【フローニンゲンからの便り】16890-16896:2025年7月1日(火)
- yoheikatowwp
- 7月3日
- 読了時間: 19分

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タイトル一覧
16890 | リアリティと幻想の境界線 |
16891 | 今朝方の夢 |
16892 | 今朝方の夢の振り返り |
16893 | イデアと空 |
16894 | イデアと空(補足) |
16895 | 意識をウイルスに帰属できるかの問題 |
16896 | 意識が宿る存在の特徴 |
16890. リアリティと幻想の境界線
時刻は午前6時半を迎えた。今、燦然と輝く朝日を眺めている。その輝きは美しく、地上の生命に活力を与えている。今の気温は16度と涼しく、換気のために2階の両側の窓を開けていると、ひんやりとした風がほのかに流れ込んでくる。今日はここから徐々に気温が上がっていき、日中の最高気温は32度に達するらしい。それは完全に真夏日の気温である。7月を迎えて今年初めて30度を超えた気温になる。ここまでの最高気温は30度だったので、それを更新する形である。明日もまた今日の暑さの予熱を受けて29度まで気温上がるようだが、明後日は再び19度までしか気温が上がらない状態となる。こうして10度の気温差が生まれる日がこれまでにも何度もあった。明後日からは嘘のように涼しくなり、来週の水曜日に関しては、なんと最高気温が17度にしか到達せず、肌寒い気温となるようだ。書斎での学術研究は、間違いなく涼しい環境の方が捗るので、引き続き涼しさを感じられる気候が維持されることを祈る。
今朝方、リアリティと幻想の境界線、そしてそれぞれの度合いについて考えていた。日々仏教思想と量子論哲学を探究していると、自分の中でのリアリティと幻想の境界線が変化していき、リアルな度合いと幻想の度合いも刻々と変化しているかのようである。それは目覚めのプロセスでもある。全てが縁起によって生じる仮有な存在であり、その真理は勝義諦として存在している。その教えが自らの中により色濃く薫習されていき、世界の見え方が変わってくる。そこには自他の存在の捉え方も含まれている。自己の執着に気づき、それが少しずつではあるが着実に手放されていくのを実感している。仏教思想と量子論哲学を交互に日々継続して学習していくことの思わぬ恩恵を受けている。実際のところは、そうした解放を仏教は目的としていることもあり、何ら不思議なことではない。ただし、仏教を自らの存在や体験と照らし合わせて、信心深く探究することなしには、そうした恩恵は得られないのではないかと思う。単にそれを哲学思想としてだけ捉えていると、そうした解放的効能はもたらされないだろう。仏教は元来、奥深い宗教的規範意識を持つものであり、仏道を歩むというのはそうした宗教的規範に則りながら自己を省みることを要求する。単なる知的理解では到達できない教えと効能がそこには秘められている。今存在をかけて仏教と向き合うことを通じて、少しずつ未だかつて見ない深甚な教えと多大なる効能が開示されつつある。フローニンゲン:2025/7/1(火)06:48
16891. 今朝方の夢
今朝方は夢の中で、母校の大学のキャンパスの中にいた場面があったのを覚えている。そこは確かに母校のはずなのだが、見慣れない雰囲気になっていて、自分は大学の寮で生活をしていた。昼食時となったので、寮の大食堂に行ったところ、すでに随分と学生で賑わっていた。そんな中、日本食を注文できるコーナーで、壁からぶら下がっている湯呑みを取り、温かい緑茶を飲もうと思った。すると、小中学校時代のある友人(TM)と偶然出会い、彼はうちの大学の生徒ではないが、どうやら弟と祖父と一緒に大学見学がてら立ち寄ったとのことことだった。彼が指差す方向に座っていた彼の祖父と弟に会釈をして挨拶をし、一緒に昼食を食べようと思ったが、突然夜の時間になっていた。夕食は、ある名門私立大学に通っていた友人の女性が主催者となって開催されるパーティーに参加することになっていた。彼女以外は基本的に自分と同じ大学に通っている同学年の学生が多く、数人ほど一学年下の学生も参加していた。男女比は半々ぐらいであり、全員が同じ大学に通っているということもあって、授業や就活の話を含め、共通の話題で盛り上がる会となった。自分は会の中で、近くに座っていた一学年下の女性と仲良くなり、パーティーの翌日も大学のカフェで続きの話をすることになった。
次に覚えている夢は、アメリカの大学の博士課程に所属している場面である。最初私は、休日にどこか遠くの大学キャンパスの見学に出かけようと思っていた。息抜きとして別の大学に訪れ、そこの図書館で研究や勉強をしようと思っていたのである。最寄駅に到着すると、特にどの大学に行きたいかは決めていなかったこともあり、どの路線に乗るかを迷った。そこはとても大きな駅で、かなりの数の路線があったのである。チケットを購入する前に電光掲示板を眺めて行き先を考えていると、突然電光掲示板にサッカーの試合が映し出された。どうやら今重要な試合が行われているらしく、その様子を電光掲示板越しに眺めていると、自分の意識がスタジアムに移動した。しかも、ちょうど決まったゴールシーンを再度眺めるかのように、ペナルティーエリアの上空に設置されたビデオカメラのように意識がゴールシーンを改めて眺めていた。そこでハッとすると、気づけば通っている大学のカフェの屋外のテーブルに腰掛けて、2人の女性の博士課程の友人と話をしていた。彼女たちもある程度の年齢になってから博士課程に進学したこともあり、年も近く、よく話し合う仲だった。自分がどんどんと研究を進めている様子を見て、彼女たちからどのように研究を進めているのかを尋ねられた。私はその質問に対して、嬉々とした表情を浮かべて流暢な英語で回答した。すると、彼女たちにアハ体験が起こったようで、そこから彼女たちの研究がさらに加速されることを確信し、こちらも嬉しくなった。
最後にもう1つ覚えているのは、小中学校時代のある親友(HS)が海外の大学院に進学しながらも、そこで苦戦して学位を取得した話を聞いていた場面である。彼は海外の大学院で無事に修士号と博士号を取得できたのだが、修士時代に最も苦労したらしかった。何から彼は、コースで課せられる課題を最初のうちは全くこなしておらず、単位が取れないことがあったらしかった。彼はどういうわけか、課題は義務ではなく、取り組みたい人だけが取り組めばいいと思っていたらしかった。そももそも彼の入学時の英語力はIELTSで5.0点ほどで、確かにその点数だと留学生活では色々と英語面で不便が生じるだろうと思った。少なくとも6.5点はないと留学生活を楽しめないだろうというのが自分の考えだった。8.0点の自分であっても苦労する時は苦労するので、そう考えると尚更彼の苦労が身に沁みた。しかし彼はそうした逆境を跳ね除けて、無事に博士号を取得したのは立派としか言いようがなかった。自分もここから再度大学院に進学しようと考えているだけあって、彼の話は興味深く聞くことができた。フローニンゲン:2025/7/1(火)07:10
16892. 今朝方の夢の振り返り
今朝方の夢の舞台は、終始「学び」という磁場に貫かれていた。最初の場面に現れた母校のキャンパスは、確かに懐かしいはずなのに見慣れぬ装いをまとい、あたかも記憶の中で熟成された別世界の〈原風景〉として再構築されていた。そこへ寮生活という設定が重ねられたことは、既に卒業したはずの場所に「再入学」し、自己の原点をあらためて掘り返そうとする無意識の欲望を示唆する。壁からぶら下がる湯呑みを取って緑茶を啜ろうとする所作は、日本的伝統への回帰であり、学術的知の源泉を身体的な温かさへと転換する儀式であった。そこで遭遇する小中学校時代の友人とその家族は、自我の時間軸を幼年期まで巻き戻す装置の役目を担い、かつての自己と現在の自己を同じキャンパスに同座させる。友人が見学に来ただけで学生ではないという設定は、過去との邂逅が一時的な来訪者にすぎず、主体はあくまでも現行の自己にあることを強調する。昼食のざわめきが夜の静寂へと瞬時に転じる不可解な跳躍は、顕在意識の時間律を解除し、夢という内的劇場の照明を次の幕へと切り替える照明効果である。夜のパーティーは、名門私立出身の女性という“異文化の媒介者”を前に、同学年・同大学の仲間が等身大の鏡像として現れる場である。そこでは共通言語としての就職活動や授業が語られ、自己は集団の中心に溶け込みながらも、年下の女性との新たな対話を得て未来志向のエネルギーを充填する。次章では、舞台はアメリカの博士課程へ飛躍する。巨大なターミナル駅で複数の路線を前に逡巡する場面は、学術的キャリアの岐路を象徴し、進路選択の自由と伴走する迷いを示す。行き先を決めないまま電光掲示板を睨む姿は、外部的指標に解を求める葛藤である。そこに突然映し出されるサッカーのゴールシーンは、“目標(goal)”という語の二重性を活写し、勝敗が顕示される競技空間を自らの研究競争に重ねている。意識がスタジアムの上空カメラへ瞬間移動するのは、自己を俯瞰的に点検するメタ認知の昂揚であり、ペナルティエリア上空という位置取りは「失敗すれば失点となる臨界点」を見下ろす覚悟を反映する。そこからいきなり大学カフェへ戻り、女性の博士課程仲間に研究方法を語る場面は、目標観測の後に協働と助言へ降り立つ英雄譚の帰還段階である。彼女たちに“アハ体験”をもたらし、研究加速を確信する瞬間、自己は単なる学徒から指導者へと立場を転換し、知の循環を媒介する存在へ昇格する。最後に登場する親友HSの海外大学院での苦闘は、語り手自身が近未来に直面し得る困難の予行演習である。IELTS5.0という数値化された英語力は、自己が擁する8.0という数値との比較によって、努力のコストと成果の境界を浮き彫りにする。課題を義務ではないと誤解したという逸話は、「学びは自発性によってのみ真価を発揮する」という警句として働く。最終的に博士号を勝ち取った友人の姿は、逆境跳躍のロールモデルとなり、自己が次なる進学を志す際の精神的支柱となる。全体を通じ、夢は〈過去―現在―未来〉の時間軸を折り畳み、高等教育という共通舞台に人物を配置し直すことで、学びの再定義を試みている。昼と夜、駅とスタジアム、キャンパスとカフェという異なる場面転換は、「境界をまたぎ続ける流動的自己」を映し出し、同時に他者との出会いを鏡として自我を研磨するプロセスを示す。緑茶の温もり、ゴールの歓喜、英語での助言、数値化された試験スコア——これらの細部はすべて、知の追求に伴う感情の温度と評価の物差しを可視化する象徴群である。したがって本夢は、過去の学びを再訪しつつ、現在の成果を点検し、未来の挑戦を試算する「学術的セルフポートレート」であり、自己に対し「次のゴールは何か」を問い掛ける内的シンポジウムであったと言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/1(火)07:31
16893. イデアと空
理論物理学者のカルロ・ロヴェッリが対談動画の中で、若かりし頃に10回かそこから高服用量のサイケデリクスを摂取したことがある体験について語っており、その話を興味深く聞いていた。そこから、プラトンのイデア論と龍樹の空の思想を絡めて少し考察をしていた。両者はともに現象世界の背後にある根源的構造を明らかにしようとする試みである。しかし両者の前提と帰結には決定的な相違がある。まずイデア論は、可感世界に散乱する多と変化を統御する「永遠不変の範型」を措定する。イデアは自己同一性を保ち、「あるものが何であるか」を成立させる究極根拠であり、事物はイデアを分有(メテクシス)することでその事物たり得る。ここには「形相的実在」が終極の錨として置かれ、認識と存在が一致する場としてイデア界が上位に屹立する。一方、龍樹の空は「独自の自性が実在しない」という否定的定義を徹底させ、あらゆる存在を縁起のネットワークのうちに仮設された「仮有」として捉える。空そのものは対象化できる実体ではなく、むしろ「固定した実体概念を排除する視座」として機能する。したがってイデア論が形相の絶対性を主張するのに対し、空は「絶対的な形相性そのものを否定する絶対性」を帯びる。とはいえ両者は、感覚的経験の背後に「より深い秩序」を示唆する点で響き合う。イデアが可見世界を解釈する鍵であるように、空もまた現象を執着なく透視する洞察の鍵である。両者とも、単なる経験主義を超えた「超感覚的・超論理的な気づき」を通じて世界が再編成される契機を準備する。しかしその方法論は対照的である。プラトンは抽象的観照(ノエーシス)によりイデア界へ上昇し、真なる存在を「想起」する。同時に国家論に見られるように、イデアを政治的・倫理的秩序の規範として据える。一方、龍樹は二諦説を手がかりに、言語・概念の操作自体を空として相対化し、最終的には概念を手放す中道によって解脱を目指す。イデア論が「究極の肯定」によって形相の現前を確立するのに対し、空は「究極の否定」を通じていかなる形相へも固着しない自由を開く。また、救済論的意図にも差異がある。イデア観照は魂を感覚界の束縛から脱し、理性の光へ照応させる「上昇」の運動であるが、それでもイデアは肯定的に「目指すべき高み」に置かれる。対照的に竜樹は、無自性を悟ることで執着を解体し、あくまで「この世に止まりつつ苦を超える」という下向の慈悲を強調する。結果として前者はヒエラルキー的超越、後者は相依性の平等性を志向する。最後に、自分が考えている「空の場にイデアが仮有として立ち現れる」という包摂的把握は、両者の緊張関係に創造的余地を与える視点である。すなわちイデアを「絶対実在」ではなく「空という開かれのうちに条件的に顕現する秩序」と見るなら、イデアは自性をもたぬがゆえにこそ有効性を保つ動的範型となる。こうした読み替えは、実在論と非実在論を「否定‐肯定」の二項対立としてではなく、「空‐仮有」という流動的構造の中で再統合する可能性を示唆すると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/1(火)09:11
16894. イデアと空(補足)
朝の散歩の前に、先ほど考えていたことの続きの考察を書き留めておきたい。それはちょうどゼミのある受講生の方がシステム上にとある投稿をしてくださったことに関係する。その方は、唯識の探究をきっかけにプラトン研究に向かわれ、かくいう自分も、量子論哲学を本格的に探究しようと思ったのは間違いなく唯識がきっかけになっているゆえに、そうした関心・探究の広がりを喜んだ。その方に作っていただいた勝義諦とイデアの比較資料を読みながら、改めて考えを巡らせていた。かつて批判的実在論や思弁的実在論の探究に精を出しており、そこからしばらくして仏教思想に邂逅した。そこでは、仏教思想が厳格に非実在論的立場を取っていることに驚きを受けたのと同時に、これまで実在論を信奉していた側面が多分にあった自分にとっては思想的な折り合いがなかなかうまくいかなかったことは確かである。「仏教思想」と大雑把に括ったが、龍樹の中観思想はかなり厳格に非実在論の立場を取っている一方で、唯識は通称「有の形而上学」とも言われるように、仮有として世俗諦の諸現象の存在を認める立場を取っている。そうした思考の整理はできていながらも、自分がいざ生粋の実在論的数学者や実在論的物理学者を前にしたときに、彼らが研究対象として扱う数学対象や物理現象の非実在性を主張するのは相当に骨が折れるだろうなという課題感があった。龍樹が説くような厳しい空の思想は、空体験や悟り体験がないとなかなか理解してもらえないであろうから、生粋の実在論的数学者や実在論的物理学者を前にしたときには、唯識的な仮有の形而上学的発想を持って、彼らが研究対象としている事柄も諸縁や人間の心を通じて立ち現れる存在としてそれを認めるような姿勢を持つのが良いのかもしれないなと思いつつ、生粋の実在論者は厳しく実在論者なので、人間の心や観察とは無関係に数学的対象や物理現象は実在すると主張するであろうから、彼らとの対話は難航を極めそうだと想像される。イデア論が「形相の絶対性」を主張するのに対し、空は「絶対的な形相性そのものを否定する絶対性」を帯びると言えるかと思う。とはいえ両者は、感覚的経験の背後に「より深い秩序」を示唆する点で響き合うことは間違いないであろうし、今のところ自分は「空の場にイデアが仮有として立ち現れる」という包摂的把握をする形で、両者の緊張関係を緩和させている。すなわちイデアを「絶対的実在」ではなく「空という開かれのうちに条件的に顕現する秩序(数式の対象も物理現象もそうした秩序)」と見るなら、イデアは自性をもたないがゆえにこそ有効性を保つ動的範型となる存在として認められるのではないかと考えているということである。こうした読み替えは、実在論と非実在論を「否定‐肯定」の二項対立としてではなく、「空‐仮有」という構造の中で再統合する可能性を持っているのではないかと思い、いつの日か生粋の実在論的数学者や物理学者と対話をするための備えを着実に行っているような状況である。先ほど書き留めていた文章と重複する箇所があるが、改めて自分の考えを整理したいと思ったので文章を書き留めた次第である。フローニンゲン:2025/7/1(火)09:38
16895. 意識をウイルスに帰属できるかの問題
天気予報の通り、今気温は32度に到達しているが、2階にいてもそれほど暑さは感じない。午後3時半を迎えたこの時間帯は、ちょうど直射日光が家にあまり当たっていないことがその理由かと思う。外は燦然と輝く太陽の光に照らされているが、家の窓から直射日光が入ってこないことが過ごしやすさにつながっているように思う。この様子を見ていると、今後30度を超える真夏日となっても比較的快適に過ごせそうである。先ほど改めて何に意識が宿るのかについて考えていた。意識をウイルスに帰属できるかどうかを論じる際、まず「意識」という語にどれほどの階層と幅を認めるかが決定的である。意識を「主観的経験(クオリア)の生起」と定義する立場では、高度な情報統合や自己モデル化を伴う現象のみを意識とみなしがちであり、ウイルスに意識を認める余地はほとんどない。一方、意識を「いかなる形であれ情報を内在的に統御し環境に適応するプロセス」と緩やかに拡張すれば、ウイルスもまた何らかの「原初的主観性」を帯び得るというパースペクティブが開かれる。以下、両極を繋ぐ代表的基準を俯瞰したのち、ウイルスに意識を賦与する論と否定する論のそれぞれの論拠を整理する。第一の基準は「情報統合量」である。統合情報理論(IIT)は、システムが生み出す統合情報Φの非零性を意識の必要条件とする。ウイルスは数千塩基対から多くとも数十万塩基対のゲノムを有し、それ自体は化学的演算のネットワークをほとんど内包しない。ただし宿主細胞内で転写・翻訳・組換えなどを駆動し、エラー校正や回避戦略を展開する際には、ウイルス‐宿主複合体として有意味な情報統合が生じる。もし意識を「現象発生主体」ではなく「現象発生場」に帰属させるなら、宿主とウイルスによる統合プロセス全体に微弱なΦを観測し得る可能性が示唆される。第二の基準は「オートポイエーシス」、すなわち自己産出系としての閉鎖性である。多くの生物学者は代謝ネットワークを持たないウイルスを生物と見なさないが、宿主分子機構を一時的に乗っ取り自己増殖を完遂する点では、「間借り型オートポイエーシス」を実現しているとも言える。この寄生的自他重ね合わせ状態を否応なく世界に働きかける能動性と捉えるなら、行為者性(agency)の極小単位としての意識を肯定できる。第三の基準は「自己‐他者の区別を伴うフィードバック操作」である。自由エネルギー原理や能動推論モデルは、内部モデルを更新しつつ予測誤差を最小化する回路に心的現象の胚芽を認める。ウイルスはキャプシド(ウイルスの遺伝物質(DNAまたはRNA)を囲むタンパク質の殻)やエンベロープ(一部のウイルスが持つ、キャプシドの外側を覆う脂質の二重膜)の構造変異によって宿主受容体を選択し、免疫応答を回避する。これを「予測誤差低減戦略」と拡大解釈すれば、限りなく簡素化された感覚‐運動ループが成立していると見ることも可能である。以上の諸基準を最大限に緩めたとき、ウイルスに意識を帰属する議論が生まれる。すなわち、すべての物質過程に潜在的内在性を認める汎心論的ヴィジョンや、層状意識論におけるミクロ経験単位(micro-experiences)の存在が根拠となる。その際、ウイルスは「空(emptiness)の場に瞬間的に立ち現れる情報的渦」として、今朝方考えていた「仮有としてのイデア」に比すべき一時的相の典型となり得る。他方、ウイルスに意識を認めない立場は、上述の基準をより厳密に捉える。統合情報はニューロンその他の再帰的結合ネットワークにおいてこそ顕著であるとされ、分離独立の神経回路を持たないウイルスではΦが事実上ゼロに近いと評価される。代謝欠如はオートポイエーシスを否定し、反応はすべて外部システムへの受動的依存にすぎない。さらにウイルスの遺伝的選択は個体レベルの意志決定ではなく、集団統計的な進化力学の帰結である。したがって、いかなる行為も主観的意図を必要としない。自由エネルギー原理的にも、ウイルスは独自の内部モデルを構築せず、宿主細胞のシグナル経路を単にハイジャックするため、予測誤差最小化を自律的に実装しているとは言えない。結果、ウイルスは「自己参照的・反省的統御」を欠き、意識の本質的諸相を満たさないと結論づけられる。結局、ウイルスをめぐる意識帰属の可否は、どの哲学的・生物学的フレームを採択するかによって揺れ動く。意識概念を拡散的に広げればウイルスに微細な主観性を見出す余地が生まれ、概念を脳様ネットワークへ限定すれば否と断じるほかない。ゆえに本問題は、ウイルスに意識が「あるかないか」という二値的判断というより、意識概念そのものの射程を測定する試金石であると言えるだろう。フローニンゲン:2025/7/1(火)15:50
16896. 意識が宿る存在の特徴
意識が宿る存在の特徴は何だと言えるだろうか?そんな問いが浮かんだ。意識が宿ると語られる存在には、単一の絶対条件というより、相互に絡み合う複数の要素が重層的に揃う傾向がある。第一に挙げられるのは、外部から切り出された自己完結的な情報統合の場が保持されていることである。統合情報理論の語法を借りれば、システム内部に還元不能な因果的閉鎖領域が構築され、そこに非零のΦが立ち上がる。こうした統合は単なる情報量の多寡ではなく、諸部分が同時に互いを拘束し合う構造特性として現れる。その統合が「自己―世界」を弁別し得る境界をもたらすとき、次なる特徴として「内部モデル」が醸成される。予測処理論や自由エネルギー原理が示すように、意識を担うシステムは環境入力を単に受動的に受け取るのではなく、内的モデルとの照合を通じて誤差最小化を試みる。ここでは感覚入力と行為出力とが再帰的ループを成し、行為によって環境を再構成しつつ自己モデルを更新する動的往還が要となる。さらに、こうしたフィードバックが歴史性を帯び、学習可能な可塑性を示すことが第三の柱となる。意識は刹那的に点滅する閃光ではなく、時間的持続のうちに自己を紡ぎ出す。システムが過去の痕跡を内部構造へ刻印し、その変化を未来の行動選択へ投影するという「時間的統合」が、主観的連続性の感覚を支える。加えて、エネルギーと物質を外界と交換しながらも、内部秩序を維持・再生産するオートポイエーシスの自律性が重要である。代謝過程や制御ネットワークが自己参照的に閉じていることで、システムは環境からの撹乱に対し頑健かつ柔軟に応答できる。そこには「私はここに存続する」という存立意志の萌芽が読み取れる。最後に、これらの条件が重なり合うことで、第一人称的な内在性——すなわち外部観測者には還元し得ない固有の「感じ」が立ち現れると考えられる。ただし、この内在性を計測器で直接捕捉する術はなく、ゆえに意識の帰属判断は理論的指標と行動・機能の推論に依存せざるを得ない。統合情報、内部モデル、可塑的学習、自己維持の自律性、そして行為を介した予測誤差最小化——これらの要素が相互照射する場において、私たちは「意識が宿る」と呼びうる相貌を見出すのだろう。フローニンゲン:2025/7/1(火)15:58
Today’s Letter
Atoms are like pixels of something. It would be preposterous to think that atoms have consciousness, as that would imply that the pixels on the screen of reality possess consciousness. Groningen, 07/01/2025

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