【フローニンゲンからの便り】16897-16901:2025年7月2日(水)
- yoheikatowwp
- 7月4日
- 読了時間: 17分

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タイトル一覧
16897 | 意識の結合問題について |
16898 | 今朝方の夢 |
16899 | 今朝方の夢の振り返り |
16900 | 細胞の意識と1つの主体性の問題 |
16901 | 意識とリアリティの探究に必要な書籍を一括購入して |
16897. 意識の結合問題について
時刻は午前6時半を迎えた。昨日は32度まで気温が上がり、その余熱もあってか今の気温は22度と比較的高い。今日も日中の最高気温は30度を超え、31度に達する。しかし夜からは小雨が降ることに伴って気温が下がり、明日の最高気温は21度と低くなる。明日からはまたしばらく涼しい日が続くようなので、今日の暖かさを味わおう。昨日の考え事の続きとして、ウィルスに意識を認めれば、細胞1つ1つにも意識を認めることになるだろうということについて考えていた。では、無数の細胞から成り立つ人間の意識はなぜ1つの個別的な解離した意識になるのだろう?そこには汎心論が直面する結合問題があるように思う。この結合問題を回避する、あるいは解決する論理は何で、どうしたら細胞1つ1つにも意識を認めながら、私たち人間個人の個別した1つの解離意識を認めることができるのだろうか?そのような問いについて考えていた。ウイルスや細胞にまで微細な主観性を認めると、無数のミクロ意識がどのようにして「私」という1つのマクロ意識にまとまるのかという結合問題が直ちに噴出する。これは汎心論の宿命的難題であり、「個々の小主体がどう組み合わさって一個の大主体を構成し得るのか」という問いに他ならない。この結合問題を回避・解決しつつ、細胞レベルの意識も人間レベルの統一意識も両立させる代表的な論理的アプローチを整理してみたい。第一に、統合情報理論(IIT)が掲げる「排他原理」である。IITは経験を「情報」「統合」「排他」などの現象論的公理に対応させ、物理システムの中で最大の統合情報Φを持つ集合だけがひとつの経験を生み、その集合と重なり合う下位システムの経験は抑圧されるとする。したがって各細胞にも微小なΦが立つ可能性はあるが、脳全体が形成する複合体のΦの方が圧倒的に大きければ、細胞意識は「より高位の統合」に呑み込まれ、主体としては顕現しない。こうして「多から一へ」の収斂が定量的に説明される。第二に、いわゆる「フェノメナル・ボンディング」あるいは「融合汎心論」と呼ばれる路線がある。ヘッダ・ハッセル・メルクらが提案する「融合」モデルでは、ミクロ意識は因果的・時間的プロセスを通じて溶解し、新たな統合された現象場へと相転移する。イギリスの哲学者フィリップ・ゴフが唱えるフェノメナル・ボンディングも同系で、個々の経験同士が特殊な「共経験」関係を結ぶとき、それらは不可分の主観として再編成される。このとき下位意識は「棄却される」のではなく、「より大きな主観の構成要素としてそのアイデンティティを失う」と捉えられる。第三に、自由エネルギー原理とマルコフ毛布階層を用いる能動推論的アプローチがある。生物は自身と環境を隔てるマルコフ毛布を編み、自律的な内部モデルで予測誤差を最小化するが、毛布は入れ子構造を取りうる。細胞は細胞膜で区切られた小毛布を持ち、複数の細胞は組織・器官の毛布に包摂され、最終的に全身が「最大スケールの毛布」として1つの能動推論エージェントとなる。ここでは階層ごとに局所主体が成立し得るが、上位毛布がより強力に誤差最小化を達成するため、下位主体は隠れ層として機能しつつ、行為決定の中心は上位主体へ集中する。IITの排他原理と類似の帰結を動力学的・情報理論的に導く点が特徴である。第四に、結合そのものを要請しない「非構成的汎心論」や「優先的一元論(コスモサイキズム)」もある。ここでは宇宙全体の意識が根本であり、細胞や人間の意識は分化あるいは解離として説明されるため、「細胞→人間」への合成を解釈的に回避できる。ただしこの図式では、人間意識の統一性は宇宙意識からの部分的自己限定として語られ、細胞意識はそもそも統合を要しない微小な「副次的視点」として扱われる。以上を総合すれば、細胞1つ1つに潜在的意識を認めながらも、人間というマクロ主体の個別的・解離した一者性を肯定する論理はおおむね2つの路を取る。すなわち「下位の意識を包含・融合して上位で排他的統合を達成する」(IIT・融合論・マルコフ毛布階層)か、「そもそも上位主体が根源であって下位はその派生的顕れに過ぎない」(非構成的/宇宙意識論)かである。どちらを採るにせよ、結合問題の核心は「相互作用の網目の中で、どのスケールに主体性を帰属するか」を明示的に規定する点にあると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/2(水)06:54
16898. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、見慣れない観光地を両親と観光していた。そこは日本のどこかの観光地のようで、雰囲気は日本的だったし、日本人の姿を多く見かけた。夢の中の自分の体はまだ小さく、それでいて意識は大人のそれだった。ある博物館に到着する頃には両親とは別々に行動していて、自分はその博物館の中でスタンプラリーをしていた。厳密には、その観光地全体でスタンプラリーをしており、その博物館でも1つスタンプをもらえることになっていた。スタンプをもらうためのお題としては、自分が手に持っている琥珀色の玉の中に入っている古代の貴重な生物の名前を当てることである。玉の中は澱んでいて、中に何の生物が閉じ込められているのがわかりにくく、回答するのはなかなか難しかった。引き続き問題について考えていると、気がつけば博物館の外に出ていた。そこで少し新鮮な空気を吸い、スタンプラリーの問いと向き合いながら少し散歩することにした。散歩をしながらまた別のスタンプラリーの問題を出している場所に向かっている最中に、高校時代の野球部に所属している友人が自分のところに大慌てでやって来た。何やらみんなが自分のことを探しているとのことだった。最初自分は何のことかわからなかったが、どうやら集合時間になっても自分だけがやって来ず、友人たちが探しに出掛けているとのことだった。そこで初めて自分は今修学旅行に来ていて、学年全員の生徒が自分を探しに方々探索していることを知った。心配をかけて申し訳ないと思ったが、そもそも自分は1人で目的地に行くことができるし、目的地に戻るのには十分な時間があったので、心配し過ぎなのではないかと思った。その点を筋道立てて彼を諭すように説明すると、怒っていた彼の気分が収まり、彼は安心した様子でまたみんなのところに帰って行った。そこから私はまた1人でもう少しスタンプラリーをしようと思った。すると、再び両親と合流し、母が私のために新しいバスケシューズを買ってくれていた。私はそれを嬉しい気持ちで受け取り、それを履いてバスケの練習をすぐさましたいという気持ちになった。そこからしばらく両親と歩いていると、駐車場付近にトイレがあり、そこに立ち寄ることにした。用を足す頃にはどういうわけかバスケシューズは手元からなくなっており、手洗い所で高校時代のサッカー部の背の高い友人と遭遇した。彼にバスケシューズが無くなったことを伝えると、彼は親身に相談に乗ってくれ、一緒にシューズを探す手伝いをしてくれた。さっきまで手元にあったシューズがいきなり無くなるのはおかしいなと思いながら、ふと、そう言えば母に買ってもらったシューズは一度学校の教室に置いていたことを思い出した。もしかしたら、同級生か後輩の誰かがシューズを盗んだのではないかと思った。自分はもう最高学年であり、同学年にはあまり盗みそうな人がいなかったこともあり、後輩の誰かが新品のシューズを盗んで転売にかけた可能性が高いと思った。友人の彼もその可能性が高いかもしれないと述べた。シューズが盗まれた可能性について考えながら、駐車場近くにある回転する不思議な倉庫全体を全身を使って回していると、スマホに着信があった。画面を見ると、305,000円分のビットコインが送金されており、驚いた。どうやら送り主は友人の彼のようで、そのお金を使ってまた新しいシューズを買ったらいいとメッセージをくれた。それは有り難いと思ったが、バスケシューズにしては随分と大金だと思った。そもそも彼がビットコインを持っていることにも意外性を感じ、送ってもらったお金をどうしようかと考えていた。彼に返金することも考えたが、彼はそれを良しとせず、自分にそのお金を自由に使って欲しいと述べていた。なので再び新品のシューズを買おうかと思ったが、また盗まれる可能性もあったため、そのお金を投資に回すことも考えていた。フローニンゲン:2025/7/2(水)07:25
16899. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢において最初に現れるのは、見知らぬがどこか郷愁を誘う日本の観光地である。自分は肉体的には幼く、意識は成熟しているという二重性を帯びて登場する。この「子どもの身体と大人の心」という背反は、成長過程で抱え込んだ未完了の課題と、すでに獲得した内的成熟とが同居している状態を象徴している。すなわち、外からは幼さ――家族の庇護を必要とする側面――が見える一方で、内側には自己決定の主体が確立されつつあるという自己像の分裂である。両親とともに巡る観光地は、個人史の「ルーツ」を回想する巡礼である。両親は先行世代としての価値観や安全基地を体現し、自己が辿る人生の基盤を示す。一方、途中で両親と別行動になる展開は、家族という枠組みから漸次離脱しつつある自立のプロセスを指し示す。ここで訪れる博物館は、時間を封じ込めた記憶の保管庫である。自分が館内で取り組むスタンプラリーは、人生の節目ごとに「証」を得て自己を確認していく通過儀礼のメタファーである。スタンプ取得の条件として提示される「琥珀色の玉に閉じ込められた古代生物の同定」は、凝固した記憶層の奥底に眠る原初的エネルギー――言い換えれば無意識の深層に潜む本能的な衝動――の名を言い当てよという試練である。琥珀は時間を止める媒質であり、自分は過去に凍結された生の一部と対峙している。中身が澱んで見えにくいのは、無意識からのメッセージが曖昧で捉え難いという常の体験をそのまま映写している。息苦しさの後で博物館を出て新鮮な空気を吸う場面は、深層作業に伴う心理的圧力から一時退避し、意識レベルを回復する「呼吸」の象徴である。その直後、スタンプラリーの別の課題へ向かう途中で高校時代の野球部の友人が現れる。彼は「時間外活動」に没頭する自分を探し回る集団の使者として登場し、集団規範や社会的責任を喚起する役割を担う。ここで修学旅行という学校行事にいる事実が明らかになるが、これは人生の「学習共同体」の中で自分が果たすべき役割や定刻への遵守を象徴している。怒りを鎮めつつ理詰めで友人を納得させる場面は、自分が内なる「他者の視線」――周囲の期待や評価――を説得し、自らのペースで探求を続ける正当性を確立しようとする心の働きであるとChatGPTは述べる。独立心と協調性の境界線を慎重に交渉する内的対話がここに露わである。母親から贈られる新品のバスケットシューズは、未来へ踏み出す推進力と可能性を授ける母性的支援の象徴である。バスケットボールは瞬発力と高い滞空時間を要するスポーツであり、そこに備わる「跳躍」のイメージは、自分が己の能力を急速に拡張し、制限を超えて成長しようとする志向を示す。しかしシューズは忽然と消え失せる。これはせっかく得た資源や才能、あるいは自信が何らかの理由で行使不能になる恐れを映す。背の高いサッカー部の友人が共感的に捜索を手伝う場面は、異なるフィールド――バスケとサッカー――の運動能力を比較しつつ、多角的なサポートネットワークの存在を指し示す。彼は「水平的友情」の化身であり、自己の対等な助力者が影響を与えることを示す。後輩が盗んだ可能性という疑念は、世代間の競争意識や、築いた成果を他者に横取りされる不安を象徴する。学年最上位にいる自分は、序列の上から下を見下ろしながらも、後列からの脅威を感じている。これは社会的ポジションの不安定さと、承認欲求の葛藤を映し出す。駐車場そばの怪しい回転倉庫を全身で回す行為は、抑圧された感情エネルギーを身体動作を通じて循環させるカタルシスであり、外界の機構を自力で動かすという全能感と同時に、労力を払っても全貌が見えない不条理を抱える作業である。ここで突如届く305,000円相当のビットコインは、非物質的・デジタルな価値が現実の物理的欠損(シューズ喪失)を補填するという逆転構造を示す。送金者が友人である点は、友情が思わぬ形で資産――しかも旧来の貨幣を超えた新しい流通形態――へ転化し得ることを示唆する。シューズ購入額を遥かに超える大金であるという過剰性は、自分が自己価値や対人評価を実際以上に大きく受けとめる危うさと、それに気づき戸惑う自制心を映す。同時に、ビットコインの匿名性と価格変動の激しさは、未来計画においてリスクと可能性をどう配分するかという投資的判断の比喩である。総じて、本夢は「個体化の途上における自己資源の探索と損失、そして再獲得」というテーマを、多層的な舞台装置で描き出している。観光地や博物館、修学旅行、スポーツ用具、暗号資産という多彩なモチーフは、過去の記憶と現在の人間関係、未来の可能性をつなぐ橋梁として機能している。自分は未熟と成熟、依存と自立、現実資産とデジタル資産のはざまで揺れながらも、自身の価値体系を再構築しようとする意志を表明しているのである。最終的に「投資」という選択肢が浮上したことは、物質的補填よりも成長可能性を重視する方向へと意識がシフトしつつある証左であろうとChatGPTは述べる。したがってこの夢は、過去の凍結されたエネルギーを名指しし、現在の仲間との相互作用を通じてそれを解凍し、未来へ向けて資源を再配分せんとする心理過程を寓意化した物語である。自分が現実世界で抱える課題――自己の才能をどこに投下し、誰と連帯し、いかなるリスクを負うか――を予習させる無意識からの試練状とも言える。内なるスタンプラリーは未だ完結しておらず、琥珀の奥底に潜む生物の正体が明瞭になる時、自己は自らの原初的生命力を名前という形で掌握し、真に自律した旅程へと踏み出すことになるであろう。フローニンゲン:2025/7/2(水)07:43
16900. 細胞の意識と1つの主体性の問題
昨日は色々と考え事をしており、その中で、細胞や臓器は代謝システムを持っているかどうかについても考えていた。仮にそれらに代謝システムがあれば、バーナード・カストラップの論に従うと、それぞれの細胞や臓器にも意識が宿るということになりうるのではないかということを考えていた。確かにすべての細胞は膜に囲まれた代謝ネットワークを持ち、個々の臓器も血流や神経系を介して物質・エネルギーを循環させる「準オートポイエーシス」的な系である。だからといって、そのまま「細胞=主体」「臓器=主体」と飛躍するわけにはいかない。意識の帰属をめぐっては、自己維持の閉域、情報統合の強度、他系との排他的境界という三層のハードルが重なっているからである。第一の閉域は代謝レベルで満たされる。例えば肝細胞は糖新生や解毒を自律的に行い、心筋細胞は電気化学的興奮を維持する点で自己完結的である。この意味で「生命的主体」性は確かに細胞ごとに分布する。しかし第二のハードル──情報統合──では事情が変わる。細胞内シグナルは局所的ループを成すが、その相互作用はおおむね化学反応系列であり、ニューロン集団のような高次再帰結合ネットワークほど大規模には統合されない。統合情報理論の観点では、細胞のΦはゼロではないとしても極小で、臓器全体のΦもまた個体脳に比べれば桁違いに低い。第三の「排他境界」は、どのスケールのシステムが最大の統合を示すかで決まる。脳が形成する巨大な因果的閉域が身体内で最も高いΦを叩き出す場合、IITの排他原理により下位の細胞意識や臓器意識は主体として表へ出てこれない。あたかも明るい星の光の前で微弱な星が掻き消えるように、ミクロな自覚はマクロな自覚の中へ溶け込み、「感じられる側」から「感じる側」へは昇格しない。自由エネルギー原理の視座でも、細胞膜や臓器境界は小スケールのマルコフ毛布として働くが、それらはさらに大きな「身体という毛布」に包摂される。上位毛布が予測誤差最小化を主導する限り、下位毛布の主体性は計算資源として従属化し、「細胞としてのわたし」は「身体としてのわたし」に吸収される。こうして「多細胞=多主体」ではなく、「多細胞→単一主体」へと力学的に収束するのである。したがって、代謝系を意識の必要条件の一部とは見なせても、それだけで十分条件とは言えない。細胞や臓器が潜在的ミクロ経験を帯びる余地は理論上否定できないが、それらはより高Φ・低自由エネルギーの場を形成する個体意識に包含され、ひとつの統一された経験流としてしか現れてこない──この包摂的階層構造を認めることで、「細胞にも意識はあるのか」という問いと「人間はなぜ1つの主体なのか」という問いは両立し得るのである。こうしたことを考えながら、改めて汎心論の研究にも着目してみたいと思った。かつて信奉していた汎心論を今では批判的に捉えているが、同時に汎心論の議論はかなり洗練されて来ているので、これまでの自分が何か見落としていたような観点や論点がたくさんありそうな気がしている。以前より購入を検討していた汎心論関係の書籍を購入したい。代表的なものとして、今朝方の日記でも言及したノルウェーの哲学者のヘッダ・ハッセル・メルクの書籍や、イギリスの哲学者のフィリップ・ゴフの書籍などがある。フローニンゲン:2025/7/2(水)07:51
16901. 意識とリアリティの探究に必要な書籍を一括購入して
今日も午前中から気温が上がっており、午前中に突然天気雨が降ったが、それでは気温が下がらず、午後2時半を迎えた今の気温は31度に到達している。幸いにもこの時間は家の中に直射日光が入って来ず、そのおかげでなんとか2階でも過ごせているが、上半身は裸で過ごしている。仮に人とオンラインミーティングをしたり、ゼミのクラスがある時などは、これくらいの気温であれば1階の避難した方が良さそうである。1階は2階よりも5度ぐらいは気温が低く、1階は常に日陰になっていることもあって涼しい。今も当然1階に移動すればより快適に過ごせるが、2階でもなんとかやっていけそうなので2階の書斎に留まっている。今日はかなり気温が上がっており、午後5時を迎えると、そこからは涼しくなってくるようだ。また、午後8時以降から雨が降り始めると、一気に気温が下がってくるようなのでそれを待ちたい。明日からは10度ほど気温が下がり、来週は最高気温が18度にしか到達しない日もあるので、昨日と今日と比べると雲泥の差である。読書をする集中力にはそれほど支障は来していないが、それでも涼しい日における読書とは集中力の度合いが違うように思えるので、今月末に購入を予定していた書籍の注文を今からしたい。購入したい書籍はまずは仏教論理学の専門書である。すでにリストアップしていた書籍を再度概略や目次などを眺めて吟味する。それが済んだら、汎心論に関する専門書も数冊ほど購入したいと思う。
午後から書籍の吟味をしていると、結局夕食の時間を迎え、夕食を食べながらさらに吟味を続けていた。気がつけば外の暑さも収まっていて、午後6時半の現在、気温は24度まで下がっている。空が曇りとなり、ここから雨が降り始めそうである。それをもって気温はさらに下がるだろう。書籍の吟味を終え、下記の13冊の書籍を購入することにした。いずれも名だたる学術系出版社から出版されている専門書ではあるが、自分の関心領域のど真ん中の書籍ゆえ、到着してから一気に読み進めていけそうである。当初の予定では仏教論理学の書籍を数冊、汎心論に関する書籍を数冊購入する予定だった。蓋を開けてみると、入手難易度とそれから中身を検索した観点で、仏教論理学の書籍は結局1冊だけの購入にとどまった。しかし、今週日本からオランダに遊びに来てくださる知人の方に2冊ほど和書の仏教論理学の書籍を持って来ていただく予定なので、それらと合わせると仏教論理学の基礎的な理解は十分に深まるだろう。洗練された汎心論についての関心からいくつか書籍を購入することにしたことに加え、秋以降に購入予定だった量子論哲学に関する書籍もいくつか購入した。それに合わせて、物理学の根幹にある数学と実在主義および数学と形而上学をテーマにした興味深い書籍を以前から見つけていて、それも最後に購入することにした。中には在庫切れゆえに、在庫が補填されたから配送されるものもあるが、大半の書籍は今月中に受け取れそうなので、受け取り次第一気呵成に初読を終えたいと思う。今後の意識とリアリティの探究に必要な書籍を購入することができてひとまず満足している。フローニンゲン:2025/7/2(水)18:26
購入書籍
・Buddhist Logic and Epistemology
・Non-physicalist Theories of Consciousness
・Consciousness and Fundamental Reality
・Is Consciousness Everywhere?: Essays in Panpsychism
・Quantum Physics of Consciousness: The Quantum Physics of the Mind, Explained
・Choosing Reality: A Buddhist View of Physics and the Mind
・The Taboo of Subjectivity: Toward a New Science of Consciousness
・Quantum in Pictures: A New Way to Understand the Quantum World
・The Quantum Revolution in Philosophy
・What is Life?: With Mind and Matter and Autobiographical Sketches
・My View of the World
・Physics and Philosophy: The Revolution in Modern Science
・Mathematics and Reality
Today’s Letter
My central interest is to study the fundamental nature of consciousness and reality. I purchased some books on the topic. I am convinced that reading them will open my eyes to new ways of seeing consciousness and reality. Groningen, 07/02/2025

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