心理分析には唯識の知見が生かされている面も指摘される。密教系の真言宗でも、唯識の四智説(転識得智)との対応関係を持つ五智如来の思想が説かれるなど、その影響が看取できる。さらに中国で成立した禅宗(禅仏教)にも、唯識思想の影響は少なからず及んでいる。特に禅宗初期の思想において、唯識的な心の分析や修行論が受容・発展したことが研究者によって指摘されている。例えば、禅では「見性成仏(自らの心性を見て仏となる)」が重視されるが、その基盤には「心そのものの空性を直観する」という発想があり、これは唯識の三性説が説く心の空(くう)と軌を一にするものと考えられる。実際、中国禅宗の北宗系では唯識教学を積極的に学んだ僧侶も多く、坐禅修行の理論的支柱として唯識の用語・概念が用いられた例も伝えられる。禅の祖師達磨(だるま)がインドから中国へ伝えた教えも、後世の伝説では「楞伽経の四巻本」(唯識思想を含む経典)を以て二代慧可に法を付嘱したとされるなど、唯識との関連性が示唆される逸話が残る。総じて言えば、唯識思想は中国・日本の大乗仏教各宗派に顕在・潜在の形で溶け込み、仏教思想全体の底流をなす認識論として機能したのである。唯識が提示した深遠な「心の哲学」は、華厳の円融思想や禅の直観思想にも影響を与えつつ、それら後代の思想の中に様々な形で生き続けている。各宗派の教義を超えて、「すべては心の現れ」と見る唯識の洞察は、仏教思想史に不滅の足跡を残したのである。フローニンゲン:2025/7/15(火)07:34
16973. 秋を感じて/中観と唯識から見た時間
今日は走ることはせず、朝の散歩に留めた。優しく降り注ぐ朝の陽光は、どこか夏のそれではなく、秋のそれを感じさせた。確かにまだ7月の半ばだが、それでも日照時間の極致を過ぎ、着実に秋に向かい始めている。そんな中、今日もまた書籍の執筆を進め、第3章の執筆が無事に完成した。これで半分ほどの執筆が終わった形となる。
ふと、中観や唯識の観点からすると、時間は実在せず、縁起を通じて仮に存在すると考えるだろうという点について考えていた。時間が仮に存在する概念的産物である場合、時間は他の事物と比較してどのような質を持つと言えるだろうか?中観においては『根本中論』第十九品の議論が典型である。ナーガールジュナは「過去も未来も現在も本質的に〈時〉として成立しない」と述べ、時間を実体視するあらゆる把握を解体した。過去・現在・未来はいずれも互いに依存し合う指標でしかなく、それ自体を取り出して固定すれば3つとも同時に崩れる。したがって時間は自性を持たず、ただ縁起という関係網の中で「先・後」や「長短」といった区別が便宜的に措定されるにすぎない。これが「実在せず、仮に存在する」という中観側の基本線である。唯識に目を転じれば、「唯識」という語が示すとおり、時間もまた「識の現れ」である。ヴァスバンドゥは瞬間滅の立場を取り、刹那ごとに続く識の流れ(相続)が因果を担保すると考えた。ここで〈刹那〉は認識論的な単位であって、客観的な絶対時間ではない。三性論で見るなら、連続線として把握された時間は第一義的には「遍計所執性」(想像上の構築)であり、束となって流れる「依他起性」(因縁所生)として働き、空性を悟る視野では「円成実性」において実体を失う。こうして両学派はいずれも「時間を究極の実体とは認めない」という点で合致する。ただし、中観が主として論理と帰謬によって「実体の不在」を突きつけるのに対し、唯識は「識のダイナミズム」を説いて、時間がどのように心相続へ投影されるかを解剖するという違いがある。では時間を「概念的産物」と見なしたとき、それは他の事物と比べてどのような質を示すのか。第一に、五感で直接対象化できる色・声などと異なり、時間は純粋に表象的である。触覚的な抵抗がないゆえに――例えば、机を叩けば硬さに出会うが、〈1時間〉は手応えをもって現れない――その抽象度は高く、観念操作に開かれた流動性を備える。第二に、因果系列を束ねる「メタ構造」として機能する点である。眼前のコップや音は個々の因縁によって起こり滅するが、時間はそうした無数の因果列を横断的に整理する枠組みとして働く。ゆえに〈仮有〉でありながら、その枠組みが破綻すれば現実世界の理解自体が瓦解するほど強力な統整力を持つ。第三に、自己言及性である。時間概念は「変化を認識する心」が自らの変化を測定するために構築した指標であり、測定行為そのものに回帰する。測定主体と測定対象が同一起点にあるため、時間は常に「心が心を映す鏡」という二重構造を帯びる。これが空性の透過性を学ぶ格好の窓となり、中観・唯識双方で修観の要となる所以である。総じて言えば、時間は他の事物と同様に縁起に依存して成立し、その限りで「空であり仮である」。しかし、五感的対象よりも抽象度が高く、因果を統御するメタレベルの枠組みであるため、人間の生存実感に与える影響は甚大である。中観はその枠組みを一挙に徹底解体することで無自性的なリアリティへと導き、唯識は識の戯れとして内観を深めることで時間把握の相対性を露わにする。両者のアプローチは異なれど、時間を「仮に存在する観念の中でも、とりわけ心と縁起を照明する精妙なレンズ」と見立てる点で一致していると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/15(火)11:59
Today’s Letter
My motto for learning is fun and playfulness. Whenever I study, it feels like pure pleasure and play. I am always filled with joy and playfulness. Groningen, 07/15/2025

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