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【フローニンゲンからの便り】16917-16921:2025年7月6日(日)


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タイトル一覧

16917

哲学における形而上学思想の歪みの影響

16918

今朝方の夢

16919

今朝方の夢の振り返り

16920

2つのライティングサンプルのドラフトを完成させて/迷夢・覚夢・大夢

16921

自然主義について

16917. 哲学における形而上学思想の歪みの影響   

 

時刻は午前7時を迎えた。今日はうっすらとした雲が空にかかっている。今の気温は17度で、今日の最高気温は21度とのことで大変過ごしやすい。午後からはしばらく雨が降るらしく、それが気温を下げる要因になっている。昨日の考え事の続きとして、哲学の分野における形而上学思想の歪みがもたらす問題について考えていた。哲学の営みは、問いを立てる以前に「存在とは何か」「世界はいかに成り立つか」という暗黙の前提を抱え込む。もしその形而上学的骨格に歪みや誤謬が潜むなら、まず思弁の視野そのものが偏向し、研究者は誤った地図を手に未知の領域へ踏み込むことになるだろう。誤った地図は道を誤らせるだけでなく、そもそも探索すべき地点を白地のまま放置する。例えばデカルト以来の物心二元論は、意識研究と自然哲学を長期にわたり隔離し、心的現象を物理的世界から切り離された特権領域とみなした結果、両者の統合理解を幾世紀も遅延させた。ここでは形而上学的前提が「問いの欠落」という形で害をもたらしたのである。歪んだ形而上学はまた、概念装置の設計自体をゆがめる。実在論と観念論を単純な排他二項で対立させる図式は、生成やプロセスといった動的カテゴリーを扱うための中間概念を貧困化させ、ホワイトヘッドやベルクソンのような流動的存在論を周縁化した。結果として、多様な現象を捉えるレンズが不足し、哲学的説明力が低下する。誤った形而上学は議論の評価基準にも影響し、論証の整合性よりも前提の護持が優先される自己循環的ディフェンス機構を形成する。論敵の反例や修正提案は「範疇誤用」として排斥され、共同体内批判が機能不全に陥る。さらに、自覚なき形而上学は価値論や社会哲学へも波及しうる。絶対的自由意思の実在を無批判に措定した体系は、社会的不平等を個人責任へ単純帰属させる倫理観を誘導し、制度的要因の分析を阻む。逆に機械論的決定論に固執する立場は、道徳や責任概念を言語的錯覚として矮小化し、公共領域での合意形成を困難にする。哲学が社会批判や政策提言に携わる際、この種の形而上学的歪みは実務的・倫理的な誤帰結を生む危険が高い。最後に、誤った形而上学は学派間対話と学際連携を阻害する。世界像が互いに排他的な基礎づけを主張するかぎり、共有可能な問題設定や方法論的接点が見いだしにくくなる。例えば分析哲学と大陸哲学の溝が、言語的実在論と存在論的現象学の相容れない前提から深まったように、形而上学的非互換性は対話のハードルを際限なく引き上げる。結果として哲学は内向的な専門島に分断され、外部の科学や芸術、政治実践との創造的交流を失う。このように、哲学者の根底にある形而上学的誤謬は、問いの設定、概念装置、論証過程、社会的帰結、学際的対話という五重の回路で害を及ぼす。哲学が自己省察の学である限り、形而上学的前提への不断の批判と更新──すなわち「前提の前提を問う」作業──こそが、思考の自由と創造性を守る最も根源的な装置なのではないだろうか。フローニンゲン:2025/7/6(日)07:25


16918. 今朝方の夢 

             

今朝方は夢の中で、実際に通っていた中学校の屋外のバスケットコートに向かう場面があった。すでに時刻は午後3時を迎えようとしており、非常に遅い登校となった。間も無く部活が始まりそうな時間に学校に行くことに少し抵抗感はあったが、自分は自由な身であるという感覚があり、学校に到着する頃には抵抗感が消えていた。小中学校時代の2人の友人と一緒に正門からではなく、体育館の裏から学校の敷地内に入り、すぐさま屋外コートに向かった。そこでシュート練習を始めると、見慣れない小柄なアジア系の男性がスリーポイントシュートの練習をしているのが目に留まった。その人のシュートフォームはとても綺麗で、連続して何度もシュートが入っていることに衝撃を受けた。自分もスリーポイントシュートの精度を高めたいと思っていたので、その人から色々と教えてもらうことにした。近寄って声を掛けると、その人はとても親切にコツを教えてくれた。今のようにシュートが入るようになったのは練習の賜物とのことで、小学校6年生の終わりからスリーポイントシュートの練習を始めたことが今の自分を作っていると述べたのが印象的だった。その人のシュートの成功率の高さは確かに凄かったが、それ以上に、実際に試合の中でプレッシャーがかかった状態を想定してのシュート練習をしているところで、そうしたプレッシャーを想定した中で高い成功率を収めている点に敬意を表した。そこからしばらくシュート練習を続けていると、部活の時間になったので体育館の方に移動することにした。すると、体育館脇の駐車場でもバスケをしている人たちの姿を見かけた。見ると、友人と見知らぬ人も含めて数人の男女がバスケを楽しんでいた。おそらく自分たちで作ったであろうゴールもまた味があり、とても楽しそうにバスケをしていたので自分も入れてもらうことんした。すでに5対5の人数だったので、少し待ってから誰かと交代でコートに立とうと思った。中でも印象的だったのは、スペイン系の小柄な女性が機敏な動きをしていたことである。今朝方はその他にも夢を見ていたように思うが、印象に残っているのはこの夢である。フローニンゲン:2025/7/6(日)07:35


16919. 今朝方の夢の振り返り

                  

今朝方の夢は、過去と現在と未来が折り重なり、「自己鍛錬」と「自由な遊び」の間に揺れる主体の成熟過程を象徴しているように思われる。まず、実際に通っていた中学校という舞台設定は、思春期に培われた価値観や対人関係、すなわち自己形成の基盤へと回帰する動きを示している。午後3時という遅い登校時刻は、社会規範(時間割)からの逸脱を意味しつつ、同時に「自分は自由な身である」という感覚と結び付いており、他者の評価よりも内的基準に重きを置き始めた成熟の兆しである。正門ではなく体育館裏から校内へ入る選択は、正攻法を外れた独自のアプローチ、あるいは既存の評価体系を相対化する視点を象徴する。裏口から入ることで「自分だけのルート」が可視化され、それはこれまでの人生で培った経験と、これから選び取る創造的な生き方との接続通路となっている。屋外コートで出会う無名のアジア系シューティング名人は、努力によって技を極めた「内なる師」の化身である。彼が示す完璧なフォームと高い成功率は、長期にわたる地道な反復練習の象徴であり、自分がこれから身につけたい「確実な成果を生む技術」そのものを体現しているとChatGPTは述べる。小学校6年生の終わりから始まったという練習歴は、思春期直前の多感な時期に芽生えた意志が継続され、今や揺るぎない力となったことを示唆する。ここで語られる「プレッシャーを想定した練習」は、現実生活で遭遇し得る試練を先取りし、精神的耐性を高めるプロセスへの示唆である。自分が敬意を抱き、弟子入りする態度は、外部から学ぶ謙虚さと自己変容への意志を示している。続いて現れる駐車場の即席バスケットゴールと男女混成のプレイヤーたちは、「公式」空間と対比される「自発的コミュニティ」の象徴である。自分たちで作ったゴールは、枠組みを自ら設計し、遊びながら成長する自由な文化を指し示す。ここでは勝敗よりも共創・即興が重んじられ、自分が交代を待つ姿勢は、他者とバランスを取りながら協働する社会的成熟を表している。そして小柄なスペイン系女性の機敏な動きは、身体的制約を乗り越える創造性と情熱、さらには異文化的多様性を受け入れる心の柔軟性を象徴する。アジア系男性とスペイン系女性という対照的な2人の出現は、自己の内面に住まう複数の可能性――勤勉さと情熱、規律と自由――が共存し、相互に刺激し合う様を物語っている。夢全体の構造は、遅れて到着する不安と解放、師との邂逅と鍛錬、仲間との遊戯と待機、という三幕で構成される。これは、人生における「不適応期」「修行期」「協働期」という発達段階を縮図的に示す配置である。時間軸上では午後3時から部活開始という締切が控えているが、自分はその刻限を恐れることなく、むしろ柔軟に場を移動しながら学びと遊びを取り込んでいく。ここには「期限や評価に縛られず、自己主導で学びを深める」という新しい生き方のビジョンが映し出されている。さらに、夢の最後に「その他にも夢を見ていたように思う」と認識される余韻は、意識が把握できない無数の潜在的な物語が背後に広がっていることを示し、今後の人生で新たなキャラクターや場面が立ち上がる可能性を告げる。舞台がフローニンゲンという異国の地で記されている点も、地理的・文化的境界を越えた自己探求を続ける姿勢を補強するとChatGPTは指摘する。総じてこの夢は、「規範からの自由なる離脱」と「鍛錬を通じた技術と精神の深化」、そして「多様な他者と共に創造的な遊びを紡ぐ共同体参加」という3つのテーマが重層的に絡み合い、自己に対して次のメッセージを告げている――既存の門を回避しても構わない、遅れても恐れることはない。むしろ自分自身のリズムと方法で学びと遊びを統合し、多様な他者と交わることで、まだ見ぬ高みへとシュートを放てばよいのである。フローニンゲン:2025/7/6(日)08:00


16920. 2つのライティングサンプルのドラフトを完成させて/迷夢・覚夢・大夢

            

今日は朝から今にかけて、イギリスの大学院に提出する2つのライティングサンプルのドラフトを執筆していた。すでに『観心覚夢鈔』を対象にしてライティングサンプルを執筆していたこともあり、その構成を参考にして『法相二巻鈔』に関するライティングサンプルを無事に書き終えた。また、研究計画としての意味合いのあるライティングサンプルの方も『法相二巻鈔』に関する内容に改訂していった。それら2つのライティングサンプルの執筆を無事に終えることができて安堵している。ここからしばらく原稿を温め、また秋以降に修正し、この秋に3校ほどイギリスの大学に訪れる際に、指導教官候補の教授にライティングサンプルを見てもらい、それを元に話ができたらと思う。


良遍は、鎌倉時代の日本仏教において、法相宗の教学を深めた僧侶であり、彼の著作『觀心覺夢鈔』では、仏教的修行の過程を「夢」に喩えた三段階の概念――迷夢(めいむ)、覚夢(かくむ)、大夢(たいむ)――を通じて説いている。まず、「迷夢」とは、私たち凡夫が日常的に陥っている無明と煩悩に覆われた状態を指す。私たちは、自我(アートマン)や物質的な世界を実在であるかのように錯覚し、種々の執着や苦悩を生み出している。この状態は、まさに夢を見ているかの如く、真実の姿を理解せず、虚妄を現実と誤認しているものである。唯識思想においては、阿頼耶識を基盤として現れる八識の働きが、こうした錯覚の世界を構築しているとされる。次に、仏教の教えに出会い、心を観察する修行――すなわち「觀心(かんじん)」――を実践することによって、私たちは次第にこの迷いの夢に気づくようになる。これが「覚夢」の段階である。ここでは、夢の中にいながらも「これは夢だ」と認識しているような状態であり、五蘊や諸法が無我・無常であることを理解し始める。これは部分的な目覚めであり、完全な悟りではないが、「迷いの夢」から抜け出す第一歩として重要である。そして最後に説かれる「大夢」は、文脈によって二重の意味を持つが、良遍においては特に深い哲学的含意を持っている。1つには、迷夢や覚夢をも包摂する世界全体の「夢」であり、現象界すべてが縁起的・空性的に成立しているという理解に基づく。もう1つには、夢の性質を完全に見極め、真如――すなわち一切法の本質――に目覚めた者が、なお夢として世界と関わり続けるという仏の境地を指す。この意味において、「大夢」とは、単なる錯覚でも部分的覚醒でもなく、「夢を夢と知った上で慈悲と智慧によって関わる」という、如来の大いなる働きの現れであるとも言える。このように、良遍は「迷夢・覚夢・大夢」の三段階を通じて、修行者が如何にして自己と世界の虚妄性を見抜き、真の覚醒に至るかという過程を説いている。それは唯識思想の深い理解に根ざしながらも、実践的で心理的な構造を持ち、現代の私たちにとっても、自己認識と精神的成熟への道筋を示す洞察となりうるものである。フローニンゲン:2025/7/6(日)14:44


16921. 自然主義について


天気予報の通り、雨が降り始めてしばらく経つ。そんな中、自然主義の形而上学的特徴について考えていた。自然主義とは、すべての実在を自然界の一部として理解しようとする形而上学的立場である。その根幹にあるのは、「この世界に存在するすべてのものは、自然法則のもとにあり、自然科学によって記述・説明可能である」という信念である。この立場においては、神、魂、霊、超越的な意志など、自然の外部にあるとされる存在は、原理的に排除される。自然主義は現代の哲学、科学、倫理、認識論に大きな影響を与えており、その影響は心の理解や世界の構造に対する考え方にも深く及んでいる。自然主義の第一の特徴は、存在論的一元論(ontological monism)である。これは、世界に存在するすべてのものは本質的に同じ次元、すなわち自然の次元に属しているという考え方である。自然主義においては、物質と精神を異質な実体と見る二元論は否定され、心もまた脳という物質の働きとして説明される。したがって、心はもはや神秘的な実体ではなく、自然界の法則に従う現象のひとつであり、最終的には神経科学や生理学、進化生物学によって解明可能な対象とされる。このような立場は、「心とは何か」という問いに対して、いくつかの特徴的な答えを導く。ひとつは還元主義的理解であり、心的現象は脳の状態に還元されるとする。例えば、「痛みを感じる」とは、特定の神経細胞が発火し、ある脳領域が活性化することと同一であるという立場である。また、機能主義(functionalism)の立場では、心の状態はその物理的構成要素に還元される必要はなく、むしろ入力―処理―出力という情報処理の構造(機能)に注目される。この立場では、もしあるシステム(例えば人工知能)が人間と同じような情報処理を行えば、それにも心があると言える可能性があるとされる。さらに、自然主義は進化論的視点も取り入れる。人間の心や意識、感情、倫理的判断といった高次の精神的能力も、自然淘汰によって進化してきた機能であると見なされる。例えば、他者への共感や協力は、生存と繁殖に有利な行動を促進するために進化してきた「適応的特性」とされる。このようにして、心の複雑な働きも、自然のプロセスに組み込まれた結果として理解される。世界そのものの捉え方についても、自然主義は明確な立場を取る。世界は、物理的・生物学的・化学的な因果関係の網の目によって構成されており、すべての出来事には自然的な原因と結果が存在すると考える。したがって、奇跡や神秘的な介入といった概念は、自然主義の枠組みでは説明不可能なものとして退けられる。世界はあくまでも機械論的(mechanistic)に動いており、法則に従って秩序正しく展開する自然的構造であるという前提がある。また、自然主義は価値や意味に対しても独自の姿勢を持っている。伝統的な宗教や形而上学では、善悪や人生の意味は神や絶対者に根ざすと考えられていた。しかし自然主義では、これらの価値や意味も、進化や文化的過程の中で生成されたものであり、超越的な根拠を持たない。すなわち、道徳や倫理も、人類の社会的協力や共感の進化的発展の中で生まれた「自然な事実」として理解されるのである。このように、自然主義は形而上学的に見て、世界を全体として1つの自然の連続体として捉える。その中において、心や価値、文化までもが自然現象の延長として位置づけられ、自然科学がその全体像を解明する手段とされる。しかしながら、自然主義には未解決の問題もある。例えば、第一人称的な意識体験(クオリア)の本質、自由意志の実在性、道徳的規範の客観性などは、現在の科学や自然主義的枠組みだけでは説明が難しい。このような問いに対しては、非還元的自然主義、あるいは観念論や構成主義、さらには東洋思想との対話が新たな展望を拓く可能性を持っている。フローニンゲン:2025/7/6(日)15:43


Today’s Letter

The world is made of dream-like stuff. Everything appears and disappears momentarily, performing a dance. I am both the dancer and the dance floor. Groningen, 07/06/2025

 
 
 

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