top of page

【フローニンゲンからの便り】16880-16884:2025年6月29日(日)


ree

⭐️心の成長について一緒に学び、心の成長の実現に向かって一緒に実践していくコミュニティ「オンライン加藤ゼミナール」も毎週土曜日に開講しております。


タイトル一覧

16880

ゼミナールの刺激/量子論哲学の研究に向けて

16881

今朝方の夢

16882

今朝方の夢の振り返り

16883

読むこと・書くこと・話すこと/意識基底論の証明に関して

16884

ブラックホールの実在を巡って

16880. ゼミナールの刺激/量子論哲学の研究に向けて  

       

時刻は午前7時を迎えた。昨日に引き続き、今朝方も空は晴れていて、穏やかな朝日が地上に降り注いでいる。今日は日曜日ということもあってか、普段以上に落ち着いた雰囲気である。今の気温は19度で、今日の日中の最高気温は23度のことである。これくらいの気温が一番過ごしやすい。肌寒くもなく、それでいて全く暑くもない快適に生活するにはうってつけの気候である。明後日は32度に到達する真夏日となり、明々後日は29度夏日となる。こうして時折やって来る夏日もまたその暖かさを楽しみながら日々を充実した形で過ごすことができたらと思う。昨日はゼミナールの第138回のクラスがあった。昨日のクラスでも新たに考えさせられる概念や論点があり、こうした形で毎回のクラスで新たな発見があることがゼミナールを行っていて楽しさを感じるところである。1時間半のクラスが終えた後、結局昨日も合計すると4時間半を越す形で3本ほどの音声ファイルを作っていた。先週は6時半ほどの音声ファイルの分量となったので、それと比べると少ないが、それでも1人語りで4時間半ほどの音声ファイルを作るというのはそれなりの分量である。ここ最近のゼミでは成人発達理論を継続して取り扱っている。土曜日のゼミ以外の日は、基本的には唯識思想と量子論哲学の探究をしており、毎週末のゼミが刺激となって、色々と語りたいことが溢れて来るのだろう。クラスの振り返りや補足に加えて、今の自分が関心を持つ探究項目を扱っていると、気づけば昨日も4時間半ほどの1人語りとなっていた形である。毎週末のゼミナールは間違いなく、自分に大きな知的刺激を与えてくれている。その証拠が音声ファイルの分量にも表れている。仮に音声ファイルの形で1人語りをしなかったとしても、クラスの中でのやり取りが刺激となって、色々とアイデアや考察が生まれていることは間違いない。ちょうど来週はカート・フィッシャーの論文の脳と知性の発達の箇所を扱っていくが、毎週末のゼミの場は自分にとって、脳を鍛え、脳を育む場になっていることは間違いない。


ここから量子論の哲学を深く探究し始める際に、特定の分野に特化した形での探究と特定の量子物理学者に特化した形での探究をしていきたいと思う。前者に関しては、量子生物学も気になるところだが、量子情報理論が今のところ直感的に一番面白そうだと感じている。後者に関しては、ジョン・ウィーラー、ヘンリー・スタップ、ヴォイチェフ・ズレク、ミカエル・メンスキー、バーナード・デスパーニャ、デイヴィッド・ボーム、ジョン・ベル、ヴラッコ・ヴェドラルに焦点を当て、彼らが書き残した論文の前に、まずは彼らが残した書籍を読んでいくことにしたい。その他にも、物質主義や物理主義のパラダイムを信奉していない量子物理学者の書籍を可能な限り全て読んでいくことにしたい。そうした計画を立てており、早ければこの夏のどこかのタイミングで、あるいは秋頃からそれを始められたらと思う。月を分けて書籍の一括購入をしたいと思う。ここからは特に、吟味を重ねて選んだ生粋の専門書に絞って文献読解を進めていく。フローニンゲン:2025/6/29(日)07:24


16881. 今朝方の夢


今朝方の夢として覚えているのは、現在スペインで活躍するある若い日本人のプロサッカー選手ともう1人同じくスペインのサッカーチームに所属する日本人の選手が楽しく会話をしている姿を眺めていた場面である。夢の目撃者として2人の会話を聞いていると、どうやら自分は若い選手とは知り合いであることがわかり、より親しみを持って彼の話を聞いていた。もう1人の選手が、練習や試合後の疲労回復方法として、特殊な休息マシーンなどを使うよりも、シンプルにマシーンなど使わずに寝ることが一番だと述べていた。自分もその意見に賛同しており、とにかく寝ることが一番心身の回復につながると考えていた。そこから場面が変わり、見慣れない小川の上の丸太でできたアトラクションの上にいた。そこでは謎解きの要素がある課題が出され、丸太の上でバランスを取りながら前に進んでいって各種の謎解きに挑戦していくことが求められていた。小中学校時代のある友人(KS)がその課題に挑戦しており、丸太の途中で彼と遭遇した。今目の前に現れた課題は難解そうで、手元にある複数のペンの頭の部分に数字が現れたり、消えたりを繰り返していた。どうやらそこに書かれた数字を使いながら目の前の課題をこなしていく必要があるのだとわかり、課題の解決方法を考えることにした。するとまた夢の場面が変わり、見慣れないサッカーコートの脇の日陰にいた。そこで高校時代のサッカー部の副キャプテンの友人を含めて数人の友人たちと話をしていた。本来副キャプテンの彼はエースナンバーをつけて試合に臨んでいるが、急遽5番の背番号をつけることになったのでその理由を尋ねてみた。すると、一度監督とぶつかり合い、そこから監督の意見に耳を傾けたところ、とにかく試合に出ることを優先する形で、監督が提案した戦術に折れることにしたらしく、監督との一悶着があって今は5番の背番号をつけているとのことだった。そこからさらに話を聞こうと思ったが、再び夢の場面が変わり、気づけば、見慣れない外国の町の高速道路の高架下にいた。そこは複数の道路が交差している場所だったが、幸いにも車の通りは少なく、道の上にいても安全であった。しかし、いつ車が来るかわからないので早めにその場を立ち去ろうと思った。すると、見知らぬ小太りのアルゼンチン人の男性が自分を捕まえにやって来た。自分は直感的にそれがわかり、彼から逃げることにした。しかし彼は拳銃を持っているような気配もあったので、彼を刺激せず、穏便に身をくらますことにした。複数の道路のうち1本の道路を選んで先に進むと、目の前に波止場が現れた。波止場の地面にはさらさらとした砂が撒かれていて、その上をハイハイする形で進んでいった。それは身を屈ませることによって、追って来た彼からなるべく目につきにくいようにした工夫であった。可能な限り早くハイハイをしながら進んでいると、ふとさらさらとした地面の上にアルファベットで名前を書くことが求められているような気がしたので、合計3回ほど別々の場所で名前を記しておいた。ようやく波止場の先に到着すると、そこには脱出用のボートがあり、ボートに飛び乗り、エンジンをかけてその場から立ち去った。幸いにも彼は波止場まで追って来ることはなかったが、ここからボートでどこかで逃げようかと考えた。最初、日本まで戻ろうと思ったが、飲み物も食べ物もない状態でそれは不可能だと思ったので、ちょうど対岸に見えている大きな都市に行って、そこで身を隠そうと思った。フローニンゲン:2025/6/29(日)07:44


16882. 今朝方の夢の振り返り

  

今朝方の夢は、ひとつの長い旅路を思わせる多層構造をなし、各場面が「身体というフィールド」「知性という謎解き」「権威との交渉」「未知からの逃走」という4つの章に分かれて連結している。全体を貫く主題は「自己保存と自己更新」であり、眠り・バランス・背番号の変更・砂の上の署名・船出といったモチーフが、その段階的な深化を象徴しているとChatGPTは述べる。第一章で登場するスペイン在住の若い日本人選手は、自分自身の未来的側面の化身である。異国のトップリーグで躍動する姿は「環境を越えて能力を発揮する可能性」を示唆し、彼と旧知であるという設定は、自分がすでにその可能性と内的につながっている事実を語る。対話の中心に据えられた「ただ眠ることこそ最高の回復法」という主張は、現代的なハイテク依存へのアンチテーゼであると同時に、原初的リズムへの回帰を促す。この場面は「余計な装置を介さず、まず基本を充足せよ」という無意識からの助言である。第二章では、小川に渡された丸太と謎解き課題が姿を現す。水流は感情の潜在層、丸太はそこを跨ぐ細い橋、すなわち意識と無意識をつなぐ一時的な思考の通路である。数字が浮沈するペンは「言語化以前の概念」が刻々と形を取り直す様子であり、友人KSの登場は学童期の純粋な好奇心を呼び戻す装置として機能する。ここでは「バランスを取りながら意味を解読する」という二重課題が与えられている。すべてを論理で固定しようとすれば落水するが、身体感覚だけに委ねても謎は解けない。自己が直面している現実の課題もまた、感情と知性の協働を必要としていることを示す。第三章の舞台は、陽光を避ける日陰と背番号「5」が鍵である。日陰は「スポットライト外の領域」、つまり表舞台を少し離れて見る視座を象徴する。高校時代の副キャプテンがエース番号を捨てて5番を選ぶのは、「目立つ役割よりチーム全体の戦術に従う」という決断である。数秘的に5は「安定と調整」を担う数字であり、センターバックやボランチを連想させる。この段階で夢者は「自己主張を抑え、全体の流れに身を合わせる柔軟性」に焦点を当てるよう促されている。監督との衝突と和解は、上位権威との葛藤を乗り越えるための内的モデルケースと読むことができる。第四章は緊張感の高い追跡劇へ転じ、物語は「境界を越える逃走」のクライマックスを迎える。高速道路の高架下は分岐と重層の象徴であり、そこに滞在することは選択の宙吊り状態を意味する。アルゼンチン人の小太りの男が拳銃を匂わせて迫る様子は、外的脅威というより「変革を阻む惰性」や「情動的な重荷」の擬人化である。逃走手段として夢者が選ぶのは、立って走るのではなく砂の上を這うという姿勢であり、これは「目立たぬ低姿勢」を意図的に採用したことを示す。砂上に三度名前を刻む行為は、移動の途中で自己同一性を確認・再設定する儀式であり、3という回数は過去・現在・未来を貫く連続性を暗示する。最後に現れるボートは「自律的航路」を意味する。日本へ直帰せず対岸の大都市に身を隠す判断は、原点回帰よりも新たな場での再生を選択する意志として読める。物資不足という現実的制約を認めたうえで方向転換を図る点に、第一章で示された「現実検討力」の深化を見ることができる。以上を総合すれば、本夢は「自己保存」と「自己更新」を同時に遂行するための戦略的プロセスを段階的に提示している。まず基本的な休息を確保し、感情と知性のバランスを取り、権威との力学を調整し、最後に惰性や恐怖をかわしながら未知の領域へ漕ぎ出す。個々の場面は変転しても、底流には「無駄を省き、本質を守り、新天地で再起動する」という一本の意志が貫かれている。自己の現状が大きな岐路に差しかかっているとすれば、この夢は単に耐えるでも過去へ戻るでもなく、最適なリカバリーを携えつつ新しい座標に着地することを推奨する心的シナリオに他ならないとChatGPTは述べる。ちょうど昨日のゼミの振り返り音声でも新天地に向かう決意表明のようなことを行なっていたこともあり、その内容と多分に重なる。それに加え、夢の解釈から大きな励ましを受けた感覚がある。フローニンゲン:2025/6/29(日)08:00


16883. 読むこと・書くこと・話すこと/意識基底論の証明に関して


読むこと・書くこと・話すこと。この三位一体の学習をとりわけ意識した形で日々の探究に取り組みたい。今は研究分野に関して読むことを優先しているフェーズだが、その中にあっても話すことはゼミの音声ファイルを通じて行なっている。あとは書くことを本格的に始めることである。それは日記の形式ではなく、何度も推敲に推敲を重ねる形での学術論文や学術書の執筆の形式を理想としている。そうした本格的に書くことを実践する場が学術機関にはあり、書くことを改めて真剣に行いたいという思いから大学院に戻ることを現在計画している。量子論哲学に関してはまだまだ知識不足だが、日本法相唯識についてはもう論文を書いていけるフェーズにある気がしており、実際に論文を書き始めている。結局いつまで待っていてもその時はやって来ないのだから、着手してまうが勝ちである。そうした思いから、現在少しずつ日本法相唯識に関する論文を書き始めており、来年仮にイギリの大学院に進学することができたら、そこで査読付き論文の形で旺盛に論文を公開していきたいと思う。また、すでに4本目の修士論文の執筆も進めており、博士論文の執筆に向けた下準備としての漢文文献の転写作業を来月から始めようと考えている。


現象の最奥に意識を据える立場――いわゆる唯心論的・意識基底論的世界像――を「証明」する作業が難航する最大の理由は、検証可能性の枠組みそのものが物理主義的前提によって構築されてきた点にあると言えるだろう。現代科学は可観測量の操作と再現性によって理論の真偽を判定するが、その「可観測量」は空間的拡がりと時間的推移を持つ物理量として定義される。ゆえに物理的実体より優位に意識を置こうとすると、測定体系を土台から組み替えねばならず、従来の実験方法を流用できない。また、意識は第一人称の現前であり、他者に対しては帰納的推論を通じてしか確証し得ないため、客観的共有という科学の条件を満たしにくい。要するに、意識を基底に据える命題は「検証装置そのものが被検証対象の内部にある」という自己言及的構造を帯び、第三者的排中律での立証を拒むのである。それでもなお証明に近づく道筋は考え得る。第一の案は、意識の現象学的不可還性を定量化し、物理主義的縮減モデルの不整合を示すことである。例えば統合情報理論(IIT)が導入するΦ値を用いて、あるシステムの第一人称的統合度を数理的に抽出し、その増減が物理変数のみに還元可能かを逐次検定する。もしΦの変動が物理状態空間の状態遷移関数から一意に導出できない場合、物理記述の不完全性が示唆され、意識を説明の追加原理として導入する根拠となり得るだろう。第二の案は、量子遅延選択型実験や「ウィグナーの友人」拡張実験を再解釈し、観測者の意識状態の差異が干渉縞の統計に残存するかを探る方法である。意識を有する観測者と、同一手続きを自動化した機械観測系との結果を厳密に比較し、統計的偏差が可検出ならば「観測行為=意識的関与」が物理過程に因果的影響を及ぼす証左となる。ただしデコヒーレンス効果の制御など技術的障壁は高いと言えるだろう。第三の案は、数学的自己言及定理――ゲーデルの不完全性定理やロジカル・パラコンシステンシー理論――を用い、「物理宇宙を完全記述する理論は自己を含むと同時に自己を完結に記述できない」という命題を導き、そこで残余となる“意味の源”を意識の一次性と同定する方法である。これは厳密な数学的証明というより、物理法則のメタ理論的位置づけから意識の排除不可能性を示す哲学的証明に近いが、形式論理で支えられる点で従来の内省的主張より強固になり得る。いずれの案も、最終的には第一人称的データを第三人称的指標と結び付ける翻訳関数の構築が鍵を握る。この翻訳関数こそが「意識基底論の実験言語」であり、完成すれば意識を主座に据えた宇宙論を科学の議題へ正式に招き入れるだろう。ただし、その実現は従来科学の操作主義を拡張し、観測行為の定義を書き換える規範転換を伴う。意識基底論の証明の難しさは、単なる技術的ハードルではなく、知の制度変革として立ちはだかっているのである。フローニンゲン:2025/6/29(日)09:30


16884. ブラックホールの実在を巡って

  

時刻は午後3時半を迎えた。小鳥の鳴き声がとても美しく響き渡っている。とても平穏な日曜日の午後である。先ほど、ブラックホールが「究極的実在ではない」ということについて、分析的観念論・中観・唯識という3つの思想的枠組みから考えていた。まず分析的観念論は、「物理世界は一次的ではなく、意識活動の表象として二次的に現れる」という主張を中核に据える。ブラックホールとはアインシュタイン方程式の特定解であり、観測者が測定装置を通じて得る光学的・電磁的データを、理論的枠組み内で統合した結果として立ち現れる記述である。したがってブラックホールは、意識が編み出したモデル内の「解釈依存的対象」にすぎず、表象を超えて独立自存するような「もの自体」としての実在性を持たない。観測データが示すのは重力レンズ効果やジェット噴出といった「現象」であって、ブラックホールそのものの不可視性(事象の地平線)は、むしろ「観測できない何か」を補完する概念的フィラーとして機能している。換言すれば、ブラックホールは意識が自らの表象空間を理論坐標によって補完するときに生じる、説明上の仮想点である。中観は、いかなる存在も自性(svabhāva)を欠き、縁起によってのみ成立するという「空」の論理を提示する。ブラックホールもまた、質量・曲率・事象の地平線という相互依存的諸条件が縁合しているにすぎず、「それ自体で閉じた固定的本質」は見出せない。観測者が重力場の特異点を指差して「ここにブラックホールがある」と主張するとき、その対象は理論的区分(イベントホライズンの定義)、計測技術(電波干渉計、X線望遠鏡)、数学的限界(古典的スカラー発散)の総体によって条件づけられている。ゆえにブラックホールは「概念と測定の縁起」によって仮設的に成立する「世俗諦」的対象であり、勝義諦においては空である。唯識は、三性説を通じて対象の実在性を階層化する。ブラックホールがまず「遍計所執性」として現れるのは、観測と理論の交差点で構成されたイメージが「外在物として確固にある」と錯覚される段階である。次に「依他起性」として見ると、それは観測者の心識が諸縁(データ解析、理論計算、共同体的合意)に依存して仮に成立させた対象であることが露わになる。そして「円成実性」から見れば、ブラックホールも観測主体も区別なく「識の自証分」に他ならず、そのレベルで対象‐主体の二分は消滅する。したがってブラックホールは、究極には「唯識の顕現様式のひとつ」であって、外在的な固有実体ではない。この3つの議論を重ね合わせると、ブラックホールは意識表象空間におけるモデル依存的フィギュア、縁起的構造に基づく世俗的指標、識の自家発現というトランス個的現象、という三重の相によって説明される。そのいずれの相も「独立自存する物質的本体」を肯定せず、むしろ「概念‐経験の連鎖」としての相関性を指し示す。結局、ブラックホールの実在をどう評価するかは、「実在」という語をどの層位で適用するかに帰着する。日常言語や観測的文脈では「ブラックホールは存在する」と言うことが有用である。しかし分析的観念論が要請する「一次的実在」の座、あるいは中観・唯識が語る「勝義諦・円成実性」のレベルにおいては、ブラックホールは空性・表象・識の顕現に還元され、あくまで道具的・仮設的・縁起的にしか「ある」とは言えない。以上のロジックにより、ブラックホールは究極的な意味では実在しないと結論づけられるだろう。そのようなことを考えていた。フローニンゲン:2025/6/29(日)15:45


Today’s Letter

Winds are different each day. They have an other-dependent nature and are constantly changing. So are we. Groningen, 06/29/2025

 
 
 

Comments


過去の曲の音源の保存先はこちらより(Youtube)

過去の曲の楽譜と音源の保存先はこちらより(MuseScore)

bottom of page