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【フローニンゲンからの便り】16922-16925:2025年7月7日(月)


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タイトル一覧

16922

奉仕と利他行としての翻訳に向けて

16923

今朝方の夢

16924

今朝方の夢の振り返り

16925

肌寒さを感じて

16922. 奉仕と利他行としての翻訳に向けて  


時刻は間も無く午前7時を迎えようとしている。今朝は起床直後から小雨が降っている。そのおかげもあってか、気温は低く14度である。天気予報を見ると、雨は正午前には止むようであり、午後にジムに行く際には折り畳み傘を持っていく必要はないかもしれない。今日の日中の最高気温は19度しかないので、少し肌寒さがありそうである。天気は動的に変化しており、来週の初めにはまた1日か2日ほど真夏日がやって来るはずだったが、現状は天気予報に変化があり、26度ほどの日がやって来ることになっている。ここからまた天気予報に変化があるだろうが、できるだけ真夏日がない快適な日々を望む。


昨夜就寝前にふと、65歳かそこらを迎えたら、英語の専門書の中で日本に紹介したいものを翻訳していくことに力を入れていきたいと思った。確かに今年から来年にかけて、1冊あるいは2冊ほど翻訳書籍を出版する予定だが、こうして不定期に翻訳出版をしていると、日本に紹介したい専門書を出版するペースが追いつかない。特に意識とリアリティの地動説を探究する過程の中で出会った優れた書籍は無数にあり、それらを日本に紹介したい思いが募っているのだが、今のペースで翻訳をしていると、それはあまりにも遅く、思考のパラダイムの変化を促すことに繋がらない可能性がある点を危惧している。ある年齢までこの分野の探究に専心したら、後世の人のために翻訳作業に力を入れていきたいという思いがある。それは、かつて玄奘三蔵がインドの留学を終えてから残りの生涯を翻訳事業に充てたことと似ている。玄奘三蔵の翻訳があったから日本で法相宗が生まれたのであり、さらには今こうして自分が日本法相唯識思想を探究できているのも玄奘三蔵の翻訳事業のおかげなのである。もちろん玄奘三蔵の翻訳事業もまた皇帝からの支援があり、玄奘三蔵を支えた様々な人の力があって実現された縁起の賜物である。こうして自分は、そうした縁起の賜物を受け継ぎ、引き継ぐ役割を担っていることを感じる。具体的にどの年齢から本格的に翻訳をスタートするかは定かではないが、仮にその時が来たら、1ヶ月に1冊翻訳書を出版するようなペースを維持したい。残念ながら今は自分が出版したいと思う分野の専門書を出版してくれるような日本の出版社は見つかっておらず、それもまた何かのご縁で良い巡り合わせがあることを期待する。生命時間を使った形での翻訳は、それこそ自分にとっては社会への奉仕であり、利他行である。それに着手する日がやって来るまで、まずは意識とリアリティの地動説に関する研究を深められるだけ深めていこう。フローニンゲン:2025/7/7(月)07:11


16923. 今朝方の夢


今朝方は夢の中で、母と一緒に見慣れない観光地を散策していた。そこは山と川のある風光明媚な場所で、絶えず川を横目にして歩いていた。山といっても深い木々のあるような場所ではなく、背の高い木はほとんどなく、絶えず視界は開かれており、傾斜はとても緩やかだった。しばらく歩いていると、視界が一気に開かれた。ただし、足元は苔の生えた岩が転がっていて、滑らないようにする必要があった。母と一緒に慎重に歩いていると、手に持っていたマグカップを地面に落としてしまい、それがコロコロと転がっていき、川に落ちた。自分はどこかわざとマグカップを落として川にそれを落とすことを意図していたような節があり、マグカップが川に落ちても動揺せず、残念にも思わず、マグカップが川下に向かって流れていく姿を見守っていた。母は少し心配そうにしていたが、自分が冷静な姿を見て安心したようで、母も流れていくマグカップをしばらく眺めていた。それは下流で誰かが拾い上げ、その誰かが使ってくれるだろうと思った。足元に注意しながら、低い姿勢となって岩の上を移動していると、視線の先の遠くに思わぬものを見つけて驚いた。驚いたことに、川が湖を形成していて、湖の岸辺の東西南北の方角に巨大な仏像が建立されていたのである。特に向かって左手には黄金色に輝く巨大な仏像があり、それは圧巻であった。母としばらく四方に見える仏像を拝むようにして眺めていた。


次に覚えている夢は、おそらく1つ目の場面と同じ観光地の山から降りた見慣れない駐車場で父と車の中で話をしていたことである。そこは大きなスーパーの駐車場で、買い物を済ませてこれから出発しようとしていた。その時に父が2つのアーティストの大量のCDが入ったケースを見せてくれ、その中からCDを1枚選び、まずはどちらかのアーティストの曲をかけようということになった。直感的に片方のアーティストの曲が聴きたくなったのでそちらを選び、CDをケースから取り出して父に渡した。いざ出発しようとするその前に、車内にあるゴミを駐車場のゴミ箱に捨ててから出発することにした。父に出発準備をしてもらうことにし、自分がゴミを捨てにいくことにした。いざ出発をしてみると、そう言えば今夜は高校時代の男女の友達と一緒にご飯を食べることになっていたのでそれを父に伝えた。お腹を空かせるために少し運動がてら歩きたくなったので、峠を越えたあたりで降ろしてもらうことにし、そこから歩いて自宅まで帰ることにした。降ろしてもらった場所には、見慣れない旗が2本か3本立っていて、風で揺らめていた。それを眺めながら、かつてのクラスメートのある女性友達と再会して話すことがとりわけ楽しみにしている自分がいた。フローニンゲン:2025/7/7(月)07:24


16924. 今朝方の夢の振り返り 

 

今朝方の夢は、二幕構成の物語として浮かび上がり、前半で水と山の広がりの中に母と並び立つ自身の原初的な自己を映し出し、後半で父と車に同乗し社会的な交差点へ向かう現実的・選択的な自己を描き出しているように思われる。そこには、親という根源的エネルギーとの関わりを通じて、古いものを手放し新しい循環へ身を委ねる過程と、自己決定と再会という次なる局面へ踏み出す過程が、連続しつつも対照的に配置されている。第一幕では、深い樹々の影がない緩やかな山肌と絶えず並走する川が「視界の開けた内的地形」を示唆する。鬱蒼とした森が不在である点は、潜在意識の暗がりよりも、むしろ意識的に整理されつつある心象風景を表す。母と共に歩むことは、母性原理──保護・養育・無条件の受容──を背にした旅であり、苔むした岩を踏み外さぬよう慎重に身を屈める姿勢は、未だ滑りやすい感情の足場を確かめながら歩く自己統制の在りようを彷彿させる。手にしたマグカップをわざと落とし、川へ流す行為は、身近な愛着対象を意識的に手放す儀式として読める。マグカップは日常的な自己同一性を象徴し、その喪失に動揺しない態度は、執着を超えて流れ(=時間・生命力)の摂理に委ねる覚悟を示す。母が最初こそ心配しつつ、やがて同じ流れを見守るのは、親が子の自立を認める瞬間の静かな共感である。さらに「下流で誰かが拾い上げ使うであろう」という思念が、放棄を無駄ではなく循環として捉える贈与の倫理を匂わせる。視界の遥かに現れた巨大な仏像は、湖という静なる無意識の水面を囲む四方の守護者である。仏像は智慧と慈悲の象徴であり、東西南北に配置されることにより、自己の4つの方向性──感情・思考・感覚・直観──を均衡へ導く全体性のイメージを醸す。とりわけ左手(無意識側)に輝く金色の像は、未だ顕在化しきらぬ潜在的霊性の圧倒的迫力を物語る。母子が拝むように佇む姿は、個人の問題を超えた大いなるものとの相対、それに対する畏敬と受容の態度を示している。第二幕は場所を駐車場へ移し、父と車という「社会的移動」を可能にする枠組みが登場する。大量のCDから1枚を選ぶ場面は、情報過多の現代で主体的に響きを選び取る決断の隠喩である。2人のアーティストは互いに補完関係にあり、どちらの声を内面に流し込むかは、その瞬間の心根が選択する。ゴミを捨ててから出発する行為は、心的デトックスと準備儀式であり、不要なものを置き去りにしてこそ旅路は軽やかになるという教訓を含む。やがて父に今夜の食事会を告げ、峠で降ろしてもらい歩くことを選ぶ一連の流れは、親の庇護の下で加速する生から自ら速度を緩め、身体性を伴って自宅(自己の中心)へ帰還する自立のプロセスである。見慣れぬ旗が風になびく場面は、未知の価値観や新しいアイデンティティの標(しるべ)がたなびく様子を示し、そこに心地よい期待を抱く主人公は、過去と未来の重なり合いの中にいる。特に旧友の女性との再会へのときめきは、記憶の中のアニマ像が更新され、これからの関係性を通じて自己が再調整される兆しとして輝く。総じてこの夢は、母性の水辺で執着を水に流し、仏性の光に包まれて全方向的な統合を目撃し、その後に父性の車で社会への再出発を試みつつ、自ら速度を制御して歩く選択をする、という一連の心理的成熟を描いている。手放しと受容、選択と行動、外部との再会と内部への回帰が1つの呼吸のように接続され、自己の現在の人生段階が「循環的な変容のターニングポイント」に位置していることを雄弁に告げている。フローニンゲン:2025/7/7(月)07:42


16925. 肌寒さを感じて

    

今日はとても涼しい1日だった。涼しさを通り越して、肌寒さを感じたほどである。日中の最高気温は18度までしか上がらず、それでいて曇りがちな1日だったゆえに肌寒さを感じさせた。午後にジムに出かけた際には上にはスウェットを羽織っていき、久しぶりにジムでは汗を全くかくことがなかった。記憶にある限り、5月の中旬ぐらいからジムでは汗をかくようになっていて、ジムから帰ってきたら自宅でシャワーを浴びて汗を流していたが、今日はその必要がなかった。それくらいに肌寒かった。それともう1つ、今日は身体のエネルギーの総量がいつもより少なく、無理をしない形のメニューにした。ちょうど明々後日にはパーソナルトレーニングがあり、そこで思いっ切り体を動かすことになるだろうから、今日は調整的なメニューにした。身体のエネルギーが少し足りない感じがするというのは珍しく、日々の食事や睡眠は何も変わっていないので、気候の変動は1つ要因になっているのかもしれないと思った。6月中旬から30度を越す真夏日が時折1日2日やって来ては、その翌日から10度以上下がる形で涼しくなり、また真夏日がやって来ては涼しくなるということを10日ぐらいのサイクルで繰り返しているので、そのサイクルにまだ体が順応していない可能性がある。特に今日はかなり肌寒かったこともあり、その影響もあったのかもしれない。いずれにせよ、これからまだまだ変動性のある形で気候が変化していくであろうから、その時の体調に合わせて無理のない形で、体が喜ぶようなトレーニングをしていきたい。フローニンゲン:2025/7/7(月)16:22


Today’s Letter

According to Yogācāra, the sixth consciousness is discontinuous, whereas the seventh and eighth consciousnesses are continuous. Our mental world is like the sea in that the ocean itself is continuous, but the waves are discontinuous. Groningen, 07/07/2025

 
 
 

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