【フローニンゲンからの便り】16963-16968:2025年7月14日(月)
- yoheikatowwp
- 14 時間前
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タイトル一覧
16963 | 唯識思想の概説 |
16964 | 今朝方の夢 |
16965 | 今朝方の夢の振り返り |
16966 | 唯識思想の八識説について |
16967 | 三性説と転依 |
16968 | 感覚と意識を繋げる訓練 |
16963. 唯識思想の概説
時刻は午前7時半を迎えた。今、見事な朝空が広がっていて、朝日が燦然と輝いている。今の気温は16度で、今日の日中の最高気温は24度となる。引き続き過ごしやすい気候である。20度後半の夏日がやって来てもいいが、30度を超えるような真夏日はできるだけ少ない形でこの夏が進行して欲しいものである。少なくともここからの10日間は20度前半の日が続き、気温が上がっても25度ぐらいなのでとても有り難い。
昨日は随分と量子論のキータームについて咀嚼して文章を執筆していた。それと同じことを唯識思想に対しても行なってみたい。唯識思想は、大乗仏教における二大哲学潮流の1つであり、もう一方の潮流である中観派の「空の思想」と並び称される。唯識は4~5世紀頃のインドで、大乗仏教の思想家たちが「空」の理論を更に深く考察する中で生まれたとされる。仏教初期からの「諸法無我(あらゆる存在に永遠不変の自己はない)」の思想を踏まえつつ、唯識派の論者たちは「すべての存在は唯だ心(識)に他ならない」と説いた。この唯識思想は紀元後3~4世紀に成立し、その後の大乗仏教の基礎思想ともなっていったと考えられる。中観派の空理論と対立するものではなく、むしろ空の原理を新たな観点から再解釈したものとして位置づけられる。すなわち「空」の思想が外界の実体否定を説くのに対し、唯識思想は認識主体である心の側に焦点を当てて万有を説明しようとする哲学である。歴史的には、インド大乗仏教後期に隆盛し、中国には玄奘(三蔵法師)によって7世紀に伝えられ、法相宗として体系化された。以後の東アジア仏教諸派にも多大な影響を与え、その思想のエッセンスは華厳宗や天台宗、禅宗などの教理にも反映されていった。
仏教における「識(しき)」とは、本来「認識作用」すなわち対象を識別し知覚する心の働きを指す(サンスクリット語のヴィジュニャーナ(vijñāna)に相当)。五感(視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚)による感覚知や、言語や記憶を用いた意識的な知覚がこれに当たる。しかし、唯識思想でいうところの「識」は、そうした認識行為そのものではなく、「認識された結果」すなわち心に現れる表象を意味する概念である。サンスクリット原語ではヴィジュニャプティ (vijñapti) といい、「表象」あるいは「認識内容」の意である。したがって「唯識」とは直訳すれば「ただ識のみ」となり、「あらゆる存在は認識の結果として現れているに過ぎない」という主張になる。私たちが普段実在すると考えている外界の諸対象も、究極的には心の中のイメージ(影像)として現れているに過ぎないという見解である。別の言い方をすれば「心の外に存在するものはなく、あるのは心の内に生起した表象だけである」ということであり、これを唯識派は「一切不離識、唯識無境」(一切は識を離れず、唯だ識のみあって境界(外界)は無い)と表現した。このように唯識思想は、物質的な外界の実体性を否定し、世界をただ心の働きの表れと見る点に特徴がある。「唯識」の見解は仏教の基本教理である空・無我を発展させた認識論とも位置づけられ、後の大乗仏教の認識哲学に大きな影響を及ぼした。例えば、中国伝来後に生まれた華厳教学では唯識の見方が積極的に取り入れられ、「我々にとってのあらゆる存在は、唯だ八種類の識によって成り立っている」とする認識論が深化・体系化された。フローニンゲン:2025/7/14(月)07:50
16964. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、実際に通っていた高校にいた。様々な学年の生徒が学校中を行き来しており、どうやらその日は授業はなく、文化祭か何かの準備をしているようだった。私は自分を含めた数名の個人情報ファイルが教室からなくなっていることに気づき、それを友人たちと一緒に探した。体育館に行ってみると、そこでも文化祭の準備がなされていて、それだけではなく、身体測定のようなものも行われていた。私はそこで2m近いアフリカ系のオランダ人の男性と遭遇し、彼が天井に頭が届きそうなぐらいな形で身体測定をしていて、自分も身長を測ってもらうことにした。すると、かつての身長よりも随分と低い身長が測定され、測定の誤りだろうと思って測りを見ると、測りの数字がセンチメートルではなく、インチになっていて、そのオランダ人の男性は測定結果を読み間違えたのだと思った。1回目は160cm前半と測定され、2回目は140cm台と測定され、どちらも自分の本来からはかけ離れた数字だった。3回目の測定をすることなく体育館を出ることにした。すると、体育館の向こう側の校舎の屋上から、目には見えない人が陶器の破片をこちらに投げつけてきた。対象は自分だけではなく、体育館付近にいる人たちだった。投げつけられた陶器の破片は目に入るととても危ないと思い、なんとかその人物を止めなければならないと思った。作戦を練るために一旦その場を離れたところ、突然大型の台風と同等かそれ以上の強風が吹き始め、立っていられなくなったので身をかがめた。身をかがめながらなんとか風を避けるために体育館の裏手に回ったところ、遠くに小学校の校舎が見え、そこで小学生の低学年の子供たちが先生に連れられて避難している様子が見えた。女性の先生がそれを行なっていて、私の存在に気づき、大丈夫かと身振り手振りでメッセージを送ってくれたので、私は大丈夫だと身振り手振りで示した。気がつくと風が収まっていて、私は小学校の校舎の方に行ってみることにした。するとそこで数人の見知らぬ男女と出会い、彼らがお腹を空かせており、ちょうど自分の手には茹でた立派なエビが何匹も入った容器を持っていて、彼らにエビを分けて上げることにした。大きな箸を使って彼ら1人1人にエビを2匹ずつ分けて上げ、自分は残ったエビの中から1匹ほど食べることにした。栄養豊富で活力がもたらされそうなエビを口にしようとした瞬間に、自分の部屋にいた。そこはかつて小中学校時代に過ごした社宅の自室で、どういうわけか父が自分のベッドの小物置き場を雑巾で綺麗に掃除してくれていた。どうやら随分と埃が溜まっていたらしく、父はせっせとそこを綺麗にしてくれた。父が部屋から去ると、部屋の畳には泥の靴跡がいくつかあり、それらも綺麗に拭き取っておこうと思った。
その他に覚えている夢は、とあるAI研究の著名な先生と一緒に成人発達理論とAIを絡めたセミナーを行うことになり、一緒に資料を作っていた場面である。自分は成人発達理論の箇所を担当することになっており、先生と意見交換しながら充実した資料作成に向けて手を動かしていた。その中で、先生がどれだけ成人発達理論に造詣があるのかを知りたかったので、いくつか質問してみた。すると先生は笑いながら、「不勉強で申し訳ないです。これから勉強していきます」と述べた。私もこれからAIについてさらに探究を深めていきたいと思っており、お互いが助け合いながら学びを深めていく関係性は改めて素敵だなと思った。フローニンゲン:2025/7/14(月)08:08
16965. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢全体には、自己の発達段階を縦断的にたどりながら、過去と現在、さらには未来の潜在的自己を統合しようとする動きが脈打っている。舞台はまず高校という「思春期の自我形成」の原点に置かれ、授業のない文化祭準備という非日常的高揚が広がる。文化祭は「共同創造」と「自己表現」が交差する祝祭であり、社会的役割を模索する青年期の縮図である。その最中に「個人情報ファイル」が紛失するという出来事は、過去に確立したはずのアイデンティティの記録が行方不明となり、自分自身の輪郭が曖昧になる不安を示す。友人と共に探し回る行為は、同世代との相互照合を通じて自己像を確かめようとする心理である。体育館での身体測定は「数値化された自己評価」の象徴である。自分より遥かに高身長のアフリカ系オランダ人男性が、ほとんど天井に届くほど頭を伸ばして測定を受けている場面は、「他者と比較される場での自尊感情の揺らぎ」を際立たせる。しかも測定値がインチ表示で読み違えられ、実際より低く出るという誤謬は、外的基準や異文化の物差しに合わせた途端に、自分の価値が過小評価されるという潜在的恐れを映す。3度目の測定を拒む決断は、「不完全な評価体系」から自主的に身を引き、真の自己認識を他者依存の尺度から取り戻そうとする意志である。次に現れる陶器の破片を投げつける不可視の人物は、「見えない批評者」あるいは「内なる攻撃的自己像」であり、陶器—すなわち焼き固められた文化的伝統や過去の記憶—が割れて飛ぶさまは、古く硬直化した価値観が危険な断片となって意識に降り注ぐ状況を示す。破片が「目」に入れば危険という恐れは、視点や洞察を損なうリスクへの警戒心であり、その人物を止めたいという衝動は「批判的内声の制御」を意味する。ところがその場を離れると台風級の突風が吹き荒れる。風は変化と浄化の力であり、嵐に身をかがめる姿は「外的・内的な巨大エネルギー」に対し、一時的に柔軟に身を屈めることで耐え忍ぶ術を示す。遠方の小学校で避難する低学年の子どもたちは、「初心の自我」や「無垢な感情」の部分がなお守られていることを暗示する。女性教師がジェスチャーで安否を尋ね、自分が応える場面には、内なる養育的アニマと自己のコミュニケーションが表れている。嵐の後、未知の男女にエビを分け与える行為は、「生命エネルギー(海の象徴たる甲殻類)」を他者と共有する愛他的成熟を示す。ここで用いられる大きな箸は「媒介する自己」の拡張を意味し、2匹ずつ分ける均衡は博愛と自己保存の調和点を示唆する。突然の場面転換で戻る古い社宅の自室は、幼少期の土台—畳という和的母胎—に回帰した相である。父が埃を拭う場面は、父性的原理が過去の記憶層に蓄積した「使われず沈積した価値」を清掃し、再生のスペースを整える働きを担う。父の去った後に残る泥の靴跡は、これまで歩んできた現実生活の痕跡がなお未整理であることを示し、それを自ら拭き取ろうとする動作が「自分の足跡を自分の手で意味づけ、整理し直す」最終工程となる。続く別の夢で、著名なAI研究者と成人発達理論を絡めたセミナー準備を行う場面は、知的・社会的フロンティアで「共同生成」を再演するが、今度は自分自身が理論の側面を担い、相手が学習の姿勢を示す。ここでは自他の専門性が相補的に交差し、「一方的被評価の場」だった高校体育館とは対照的に、「相互に無知を開示しながら共に成長するパートナーシップ」が描かれる。成人発達理論とは、段階的自己展開を扱う枠組みであり、その理論を携えてAIという未来志向技術と対話すること自体、夢の全体構造をメタ的に解説する行為に他ならない。総じてこの夢は、過去の記憶領域(小学校・中学社宅・高校)と現在の専門性(AI・成人発達)を往復しながら、評価尺度の誤読、無形の攻撃、自然の猛威、他者との分かち合い、父の浄化的援助という多層的イベントを連鎖させることで、「自己再評価と統合のダイナミズム」を映し出す。文化祭のざわめきに始まり、知的セミナーの協働に終わる語り口は、自分がもはや過去の祭りを回想するだけの主体ではなく、成熟した創作者として未来の祭り—すなわち共創的学習コミュニティ—を編み上げる段階へ進んでいることを宣言しているのだろう。フローニンゲン:2025/7/14(月)08:21
16966. 唯識思想の八識説について
唯識思想の中心には、人間の心の働きを8つの階層に分類する八識説がある。伝統的な仏教(原始仏教・部派仏教)では、人間には6つの「識」があると説かれていた。すなわち五感に対応する五識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識)と、第六識である意識である。この前五識は文字通り視覚から触覚までの五感の働きであり、第六識たる意識がそれら感覚情報を統合して種々の判断・思考を行っている。唯識派はこの通常の六識に加え、さらに深層の無意識の領域として第七識と第八識を立てた。すなわち第七識を末那識、第八識を阿頼耶識と呼び、五識・意識と合わせて八種類の識(八識)によって心の全体構造を説明する。以下、それぞれの識の概要と役割を順に説明する。第1~5識(五識)は、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の5つである。これらは視覚・聴覚など五感にもとづく知覚の意識である。対象からの刺激を受け取り、それぞれの感官に応じた像(色・音・香・味・触)を心に生じさせる働きを担う。五識はあくまで個別の感覚ごとの認識作用であり、それ自体は判断や概念化を行わない。第6識(意識)は、五識による種々の感覚情報を統合し、「自分が今○○を見た・聞いた」といった主観的経験としてまとめ上げる働きを持つ中心的な意識である。思考・推論・判断・記憶想起など、高次の精神活動もこの第六意識の働きに含まれる。日常的に「意識」と呼ぶ場合、大半はこの第六識を指していると言える。意識には貪(むさぼり)・瞋(いかり)・痴(おろかさ)など様々な煩悩や妄念が現れては消える。仏教では根本的な煩悩として貪・瞋・痴に慢・疑・悪見を加えた六大煩悩が知られるが、そうした煩悩の直接的な舞台となるのが第六意識である。しかし唯識によれば、第六識の背後にはさらに深い無意識的な心の層があり、そこから絶えず影響を受けているのだとされる。第六識の下にある第一の深層意識が、第七の末那識である。末那識は「自分に執着する心」とも表現され、常に「我」(自分)というものを捉えて離さない潜在的な意識である。いわば意識下で常に働くエゴ(自我意識)のようなもので、眠っている間でも活動し続けて自己への執着を維持すると説明される。末那識は第六識(表面の意識)に絶えず影響を与え、自分本位のものの見方・考え方をもたらす根本要因となっている。唯識では、末那識に「我痴」「我見」「我慢」「我愛」という4つの根本的な煩悩(四惑)が常に潜伏すると説く。それらは「自分というものがある」という無明、「自分という存在への錯った見解」や「慢心」「自己愛着」を指し、いずれも根源的な自己執着の現れである。末那識は別名「染汚意(ぜんまい)」ともいい、このような煩悩に染まった深層の意識である。末那識が強固であるほど、第六識の働きも自己中心的な迷妄に彩られてしまうと唯識は考える。末那識のさらに深層に想定される根本的な意識が第八阿頼耶識である。阿頼耶識は「蔵識」とも訳され、「あらゆる経験の種子(しゅうじ)」を蔵する心の倉庫と定義される。簡単に言えば阿頼耶識は「命に執着する心」であり、生存本能の根源にある意識であるとも表現される。阿頼耶識は生命の連続を支える潜在意識であり、この識が前七識(五識・意識・末那識)を生み出し、ひいては個人の心身やその人が「世界」と見なす一切の現象をも生み出していると考えられている。ここでは「生あるもの」と「生ないもの」を分別し、生への執着(生存欲求)を起こすはたらきがあり、それが末那識の自己執着を裏で支える構造になっている。阿頼耶識には過去世から現在に至るまでの無数の行為(カルマ)の結果が「種子」として蓄えられている。やがて機が熟すとその種子が末那識を経由して第六識に現行し(表面化し)、具体的な煩悩や想念となって現れる。そして発現した煩悩に基づいて新たな行為がなされると、またそれが種子として阿頼耶識に薫習され蓄積される。このように阿頼耶識を媒体として種子の循環がおこり、迷いの心の連鎖(生死輪廻)が維持されていると唯識は説く。阿頼耶識こそが輪廻転生を成り立たせる主体(識の本体)であり、個々の生命流の根源であると位置づけられる。以上のように第七末那識と第八阿頼耶識は、ともに通常は自覚されない無意識の領域でありながら、第六識以下の表層意識に絶大な影響を与える根底的な心の働きである。唯識説の独創性は、この深層心理的な無意識の領域を仏教思想として初めて体系的に論じた点にある。仏教的立場から見るならば、煩悩の根源は自己への執着であり、その自己執着の根が意識の深みに厳然と存在するという洞察になる。ゆえに表層の意識レベルでいくら煩悩を抑え込もうとしても根本的解決にならないとされる。迷いを断つには、心の最も深層にある阿頼耶識を転換し浄化しなければならない――唯識思想はこのような心理構造のモデルを提示したのである。フローニンゲン:2025/7/14(月)08:29
16967. 三性説と転依
唯識思想では、私たちの認識する世界のあり方を三種の性質(自性)で説明する三性説を提唱する。三性とは、遍計所執性(へんげいしょしゅうしょう)、依他起性(えたきしょう)、円成実性(えんじょうじっしょう)の3つである。それぞれを平易に説明すると次の通りである。第一の遍計所執性とは、「遍く計りて執着する性質」という意味で、私たち凡夫が日常で認識している対象世界のあり方に相当する。例えば、「この世には自分とは別に独立した物質の世界がある」「対象は言葉で指し示せる実体として存在する」といった見方が遍計所執性の認識であり、それは心が作り出した幻想に過ぎず実在しないものであると唯識は断ずる。したがって、遍計所執性の対象は実体性が空(くう)であって、本当には存在しない。第二の依他起性とは、「他に依って起こる性質」、すなわち因縁(原因や条件)に依存して起こる相対的存在である。私たちの認識作用そのものも、阿頼耶識に蓄えられた種子が縁に触れて現れ、他の識と相互作用しながら様々な心像を生み出すという過程(阿頼耶識縁起)によって成り立っている。このように、世界は一見独立実在するように見えるが、唯識の立場ではあらゆる現象は相互に依存して生起する心のプロセスに他ならないと考える。依他起性の存在は遍計所執性の空なる姿を土台として成立するが、それ自体もまた固定的・自立的な実体ではなく無自性(固有の本質を持たない)である点で空であるとされる。第三の円成実性とは、「円満成就した真実の性質」という意味であり、迷妄が完全に浄化された絶対的・究極的な存在のあり方を指す。これは仏の悟りの境地そのものとも言え、依他起性から遍計所執性という虚妄を徹底的に除去し尽くした状態が円成実性であると説明される。円成実性は真に成就された実在であるが、それはどこか別の世界にあるのではなく、依他起性と別異でもなく不即不離の関係にある。つまり、依他起性という相対的世界の上に、遍計所執性の妄想を一切投影しなくなったとき、そのありのままの姿が円成実性=真如(しんにょ)であると唯識は説く。この真如こそ「空(空性)」の究極的な姿であり、「唯識」の立場から見た実相と言える。以上の三性をまとめれば、遍計所執性は全くの虚妄であるがゆえに空であり、依他起性も自性(独立性)を欠くため空である。しかし、依他起性から妄想を取り除いた円成実性だけが真実不虚の実在であり、それはそのまま空そのもの(真如)に他ならない。唯識の三性説は、中観派が説く「諸法は空である」という教理を心の働きに即して再構成したものと位置づけられる。これによって唯識派は、凡夫の見る迷いの世界から悟りによって到達される真実の世界までを、一貫して説明し得る理論枠組みを提示したのである。
唯識思想は、先述した八識説・三性説によって迷いの構造を解明するだけでなく、悟り(解脱)に至る道筋を心理学的に説明している点にも特色がある。鍵となる概念が「転依(てんね)」すなわち根本意識の転換であり、具体的には「転識得智(てんじきとくち)」と呼ばれる悟りの構造である。先述の通り、迷いの根源は第七末那識・第八阿頼耶識に潜む自己執着の種子である。そこで唯識では、修行によって阿頼耶識に蓄積された悪しき種子を徹底的に善い種子と入れ替え、心の在庫一掃を図ることで、深層からの意識変革を目指す。この根本的な意識変容(=転依)が成就したとき、「迷いの八識」が「悟りの四智」へと転換すると説かれる。8つの識それぞれが仏の智慧に転じるという意味で、これを転識得智(識を転じて智を得る)と呼ぶ。具体的には、第八阿頼耶識が大円鏡智(だいえんきょうち)という遍照不漏の鏡の智慧に転じ、第七末那識が平等性智(びょうどうしょうち)という差別の無い平等の智慧に転じる。さらに第六意識は妙観察智(みょうかんざつち)という事物を如実に観察する智慧となり、前五識(五感の識)は成所作智(じょうしょさち)という自在に物事を成し遂げる智慧へと変わる。このようにして心の迷妄の働きが悉く智慧に転じ切った状態こそが、唯識のいう悟り、すなわち涅槃寂静の境地である。ただし、八識の転換は一朝一夕に完成するものではなく、菩薩の長い修行の過程で徐々に進行していくと考えられる。悟りに到達するまでの道程は、唯識の教理では五位と呼ばれる五段階に整理されているが、大切なのは修行者が段階ごとに着実に煩悩を減じ、心の深層にある染汚(汚れ)を浄化していくことである。かくして究極的に阿頼耶識が清浄なる智慧に転じ尽くした時、「依他起性の世界」に遍計所執性の影が全く差さない真実の世界(円成実性)が現前すると唯識は考える。言い換えれば、凡夫の迷いの識が仏陀の智慧へと根本的に質的飛躍を遂げることで、悟りという究極的な精神変容が成就するのである。この転識得智の思想は、のちに天台宗や真言宗など他の仏教体系にも取り入れられ、チベット密教ニンマ派などにも受け継がれている。フローニンゲン:2025/7/14(月)11:26
16968. 感覚と意識を繋げる訓練
時刻は午後4時半を迎えた。早朝から午後まで晴れ間が広がっていたが、今はうっすらとした雲が空を覆っている。そのおかげか涼しさが増している。今日は午前中に書籍の第2章の執筆をした。数日置きに2章ずつ執筆していこうと当初は考えていたが、それよりもコンスタントに毎日少しずつ執筆した方がいいように思え、ここからは連続して書籍の執筆を朝に行っていこうと思う。今からおよそ1ヶ月後に編集者の方に原稿を見せる約束になっているので、遅くても1週間前には原稿を完成させ、提出する数日前に最終レビューをしておこうと思っていたが、もう少し前倒しで執筆していき、2回ほどレビューをして原稿を提出しようと思う。すでに執筆のペースを掴んでいるので、毎日1章書き上げることは全く問題ない。
今日は午後にジムに行ったのだが、行きはまだ日が照っていたので、気温は23度ぐらいだったが暑さを感じた。おそらく今は夏休みゆえに、フローニンゲン大学の学生たちはもはやジムにはあまり来ておらず、今日のジムはとても空いていた。今日のトレーニングの中で改めて意識し始めたのは、神経と感覚を繋ぐことである。これまでも鍛えている部位に意識を集中させることはしていたが、それをより精緻化させる試みとして、トレーニング中は目を瞑ってその箇所を意識することを行ってみることにした。その際に、動作と神経と感覚が全て繋がっている感覚を持つことを意識してみると、これからまた違ったトレーニング効果が現れるのではないかと期待する。日々行っている学術研究も、つまるところ感覚と神経を動員した思考運動ゆえに、日頃体を動かしている際に感覚と神経の連動をより意識することによって、学術研究を通じた知識の獲得と洞察の深化にも有益なのではないかと思う。それとジムに行かない日においては、再び短距離走トレーニングを取り入れ始めた。心拍数を大いに上げる形でのダッシュをジムに行かない日はできるだけ意識して行っていきたいと思う。こうした種々の創意工夫は、きっと良き結果を生み、また新たな発見と更なる工夫を生み出すことに繋がっていくだろう。フローニンゲン:2025/7/14(月)16:43
Today’s Letter
Quantum collective consciousness is to individual consciousness what the sea is to waves; we possess both an individual mind and a collective one. Groningen, 07/14/2025
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