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【フローニンゲンからの便り】16926-16929:2025年7月8日(火)


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タイトル一覧

16926

涼しさと充実さを感じる日々

16927

今朝方の夢

16928

今朝方の夢の振り返り

16929

唯物論でも唯心論でもない中観・唯識思想

16926. 涼しさと充実さを感じる日々  

                           

時刻は午前7時を迎えた。起床してすぐに気づいたが、今日はとても肌寒い。今の気温は13度だが、2階の室温が初冬のそれぐらいに下がっている。一昨日、昨日と気温が低かったせいだろう。今日もまた昨日と同じく肌寒い1日となり、最高気温は19度までしか上がらない。午前中は晴れ間が広がるようだが、今のところ空には雲がかかっていて、朝日を拝むことはできない。午後からも曇りがちとのことなので、より肌寒さを感じるだろう。だが茹だるような暑さではないことは救いであり、暑いよりは寒いぐらいがちょうどいい。その方が自宅での探究活動も遥かに捗る。その点に関しては今の涼しい気候に本当に感謝している。今日は午後に、日本から来られた知人の方と会う予定になっている。その方に2冊ほど仏教論理学の書籍を日本から持って来てもらうことになっており、それらの書籍を明日以降から読めることは楽しみであるし、何よりもその方と話をすることが楽しみである。待ち合わせ場所は、町の中心部の行きつけのカフェであり、そこで数時間ぐらいお話をさせていただく予定になっている。それ以外にも今日は午前中に、知人の中竹竜二さんとの共著の出版に向けたミーティングがある。すでに竜二さんのパートはほぼ完成しており、そこからバトンを受けて今度は自分が執筆していく番となるが、ここからの進め方に関しての話を中心に今日のミーティングが行われる。また、すでに大半を執筆している竜二さんのパートに関しても、ここから加筆をどうするのかについても編集者の方を交えて話し合われる予定である。今回の書籍に関して、竜二さんのパートが完成して、その箇所に対して成人発達理論の観点から解説を加えていくというのが自分の役割だったので、今のところまだ出番がなかったが、ようやく執筆の出番がやってきて嬉しく思う。もう1冊監修として携わらせていただく書籍についても同じような役割を担っており、そちらの書籍についても来週末ぐらいから執筆を始めていけそうである。その他にも翻訳書の執筆に向けては、海外の出版社から版権を取得している最中で、それが無事に取得されたらそちらも速やかに執筆に取り掛かりたいと思う。色々と充実した形で日々が進行していることは喜ばしい限りだ。フローニンゲン:2025/7/8(火)07:21


16927. 今朝方の夢

  

今朝方は夢の中で、見慣れないオフィスビルの中にいた。どうやら自分は会社を退職することになったようで、前職時代のメンバーの方々が自分の退職を祝って色々と声を掛けてくれた。それだけではなく、オフィスビルのフロアがまるで広い体育館のようなものに変わり、そこでメンバーのそれぞれの方が自分に向けてスピーチをしてくれ、さらには一発芸を披露してくれたりした。その中でも印象に残っているのは、同期の不思議な行動である。彼は無言で私に近づいてきて、まるでお祓いをするかのように、肩を数回祓い、最後に両手を肩に乗せた。それを通じて自分から邪気あるいは何か取り憑いているものを取り除いたようだった。すると、確かに自分の体が軽くなったような気がして、その効能を実感した。彼はスピーチで何か述べることもなく、再び元の場所に帰っていった。そこからは同じ大学出身の上司の方が笑顔でやって来て、スピーチをし、そこから芸を披露してくれることになった。気がつくともうメンバーの方々はいなくなっており、その代わり自分は体育館のようなそのフロアの天井に近い場所にいた。その部屋は90mもの天井の高さがあり、天井付近の壁に突如として現れた2台のテレビモニターの真下にいた。モニターは壁にちゃんと取り付けられていたが、それらが落ちないように下から手で台を支えていた。すると、モニターにPPTが投影され、地上にいる人がそれを見ながらプレゼンを始めた。私はその人がプレゼンを終えるまではしっかりテレビモニターを支えておこうと思った。


今朝方はその他に、意識とリアリティの地動説に関する研究発表をしている場面があったのを覚えている。発表の最中は、聴衆の人たちは黙っていたが、いざ発表が終わると、拍手喝采を送ってくれ、自分の研究内容に賛同してくれる人が多くいることに勇気づけられた。発表後の質疑応答も活発で、とても有意義な時間を過ごしていた。その発表の反応を受けて、今日の発表が励みとなり、より一層この研究分野に専心精進していこうと思った次第である。フローニンゲン:2025/7/8(火)07:32


16928. 今朝方の夢の振り返り

        

今朝方の夢は、社会的アイデンティティの脱皮と、精神的次元への離昇という二重のベクトルが交叉する構造を持つ。第一場面の「退職」は、外的立場の死と再誕を告げる儀式であり、オフィスが体育館へと変容する瞬間は、固定された職能空間が一挙に「遊戯」と「祝祭」の場へ転位することを示唆するとChatGPTは述べる。祝辞と一発芸に彩られた祝祭性は、これまで機能的に結び付いていた同僚が、本来的には自由な人格同士として再び出会い直している姿である。つまり仕事という枠組みを外されたとき、人間関係は重力から解き放たれ、演劇的・創造的次元へと潜在力を回復するのである。その中核に配された同期の「無言のお祓い」は、言語による評価や感謝を超えた純粋なエネルギー交換の暗示である。肩に触れて邪気を払う所作は、自己が無自覚に背負っていた集団圧や過去の役割期待を、象徴的に抜去するアクションである。払われた瞬間の身体の軽さは、実際の重力ではなく、心理的・霊的な比重が減ったことを感得した証左である。この浄化が言語以前のレベルで行われるのは、深層領域の刷新が理屈や説明よりも先に起こることを語っている。続いて登場する大学が同じ上司は、学閥=知的系譜を象徴する存在である。祝祭の流れの中で彼が芸を披露することは、知識体系そのものが遊戯へと昇華される可能性を示す。すなわち学術的威信やキャリアパスにまとわりつく硬直性が、笑いを伴う表現へと融解し、学びが再び生命のリズムと同期する局面である。場面は突如として「90メートルの天井」へとスケールを飛躍させる。90という夥しい数は、日常的視野からは測り得ない超越的高さを指し示し、自己が半ば無意識のうちに到達した「俯瞰の位相」を物語る。壁に現れた2台のモニターを両手で支える姿は、超越視点と地上視点の媒介者として、自らが情報/象徴装置を保持し続ける使命を負ったことを表す。手を離せば崩れるかもしれないという緊張は、新たな立場に伴う責任の感覚を映し出している。同時に、プレゼンターと聴衆の視線をつなぐ見えない梁として機能することで、自分は高所から自らの知識と洞察を地上へ還元しようとする意志を確認している。第二場面の「意識とリアリティの地動説」に関する発表は、コペルニクス的転回を自己の内面にも適用しようとする知的冒険である。地動説が宇宙の中心を地球から太陽へと移した如く、この研究は主体と客体、あるいは意識と物質の重心を組み替える営みを示唆する。発表中の沈黙は、未知への畏れと敬意を孕む聴衆の内なる発酵であり、終了後の拍手喝采は、その沈黙が理解へと反転する刹那の解放感を象徴する。ここで受け取った賛同は、外的承認以上に、「自己のビジョンは集団的無意識にも響きうる」との確信を授ける聖別の鐘となる。両場面を貫くキーワードは「支え」と「解放」である。過去の役割から解かれるために、まずは同期の手で肩に載る重みを払われ、次に自らがモニターを支える手となる。支えられる側から支える側への転位は、受動的存在から能動的媒介者への主体変換である。そして、祝祭や拍手が織り成す共振は、個の変容が集団フィールド全体を波及的に振動させることを示す。ゆえに本夢は、社会的脱皮を果たした主体が、浄化を経て高所の視野に立ち、知の装置を介して共同体へ新しい世界像を届ける未来図であると言える。そこで感じる昂揚と責任の二重感覚こそ、自分がこれから進む道を照らす内的羅針盤である。フローニンゲン:2025/7/8(火)07:49


16929. 唯物論でも唯心論でもない中観・唯識思想


今日は朝らから冷えている。2階の気温も上がらず、半袖ではかなり寒かったので、ヒートテックを上に着ることにした。すでに7月を迎えてしばらく経つが、再びヒートテックを着ることになるとは思ってもみなかった。先ほど考えていたことを書き留めておきたい。中観と唯識は共に非実在論だろう。ゆえに物質主義ではないと言える。さらには両者は空の思想を保持しているゆえに、観念論でもないとも言えるだろう。唯識は確かに観念論的な側面があるかもしれないが、心や心の世界そのものを実態視することを戒める。ゆえに唯識も観念論と容易に括れないと思うが、その点についてどのように考えればいいかを考えていた。結論から言えば、中観と唯識はいずれも古典的な意味での唯物論にも唯心論(観念論)にも帰着しない。両派はいずれも「有る/無い」という実体的二分法そのものを批判的に解体するという点で共通しており、したがって西洋近代のカテゴリーである物質主義‐観念論の対立軸には素直には載らないのである。まず中観──特に龍樹の系譜──は、諸法が自性(svabhāva)を欠くという「空」の論理を徹底させる。この自性否定は、物質的対象のみならず、心的主体や論理規定をも同時に無自性化する。したがって、中観は「物こそが実在だ」という唯物的立場を退けるのはもちろん、「心こそが実在だ」という唯心論的立場も等しく退ける。ここで「非実在論」と呼ばれているのは、存在を絶対化する立場に対する否定であり、存在論そのものの無根拠性を示す批判的態度である。言い換えれば、中観は「何ものも実体的には存在しない」という記述的主張をするのではなく、「実体化という認識態度を手放す方法」を説示するわけであり、その意味で実在論でも非実在論でもなく、むしろ「実在論という枠組みへの固着からの離脱」と表現した方が正確だろう。一方の唯識は「心だけが存在する」としばしば訳されるが、この「唯(ただ)」の理解が浅いと即座に観念論と同一視される。しかし『摂大乗論』や『成唯識論』における「識」は、形而上学的な実体ではなく、縁起に基づいて起伏する働きの総称である。阿頼耶識を含む八識は、あくまで経験を説明する方便的構造であり、最終的には転依によってその識すら「無得」に転じる。すなわち唯識は「外界は心の表象でしかない」と述べるが、その「心」もまた空であることを開示するための仮設に過ぎず、心的実体を立てることを厳しく戒める。唯識思想を近代的観念論──エゴを中心に据えた絶対精神論──と重ねるのは、方法論的レベルと形而上学的レベルを取り違えた誤読であると言えるだろう。では両派はいかなる意味で「非実在論」なのか。中観は「何ものにも自性がない」という洞見を通じて、存在と非存在のどちらにも偏らない「中」の視座を提示する。唯識は「外内二取の虚妄」を暴くことで、対立を生む認識枠組みそのものを空じ、転依によって如来蔵的ポテンシャルを開顕する。両者に共通するのは、実体化(物質的であれ心的であれ)を「無明」の働きと見なし、その癒着をほどく実践論を伴う点である。したがって二派は、存在論の問いそのものを機能不全に陥らせる「方法的アイロニー」を採るのであって、「実体は心にある/外にある」という議論を行う思想ではない。もちろん、唯識が「外界は心の顕現でしかない」と述べる点を捉えて、「表象的主観内在化=観念論」とする議論も少なくない。しかしそこには識の無自性という脱構築的モーメントが見落とされている。唯識は「心だけが存在する」と実体を立てるのではなく、「心・物の二元に依存する経験そのものが虚構である」と喝破し、その虚構を用いて虚構を超える「方便の自己解体」を志向するのである。結論として、中観と唯識は共に「実体化を否定する点で非実在論」と言えるが、その「非」は存在論的判断の逆張りとしての非ではなく、存在論的立場を超越する方法論的転回としての非である。ゆえに彼らは唯物論でも観念論でもなく、いわば「実体化を停止するプロセス論」として理解すべきである。その意味で「物質主義ではない」「観念論でもない」という直観は妥当であり、両派はむしろ「何ものかを実在化しようとする思考そのものを問題化する実践哲学」と位置づけるのが適切だと考える。フローニンゲン:2025/7/8(火)11:57

 
 
 

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