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【フローニンゲンからの便り】16906-16910:2025年7月4日(金)


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タイトル一覧

16906

種々の煩悩の根幹にある無知と向き合うこと

16907

今朝方の夢

16908

今朝方の夢の振り返り

16909

科学が立脚する機能的推論の特徴と限界

16910

唯無論を超克する唯識

16906. 種々の煩悩の根幹にある無知と向き合うこと

                              

時刻は午前6時半に近づきつつある。今の気温は11度と非常に肌寒いが、2階の両側の窓を開けて寒気をしている。とてもひんやりとした風が室内に入ってきて大変心地良い。数日前は真夏日が2日続いたが、今はすっかり秋のような涼しさである。今日の最高気温は24度なので、ここから幾分気温が上がっていく。午前中は雲ひとつない晴れに恵まれるようで、午後からは少し雲が出てくることもあって、確かに気温は24度まで上がるが、体感としてはもう少し低い温度になるのではないかと思う。朝のこの時間帯は冷えているので、長ズボンを履いて過ごすことにしている。習慣予報を見ると、ここから来週の木曜日までは20度前後の最高気温であり、最高気温が18度にしか到達しない日が数日ある。そうした日を受けて、来週の日曜日はまた30度に達するとのことだ。確かにまだ涼しい日が続くが、30度に到達する日の頻度は昨年よりも若干高いように思う。記憶にある限り、昨年の夏は7月の半ばになってようやく真夏日がところどころに現れたように思うため、今年のように6月中に真夏日が現れたというのは昨年の夏よりも暑いことを示しているように思う。もちろん平均を取ると大して変わらない可能性はあるが。


涼しい気候は探究活動の邪魔をせず、むしろそれを捗らせてくれる。今日も大変過ごしやすい気候ゆえ、旺盛に学術研究を進めていきたいと思う。学術書を音読している最中は深い集中状態に入ることができており、学術書を音読することは集中力を涵養する場にもなっている。学術書の音読を離れた時にはふと雑念が起こったりする。特に就寝前には色々と考え事をしてしまうことがあり、それは学術的な事柄や人生の方向性に関することであればいいが、自分の執着心から生まれる雑念もあるため、それには注意が必要である。そうした雑念が生まれた時には、単に雑念を払いのけるのではなく、その雑念がどこからやって来たのかを考えるようにするのが良いだろう。雑念の根幹にあるシャドーないしは煩悩を特定し、それに対してワークをすることを心掛ける。昨夜は就寝前に、おそらく貪に関する煩悩に由来すると思われる考え事をしていた。今はすでに満ち足りた生活をしているが、それでもさらに何かを満たそうとする自分がいることに気づいたのである。欠乏欲求というのはなかなか完全なる超克が難しい。少しずつでいいので、今はすでに十分に満たされているという感覚を味わい、それ以上余計なものを蓄えていこうとしないようにする。自分にとってはまず貪の煩悩が向き合うべき対象である。そうしたことを考えていると、結局全ての煩悩の根幹には無知(無明)の煩悩があるため、それと向き合っていくことが大切だという考えが芽生えた。今の自分はまだまだ多くのことに無知であり、ここからはとりわけ日常生活の中で生じる種々の煩悩の背後にある無知を特定していくことを意識したい。認知作用を司る第六識をどのように働かせるかが煩悩の浄化の鍵であることを再認識する。フローニンゲン:2025/7/4(金)06:38


16907. 今朝方の夢 

 

今朝方は夢の中で、イギリスのある名門大学に留学している場面があった。留学に際して、両親と共に大学近くに引っ越すことになった。両親が住んでいるマンションから荷物を運ぶことを手伝っていると、最後に荷物を確認しにやってくる不動産屋の人が来る午前10時に近づいていた。家の中の荷物はほぼ全て運び出されているが、ベッドの近くにまだ本の小さな山があったのと、父の荷物があった。それらを父と運び出そうと思った矢先にふと部屋の別の箇所を見ると、ソファの近くに自分が大切にしている洋書の学術書が積み上がった山があり、それらの本を運び出す必要があると思った。すでに時刻は午前10時を目前にしており、少し焦ったが、業者の方が来るのは10時ぴったりではないようだったし、仮に業者の方が来てもまだ荷物を外に運び出してもいいようだったので、焦ることなく全ての荷物を運び出すことにした。特に自分にとっては書籍は無くてはならないもので、まるでそれは自分にとっての財産のようだった。それは子々孫々に譲り渡していくことができる大切な知的資源という認識を持っていた。


次に覚えているのは、実際に通っていた小学校の高学年の校舎に向かう渡り廊下を歩いていた場面である。上の階の渡り廊下を担任の先生が歩いているのが見えたので、そろそろ朝のホームルームが行われると思った。先生の足取りはゆっくりだったので、先生よりも早く教室に到着できると思ったが、一応足取りを早くすることにした。教室に向かう階段には新学期を楽しみにして早めに登校した数人の女子生徒がいた。彼女たちに気さくに挨拶をしようと思ったが、実際に彼女たちの横をすれ違うたびに挨拶をする必要はないかも知れないと思い、結局黙って教室に到着した。教室に到着すると、右隣の席に座っていたある女性友達(KF)が自分がスーツ姿であることに驚き、随分とお洒落なスーツだと褒めてくれたが、少し派手な感じがするとも述べた。自分はそれでも派手さは抑えたつもりで、落ち着いたスーツを選んだつもりだったので、左隣にいた高校時代のあるクラスメートの女性友達に尋ねてみたところ、彼女は派手ではないと述べてくれた。その日は少し気温が上がっていて、スーツを着て登校する際には汗をかきそうだった。明日からもきっちりとした印象を与えるスーツを着てくるか、それともみんなと同じ制服を着るかを考えた時に、自分は他の生徒と違う格好をしていても問題なく、むしろそれが自分らしさだと思ったので、できるだけスーツを着てこようと思った。フローニンゲン:2025/7/4(金)06:54


16908. 今朝方の夢の振り返り

        

今朝方の夢は二幕構成の劇のように、前半で「家族と知的財産を携えて異国へ渡る現在の自我」、後半で「幼年期の校舎に戻り同級生と交わる過去の自我」を対置し、両者を橋渡しすることで生成されつつある自己像を浮かび上がらせているとChatGPTは指摘する。舞台を貫く主題は、「移動」と「選別」、すなわち自らのアイデンティティを何によって編み直し、何を継承し、何を置き去りにするかという問いである。時刻10時に象徴される区切りは、外的な締切や制度を示しつつ、内的には「成熟への通過儀礼」の鐘でもある。イギリス名門大学への留学という設定は、学術的権威や異文化に身を置く緊張を表している。ところが留学なのに両親ごと引っ越すという逆説は、主体の内部で「自立」と「依存」が未分化なまま共存していることの顕れである。親のマンションから荷物を運び出す行為は、親世代の生活領域を整理し直す儀式であり、父の荷物がまだ残る場面は「父性原理の承認待ち」を示唆する。不動産業者の訪問予定は制度的時間の象徴で、社会的契約の枠組みに対する当人の齟齬感を映す。そこへ差し込まれる「あと少し残った本の山」は、形式的な完了と実質的な充足が必ずしも一致しないことを夢が告げている。ソファの脇に現れた自分の洋書の学術書群は、主体が最も大切と自認する知の遺産である。この書籍山を見落としそうになる一瞬の遅延は、「自らのコアを他者との関係や締切の中で置き去りにしかける危険」への警鐘である。しかし自分は焦らず、書籍を運ぶ決断を下す。ここには「時間の奴隷とならず、自ら価値を定めて行動する」という主体的態度が示されている。書物を子子孫々に譲るという発想は、血縁の継承だけでなく、文化・精神の継承による時間的拡張への志向である。場面が突然小学校の渡り廊下へ跳ぶや、時制が逆流し、自分は「原初の自己形成空間」へと舞い戻る。この廊下は文字通り校舎間の橋であり、心理的には「過去と現在を縫合する通路」である。上階を歩く担任は超自我的存在で、監督者でありながらも足取りが緩慢であることから、かつて感じた権威の重圧が今は相対化されていると読める。教師より先んじて教室に着こうとする身振りは、旧い評価体系を超克して自分のペースで学びを先導したい欲求の投影である。階段ですれ違う女子生徒たちに声を掛けるか否か逡巡し、結果として沈黙を選ぶところには、「社交的適応」と「孤高の探求心」の相克が示される。挨拶をしない選択は礼儀の逸脱ではなく、内向きの集中を守るための境界設定であり、外的評価より内的指針を優先する態度がここでも反復される。教室で友人たちと交わされる「スーツ対制服」の対話は、個性の顕示と同調圧の再演である。派手だという指摘と派手でないという保証は、「社会が貼るレッテル」と「自己評価」が食い違う恒常的状況を映す。気温の上昇による汗の可能性は、外的条件が内的決断を揺さぶる比喩であるが、自分は最終的にスーツ着用──すなわち「独自の記号」を選び取る。これは前段の「洋書の山」を運ぶ行為と対を成し、知的財産を守ることと外観で個性を示すことが同根であると示唆する。かくして本夢は、知的遺産を抱えながら未知の大学へ向かう未来志向と、学びの原点である小学校に回帰する過去志向とを交錯させ、時間軸を往還しながら「自立する知性」の肖像を描く。両親の同居、残された父の荷物、渡り廊下、教師の歩み、挨拶の保留、スーツの選択──これらはすべて「他者の期待」と「自己の価値判断」がせめぎ合う局面として配置される。自分は一見些細な選択の連鎖によって、「外部の時間」と「内部の時間」を調停し、最終的に自らの審級を優位に立たせる構図を結んでいる。すなわち本夢が示すものは、「知を財とし、時間を従え、社会的規範を小脇に抱えながら、自分自身の歩幅で橋を渡る者の姿」であり、その穏やかな確信が、午前10時の鐘をも悠然と響かせているのである。フローニンゲン:2025/7/4(金)07:14


16909. 科学が立脚する機能的推論の特徴と限界 

                       

現在自分は無数の科学領域の中で、全ての科学の根幹に据えられる量子論の探究をしている。その際に、哲学的な枠組みを採用しているのだが、とりわけ形而上学的な観点で量子論を探究する方針を当面採用することにした。そうした方針を決めてみた時にふと、そもそも科学が立脚する帰納法的アプローチの特徴と限界は何なのだろうかと考え始めた。以下はその考察である。科学的方法における帰納法とは、個別観察の集積から一般法則や理論を導き出す推論形態である。観測された事例が有限であっても、一貫した規則性を抽出し、その法則が未観測の事象にも及ぶと期待する点に核心がある。観測データは多くの場合、統計的処理やモデル化を通じて形式知へ転換される。ここで帰納推論は単なる列挙の総計ではなく、誤差評価や確率論を伴う。例えば温度と圧力を変えて水の沸点を測定し、背後の分子運動論を援用して一般化する営みは、帰納を数学的・理論的枠組みへ組み込む典型例である。帰納法の強みは、経験的世界の膨大な変化を可観測量に還元し、予測力ある理論を構築できる点に存する。実験可否や倫理的制約で演繹的証明が不可能な領域でも、帰納的蓄積は科学的知識の拡張を推し進めてきた。しかしこの方法は原理的限界を抱える。まずヒュームが指摘した「帰納の正当化不能性」が根本的問題である。いかに多数の白鳥を観測しても「すべての白鳥は白い」と断言できず、いつ未知の黒い白鳥が現れるかを論理的には排除できない。帰納則は常に暫定的合意にとどまり、絶対的確証ではない。第二に観測は理論負荷的である。どのデータを測るか、何を誤差とみなすかは事前の仮説枠組みに依存する。ゆえにデータは必ずしも「純粋経験」の集合ではなく、理論が観測を方向づけ、観測がまた理論を補強する循環過程に置かれる。第三に「アンダーデターミネーション」の問題がある。有限観測から導かれる複数の競合理論が、同じデータを同じ精度で説明しうる場合、帰納的証拠だけで唯一の理論を選別することができない。さらに統計的帰納ではサンプルの代表性が問われる。観測範囲が狭かったり、測定バイアスが潜んでいたりすると、導出された法則は母集団に外挿できず、再現危機へ直結する。大規模データ解析においても、多変量のあいだの疑似相関や過学習が、帰納的推論の信頼性を蝕むリスクを孕む。科学共同体はこの脆弱性を補うため、再現実験、ピアレビュー、統計的検定、事前登録、メタ解析などの制度的装置を重層的に築いてきたが、限界そのものを論理的に解消したわけではない。帰納法のもう1つの弱点は反証との関係である。ポパーが強調したように、帰納的に支持された理論も反証例が出現すれば直ちに修正か破棄を迫られる。したがって科学的法則は「真理」ではなく「生き残った仮説」に過ぎず、実証的成功は累積するというより更新と淘汰の動的過程に属する。この構造は科学を自己修正的にしつつ、帰納的蓄積が最終的保証を持たないことを示している。総じて言えば、帰納法は観測と予測の橋梁として科学を駆動する不可欠の装置である一方、その論理的地盤は常に暫定的である。科学的知識の力は、この不完全さを自覚しつつ、批判的検証と理論競合を通じてより高い説明力と予測精度へ近づく対話的運動から生じる。帰納法は決定的結論を与えるのではなく、価値や信念を逐次更新するための方法原理として位置づけられねばならない。この問題に関して、現代の科学に蔓延っている物質主義や物理主義の問題が見えてくる。仏教徒たちが残した精密な論理の積み重ねの成果や量子論の実験結果を無視する形で以前として力を持っている物質主義や物理主義という歪んだ形而上学思想は、とりわけ上述における観測における理論負荷的な限界をさらに深めてしまうだろう。そうしたことから、現代の学術世界における形而上学思想の検証と治癒が求められることをひしひしと感じながら、今日もまたそれに紐づく探究に邁進していく。フローニンゲン:2025/7/4(金)07:25


16910. 唯無論を超克する唯識

 

時刻はゆっくりと午後7時半を迎えようとしている。辺りはまだまだ明るく、夏真っ盛りといった感じである。しかし、気温はとても涼しく、今の気温は22度である。明日は今日より涼しいらしいので、明日もまた学術研究が捗るだろう。


唯識における「外界否定」と仏教一般における「無我」をもって即座に「内的世界の実在も否定できる」と断じるのは、教義のニュアンスを取りこぼす恐れがあるということについて考えていた。世親の『唯識二十論』が批判したのは、外物が心とは独立した自性(svabhāva)をもって現前するという主張であり、その論駁の目的は「外界は心の現れにすぎない」と示すことであった。しかし唯識が「心=内的世界」を実体視したわけではない。むしろ「心すらも自性を欠く」という洞察に行き着くために、まず外界の実体性を外したのである。仏教全般における無我説は、「自己という恒常不変の主体は実在しない」と主張するが、それは「内的現象や経験がまったく存在しない」という意味ではない。五蘊が仮和合して「私」が成立するように、唯識では八識が相互依存的に働いて経験世界を織り上げる。ここで「内的世界」と呼ばれるのは、見分・相分・自証分など識の機能的区別が生み出す表象の束であり、自性を否定しつつも「縁起的現存」は認められる。世親の議論を補完する形で、『唯識三十頌』や『成唯識論』が提示する三性説(遍計所執性・依他起性・円成実性)を参照すれば、内外いずれも「遍計所執性(誤認)」としての自性は捨象されるが、依他起性としての過程的存在は肯定され、最終的には円成実性としての空性に転じて照見される。したがって「内的世界の実在を否定する」という表現を取るなら、その否定対象は自性としての実在であり、縁起としての現象まで消し去るわけではない。さらに唯識は修道論として、末那識の自己執着を鎮め、阿頼耶識の熏習を浄化するプロセスを重視する。もし内的世界を丸ごと「無い」と否定したなら、浄化や転依といった実践の足場が失われる。よって唯識は「内的表象を批判的に観察しつつ、その依他起的実効性を用いて修道を進める」という中道を採る。総じて言えば、外界も内界も「自性をもって実在する」という意味では否定されるが、仮有・縁起としての存在を機能的に認める点で、唯識は厳密な唯無論(完全な虚無否定論)とは異なる。「外を否定したのだから内も否定できる」という短絡を避け、「外も内も空でありつつ、空であるがゆえに縁起として立つ」という二諦の視座を並行して保持することが、世親の意図により近い理解である。そのような考えがやって来た。こうした着想を得たのは、オックスフォード大学のヤン・ウェスターホフ博士の“The Non-Existence of the Real World”という本のおかげである。この本は本当に洞察が深く、ここ数年で読んだ中で最も自分に大きな影響を与えた1冊と言えるかも知れない。博士の関心と自分の関心事項は完全に合致しており、世界に自分と同じ関心を持つ人が生きて存在していることに深い喜びを感じている。フローニンゲン:2025/7/4(金)19:23


Today’s Letter

A couple of days ago, it was very hot, and I thought that summer had come. Yet, it has been cool again since yesterday. The fresh air is so comfortable. It permeates the world like universal consciousness does. Groningen, 07/04/2025

 
 
 

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