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【フローニンゲンからの便り】16902-16905:2025年7月3日(木)



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タイトル一覧

16902

勤行としての学術書の音読

16903

今朝方の夢

16904

今朝方の夢の振り返り

16905

涼しさを感じてのトレーニング/形而上学思想の探究の再燃

16902. 勤行としての学術書の音読  


時刻は午前6時を迎えた。今、空は少し曇っているが、1羽の小鳥が美しい囀りを上げている。今朝方はひんやりしていて、今の気温は15度である。昨夜、雷を伴う雨が降り、それによって気温が下がった形である。今日の最高気温は20度までしか上がらず、来週の水曜日までは20度前後の日々が続く。来週の木曜日からまた気温が上がって20度後半の気温になるようだが、30度を超える真夏日にはならないようなので何よりである。オランダの家にはクーラーが基本的にないので、真夏日になると特に2階の気温が上がり、学術研究のための集中力の維持に若干支障をきたすので、引き続き真夏日がやって来ず、気温が上がっても20度後半であることを願う。


鎌倉時代の学問僧貞慶は、1日に14時間ほど学問研究に打ち込んでいたそうである。貞慶の真理探究に対する真摯な姿勢に打たれ、彼の学問に対する在り方から大いに啓発を受けている。貞慶の1日の生活リズムについて言及のあった書籍の記述を思い出すと、貞慶は勤行もまた修行の一環とし、読経を通じた学術研究に打ち込んでいたのではないかと思う。日々学術書を音読する行為を勤行として位置づけるとき、その効能は多層的に現れる。第一に、視覚情報と聴覚情報を同時に動員することで記憶の定着率が高まり、内容理解が深まる。沈黙の黙読では主に視覚皮質と意味処理野が働くが、音読はさらに運動皮質、ブローカ野、ウェルニッケ野、聴覚皮質を連携させるため、脳内でのシナプス連結が多角的に強化されるのである。第二に、声帯と呼吸を用いたリズム生成は、チベット密教の読経や禅における数息観に近い自律神経調整作用をもたらす。一定のテンポで音読を続ければ副交感神経優位となり、心拍数と血圧が安定し、集中状態――いわゆるフロー――へ移行しやすくなる。これは学術的難解語を唱える行為が、脳内報酬系を穏やかに刺激し、読書そのものを瞑想的実践へと昇華させるからである。第三に、言葉を外化することで観念が一度「他者化」され、自己とテクストの間に動的な対話空間が生まれる。耳に返ってくる自分の声は、自己批評的な第三者の耳となり、論旨の曖昧さや論理の飛躍を即座に検知させる。結果として批判的読解力が鍛えられ、音韻のリズムが概念の骨格を可視化する。第四に、身体化された知の獲得という観点がある。口腔内の感触、胸郭の震え、姿勢の調整は、抽象的な学説を筋肉感覚と結びつける「身体スキーマ」を形成し、知識が単なる情報ではなく体験的理解へ転化する。こうして学術概念は、行住坐臥に浸透する実践知へと変貌する。第五に、勤行としての反復はテクストに対する敬意と謙虚さを涵養する。毎日決まった時間に声を出して読むことで、知の伝統に身を委ねる姿勢が涵養され、独我論的思考の逸脱を戒める作用を果たす。これは学術研究を自己修養の道と位置づける古典的学問観――『大学』の「格物致知」や西欧修道院での朗読習慣――とも響き合う。以上のように、学術書音読を勤行と見なすことは、認知科学的利得、身体技法としての安定効果、批判的メタ認知、身体化知識、人格陶冶という五重の効能を伴う。学理を声で震わせ、身体を経由して内奥へ沁み込ませるこの実践は、読書を単なる情報摂取から禅定的な「行」へと昇華させる方法であると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/3(木)06:15


16903. 今朝方の夢


今朝方の夢として覚えているのは、見慣れない部屋の中で中学校時代にお世話になっていた個人経営の塾の先生に「匙」と「蹉跌」の漢字を書いてみることを要求された場面である。最初は「匙」の漢字を書くことを要求され、すぐさまその漢字が思いつかなかった。しばらく考えた挙句、おそらくこういう形であっただろうと思い出しながら漢字を書き、先生に見せた。すると先生は、合っているとも間違っているとも言わず、どっちつかずの表情を浮かべた。ただ先生の表情からは、きっと間違った漢字を書いたのだろうと思い、もう一度漢字を思い出すことにした。すると先生は、今度は「蹉跌」という漢字を書くことを要求してきた。その漢字もまたすぐには思い出すことができず、しばらく考えることになった。しばらく考えていると、隣の部屋にいる小中学校時代のある友人(HO)のことが気になり、彼の様子を見にいくことにした。どうやら彼の母親か祖母がその建物の受付で何かを交渉しているらしく、それが終わるまでは彼はその部屋から出られないようだった。ちょうど私の隣にもう1人別の友人がいて、彼と私は、部屋の中で閉じ込められている友人を部屋から脱出させようとした。彼を部屋から無事に脱出させると、そう言えば迫って来ている定期試験のスケジュールが知りたくなった。自分の部屋にいつどの科目の試験があるかを一覧できるスケジュール表があり、それを参考にしてここからの勉強計画を立てていこうと思った。中学校の定期試験はしっかりと毎回勉強していたが、高校の定期試験は最初に学年で一番になって以降は手を抜くのが日常になっていて、今回の試験もそこそこに勉強すればいいかと思った。自分の中では学校の定期試験で良い成績を収めたところでそれが何になるのだろうという思いがあったので、そうした態度で定期試験に臨んでいた。とは言え、ある程度は勉強しておこうと思い、まず最初にやって来る科目が何かをちゃんと特定して勉強したいと思った。部屋に戻り、スケジュール表を探してもすぐには見つからず、2人の友人を部屋の中で待たせているのは申し訳ないと思ったので、すぐに部屋から出て建物の外に出ることにした。建物の受付を横切っていこうとした時に、受付にシュタイナー教育を提供している高校の校長先生がいるのに気づいた。以前からその高校には関心を持っていたので、校長の姿をすぐに特定できたのである。その高校は全寮制で、各生徒にトイレやお風呂が付いた個室が割り当てられ、それでいて食堂では美味しい食事が3食提供されていることが魅力だった。そして何より魅力だったのは、定期試験を含めて一切の試験がないことである。自分は自らのペースで好きなことを好きなだけ勉強したかったので、その高校の環境が大変魅力的だった。一度校長と話をし、編入ができないかを相談しようと思い、校長にそのことを伝えると、すぐに笑顔で親身になって相談を受けてくれた。誰にも邪魔されず、そして試験などの外部評価の視線が一切ないところで、自分の好きな学問分野に好きなだけ打ち込める環境は本当に理想的だった。フローニンゲン:2025/7/3(木)06:30


16904. 今朝方の夢の振り返り

  

今朝方の夢の舞台は、見慣れぬ部屋という生成途上の精神空間である。そこに現れたのは中学時代の個人塾の先生であり、外的評価を司る「試験」という制度の象徴である。その人物がまず書かせようとした漢字は「匙」であった。「匙」は食物を口に運ぶ道具であると同時に、医者が手を引く「匙を投げる」という慣用にまで通じる。すなわち養分を受け取る受動性と、見放される恐怖の両義性を孕む字である。夢の中でその形を即座に想起できなかった事実は、依存的に知識を与えられることへの抵抗と、自立を志向する意識との葛藤を語る。先生が合否を示さず曖昧な表情を浮かべたのは、外部評価が決定的価値を与えるわけではないという無言の示唆であり、評価基準そのものの空虚さを映す鏡である。続いて提示された「蹉跌」という語は、一層露骨に「挫折」を想起させる。書けないという体験は単なる知識の欠落ではなく、過去の失敗体験と向き合うことへの逡巡を表す。二文字合わせて「匙の蹉跌」と読み替えるなら、「他者から与えられる学習の糧が自我のつまずきの根にある」という逆説を示唆している。次に視線が隣室の友人HOへと移る。彼は母親か祖母による交渉が終わるまで出られない。これは「家族的価値観の交渉が決着しなければ、少年期の自己像(=友人HO)は次の段階へ進めない」という心理劇であるとChatGPTは指摘する。受付という境界領域で交渉する老成した女性像は、伝統的価値や血縁的義務の声を担う。自分ともう一人の友人が彼を脱出させる場面は、「仲間的自己」が「家族的自己」を解放し、社会的空間へ連れ出すという内的協働を描いている。友人を救い出した直後に「定期試験のスケジュール」を確認したくなる衝動が湧くが、肝心の表が見つからないという失調は、「将来設計を支える外部タイムラインの不在」すなわち、自分で決めた学習計画がないという焦燥である。中学では真面目に勉強し、高校では手を抜いても首位を保ったという回想は、「評価システムが示す頂点に立っても虚しさが残る」という経験知を再確認させる。ゆえに今回も「そこそこ」で済ませようとするが、その姿勢自体にうっすらとした罪悪感が漂う。それこそが、見つからぬスケジュール表として具体化した内的欠落である。場面が転じ、受付に立つシュタイナー教育の校長が現れる。シュタイナー学校は全寮制で試験がなく、個室と3度の食事が保障される。ここに示されるのは、自己決定的学習環境と身体的・生活的自律環境の総合像であり、外的評価を排除しながらも生存基盤が整った理想空間である。校長が笑顔で相談に応じるのは、「すでにあなたの内なる理想教育者は目覚めている」という肯定のメッセージであり、試験という枠を超えた自己啓発の道が開かれていることを知らせる。全体を貫く構造は、「評価不在の自由への渇望」と「評価に執着せざるを得ない習癖」との弁証法である。見慣れぬ部屋はその葛藤が渦巻く現在の心理的居場所であり、そこで展開される漢字テストは「意味を知らぬまま形だけを追う学習」の空虚さを示す。同時に、「匙」「蹉跌」という選ばれた語は、「与えられる知識の匙はしばしば蹉跌を招く」という象徴的警句を放つ。友人を閉じ込める家族的交渉は、古い価値観が若い自己を拘束する図式であり、それを救出する行為は仲間的協働による自己刷新の予兆である。そして最後に顕れる試験なき学校は、評価という外的まなざしから解放された「真に固有な学び」の可能性を提示し、夢の終幕で自己に笑顔を向ける。要するに、この夢は「外的評価への依存を手放し、内発的学習へと舵を切れ」という内なる声である。書けなかった漢字は、今の知識体系では捉えきれない生の難問を象徴し、先生の曖昧な表情は「正解のない問い」を示唆する。友人救出とスケジュール紛失は、旧来の計画を一度解体し、共同的に新たな道筋を探るべき段階に来ていることを告げる。シュタイナー学校の校長との邂逅は、外部の権威ではなく「自己のうちなる校長」が学びの伴走者となるべきだという合図である。評価と自由、他者と自己、受動と能動が交錯するこの夢は、試験のない学問の庭へ踏み出す決断を、今まさに求めているのである。フローニンゲン:2025/7/3(木)06:54


16905. 涼しさを感じてのトレーニング/形而上学思想の探究の再燃  

 

今日は天気予報の通り、最高気温が20度までしか上がらず、とても涼しい1日だった。午後にジムに出かけた際には、ひんやりとした爽やかな風を浴びることができた。太陽の光を浴びながら涼しい風を浴びることはとても心地が良い。今日のジムでの筋力トレーニングは、非常に充実したもので、トレーニングの最中の集中力はすこぶる高く、インターバルの瞑想的な意識状態の維持も順調であった。自宅では学術研究に没頭していることもあり、こうして存分に体を動かし、思考が入らない時間を設けることはとても有意義であると感じる。体を存分に動かせば、その最中や休憩中は雑念が浮かんでこない。この状態を研ぎ澄ませていけば、四六時中禅定状態に入れるかもしれない。そうした境地を目標にしながら、自宅での学術研究とジムでのトレーニングを並列させていく。


量子論哲学の探究を日々着実に進めていると、天才的な量子物理学者たちがそれぞれ異なる形而上学的思想を持っている点が大変興味深く、彼らの議論が割れている点も非常に興味深い。彼らの紛糾した議論を収束させる統合的な形而上学思想の探究に目下力を注いでいる。いつの日かより真理に近い包括的な形而上学思想を構築できたらと思う。そのためには量子論哲学の探究と合わせて、仏教の形而上学思想と西洋哲学の形而上学思想も地道に探究していく。手元にある形而上学に関する専門書を少し引っ張り出してきて、近々それらに目を通していきたい。その時にも他の専門書の読解と同様に、音読を通じて身体知化させながら読解をしていく。最近は音読が習慣化となっている。夜に寝る前に唯識関係の和書を読むときだけ黙読だが、それ以外は基本的にずっと音読している。とりわけ英語の書籍に関しては必ず音読をしている。この習慣も継続させていき、自分の知性がここからどれくらい開いていくのかを楽しみにしたい。フローニンゲン:2025/7/3(木)16:43


Today’s Letter

My academic expertise will focus on the Japanese Hossō Yogācāra school and the metaphysics of quantum theory. My daily studies will undoubtedly lead me to realize this goal. Groningen, 07/03/2025

 
 
 

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