【フローニンゲンからの便り】16911-16916:2025年7月5日(土)
- yoheikatowwp
- 7月7日
- 読了時間: 16分

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タイトル一覧
16911 | 形而上学・認識論・存在論の探究の再開 |
16912 | 今朝方の夢 |
16913 | 今朝方の夢の振り返り |
16914 | 身体運動としての学術書の音読 |
16915 | 科学における客観性とは |
16916 | 科学における形而上学思想の歪みの影響 |
16911. 形而上学・認識論・存在論の探究の再開
時刻は午前7時を迎えた。今日も早朝から穏やかな朝日が地上に降り注いでいて大変心地良い。もう1つ心地良さを促してくれているのは、爽やかな風である。昨日はこの時間帯は12度ぐらいの気温だったが、今は17度ほどである。しかし、最高気温に関しては昨日のように24度まで上がらず、今日は22度の予報である。今は空は晴れているが、どうやら今日は曇りがちの1日となるようだ。
昨日、突如として手元にある形而上学、認識論、存在論に関する専門書を取り出してきた。それらはルートリッジ出版、ポリティ出版、ブルームズベリー出版という学術書に定評のあるイギリスの出版社から出版されたものである。意識とリアリティの地動説の探究に不可欠なそれらの分野に関するそれらの書籍を眺めていると、以前から自分の無意識の奥底にはそうした関心があったのであり、それが諸縁によって花開いたのだと感じた。日本法相唯識を中心にした仏教思想の探究、量子論哲学の探究に合わせて、形而上学、認識論、存在論に関する探究も地道に継続していく。形而上学は、端的に言えば「存在するものとその在り方を総体的に問う」学である。古典的にはアリストテレスの『第一哲学』に淵源を持ち、「存在するとは何か」「事物を構成する根本原理は何か」「世界全体はいかなる秩序で成り立つか」といった問いを包摂してきた。形而上学は大きく2つの柱に分かれる。1つが存在論、もう1つが心や認識の可能条件を扱う領域──すなわち認識論と交差しながら展開されてきた心身論・形相質料論・因果論・自己論など──である。存在論は形而上学の中核部分であり、「何が存在するか」「存在者はどのようなカテゴリーに分けられるか」を精査する。言い換えれば、形而上学の問題群のうち「対象側」の本質を扱う領域である。実体・属性・関係・事象・過程・志向性など、存在のモードを分類し、それらが相互にどのような依存関係を成すかを問う。対照的に認識論は、「われわれはどのようにして存在を知りうるか」「その知識はどこまで確かか」という「主体側」の限界と能力を扱う。知覚・推論・悟性・直観・言語などが信頼しうる根拠を検証し、誤謬や懐疑をどこまで克服し得るかを探る。ゆえに、認識論は存在論・形而上学に対し「正当化のメタ規範」を与える役割を担う。両者の相互作用は歴史的に多層的である。プラトンにとってイデアは認識の源泉であり、イデア論という存在論が同時に認識論的保証(想起説)を提供した。デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という認識論的確実性から出発し、神の存在を媒介に物体実在へと存在論を拡張した。カントはむしろ認識能力のアプリオリな条件を先に定めることで、存在論的言明を「現象界」に制限し、形而上学を境界づけた。20世紀分析哲学においてクワインは「存在論的誓約」という語で、理論が使用する量化構造を解析し、言語‐論理論的枠から存在論を読取る方法を示したが、これも「何を認めるべきかは経験的総体が決める」という認識論的自然主義に支えられている。 つまり、存在論は認識論抜きには立ちえない。私たちの知覚・概念・推論形式が許す範囲でしか「存在を語る」ことはできず、逆に認識論はある種の存在論的前提──例えば「外部世界はある」「他我はある」「意味は客観的に共有可能である」──を暗黙に抱える。両者が相互規定的であるゆえ、現代では「メタ形而上学(metametaphysics)」と呼ばれる領域が、言語哲学・論理学・科学論と連携しながら「形而上学的主張の意義や検証可能性」そのものを検討する。要するに、形而上学は「存在論的骨格」と「認識論的筋肉」を併せ持つ巨木のような体系である。存在論が枝葉を繫ぎ、認識論が樹液として滲み渡る。形而上学はその全体を養う幹であり、根はしばしば沈黙した前提(社会・文化・言語・実践)に潜む。いずれか一方のみを独立させれば、木は倒れ、哲学は片翼飛行に陥る。存在論と認識論は、相互に制約しつつ相互に可能性を開く──そこにこそ形而上学のダイナミズムが存しているのである。フローニンゲン:2025/7/5(土)07:20
16912. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、大きな公園を散歩している場面があったのを覚えている。ただし、そこで何をしていたのか、どのようなことを考えていたのかは不明で、ただ黙々と無の状態で散歩をしていたように思う。そうした感覚だけが残っている。この場面を受けて、次に覚えているのは、小中学校時代のある親友(HS)と喧嘩をした場面である。見慣れない大きな部屋の中に私たちはいて、最初こそ仲良く話していたが、徐々に話が食い違い、口論になった。そして最後には、彼は手を出さなかったが、追いかけてくる彼に対して膝にサイドキックを入れた。その蹴りは膝の骨を折るほどの威力だったが、幸いにも膝を外し、彼の腿に当たり、彼の足を骨折させることを防いだ。蹴りを喰らって後方に吹き飛んだ彼は、もう自分のあとをついてこなかった。その部屋を離れた時、親友の彼に対して蹴りを喰らわせたことを反省しており、彼の体に異常が来ていないことを願っていた。この場面を受けて次に現れたのは、自分が大学院に通っていて、アジア系の見知らぬ女性と話をしていた場面である。自分の中には何か焦りの気持ちがあった。それは大学院での探究スピードに関するものと授業料に関するものだった。もしかしたら授業料に関しては、それは焦りというよりも、大学院での教育の質と価格のバランスが取れていないことに対する問題意識だったのかも知れない。いずれにせよ、大学院の授業料が高いということについてそのアジア系の女性と話をしていた。その大学院は4学期制を採用していて、それぞれのクォーターの授業料は100万円を超えていた。もちろん現在の未曾有の円安によってそれだけ学費が高騰しているように感じるのかも知れないが、それにしても学費が高いと思った。その大学院はプロフェッショナルスクールではなく、学術系の大学院ゆえに、プロフェッショナルスクールであればそれくらいの学費を課すのは理解できるが、学術系の大学院としてはやはり学費が高く感じた。学費の金額についてはこちらからは変えようがなかったので、無駄遣いせず、しっかりとお金を貯めることが重要なのだろうと考えていた。今朝方はその他にも何か重要な夢を見ていたように思うが、覚えているのはそれくらいである。幾分断片的な夢が連続的な流れのように現れたのが今朝方の夢だった。フローニンゲン:2025/7/5(土)07:31
16913. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢は、広大な公園から始まり、旧友との衝突を経て大学院での会話へと移る三幕構成であった。まず、ただ黙々と歩く場面は、意識の表層からいったん思考を剝ぎ取り、無意識の深層へ降りるための導入部であると言える。樹木や芝生の手触りが残らず、感覚の空白だけが強調されていることから、この公園は記憶のどの具体的風景にも結び付かない「純粋な余白」として立ち現れている。自己の根に潜む混沌──まだ言語化されていない衝動や欲求──が、静かで広い空間として現れたのである。ここでは意味や目的を抱かず、歩くという動作そのものが儀式化されている。意識が脱色され、自己が「まだ何者でもない」地点に回帰する感覚がある。その余白を背景にして、第二幕では小中学校時代の親友との口論が展開される。見慣れぬ大部屋は「過去の記憶」と「現在の人格」が交錯する心的劇場であり、旧友HSは自分の過去の自己像を担う。最初は和やかに語り合うが、やがて齟齬が広がり、ついには肉体的暴力の寸前に至る。ここで膝へのサイドキックが象徴するのは、前に進むための支点を破壊しかねない自己破壊衝動である。膝は歩行──すなわち人生の推進力──を支える要である。それを折るほどの威力を宿しながら、結果的にほんの僅かにずらして太腿を打つにとどめた点は、自責の念と慈悲が同居している証左となる。つまり、自己は過去の自分を断ち切ろうとする激しいエネルギーを抱えつつ、なお完全破壊には踏み切れない。飛ばされた友が追って来なくなる場面は、過去の自己像がいったん距離を置くことで、現行の自我が次の段階へ進むための余白を再び確保した瞬間である。第三幕では舞台が大学院へ転じ、アジア系の見知らぬ女性との会話が始まる。彼女は学問上の探究心と経済的現実の狭間で揺れる「未来の可能性」あるいは「アニマ(内なる異性像)」として現れる。授業料の高さが焦点化されるのは、知識獲得の代償、さらには自己成長のために払うエネルギーや時間のコストが、想像以上に重いと感じている深層心理を映す。4学期制という区分は1年を四季に分ける自然のリズムを思わせ、学費100万円超という額は、円安という外部要因を口実にしつつも、実際には「自分の価値尺度が環境に揺さぶられている」事実を示している。自分は高いと思うが変えられないという無力感を味わいながら、同時に「無駄遣いを避け貯蓄する」という具体的対策を内部で策定している点に、現実適応への意志が覗く。これは前幕の暴力衝動と対を成す「制御された合理性」であり、自己統合に向けてエネルギーが別の相へ転化された結果である。以上三幕はいずれも「余白→衝突→調整」という循環を成す。公園の静寂で自我の輪郭が一時的に溶解し、旧友との衝突で潜在的エネルギーが噴出し、大学院での会話で社会的現実へ接続しながら折り合いをつける。この流れは、自分が過去・現在・未来を並列に配置し、それぞれの次元で自己の位置を測り直している過程を示唆する。断片的であるが連続的であったという印象は、心象のパッチワークが一枚のタペストリーへ縫い合わされる最中にいることを物語る。すなわち、本夢は「自己再編成の試み」であり、過去の影と殴り合いながらも、なお未来への投資を計算する理性的自我が立ち上がる物語である──それが、今朝方の夢が象徴する全体像である。フローニンゲン:2025/7/5(土)07:48
16914. 身体運動としての学術書の音読
時刻は午前10時を迎えた。つい先ほど、朝のジョギング兼ウォーキングから帰ってきた。気温は19度しかないが、それでも途中からは汗が滲み出てきそうになった。いつも汗が出てきそうになったらウォーキングに切り替えるようにしている。真夏日においてはジョギングをするとすぐに汗が出てきそうなので、そうした日はウォーキングだけにとどめるようにしている。いずれにせよ、昨年の初冬に日本から戻ってきて以降、朝にジョギングをしたり、ウォーキングをすることが習慣になり、生活リズムが以前にも増して良くなったように思う。特に朝の時間帯に日光を浴びることの効能を実感している。こうして日々朝に軽い運動をし、週に2回はジムでしっかり体を鍛えていると、身体実践が知的実践を強固に下支えしてくれていることを感じる。そこでふと、日々書斎の中で英語の学術書を音読することもまたある種の身体実践なのではないかと思った。英語の学術書を音読するとき、舌や口唇を細かく動かしながら腹式呼吸を保つ必要がある。このとき呼吸パターンは安静時よりも長い吸気と緩やかな呼気のリズムへ移行し、呼気量は一過性に増加する。発声は横隔膜・外肋間筋・腹直筋を協働収縮させるため、軽い呼吸筋トレーニングと同等の負荷が生じることが示されているらしい。歌唱療法や発声リハビリが肺機能を改善するという臨床報告は、同じメカニズムが音読にも働く可能性を裏づけていると言えるだろう。呼気‐吸気の変調に伴い心拍数と心拍変動もわずかに揺れ動く。音読中は副交感神経優位が弱まり、軽いウォーキング程度の心拍上昇が観察されるケースがある。加えて、呼吸と心拍が同期する「呼吸性心拍変動」が発声のリズムに追随して現れ、これは一定のテンポでジョギングする際に心拍が歩幅に同調する現象と相似形を成す。おそらくこうしたことが音読中のある種のゾーン状態に導くのだろう。また、運動と音読をさらに近づけるのは「リズムに合わせて全身を協調させる」という神経運動的側面である。発声時、大脳皮質の運動野と小脳は、舌や口腔の巧緻運動を呼吸と同期させる高度な時間制御を行う。これはランニングで腕振りと呼吸を噛み合わせる作業と本質的に同じ計算を脳内で行っている。音読が長時間にわたると、発声を支える姿勢筋や頸部筋群も等張的に働き続けるため、体性感覚的には「軽い持久運動」をしているような疲労感が立ち上がる。心理面では、一定のテンポで声帯を振動させつつテキストを追う行為が瞑想的集中状態をもたらしやすい。定常的な呼吸運動は迷走神経を刺激し、ストレスホルモンの分泌を抑制する作用が見られると報告されている。読書という認知課題と呼吸筋活動が結び付くことで「身体を動かしながら学ぶ」という統合経験が成立し、これはエクササイズ後の爽快感に似た情動変化を伴う。つまり音読と運動は、呼吸筋と循環系に対する有意な生理的負荷、リズム生成と運動協調を担う神経回路の活性化、ストレス低減を含む情動調整効果、という3つの軸で深く重なり合う。学術書の難解な語彙を発声する行為は、脳にとっては筋トレとパズルを同時に行う複合タスクであり、全身が「読む」という運動へ動員される。その体験が身体運動に近いと感じられるのは、生理学的にも神経学的にも必然的な感覚なのだろう。フローニンゲン:2025/7/5(土)10:12
16915. 科学における客観性とは
時刻は午後6時半を迎えた。毎週末のゼミナールのクラスを終えると、脳に相当な刺激が入っており、脳全体が活性化している感覚を持つ。クラスの中での議論は毎回知的刺激をもたらし、クラスの中だけではなく、クラスを終えてもしばらくゾーンの状態にいるかのようである。今日のクラスの内容と少し絡めて、科学における客観性について考えていた。科学における客観性とは、「個々の研究者の主観を完全には排し得ない」という事実を前提にしつつ、それでもなお知見が誰にとっても合理的に受け入れ可能となる条件を整える営みであると言えるだろう。ここでいう誰にとってもとは、特定の文化や信念を共有しない検証者であっても、同じ手続きを踏めば同じ範囲の結果と結論に到達できるという意味を持つ。したがって客観性は、絶対的・形而上学的な「観測者フリーの真理」を指すよりも、むしろ「公表可能性と再現可能性を備えた学的知識の到達目標」という規範的概念であると言える。科学がこの客観性を担保するために導入してきた仕組みは大きく三層に分かれる。第一に、方法論的装置である。測定機器の校正、操作的定義、統計的仮説検定、二重盲検や対照群といった実験デザインは、観察者の期待や先入見が測定値に直接染み込むのを抑制する働きを担う。第二に、制度的装置である。査読、追試、データ公開、プレレジストレーション(研究を開始する前に、研究計画(仮説、研究デザイン、測定方法、データ分析計画など)を公開リポジトリに登録・公開すること)などは、成果を共同体の批判に晒し、個々の主張が「他者の再現」という試金石にかけられる構造を生み出す。第三に、社会的‐倫理的装置である。ロバート・マートンが説く組織的懐疑主義や公有性の原理、近年のオープンサイエンス運動は、研究の営み自体を透明化し、利害対立や価値判断の影響を可視化することで、批判と自己修正を加速させる。もちろん、観測や解釈の理論負荷性(theory-ladenness)、研究課題の選択に潜む価値判断、社会的権力関係の反映など、主観性が入り込む余地は常に残存する。ゆえに客観性は「達成される状態」というよりも「不断に維持・更新される手続き的条件」であり、それを支えるのは個人の超越的能力ではなく、共同体的な相互批判と制度設計である。科学の歴史は、この手続きと制度を改良し続けることによって、可謬的でありながら信頼に足る知識を累積し得ることを示してきた。客観性とは、主観性を排除する理念ではなく、主観性を制御・共有化し、普遍的合意へ向かう道程を確保するための社会的・方法論的インフラそのものなのである。フローニンゲン:2025/7/5(土)18:41
16916. 科学における形而上学思想の歪みの影響
科学研究は観測・実験という経験的営みの上に構築されるが、その最深層には必ず世界観の前提が横たわる。形而上学的歪みがそこに入り込むと、まず研究課題の設定そのものが狭窄化する。例えば17世紀後半から19世紀初頭にかけて欧州を席巻した機械論的実在観は、生物を精巧な歯車の総体とみなすことで生命固有の自己組織化現象を「測定誤差か例外」として排除し、結果として発生学や複雑系研究の萌芽を長らく周縁に追いやった。ここでは誤った形而上学が研究者の注意と資源を吸引し、「問いそのものの不在」という形で害が顕在化したのである。第二に、観測データの解釈が特定の図式に拘束される。エーテル仮説(光が伝わるための媒質として仮想された「エーテル」が存在するという仮説)を前提とした19世紀後半の光学実験は、マイケルソンとモーリーの決定的な負の結果にもかかわらず「装置の精度不足」として再解釈され続けた。理論図式が硬直化すれば、反例さえも「確認的証拠」として吸収され、結果として科学的自己修正機構が鈍化する。形而上学の誤りはここでデータの声を捻じ曲げ、帰納的蓄積の効率を低下させる。第三に、方法論そのものが特定の存在論に奉仕する形で設計される危険がある。19世紀後半の人種生物学や20世紀前半の優生学では、「遺伝的決定論」という形而上学的信念が統計技法の選択から実験集団の構成に至るまでを統御し、社会政策へ直結する有害な「科学的事実」を生産した。誤謬は学術領域にとどまらず、社会的差別と国家暴力を正当化する装置となった。形而上学の歪みが方法論を汚染すると、科学は容易に権力装置へ転化しうる。第四に、研究資源の配分と技術応用の方向性が偏向する。20世紀後半の「効率化のための農業化学」パラダイムは、人間中心の収量至上主義という実在観を背景に、土壌生態系の複雑性を軽視した結果として土壌劣化と生物多様性の損失を加速させた。ここでは形而上学的偏りが持続可能性を欠く技術選択を誘導し、長期的な負の外部性(経済活動を行う主体(生産者や消費者)の行動が、その経済活動に参加しない第三者に対して、対価の支払いなしに不利益を与える状況)を社会全体へ転嫁した。最後に、誤った形而上学は科学共同体の自己理解を歪め、「何をもって証拠とみなすか」という評価基準そのものを固定化する。量子論の初期における決定論的隠れ変数理論をめぐる論争では、ニュートン的因果律に固執する一部の物理学者がベルの不等式の意味を過小評価し、測定問題に対する解像度を下げた。ここでは形而上学的執着が理論的創造性の幅を狭め、革新的パラダイムへの移行を遅延させた。このように、歪んだ形而上学は問いの設定、データ解釈、方法論、社会的応用、そして科学共同体の認識論的柔軟性という5つの経路で有害作用を及ぼす。科学の客観性が手続き的・共同体的インフラに依拠する以上、その最奥にある世界観の健全性を不断に批判的検証に晒し続けること──言い換えれば「形而上学の自己反省」が──科学をして誤謬から学び続ける開かれた体系たらしめる条件なのだと言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/5(土)19:17
Today’s Letter
The metaphysics of Yogācāra is truly profound. It overcomes the nihilism associated with the emptiness of both the external and internal worlds. I also had an intuition that Buddhist logic could contribute to resolving issues in the domain of quantum logic. Groningen, 07/05/2025
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