【フローニンゲンからの便り】16930-16933:2025年7月9日(水)
- yoheikatowwp
- 7月11日
- 読了時間: 13分

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タイトル一覧
16930 | 8時間半にわたる充実した対話の翌朝に |
16931 | 今朝方の夢 |
16932 | 今朝方の夢の振り返り |
16933 | マックス・テグマークの数学的宇宙仮説に対して |
16930. 8時間半にわたる充実した対話の翌朝に
—自己とは、仏法の在りようをまざまざと証するために当てられた純粋機会にすぎない—辻邦生
とても心地の良い、爽快な朝が目の前に開かれている。ここ数日間は朝は曇っていたり、雨が降っていたりしたが、今日は午前7時を迎えようとしているこの時間帯はすでに朝日が燦然と輝いている。気温は14度で、換気のために2階の両側の窓を開けていると、冷たい空気が入ってくるが、それでも大変爽快な気持ちである。昨日は結局18度までしか気温が上がらず、体感温度は14度だったので、自宅では上にヒートテックを着ており、午後に外出した際にはタートルネックのセーターを着て出かけた。すでに7月を迎えてしばらくするのに、そうした気温であった。来週の木曜日までは最高気温が20度前半の非常に過ごしやすい日々が続く。学術探究に集中して打ち込むには最高の気候である。今こうして爽やかな朝を迎えているのは、何も気候に恵まれているだけではない。爽快感をもたらしてくれているその他の重要な要因として、昨日日本からわざわざフローニンゲンに来られた知人の方との長く深い対話があったことが挙げられるだろう。その方とは最初、フローニンゲンの街の中心部の行きつけのオーガニックカフェで数時間ほど対話を楽しんだ。話の流れからせっかくなので自宅に招いてさらに続きの話をしようということになり、そこから我が家にその方をお招きして、結局ノンストップで合計8時間半ほど話をしていた。確かに自分は1人語りでも数時間を話すような人間だが、1対1の対話でもじっくり話を聞き、じっくり話す傾向があり、対話を好む側面があることを再確認した。その方とはオランダに来られる前からのメールでのやり取りで、お互いの無意識が繋がっているようなシンクロする現象が2度ほどあり、そこからもご縁を感じていたが、実際にカフェや自宅で話す中で、お互いの人間関係やこれまでの体験の中で色々と共通する事柄があり、そこにも深い縁を感じた次第である。とりわけ自分にとって有り難かったのは、今の自分の探究の真意を理解してくれる人が少ない中で、その方は最良の理解者の1人であるということが明らかとなったことである。また、探究の幅と深さ、そして方向性が同種のものであることに気づき、探究上の無くてはならない同士であると知ったことは非常に喜ばしいことであった。こうした方をきっと「法友」と呼ぶのだろうと思った。まさしくその方もまた量子論の探究をこれまでしていただけではなく、仏教を深く探究しておられ、仏教の教えである仏法を信じ、共に実践する友人としての「法友」という言葉が相応しい方だと思う。そうした方と昨日リアルの場でお会いし、じっくり8時間半の時間をかけて対話ができたことは何よりの喜びであった。その方には無理を言って、研究上必要であった『東洋の論理:空と因明』と『仏教論理学の研究』という書籍を持ってきていただいた。それらの書籍はこれからの自分の仏教論理学の探究において不可欠のものであるため、その方がこれらの書籍を持ってきてくださったことは一生忘れないだろう。また、これらの書籍を開くたびに昨日の長時間にわたる充実した対話を思い出すに違いない。昨日は本当に有意義な時間を過ごさせてもらった。そのことに深く感謝している。フローニンゲン:2025/7/9(水)07:14
16931. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない日本の片田舎の長閑な道をマラソンの一環として走っていた。私の右隣には、前職時代のマラソン部のキャプテンの知人の男性がいて、その方が私のペースメーカーを務めてくださっていた。それはとても有り難く、というのも今回のマラソンはスタートの仕方が変わっていて、上空のヘリコプターから次々に出場選手がパラシュートで落とされ、それぞれの選手が違う着地点からスタートしたが故に、他の選手のタイムが分からず、自分できちんとペースを把握して走る必要があったからである。出場した選手は数十人ほどなので大きな大会では決してなかったが、自分にとっては重要なレースで、少なくとも自分の持っている力はできる限り全て出したいと思っていた。ペースメーカーを務めてくださった方は中高と陸上部に所属していて、長距離を専門としていたゆえに、走りに関しては自分よりもエキスパートで、年齢的には自分よりも10歳以上上だったが、体力も総力も自分より優れていた。そんな方にペースメーカーを務めていただくことはこちらとしても有り難く、その方のおかげで順調な走りが実現されていた。ところが途中からその方が笑顔を浮かべて、「このペースじゃあ物足りないんで、ここから一気にペースを上げよう」と述べた。私はこれ以上ペースを上げることは厳しいと思ったが、しかしまだ自分の限界ではない感じがしていたことは確かなので、その方に身を委ねる形で、一気にペースを上げることにした。すると不思議なことに、確かに最初こそきつかったが、徐々にそのペースに慣れてきて、気がつけば完全にリズムを掴んだ形となった。そこからは一切疲労感を感じず、その方のハイペースについていくことができ、無事に一番でゴールに辿り着くことができた。ゴールに到着して立ち止まった瞬間に一気に疲労がやって来て、その場に思わず倒れ込んだが、その疲労感もまた心地良く、すぐさま達成感に変わった。結果的に、どうやら自分は途中の田圃道をスキップしていたらしく、そこの部分のペナルティが発生したために、結果としては2番となったが、それでも大満足の結果だった。順位以上に、自分の限界を超えて新たな自分を見出したことが何よりの喜びであり、収穫だったのだ。レース後、ちょうどゴール付近に両親がいて、ペースメーカーを務めてくださった方への労いの意味も込めて、2人はその方を夕食に誘い、4人で夕食を摂ることにした。その方も父も酒が好きなので、美味い酒を飲みながら2人は話に花が咲くだろうと思った。
それ以外にもう1つ覚えている夢は、見慣れない寮で暮らしていて、サッカーの練習を終えて寮の狭い風呂に入ろうとしていた場面である。ちょうど先に3人ほどの友人が風呂に入っていて、そこに自分も加わろうとした。4人だと浴室がぎゅうぎゅうな感じだと思ったが、なんとか入れるだろうと思って服を脱いで浴室に入ると、ちょうど3人と入れ替わる形となり、自分1人で浴室を使えることになった。すると、小中学校時代の一学年上の先輩たちが数人更衣室に入ってきて、先輩たちと風呂に入ることになった。自分は先輩たちとは仲が良かったので、全く問題なく、気を遣うこともなく風呂の中で先輩たちと会話を楽しんだ。そのような夢を見ていた。フローニンゲン:2025/7/9(水)07:27
16932. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の第一の夢は、上空からパラシュートで降下し散開する奇異なスタート形式が示すように、「自分は他者と同じ土俵に立っていない」という根源的な孤立感を射抜いている。ヘリコプターという高所は超越的な視点を象徴し、そこから放たれる身体は、外的条件によってはからずも1人1人異なる地点に着地せざるを得ない人間存在の宿命を示唆する。タイムが見えないという設定は、人生において多くの比較指標が失効し、自己内省だけが羅針盤となる局面を暗示する。他者不在の計測不能空間にあって、右隣の先導者――しかもかつての職場の、しかも年長の長距離経験者――が現れる点は、自我がすでに獲得した内的資源としての「成熟した助言者アーキタイプ」の顕現であるとChatGPTは指摘する。その助言者は「このペースでは物足りない」と発語する。これは外的評価ではなく内的基準の更新を迫る声であり、主体はそれに怖れを抱きつつも委ねる。すると苦痛は一過性の閾値へと転化し、走りがリズムへと再構成される。「疲労感が消えたまま走り切る」という描写は、意識がエゴの粘度を超えてフロー状態へ滑り込んだ体験を語る。それは人が潜在能力を実感する瞬間、すなわち「時間と労力の感覚が消失する創造的合一」である。ゴール後に遅れて到来する疲労は、超過激な集中が終わった直後に訪れるカタルシスであり、倒れ込む動作は「死と再生」の儀式的所作を表す。田圃道をスキップしたための減点というエピソードは、「無意識に短絡した部分がまだ残っている」との告知である。完全勝利を阻むわずかな瑕疵が示されることで、夢はエゴの慢心を防ぎつつ、なお十分な充足感を与えるバランスを取っている。両親がゴール地点に現れ、ペースメーカーの方を夕食に誘うのは、家族領域――過去の養育的基盤――と新たに統合した助言者アーキタイプとの和解の場を設ける儀式である。酒を酌み交わす場面は、意識と無意識の交歓を意味し、父親と助言者が重なり合うことで「外在的父性」と「内在的父性」が融和しつつあることを示す。第二の夢は舞台を突然「寮」という共同生活空間へ移し、スポーツとしてのサッカーと入浴という心身のメンテナンス行為を描く。ここでの風呂は、心理的再生と境界の曖昧化を担う象徴的場所である。最初は友人3人と狭い浴室を共有するはずだったが、偶然にも入れ替わりで独占状態となる。この短い「独り湯」は、自我が一瞬だけ純粋な内省・休息に浸る機会を得たことを指し示す。その直後に学年が1つ上の先輩たちが現れ、再び「他者とともに浸かる」状況へ移行するが、そこに気詰まりはなく、むしろ気の置けぬ交流が生まれる。ここでの先輩は、第一の夢の年長ペースメーカーと響き合う。いずれも「一段上の経験を持つ協力者」であり、主体が孤立無援ではなく縦の関係性を受け容れはじめた兆候である。寮という設定は、過渡期を生きる自己が安定した「家」を離れ、流動的な共同体へ身を置く姿を映す。狭い浴室という制約の中で他者と心地良く共棲できるイメージは、個人のパーソナルスペースを守りながらも親密さを恐れない成熟段階を象徴する。両夢を貫く基本構造は、「外部からの試練(マラソン/寮生活)」「年上の協力者」「身体的限界とその突破」「他者との和解」である。空(ヘリコプター)→陸(マラソン)→水(浴室)という三要素の連鎖は、無意識が階層的浄化プロセスを描いたとも読める。空でばらばらに降下し個として始まり、陸で競走し能力を極め、水で溶解し親密性を回復する。これはユング心理学的に言えば、パーソナリティの機能差――思考・感情・感覚・直観――が順に活性化し、最後に感覚(水・身体)が癒やされる循環である。目覚めた時刻が夜明け直後であった点も象徴的である。夜の闇は無意識、黎明は意識への橋渡しであり、夢は夜のあわいで自己革新の物語を完結させた。その物語が語るのは、「比較不能な環境でこそ内なる指標が真価を発揮し、成熟した助言者を受け容れることで個人の潜在力は限界を超える」というメッセージである。同時に、「その過程で避けがたい小さな抜け道やペナルティもあり得るが、それは深刻な失敗ではなく、次の成長課題を示す印」として扱われる。総じて、夢は自己に向けて「他者と協働しながらも自分固有のリズムを見つけよ。限界は想像より遠い。失敗を恐れるより、歓待しうる欠落と出会え」と告げている。そして、到達した成果は家族的基盤と和解させ、日常の食卓や風呂場といった親密な空間で穏やかに統合しなさい、という指針を示していると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/9(水)07:47
16933. マックス・テグマークの数学的宇宙仮説に対して
昨日と同様に今日もまた冷えている。今、自宅の書斎の中でヒートテックを着て過ごしている。それぐらいに肌寒い。マックス・テグマークの数学的宇宙仮説は、物理的実在が「数学構造そのもの」であると断言する点で、プラトン的イデア論を徹底化した形態の数学実在論である。彼にとっては、数学的存在=物理的存在であり、あらゆる整合的な数学構造は同等に「実在」するとされる。この主張は、一見するとオッカムの剃刀に適う簡潔な世界観を提供するが、空性を説く中観、唯識の「識のみ」を説く瑜伽行派、そして観測者依存を露わにする量子論の観点からは、いくつかの根本的課題を抱えていると考えられる。中観派が主張するのは、一切法無自性・縁起という二重命題である。数学的対象もまた「自性」を欠き、概念的規定と相互依存的関係性のみによって成り立つ。ゆえに「数学そのものが実在の基底である」と定式化した瞬間、数学構造に実体性を付与する実体化(reification)が生じ、中観的批判の槍玉に挙がる。もっとも、テグマークの構造実在論は「対象を捨象し、純粋構造を残す」という意味でオンティック構造実在論に近似しており、これは「事物を空じて関係のみを残す」という中観的把握と接点を持つ。しかし中観は、構造そのものをも空と見るため、数学構造を究極実在とみなすテグマーク説とは一線を画す。要するに両者の相違は、空性が「究極的否定の否定」であるのに対し、テグマークの考えは「究極的肯定」を採る点にある。唯識は「心外無物」を宣言し、外界と見えるものは阿頼耶識に潜蔵する種子の熟成として顕現する、と説く。数学的オブジェクトは、識が自己組織的に構築した「共通操作可能な表象体系」にすぎず、それ自体で外在的実体を持たない。ヴァスバンドゥの『唯識二十論』は、夢の譬喩によって複数主体が同じ世界を共有する現象さえ識内で説明できると論じ、外界実在の必要性を否定する。したがって唯識から見ると、テグマークが「数学構造こそ外部実在」と措定した時点で、認識論的前提と存在論的帰結とを混同していることになる。数学が高い説明力を備えるのは、人間の認知構造が数学的抽象を生成しやすいよう進化的・文化的に整えられているためであり、その逆ではない。量子力学はコペンハーゲン解釈から現代のコンテクスチュアリティ研究に至るまで、「測定結果は観測文脈に依存する」という事実を突き付けてきた。コッヘン=スペッカー定理(量子系の物理量が測定される前から確定した値を持っているわけではないということを示唆するもの)は、測定値が文脈非依存に予め決定される隠れた変数理論を排除し、観測者―系の関係性に本質的偶有性を導入する。もし宇宙が純粋数学構造であり、そのすべてが論理的整合性だけで規定されるなら、観測文脈による値の不定性は説明困難となる。テグマークは「自己意識的部分構造」を導入して観測者を位置付けるが、その自意識がいかにして数学構造から立ち上がるのか、また確率的崩壊や時間の矢がいかに算術的帰結に還元されるのかは曖昧である。量子情報論の近年の議論では、「状態は観測者相対的」「事実は関係的」とする立場が勢いを増しており、これはテグマークの非文脈的・全称的実在論と緊張関係にある。以上の三視点を踏まえると、テグマークの数学実在論の課題は「数学構造の実体視」「意識の説明欠落」「観測文脈の無視」に収斂する。中観は「構造さえ空である」と諭し、唯識は「構造は識の投影」と見抜き、量子論は「構造は観測文脈で揺らぐ」と示す。もしこれらを統合的に捉えるなら、数学は「縁起的関係を抽象化した言語」であり、実在の底に横たわるのはテグマークのいうレベルⅣマルチバースではなく、「空/識/ポテンシャル・フィールド」という先行的な不可視地平であろう。数学的記述が驚異的成功を収めるのは、この地平が自己展開する過程で高次の秩序が繰り返し顕現するためであって、その秩序自体が究極実在なのではない。テグマークの数学実在論は、世界の合理的把握を推し進める刺激的な仮説である。しかし中観の空性は「数学にさえ自性はない」と戒め、唯識は「数理は識の劇場である」と見透かし、量子論は「実在は常に観測文脈と共鳴して生成される」と明示する。ゆえに、数学を究極基底と見做すよりも、数学を「縁起の抽象的写像」として捉え、その背後に観測者と文脈が織りなす生成プロセスを置く方が、3つの視点を調和させる道となるであろう。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2025/7/9(水)14:41
Today’s Letter
It is difficult to conceive that something comes from nothing. Thus, I presume that something — especially something immaterial — exists at the foundation of this reality. It could be called ‘emptiness’ or the ‘potential field.’ Groningen, 07/09/2025
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